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  • 管理人chaya

霊と肉


やがて人間文明が完成するでしょう。人間文明が完成しますと、心を更えることができなくなるのです。心を更えるというのは、非常に難しいことです。要点を言いますと、「肉の思いは死であるが、霊の思いはいのちである」(ローマ人への手紙8 ・ 6)ということです。

同じ花を見ていても肉の思いで見ることも、霊の思いで見ることもできるのです。肉の思いで見るのと、霊の思いで見るのと、どの点がどのように違うのかということです。

霊とは何か。パウロは次のように述べています。

「彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである」(同4・17)。この箇所は英訳では次のようになっています。him whom he believed, ever God, who giveth life to the dead, and calleth things that are not, as though they were.

ギブス・ライフ・トゥー・ザ・デッド(giveth life to the dead)とありますから、死人に生活を与えたとなっているのです。日本語の死人を生かしという訳になりますと、甦りになってしまうのです。ギブ・ライフというのはそうではない。ライフは命と訳すより、生活と訳すべきなのです。

神は死人に生活を与えているのです。死人として生かしているのです。命とは死人が生きている状態を言うのです。命とは口偏に令です。これが人間が生きている状態です。

令とは何か。宇宙には位があり、主権があります。日本でいうお天道さんです。日本人はお天道さんと言っていながら、それが何のことか分からないのです。だから、死んでしまうのです。今の人間は、死人が生きている状態、死人に生活を与えている状態です。これは本当に生きているのではないのです。

生が本当のいのちです。永生というのがとこしえのいのちです。これが死なないいのちです。私たちは現在生を持っていない状態で生きているのです。死ぬいのちを持っている状態で、死なないいのちをどのように捉えたらいいのか。これを捉えそこなったら、必ず死ぬのです。

死人に生活を与えている。死人にそのまま生活させているのが現在の命(死ぬべきいのち)でありまして、今生きているこの世界は存在していないことになるのです。あっても死人が造っている世界だからです。

政治、経済、道徳、習慣、家庭、親子があるのかというとないのです。命はあるが生はないのです。家庭とか習慣、道徳がある状態で、生をどのように捉えるのか。生を捉えたら、命は消えてしまうのです。命が消えなければ、絶対に携挙(けいきょ)されません。現世の命を脱いでしまうことが携挙です。これが私たちの目的です。

今私たちが生きている社会常識で考える善悪利害ということから解脱してしまわなければいけない。そうしないと命が生にならないのです。

私たちはこの世に生きていますが、この世に生きているままでいくら聖書を学んでもだめです。この世に生きていないという状態になろうとしながら、聖書を学ばなければいけないのです。

ある雑誌に、次のような記事が載っていました。

身体障害者の方が、手が動かないので、口で筆を加えて描いた絵を紹介していました。すばらしい絵ですが、その絵の中に「すぐそばにいて知らなかったよ、こんなにきれいだったなんて」と書いていました。続いて、「顔の横に花をおいて見続けていたら、私は花より小さくなった」と書いているのです。

この花を描いた時、見続けていたら、私は花より小さくなったとありますから、この世界へ入っていったらいいのです。この世界へ入って行くと初めて、今まで生きていた常識の世界、道徳の世界から抜け出してしまえるのです。命の世界から抜け出して、生の世界へ入っていけるのです。

命の世界から抜け出して生の世界へ移ってしまわなければ、携挙されないのです。携挙されることが、私たちの信仰の目的です。携挙されるという信仰がなかったら、とても復活は信じられません。

顔の横に花をおいて見続けていたら、私は花より小さくなった。こういう世界があるのです。これが花の中へ入ることです。霊の世界はこういう世界です。大人はなかなかこういう世界に入り切れないのです。今まで生きていた世界から出て、別の世界へ入り込むのです。水と霊とから新に生まれて、神の国に入るのです。そうするとどうなるのか。

イエスは言っています。

「よくよくあなたがたに言っておく。誰でも水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれる者は肉であり、霊から生まれる者は霊である。

あなたがたは新しく生まれなければならないと私が言ったからとて、不思議に思うには及ばない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこから来て、どこへ行くかは知らない。霊から生まれる者も皆、それと同じである」(ヨハネによる福音書3 ・ 5~8)。

霊によりて生まれた者は、風が吹いているのを見ているようなものだと言っています。風は自ずから吹いている。霊から生まれた者はどこから来て、どこへ行くのか知らない。自分が分からなくなってしまうのです。そういう魂になって頂きたいのです。

