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  • 管理人chaya

恥ずかしい神


人間には四つの態、状態があります。

第一態の人間は、肉体を持っていない人間です。第二態の人間は、肉体的に生きてはいるが、罪を犯す前の人間です。第三態の人間は、現在の罪を犯した人間です。

そして、第四態の人間は、現在の人間の肉の体を脱ぎ捨てて、霊の体に変換された人、霊の体に変わっている人間です。携挙(けいきょ)されるという事をパウロが言っていますが、人間の肉体が霊体に変化してしまうのです。理想体になってしまうのです。私たちは第四態の人間になるために、聖書の勉強をしなければいけないのです。

第二態の人間は肉体を持ってはいるが、罪を犯していない人間です。ちりでもないし、罪人でもありません。ちりは第一態です。ちりの人間でもない、罪を犯した人間でもない。第二態というのは、肉体を持ってはいるが、肉の思いを持っていないのです。

肉の思いというのは、罪を犯した人間の思いです。パウロはローマ人への手紙の第八章六節で、「肉の思いは死である」と言っています。肉の思いを持って生きていたら、必ず死んでしまいます。

皆様は肉体的に生きているということを、自覚しているでしょう。肉体的に生きている自分を自分だと思っているでしょう。その思いを持っていることが、肉体的に生きている自分を自分だと思っていることです。肉の思いを持っていることが、必ず死んでしまうに決まっている原因です。

その思いを脱ぎ捨てることが必要です。これを信仰と言います。信仰というのは、霊の思いで生活することです。肉の思いではなくて、霊の思いで生きるのです。

「霊の思いは命であり、平安である」とパウロが言っていますが、肉体を持っていても、肉体意識で生きないのです。肉の思いで生活しない。霊の思いで生活するのです。ちょっと無理な生活をするように思われるかもしれませんが、これしか方法がないのです。

肉体を持っている人間が、肉の思いで生活するのは当たり前です。当たり前の生活をしている人は、必ず死にます。百%死んでしまうに決まっています。死んでしまうと、霊魂の裁きがあるに決まっています。肉体人間は罪人です。罪人は神の前で裁かれるのです。

「私は全能の神である。あなたは私の前に歩み、全き者であれ」と神は言っています(創世記17・1)。罪人のままで生きているのは、全きではないのです。全きでない生活を送っているということは、神を辱めていることになるのです。人間を造った神を辱めているのです。肉の思いで生きているということは、肉体人間を造った神を辱めているのです。ここが難しいのです。人間を造った神は恥ずかしい神です。この説明が難しいのです。

「私は全能の神である」と言っています。全能の神が地球を造ったと言いながら、この地球は不完全極まりない地球です。私は全能の神であると言っていながら、現在神は全能力を発揮していないのです。

例えば、南極大陸では穀物を栽培できません。五メートル以上の厚い氷で覆われていますから、牛や羊の放牧や穀物の栽培はできないのです。とても広大な大陸ですから、温帯地方のような気候であれば、二億人や三億人の人が住めるでしょう。アラビア半島でも面積の大きさから言えば、五億人くらいの人が住めるでしょう。

南極や砂漠という不完全な大陸を造っておきながら、私は全能の神であるとは何事かと言いたいのです。五億も六億もの人間が住める広大な半島を造っておきながら、砂漠にしている。そして、私は全能の神であると言ってすましているのです。この神は一体何者かと言いたいのです。

夏の暑い日には、摂氏三十七度にもなります。汗びっしょりになる暑さです。これは全能の神ではない証拠になります。風邪をひいたり、大雨で洪水が起きたり、旱魃が起きたり、地震、台風、噴火、飢饉が発生し、伝染病、ガン、エイズが頻発しています。これは神が全能者ではない証拠です。

地球が完全であれば、風邪をひくはずがないのです。病原菌が発生するはずがない。ガンやエイズ、心臓病が起きるはずがないのです。

神は私は全能であると言いますけれど、実は全能力を発揮していないのです。悪魔がいるために、本当の全能を発揮していないのです。

そこで、おまえたちにやってもらいたいと言っているのです。全き者になれというのです。私は不完全だけれど、おまえたちは完全であってほしいというのです。人間からすれば、勝手な言い方だと思えるのです。

イエスも言っています。

「もし、誰かがあなたの右の頬を打つなら、左を向けてやりなさい。もし誰かが、あなたをしいて一マイル行かせるなら、その人と共に二マイル行きなさい」(マタイによる福音書5・39、41)。

キリスト教ではこの説明ができないのです。右の頬を打たれたら、左を向けよとはどういうことか。

少し説明しておきますと、私たちは大体右利きです。左利きの人もいますが、百人のうち数人くらいでしょう。右の手で相手の頬を打つと、相手の左の頬に当たるのです。右の頬を打つことはないのです。わざわざイエスが右の頬を打たれたらと言っているのです。こういうイエスの言い方に注目して頂きたいのです。そうすると、聖書が分かるのです。聖書を読む時は、新聞や雑誌を読むような言い方をしてもだめです。字の裏に何があるかを考えなければいけないのです。

とにかく右の頬を打たれたらという言い方がおかしいのです。右手で相手の右の頬を打つことはないのです。左の頬を打つのです。けんかをして相手をなぐれば、左の頬を打つに決まっているのです。なぜイエスはこういう妙な言い方をしたのでしょうか。これはイエスが神の不完全さを言い現わしているのです。私は全能の神であると言っておきながら、神の不完全さを言っているのです。

