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  • 管理人chaya

あとがき


人間の記憶が、人間の世界観になっています。五十年間この世に生きていたとすると、その人の世界観の根底は、五十年間の記憶の集積なのです。自分が肉体的に生きていたという思いが、自分の思想の基礎になっているのです。

人間が肉体的に存在しているという思いを、聖書では肉の思いと言っています。

実は、人間の肉体は真実に存在していないのです。物質はすべて具体的に実在するものではないのです。原子爆弾ができることが、物質が存在していないことの証明になるのです。

もし、物質が本当にあるのでしたら、原子爆弾はできないはずなのです。原子炉による発電ができないのです。物理運動はあります。しかし、物質はないのです。

ところが、人間は物質があると思って生きています。これが、人間の世界観の根本的な間違いなのです。物の考え方の土台が間違っているのです。欲望に関することも、善悪利害に関することも、物質が存在するという考えに基づいているのです。

近代文明は、ユダヤ人のトリックなのです。資本主義も、社会主義も、ユダヤ人が考え出したものです。これが全世界を毒しているのです。

ところが、アブラハム、ダビデ、イエス、ヨハネ、パウロもユダヤ人です。これらの人々が、本当の命、神の実体を世界に提示しているのです。

徹底的に悪い人々も、最高に良い人々もユダヤ人です。人類の運命に関することは、ユダヤ人からしか出てこない。これがユダヤ人問題の深さなのです。

聖書の真髄は、日本人には全く開かれていないのです。アメリカ人も知らないのです。アメリカ人が考えているのは、キリスト教的な聖書であって、本当の聖書ではないのです。

現代人は唯物主義的に考えるか、即物主義的に考えるか、どちらかしかできないのです。物があるという考え方に立ってしか考えられないのです。この世界観に立っている以上、完全な命を見つけることはできないのです。

完全な命というのは、目が物を見ているという目の働きなのです。舌が物の味を味わいわけるその敏感さ、正確さが、そのまま人間の命のあり方を人に教えているのです。例えば、マグロの刺身を食べれば、正確にその味が感じられる。マグロの味は魚屋がつけたものではないのです。自然現象なのです。

このように、目、耳、舌は自然現象の真髄を掴まえるだけの力があるのです。五官の働きの正確さが、客体的に存在する人間の実像なのです。この実像は五官の働きにおいて現われているのです。

ところが、社会思想、利害得失によって、人間の考え方がめちゃくちゃに曲げられてしまっているのです。その結果、文明はむちゃくちゃになっているのです。

世界の人口が、無限に増える結果、やがて食糧が追いつかなくなるでしょう。文明の将来に、重大な危機が待ち受けていることは、少し考えれば分かるのです。

人類は確実に増加し続けているのです。その結果、文明は潰滅状態になるに決まっているのです。これを今の指導者は知っていても、口に出すのが恐ろしいのです。自分が生きているうちは、大したことはないと言って、誤魔化しているのです。

遅かれ早かれ、地球上に人間が住めなくなる日が来るでしょう。原水爆戦争がなくても、地球上に人間が住めなくなる日が来るに決まっているのです。これを人間は潜在意識で知っているのです。そうすると、現在の人間が持っている世界観、価値観が役に立たなくなるのです。

現在、目の黒いうちに、私たちの舌が何を味わっているのか、目が何を見ているのかを真面目に考えれば、永遠の生命の実物が分かるのです。

イエスが死を破ったという、歴史的な事実があるのです。イエスは歴史的事実として、はっきり死を破ったのです。釈尊は死にました。釈尊の骨はあります。お墓もあります。しかし、イエスのお墓はどこにもないのです。お墓がないのはイエスだけなのです。歴史的事実において、復活したからです。

復活ということが、人間歴史六千年の中で、最も重大なことなのです。この歴史的事実を克明に勉強することができれば、イエスがどうして死を破ったのかが、はっきり分かるのです。舌の感覚、目の感覚がそれを証明しているのです。こういう意味で、死なない自分を発見することはできるのです。

神を知る、永遠の生命を知るということは、いわゆる大悟ということとは違うのです。入口はそのようなことかもしれません。これは本当のことだ、これは命だということは、はっきりと分かります。これは命の入口です。しかし、奥の院が広がっているのです。

大体、人間の理性は神の実物を認識するだけの十分な能力を持っているのです。聖書に、「神が自分自身にかたどって、人を創造した」と書いています(創世記1・26、27)。人間の理性は、神にかたどられたものなのです。神の全能が、そのまま人間に植えられているのです。これが人間の理性なのです。

主体的に生きている自分ではなくて、客観的に生かされている自分を見るのです。神とは心臓が動いていることです。目が見えることが神なのです。

人の命は神と一緒に生きている。これが魂の実体なのです。神と人とが一つになって生きている。これを聖書では、インマヌエルと言います。神と人が同時に住んでいるのです。

これが分かりますと、神が分かるのです。しかし、神が分かっただけでは、命が自分のものとなっているとは言えないのです。神が分かったからと言って、すぐに神の全体が分かったのではありません。現世に生きているという事がらを通して、毎日、神を具体的に経験していくのです。自分が生きていると思っていることが、人間の間違いの根本原因なのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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