どこから来て、どこへ行くのか知らない。霊によりて生まれた者はそれと同じである。死ぬとか生きるということがなくなってしまう。そういう見方をイエスはしているのです。そういう状態になって頂きたいのです。

肉の思いはどうしてできたのか。聖書にはどこにも書いていないのです。肉の思いによって、私たちの記憶はできています。まず、自分の記憶を解脱するためにはどうするかということです。皆様には何十年間の記憶があります。この肉の記憶を圧倒するために、どういう世界観や価値観を持てばいいかです。

男性と女性とでは、受け取り方が違います。男性が受け取るためには、孤軍奮闘しなければならないのです。分かったらしっかり受け止めることができるでしょう。女性はデリケートですから、なかなか受け取りにくいでしょう。直感的には優れていますけれど、消化性と演繹性がだめです。どのように消化したらいいのか分からないのです。

悪魔はいつ頃からキリストに反対し始めたのか。イエスは「サタンが天から稲妻のように地に落ちるのを見た」と言っています(ルカによる福音書10・18)。これをどのように考えるかです。この世に生きていた人間、また、この世に生きている人間として聖書をご覧になれば、必ず間違います。ユダヤ人はこの世に生きている感覚でイエスを見たのです。そこで、イエスを気違いだと言っているのです。

神は聖書を学ぶ者は一人残らず神の国へ入ってもらいたいと考えているのです。霊から生まれた者は、風のようなものである。どこから来てどこへ行くのか、さっぱり分からない。音だけが聞こえている。霊から生まれた者はそのような者だと言っています。霊から生まれた人間は、善悪を考えないのです。利害を一切考えないのです。どこから来て、どこへ行くのか知らないのです。こういう気持ちにならないと、聖書がいうことに従えないのです。

イエスはユダヤ人から気違いだと言われました。パウロも狂人だと言われました。福音が分かってくると、気違いのようになってしまうのです。現世の常識と福音の内容は、それくらい違うのです。

物質はありません。建物もありません。ないのですが、この瞬間に建物があるという意識はあるのです。これでいいのです。家はない。家の中にいるという現実感がある。これでいいのです。色則是空です。家はないのですが、あるという意識だけがあるのです。人間の肉体は存在しないのに、あるように見えるのです。

何があるのか。マリア賛歌の一句だけでいいのです。「私の魂は主を崇め」と言っています(ルカによる福音書1・46)。これだけでいいのです。魂が主を崇めることさえできれば、皆様の記憶が何であろうが、経験が何であろうが、どうでもいいのです。マリア賛歌だけでいいのです。

どうしたら主を崇められるのか。これだけを考えればいいのです。主を崇めることは、皆様にも十分できます。ただやり方がまずいだけです。今まで生きていた記憶が皆様の気持ちになっているのです。それが肉の思いです。これをどう扱うかです。瞬間瞬間、自分の気持ちは移動しています。決して滞りません。禅でもこれをやかましく言うのです。滞りはいけないとしきりに言うのです。

女性は信奉の工夫が下手です。直感性は鋭いですが、自分の心を自分でマスターすることが下手です。これは男性の方が上手です。

創世記の冒頭に、「初めに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、闇が淵の表にあり、神の霊が水の表を覆っていた」とあります。口語訳の聖書は、一節と二節がひと括りになり、三節から創造が始まっています。しかし、一節、二節の中に、天使長が神に逆らった原因が書いてあるのです。天使長が神に逆らわざるを得ない原因がある。これが書いてあるのです。

初めに神が天と地を創造した。これに悪魔はカチンときたのです。ここに天使長がいる。天使長に一言も相談せずに、初めに神が天と地を創造した。こんなばかなことがあっていいのかと、天使長は臍を曲げたのです。

パウロは言っています。「御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先立って生まれた方である」(コロサイ人への手紙1・15)。

新に生まれるまでの人間は、全く目的を持っていません。肉体を持っている人間の欲望が目的になっているのです。これを地は形なく、むなしくと言っているのです。形なく、むなしくという地へ、悪魔が落ちていった。ところが、神が造った地ですから、むなしいものであるはずがないのです。天と地を造ったと書いていながら、地は形なく、むなしいと断っている。これがおかしいのです。

創世記の一章を書いたのは、大預言者のネヘミヤではないかと想像されるのですが、ここまでは分からなかったようです。

地は形はなかったが輝いていたはずです。神が天と地を造った時には、天も輝き、地も輝いていたはずです。ところが、サタンが反逆した。その瞬間に、サタンが電光のように地に落とされた。その時に、地は形なく、むなしくなったのです。光を失ってしまったのです。この光景をイエスは見ていたのです。

