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  • 管理人chaya

人間の心理機能(2)


皆様は生まれる前の父ぞ恋しきという生活をしているのです。禅に、「闇の世に 鳴かぬ烏の声聞けば 生まれる前の父ぞ恋しき」という歌があります。これが禅の奥義です。皆様は生活において、これを実行しているのです。

現在、人間が生きているリビング・ソールは、生まれる前の父である神、神の元にいた感覚、感性が一番有難いのです。

驚くべきことに、毎日生きている営みの中で、このような感覚、感性が自然に行われているのです。自分の口に合うような料理をつくる。体に合うような服を着る。自分の気に入ったようなヘアーメイクをする。自分の気に入った部屋の飾り付けをする。食べたいものを食べ、飲みたいものを飲む。これはすべて魂が欲しているものです。それは生まれる前に父の元にいた感覚が、自分の立ち居振る舞いの中に、自ら現われているのです。

そのような状態を学んでいることが、生きていることであり、生かされていることなのです。ここに父なる神と、子なる神との交わりが自然にあるのです。その原点に目をつけて生きるのです。

何のために生きているのかと言えば、生きているために生きるのです。生きているためとは何かと言いますと、生まれる前の父を味わうためです。それを今現在、この世においてこの時間に自覚するためです。これがそのまま、とこしえの命につながっていくのです。

この感覚で生きていない人は、皆滅ぼされます。必ず滅ぼされるのです。生まれる前の古里を忘れているのですから、滅ぼされるに決まっているのです。古里に帰ることができない人は滅ぼされる所へ行くのです。

この世を去ってどこへ帰るのか。もちろん神に帰るはずです。ところが、生きている間に神を見つけることができなかった人は、神に帰る道が分からないのです。分からない人は迷うしかないのです。

生まれながらの赤ちゃんに、母親の心音を聞かせてあげるとか、羊水の流れる音を聞かせてあげると、赤ちゃんは生まれる前にいた古里の感覚をもう一度思い返すことができるのです。赤ちゃんは父なる神に抱かれているのと同じ感覚で眠ってしまうのです。小川のせせらぎは、羊水の流れの音のように聞こえるかもしれないのです。

このような天然の美や天然の音楽は、皆様の生活にいつでもつきまとっているのです。飲むこと、食べること、お話しをする時にも、テレビを見たり、景色を見たりする時にも、皆様が生きている瞬間には、必ず父が共にいるのです。喜びがあるに決まっているのです。

生まれる前の喜びがそこにあるに決まっているのです。それを掴まえようとしないで、焼きもちを妬くのに一生懸命になるというのは、生かされている事に目をつけないで、雑音ばかりを聞いていることになるのです。

事情境遇ばかりに目をつけて、私は寂しいとか苦しいとか、悲しいとかを思うのは、大自然の営みに目をつけないからです。どんなに悲しい時でも、小川のせせらぎはあるのです。鳥は鳴いているのです。美しい自然の景色はあるのです。

生かされているという事は、生きているためです。自分が現在どのように生きているのか。五官がどのように働いて生きているのか。他人と話をする時に、話のやりとりがごく自然に相手に分かり、相手の話が自分に分かるという微妙な事を現在経験しているのです。その時、私たちは生まれる前に父と語り合っていた思い出が、彷彿として魂に甦っているのです。音楽はそのためにありますし、絵画、彫刻もそのためにあるのです。

人々によって芸術と考えられる作品は、意識してもしなくても、その作品から生まれる感性が流れ出しているのです。伊東深水氏の絵には、生まれる前の印象がそのまま出ているのです。生まれる前の彼の印象が彼の内に甦って、その目で女性を描いているのです。画家としてここまで到達すれば、練達しつつあると言えるでしょう。

皆様は現在生かされている状態において、自分自身の魂が生まれる前の父に帰っているような感覚で、生きる訓練をして頂きたい。

パウロはこれを霊に従って歩むと言っています。これには事情境遇とか、善悪とか、利害得失とか、寂しいということは全くありません。生まれる前ですから、そういうことは一切関係がないのです。

私たちは現在、父と共にいるのです。父が共にいるに決まっているのです。父が共にいまさなければ、どうして目が見えるのでしょうか。どうして心臓が働いているのでしょうか。心臓が動いているということが、父が共にいます証拠です。インマヌエルです。インマヌエルより他のこと、それ以上のことはないのです。