アブラムが九十九歳の時、主はアブラムに現われて言われた。「私は全能の神である。あなたは私の前に歩み、全き者であれ」(創世記17・1)。

全能の神が造った地球に、氷で覆われた大陸がある。砂漠で人間が住めない大陸がある。コレラ菌やチフス菌などの伝染病が頻発する。これはどういう訳でしょうか。全能の神が造った地球に、戦争があるのはどういう訳でしょうか。そのように神が造った地球は不完全です。

現在、人間が肉体を持っていますが、不完全な肉体です。神が不完全な肉体を与えておきながら、完全であれと言っている。そうすれば、神の仲間に入れてやろうと言っているのです。神自身は不完全ですが、おまえたちは完全であれと言っているのです。

そこで、聖書の勉強をすることは、不完全な人間が完全な人間の真似をすることになるのです。不完全な人間が完全な人間の真似をすることを、全き者であれと言うのです。

罪人である人間が、罪人ではない人の真似をするのです。一マイル行けと言われたら、二マイル行くのです。これが聖書です。

聖書の勉強をすることは、無理なことです。無理なことをするから、死ぬべき人間が死ななくなるのです。死ななくなるということは、完全な人間になるという意味です。死ぬのは当たり前の人間です。当たり前の人間は全部死にます。当たり前でない人間、完全な人間は死なないのです。

現在の地球も死ぬのです。やがて艱難時代という恐ろしい時がやってきます。世界中が大戦争になり、疫病だらけになります。地震だらけになります。地球が不完全さを暴露するのです。その時までに全き者になれと言っているのです。そうすれば、あらゆる災害、艱難に関係がない人間になるからです。

聖書の勉強をするということは、無理な注文です。だから、右の頬を打たれたら左を向けよというのです。右の頬を打たれるというマイナスが発生したら、ついでに左を打って下さいと言うのです。こういう無理な事をするのです。皆様は無理を承知で聖書の勉強をするのです。

現世においては、無理を承知で聖書の勉強をするのです。やりたくないことをするのです。これが聖書の勉強です。だから、持てないはずのとこしえの命が、持てるようになるのです。与えられないはずの命が与えられるのです。やらなくてもよいことをするから、そのご褒美として、もらえないはずのものがもらえるのです。神の真似をするからです。

現在の時代では、神が不完全です。全能の神ではあるけれど不完全ですから、おまえたちは完全になれと言っています。私の前に歩みて全かれと言っているのです。イエスがこれをしたのです。

聖書の勉強をするということは、やりたくないことをするのです。肉体を持っている人間としては、やりたくないことが聖書の勉強です。これをすることによって、私たちは不完全な神を完全にすることができるのです。イエスはこれをしたのです。イエスは神を助けたのです。私たちもそれをしなければいけないのです。

地球そのものが不完全です。不完全な地球において完全な行動をすることが、山上の垂訓の目的です。山上の垂訓は、不完全な地球において完全な生活をすることを、神が要求しているのです。

私たちはイエスの真似をするのです。不十分であっても、できるだけイエスの真似をしたらいいのです。これが全き者であれという条件です。

神は不完全であるけれど、私たちは神よりも完全であると考えている。実はこれは言葉の上だけの話であって、神の完全な真似はできませんが、神が不完全であることに文句を言うなと言っているのです。

聖書を勉強するということは、現代の文明において、人がしないことをするのであって、している私たちは現世的には損をするでしょう。肉体的にも精神的にも、マイナスがあるに決まっています。これが魂のプラスになるのです。

神が不完全であるのはなぜか。不完全な地球で、不完全なままを展開しているのが、今の神のやり方です。そこで、神がなぜ地球を現在の状態で展開しているのかを知るためには、肉体人間が必要です。肉体人間という不完全な命を持った人間が必要です。

私たちは死ななければならないような肉体を神に押しつけられている。死なねばならないような肉体を神に押しつけられていながら、死んではならない生活をしなさいと神が言っているのです。これが山上の垂訓です。

どうしたらこれができるのか。神の御霊を崇めるとできるのです。同時に、死なない命を掴まえることができるのです。

現在の皆様の肉体は、不完全さをそのまま持っています。呼吸機能とか消化機能、排泄機能が肉体を造っていますが、機能がだんだん悪くなるに決まっています。だから、いつか肉体と別れなければならない時が来るのです。

魂は肉体ではありません。魂は肉体を着せられているのです。いつか肉体を脱ぎ捨てなければならないのです。

第三態の人間は罪人ですが、肉体を脱ぎ捨てて、第四態の人間になることはできるのです。これが信仰です。霊に従って生きることによって、第四態の人間が実現するのです。

皆様が新約聖書に示されているイエス・キリストの復活の命を理解する。理解するだけでなくて、復活の原理に従って生活すれば、皆様の魂が肉体から離れた時に、霊体として完全な人間になるのです。

今皆様が肉体を与えられているのは、それを脱ぎ捨てるためです。肉体を脱ぎ捨てて、霊体としての完全な人間になる。これを携挙、霊化というのです。

霊化とは霊的に変化することです。これがイエス・キリストの復活の命を受け取ることです。復活の命が皆様に成就しますから、魂が肉体から離れることを恐れる必要はありません。やがて心臓が止まります。それを恐れる必要はない。霊的に変化するだけのことです。

第三態の人間は、肉体を脱ぎ捨てるためにいるのです。肉体があることが大原則ではないのです。脱ぎ捨てるために肉体があるのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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