地は形なく、むなしく、闇が淵の表にあったという二節の前半分が、地球がある間続くのです。神の霊が水の表を覆うということと、地は形なく、むなしくということが、上になったり下になったりして、地球が終わるまで続くのです。二節の前半分と後半分が、現在の宇宙構造の状態になっているのです。

神が造ったとはっきり書いていますから、神の一方的な処置だったのです。もちろんキリストに相談したのではありません。この時の神は三位一体の神をさしているはずです。三位一体の神でなければ、創造ということはなされないのです。この時すでに、言なる神が働いていたはずです。言なる神が生まれたのですから、天と地を造ったのです。

ところが、サタンの考えによると、言なる神が生まれようが生まれまいが、創造に対しては天使長に挨拶がなされなければならない。天使長に命令されなければならないのです。それなしに、神が直接造るとということは、違反行為です。国会の承認なしに、首相が直接何かを行うようなものです。

十字架にかかる前に、イエスがゲッセマネで血の汗を流されたという事がありました。なぜイエスが血の汗を流して祈ったのかというと、三位一体の神の位が欠けるのではないかという懸念が一つと、悪魔に対する神の処置がイエスに分かっていなかったからです。

神はキリストである自分を十字架につけるからには、悪魔に対して何らかの処置がとられるはずです。ところが、どういう処置がとられるのかが分かっていなかったのです。

例えば、「聖霊が降臨してすべての肉に私の霊を注ぐ」とあります(使徒行伝2・17)。すべての肉に神の霊が注がれると、肉がなくなってしまうのです。そうすると、悪魔の支配がなくなってしまうのです。これを神が考えておられたのです。ところが、キリストにはそれが分からなかったのです。聖霊が降臨することはありえないと思われたからです。

キリストは預言はしました。聖霊が降臨した後に、自分の弟子が聖霊に導かれるということまでは分かっていましたけれど、天地がどうなるのかは分かっていなかったのです。

キリストが一番気になっていた事は、自分が復活した後に、神がどういう処置を取られるのか。第三の神である御霊が、悪魔が頑張っている地上に降臨するということまでは分からなかったのです。ペンテコステまでは見通せなかったのです。

復活して天へ行くことは分かっていました。「私が天へ行けば、聖霊が下りたもう。あなたがたは聖霊に導かれる」と言っています。これは弟子たちの霊魂が導かれるということであって、地球そのものが新しくなることまでは分からなかったのです。イエスは神の国が来ることは分かっていましたが、肉的に地球が新しくなることまでは分からなかったのです。

聖霊が降臨したことによって、ペンテコステによって千年王国が実現する。それが終わると、新天新地が実現するのです。このことが、イエス・キリストの復活によって確定したのです。ここまでの見通しがつかなかったのです。

そこで、皆様にとって一番大きい問題は、「地は形なく、むなしく、闇が淵の表にあり」という言葉をどう考えるかということです。これは、現在の神学では解釈できない文句です。パウロも多少ふれてはいますが、詳しく説明していないのです。

地は形なく、むなしく、闇が淵の表にある。この文句の中に、とても大きな奥深い秘密があるのです。これが分かると初めて、私たちが帰るべき国が分かり、私たちの信仰がどういうものでなければならないかが分かってくるのです。

人間はまたしても、自分が生きているという気持ちを持たされるのです。今日まで生きてきたこの世の常識、この世の知識、宗教、道徳、自分の価値観が、力強い記憶になって、皆様の中に根を張っている。これをどうするかです。

自分の中に根を張っている肉の思い、道徳的な考え方、今までの皆様の常識的な判断力を、何とか始末しなければ携挙されません。

聖書はイエス・キリストを呑んでしまわなければ分かりませんし、また、イエス・キリストに呑まれてしまわなければ分からないのです。聖書を信じるということは、呑むか呑まれるかの問題であって、人生七十年や八十年の人間の合理性によって理解することはできないのです。今までの皆様の合理主義、道徳主義、常識主義をクリアーしてしまわなければいけないのです。

女の人の直感は正しいのですが、小さい善人でありすぎるのです。悪くはないのですが、良すぎるからいけないのです。聖書の言葉と私の言葉を呑める人は救われますが、呑めない人は救われないのです。聖書の預言を神から与えられる人物は、躓きの石になるに決まっています。