宇宙で一番最高の状態を、生きているという事において、今、現前で味わっているのです。現前で味わっているということを棚にあげて、なぜ腹を立てたり、ひがんだり、嫌味を言ったりしなければならないのでしょうか。

皆様は現在生きています。生きているという事は、魂が望んでいる状態をそのまま経験しているという事です。魂が望んでいる状態というのは、四つの生き物が賛美している状態のことです。

ところが、普通の人間は、生きていることが何のことかを知らないのです。肉に従って生きています。自分の感情で生きている。自分の欲望で生きている。自分の肉の思いで生きているのです。肉の思いで生きているというのは、生きているのではなくて、死んでいることになるのです。

四つの生き物が神を賛美している状態が、そのまま自分が現在生きていることの有り難みになるのですが、その有り難みをストレートに受け取ろうとしないで、歪んで受け取っているのです。事情境遇とか、現世における自分の立場を第一に考えますと、そんなに有難くないのです。寂しいとか、苦しい、辛い、嫌だという感覚になるのです。そこでひがんでしまうのです。私みたいな者はと思うのです。これは生きているのではなくて死んでいるのです。

その状態は、四つの生き物が神を賛美している声を聞いていない状態です。自分の魂が望んでいる状態を現在与えられていながら、それを受け取っていないことを示しているのです。

ちょうど口に合う料理を食べていながら、心では誰かを憎んでいるという状態と同じです。その人は、口に合うおいしい料理を食べているというインマヌエルの状態を考えずに、人を憎むということの方に心を向けていることになるのです。その人は何をしているのでしょうか。生きているのではなくて、死んでいるのです。肉の思いは死であるというのは、こういうことを言うのです。

現に生きているということは、神の愛の内に置かれているということです。そこで、肉体はエホバを恋慕うというのは、当たり前のことです。魂は神がどこにおられるか分からないので、魂は乾いた大地をさまようように、水がない所で水を求めるように、神を求めているのです。エホバを求めているのです。

ところが、肉体ははっきり神を知っているのです。それは生まれる前の心音を記憶しているからです。羊水を記憶しているからです。だから、寝たい時に寝る。横になりたい時は横になるのです。足が痛い時に足を出すのです。これは肉体がエホバを恋慕っている証拠です。

皆様は自分自身の肉体を通して、そういう事を現在味わっているのですから、神を知らぬ存ぜぬとは言えないのです。寝たい時に寝る。疲れたから横になるのは当たり前だと考えていますと、父に感謝しません。だから、栄光と誉れと感謝とを、神に帰することをしないのです。

四つの生き物は栄光と誉れと感謝を、神に捧げているのです。ですから、これは気持ちがいいとか、有難いとか、すばらしい、おいしいというように感じられるのです。感じる機能は魂です。感じさせるのは四つの生き物です。ここに父なる神と子なる人間の魂との、非常にデリケートな交わりがあることを、よく考えて頂きたいのです。

人間は四つの生き物で生かされているのです。人間は五官で生きているように思っていますが、実は五官で生きているのではなくて、五官をリードしている生き物がいるのです。

人間が生きているということは、自分の肉体的な機能としての五官の働きだけではないのです。肉体がなければ五官はありません。ですから、肉体存在の人間が、五官に基づいて生存している。または、生息しているということは、妥当性がある合理性がある考え方です。

しかし、五官によって感じる感覚は、動物が感じる感覚と本質的には同じです。馬が食べるように、人間も食べるという考えは、人間としては普通の考え方です。ところが、動物が五官で生きているということを植物と比較しますと、動物の五官は飛躍的に進歩しているのです。哺乳動物と一般植物の間には、相当大きい距離があるのですが、この距離を埋めるものがあるのです。

哺乳動物の五官の働きの状態と、植物の五官の働きの状態との間には距離があります。その間を埋めているのが、虫類、魚類、鳥類です。虫類と言っても微生物から相当大きいものまで、多くの種類があるのです。そういう事を考えますと、哺乳動物と植物との間には一杯つまっているのです。

ちょっと見た所、月と地球の間は空間のように見えますけれど、実は精密に言えば、素粒子か、何かによって一杯つまっているのです。全く何もない真空のように見えますが、何かによってつまっているのです。

哺乳動物と植物の間には、いろいろな生物のあり方によって連結されているのです。植物と動物は機能的な存在です。一番右の端が哺乳動物であり、左の端が植物です。さらに、植物の端が鉱物です。鉱物、植物、動物は、全体として一つの大きな連結的存在になっているのです。