皆様は悪魔が躓いたこの躓きに、引っかからないようにして頂きたいのです。人間は悪魔が躓いたのと同じ躓きをしやすいのです。

地は形なく、むなしくというように、悪魔には見えたのです。これが淵です。実は、地は形なく、むなしくではなかったのです。恐らく、形なく、むなしくとは、万物が造られる前の静寂を意味していたのでしょう。無限の可能性を含んだ無でした。大きい無でした。それを悪魔は淵の表と見たのです。

地は形なく、むなしくというのは、悪魔が見た見方を言っているのです。ところが、地を形なく、むなしくと見たことが間違っているのです。その時に地には何も生えていませんから、どろどろの地です。それを肉の思いで見れば、むなしくと見えるのです。

地は形なく、むなしくと見たのは、悪魔の世界観です。この見方が闇は淵の表にありという形で結集された。淵になったのです。その時に肉の思いが生まれたのです。肉の思いが生まれたので、地が肉になったのです。

もし、悪魔の見方で地を見なかったら、むなしくならなかったのです。むなしくならないとは、どのようになったのかということです。

サタンは自分の位置を確認していなかったのです。御子は万物の初めに生まれたお方です。サタンは天使長という位を与えられた。その位によって、神の御心を行うべき神の家の番頭でした。家司でした。家司の分際で、御子が生まれたことについてカチンときたというのがおかしいのです。

天使長は自分の位、立場を認識してもらいたいと言ったのです。神は天使長よりも御子の方を考えます。なぜなら、太陽系宇宙と地球ができたのは、御子のためです。御子を完成するために、太陽系宇宙が造られたのです。太陽系宇宙を保つ原動力が、神の御子なる言葉です。この方が生まれた以上、天使長は御子の下につかなければならないのです。

番頭さんが主人の奥さんに文句を言うように、仕事という点から言えば、神の言葉よりも上であったと言える所があったかもしれないのです。ところが、御子はどこまでも御子です。御子が経綸の中心に定められたことに対して、天使長は反逆せざるを得ない気持ちになったのです。これがすぐに現われて、彼は地に落ちたのです。

そこで、地とは何かです。地は肉とは違います。一章一節に、「初めに神は天と地とを造った」とはっきり書いているのです。この時には天も地も霊でした。ところが、天使長が反逆したので、地は形なく、むなしくなった。闇が淵の表に座り込んだからです。その結果、地が肉になったのです。

皆様の常識を見て下さい。地が肉になっているのです。これがいけないのです。肉は地球上の肉体です。これがいけないのです。ユダヤ人が考える地球は全部肉です。現代文明で考えている地球は、全部肉です。

ところが、地は元来、肉ではないのです。神は霊なるお方です。霊なる神が肉を造るはずがないのです。ところが、造られた万物は肉です。皆様は体のことを肉体と言っています。男は肉、女も肉、肉ばかりになっている。こういう考え方が間違っているのです。

携挙されるためには、皆様の肉体は霊であることを悟らなければならないのです。そうすると、男もないし、女もないということになるのです。

肉体を持っている人間には道徳があります。霊には道徳はありません。霊は道徳の上にあるのです。道徳の徳は肉の徳を指しているのであって、肉の思いは死であるというのは、道徳をいくら守っても、死んでしまうという意味です。道徳的にいくら神を信じていても、必ず死んでしまいます。ところが、肉の自分を脱ぎ捨てて、古い自分を脱ぎ捨てて、新しい人を着るなら、死なないのです。この所を分かって頂きたいのです。

ユダヤ人はイエスが言ったことを肉で聞いたのです。だから、イエスを気違いだと言ったのです。パウロが言ったことを肉で聞いたのです。だから、パウロが狂人に思えたのです。

女の人はよく考えて頂きたいのですが、皆様の肉体は霊であって、肉ではありません。肉は益なしです。生きているそのことが、肉体に現われているのです。肉体で生きているのではありません。リビングということが肉体的に表現されているのであって、リビングは霊です。

生理現象は霊です。呼吸機能も消化機能も、機能は霊です。機能は生であり御霊です。呼吸機能は呼吸する御霊です。消化機能は消化する御霊です。花が咲いているのは咲いている御霊です。御霊が咲いているのです。霊なる機能が花として現われている。霊なる機能が呼吸機能になり、心臓になったり肺になっているのです。

聖書は次のように書いています。

「あなたがたは知らないのか。自分の体は、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたはもはや自分自身のものではないのである。あなたがたは、代価を払って買い取られたのだ。それだから、自分の体をもって神の栄光を現わしなさい」(コリント人への手紙6・19、20)。