鉱物、植物、動物の存在を貫いて、宇宙的な意味、物理的な意味、感覚的な意味での五官が働いているのです。その最も右に位するのが人間です。鉱物から始まって人間に到るまで、全部連なっているのです。

そうすると、人間が何のために存在しているのかということも分かるはずです。こういう生物学的な類型、森羅万象的類型、万物存在全体を貫いて、五官が流れているのです。同時にまた、人格性が流れているのです。宇宙全体は一つであって、そういう全体の構造を考えないと、人間の五官をバックアップしている四つの生き物の本当の正体が分からないのです。

人間の哲学的概念として、万有の命は一つであるというのがあります。しかし、具体的に、実体的に、万有の命と人間の命がどのようにつながっているのかということです。このことを確認しないで、ただ概念的に命は一つだと言っても、正確な認識ではありません。

顕在意識によって命が一つであるとはっきり実感して、その実感に基づいて人間が生きるような論拠をはっきり捉えるのでなかったら、命は一つであるという原理に基づいて生きていないことになるのです。

自分自身がその原理によって生きていない状態で、観念的にいくら弁えても、それが自分の生活に関係がない受け止め方であるとすると、何の価値もないのです。

世界観はそれなりの実体的な価値を持つ時、世界観がそのような効力を持っていることが、具体的に自分自身に理解されて生活される時に、初めてその世界観に対する人格的エネルギーとして発揮することができるのです。

大体、人格性というものはエネルギーの根源です。人格的エネルギーという言葉を使うとおかしく思われるかもしれませんが、人間の精神力というのはまさに人格的エネルギーであって、精神力というものは、たえなるあり方をしっかり認識して、共にいます神を自覚するのでなかったら、とこしえの命の実物を捉えることはできないです。

無機物から有機物を貫いて、哺乳類の最右翼である人間との長い命の線があるのです。命の線の一番右翼にいる人間が、自分自身が今生かされているという事がらの意味を本当に弁えて、自分なりの人格的位置の尊さが持つ所の、人格的エネルギーの価値に目覚めた時に、自分自身の精神の働きがこの宇宙にどれほどの影響があるかということを、自覚することができるのです。

これが神の信仰と結びついて、宇宙全体をリードしていく根源になるのです。これが、イエスがキリストとなりえた根底的な意識の所在であったと言えるのです。

人間の肉体は万物存在の最右翼として存在しているのであって、万物と無関係ではないのです。有機物、無機物を貫いて、人間は最右翼に位する肉体を持っている。

人間の肉体の背後に、あらゆる物質的存在が連なっていることを意識しないようでは、とてもイエス・キリストの信仰を持つことはできません。

人間存在というものは、あらゆる意味での万物存在の最右翼にあるのです。有機的な面と無機的な面の両方が、万有存在として現われているのです。

有形的なものだけによって有形的なものができているのではなくて、無形的な半面と有形的な半面が合い寄り集まって、一つの存在を形成しているのです。

例えば、一輪のバラの花があるとします。この花の形とか色、香りという有形的なものだけではなく、十二段階くらいの仕組みがあるのです。神の完全数と比しい段階があるのです。また、無形的な意味での十二段階がなければならないのです。無形的な十二段階が、有形的な十二段階をバックアップしているのです。

一つの岩にも、有形的な面と無形的な面が合い集まっているのです。無機物には有形と無形のパーセントは違うでしょう。有機物にも、その割合が違います。さらに動物になりますと、そのパーセントは変わってくるのです。万物全体をひっくるめると、有形の十二段階と無形の十二段階が、驚くべき精密さ精巧さ、また雄大さ、荘厳さを持っているのです。とにかく万有の存在そのものが持っている持ち味、生態存在、形態存在の本質が、完全に成就しているのです。

人間の肉体でも、十二の有機的面と、十二の無機的な面とが、寄りあうような形で存在しているのです。これは実に不思議なものでありまして、これを経験しているのが二十四の長老です。二十四というのは、先ほどは十二と十二に分類してお話ししましたが、また、四と二十に分類して考えることもできるのです。

二十四というのは、同じものが二十四並んでいる状態をいうのですが、四と二十と言いますと、二十というものと別に四があるのです。二十の一つひとつに位があるのです。一つひとつに意味があるのです。実は人間の魂というのは、その位に座っているのです。これは宇宙の最右翼の方が座る位置です。