皆様の肉体は神の聖霊の宮です。ところが、皆様の常識、知識は、聖霊の宮であるとは思っていないのです。普通の肉体だと思っているのです。

パウロは、体は神の栄光を示しているから、その体で神の栄光を現わせと言っているのです。自分の体は聖霊の宮である。価をもって買い取られた。十字架によって買い取られたのだから、その体によって神の栄光を現わしなさいと言っているのです。

悪魔は、地は形なく、むなしくと受け取ったのです。悪魔が受け取った地は形なく、むなしく、闇が淵の表になった。ところが、神が造られた地は、霊なるものでした。初めに神が天と地を造った。創世記一章一節の地は霊です。二節の地は肉です。大変な違いがあるのです。

悪魔の思想によって肉ができたのです。天使長は自分の思いによって物を造る権限があるのです。天使と天使長は違います。天使は自分の思いで物を造れないのですが、天使長は自分が思ったとおりに天使を使うことができるのです。社長と専務の違いです。専務は社長の言うとおりにしたらいいのです。社長は自ら方針を決めることができるのです。

今までの神学者は天使長を知らないのです。大体、天使長はキリストのボディになるべき性質のものです。天から落とされなければ、キリストの花嫁には天使長がなったのです。天使長が廃嫡(はいちゃく)されたので、私たちがキリストの花嫁になれるのです。

現在、天使長は教会を食いものにしているのです。女の前に立ちはだかって、生まれてくる子供を食い殺しているのです。キリスト教がそうしているのです。教会で洗礼を受けて殺されるのです。キリストの名によって殺すのです。

地という考えが間違っています。地は肉ではなくて霊です。初めに神が天と地を造った。この時の地は天と同じ霊です。二節で、悪魔が見た地ができたのです。新約時代には、山を見て感動する恵みを与えられているのです。新約時代の地は霊なる地に返されているのです。十字架によるイエスの血が、地上に落ちた時に、地球が変わってしまったのです。

形は肉だ、体も肉だ。天地万物が肉だと思ってしまうと、皆様は絶対に救われなくなってしまいます。これをやめようと思えばできるのです。創世の原理を良く考えて、悪魔の考え違いを自分は踏襲しない。イエスの後についていこうと考えたらいいのです。イエスは「自分を捨て、自分の十字架を負うて私についてきなさい」と言っています(マタイによる福音書16・24)。これさえ実行すれば、霊で考えられるのです。

イエスが洗礼を受けて、水から上がった時に、イエスの肉体は消えていたのです。皆様がイエス・キリストを信じるなら、皆様の肉は見えない。霊だけが見えるのです。したがって、皆様は携挙されるに決まっているのです。

一番の問題は隠し所です。これがある間はどうしてもだめです。肉体があると思っているから隠し所があるのです。肉はないし、肉体もないのです。生きている霊、リビングが肉体という格好になっているのです。格好はありますが、肉体はないのです。

ヘブル人への手紙の十一章三節に、「もろもろの世界は神の言葉によって組み立てられている」とあります。皆様のボディはメンバーの集まりです。目、鼻、手、口という色々な機能が集まって、皆様の肉体ができているのであって、肉体とは違います。

機能は御霊ご自身です。御霊ご自身でなければ機能という言葉が使えないのです。宇宙のあらゆる機能はすべて御霊です。植物も、動物も、鉱物も、天然現象も、全部御霊の働きです。

瞬間、瞬間、時間が流れています。これも神の御霊の働きです。御霊を崇めていれば死なないのです。花をじっと見ていると、そこにすばらしい神の国があることが分かるのです。見ている目も御霊です。咲いている花も御霊です。神の御霊の働きを、神の御霊が見ているのです。これが人間のリビングです。すばらしい事を経験しているのです。そこに死はないのです。霊の思いは命であり、平安であると言っているのです。

地は肉ではないのです。万物は肉ではないのです。悪魔がそれを肉と名づけたので肉となったのですが、聖霊の降臨によって霊になったのです。すべての肉に私の霊を注ぐと言われた神の言葉によって、新約時代の万物は皆霊になっているのです。

創世記一章二節における地が、一節の状態になっているのです。ところが、現在の人間は悪魔の肉の思いで生きているから、万物が肉に見えるのです。

造られた万物は全部霊ですが、善悪を知る木の実を食べた者から見れば、肉に見えるのです。悪魔の思想が全部、人間に乗り移っているから、肉に見えるのです。

このインチキに引っかからないようにして頂きたいのです。自分の精神が自分を騙しているのです。自分の肉の思いが自分を騙しているのです。だから、携挙されないのです。

自分の思いを捨ててしまえばいいのです。そうして、ただ生きていることだけを見れば、全部霊になるのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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