皆様はそういうランクにいるのです。皆様が自覚してもしなくても、神は皆様にそういうランクを与えているのです。その自覚がない者は、人間として存在するだけの資格を持っていないのです。その資格を持っていない者が、偉そうに人間ずらをしてこの世に生きていると、神を辱める事になるのです。

神が人間に二十と四の位を持ちうるような性能を与えて、人間をお造りになったのですが、本人がそのような位を意識しないで、ただぽかんとして、自分の利害得失だけで、自分の欲望の満足だけで生きているとすれば、人間に位を与えたお方を侮辱していることになるのです。

悪魔がこれをしたのです。天使長ルシファーがこれをしたのです。神が与えた高貴な位、天使の長であるすばらしい位、神の知恵、力が象眼されているという尊い位を与えられていながら、それを逆用して、宇宙の逆用を造り上げたのです。

天使長ルシファーをそういう位に据えたのは神ですが、据えられたルシファーがサタンになってしまったのです。これはルシファーをその位に据えたお方を裏切る行為です。侮辱する行為です。

今の人間が持っている罪、暗愚性というのは、人間が神の位に座っているということさえも知らずにぽかんとして、自分自身の利害得失だけにとらわれている所からきているのです。私は悲しいとか、私はもう嫌だとか、自分は損をしていると感じて生きているとすれば、これは神にかたどりて人を造った神ご自身を、はっきり軽蔑していることになるのです。侮辱していることになるのです。

自分自身の利害得失だけで生きているとすれば、その罪はまさに万死に価するのです。神を辱めただけでなくて、人間に連なっている万物全体を空虚にしたのです。自分が万物の最右翼に座っているという責任を自覚しないで、ただ自分の欲望の満足だけに日を送っているとすると、これは神と天地万物をないがしろにした恐るべき罪です。

二十四の位に座する長老とは誰のことか。しかも長老は長老として座っている段階においては、冠をかぶっている。四つの生き物の賛美に気がつかないでいるのです。長老はただ御座の回りに座っているということで、傲然とふんぞりかえっているのです。冠をかぶって、白い衣を着て威張っているのです。これは実際困ったことです。そこで、二十四の位に座する長老という事だけでも、大変重大な意味を持っているのです。

長老というのは先覚者であり、経験者であり、先人者であり、先生でもある。いろいろな意味を持っているのです。人生の経験というのは、まさに二十四の位に座する長老そのものです。例えば、一本の植木を育てるとします。植木を育てることができるということは、二十四の位に座していなければできないことです。

植木を育てることだけでもそうです。ましてや、ドレスをデザインしたり、ヘアーメイクをしたり、あるいは論文を書いたり、政治経済を考えたり、法律、芸術を考えたりしています。人間が現在している文明の内容を分析してみますと、人間自身が二十四の位に座する長老に違いないことが、明々白々に証明されるのです。そういう事績を人間はしているのです。そういう事績を残している人間が、自分自身について正確な価値観を持っていないとすれば、まさに人間を人間としている神を侮辱していることになるのです。

自分自身の本性を自分で侮辱しているのです。神の子である本性を侮辱している。それに価する報いを、当然受けなければならないことになるのです。二十四の位という事だけでもそうです。そこへ四つの生き物がからんできますと、神の御座に直接影響を与えることになるのです。

人間が生きているということは、今お話ししたことを背景にして生きているのです。ちょっと昼食をつくる場合も、二十四の位が働いてできるのです。人間どうしが話をするとか、ちょっとお茶を飲む、男女が睦合うという場合でも、二十四の位が有機的に連絡して働いているのです。これは例をあげればきりがないのです。

山の景色を眺めても、かじかの声を聞いても、すべて二十四の位によって聞いているのです。私たちの生活の中には、御座の回りにいる二十四の位がいつもあるのです。私たちが信じても信じなくても、人間が生きている形と内容とが、そのまま二十四の位に座する長老になっているのです。知っても知らなくても、そうなっているのです。

このような事実をふまえて、神をどのように崇めるべきか、神の御霊をどのように崇めるべきかです。ここで問題にしなければならないのは、私たちと御座の間を連絡する働きが四つの生き物だということです。

四つの生き物の賛美が重大です。神に対する賛美に気がつくか気がつかないかによって、人間の位が極端に変わってしまうのです。このことを考えて頂きたいのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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