皆様が毎日生活している心構えですが、どういう思いで生きていたらいいのか。「肉の思いは死であり、霊の思いは命である」とパウロが言っていますが、現在の人間は死なねばならない命しか知らないのです。
はっきり言いますと、皆様が今生きている命は死なねばならない命です。死なねばならない命で生きている状態で、聖書の勉強をしていることが間違っているのです。
皆様はこの世に生まれた命をそのまま持っているでしょう。これが間違っているのです。この世に生まれた命をそのまま持っていたら、必ず死にます。この世に生まれた命を脱ぎ捨てて、別の命を持ち直さなければならないのです。これを本当に実行するかどうかが問題です。
キリスト教はこの世に生まれてきた人間が救われると言っています。これは根本から間違っているのです。
この世に生まれてきた人間は死ぬに決まっているのです。これは救われない人間です。この世に生まれてきた人間は神に背いている人間です。固有名詞の人間、親から生まれた人間は、必ず死にます。
だから、水と霊とにより新に生まれなければならないのです。
イエスは言っています。「よくよくあなたに言っておく、誰でも、水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない」(ヨハネによる福音書3 ・ 5)。
イエスはこれが言いたいのです。水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることができないのです。人間から生まれたものは必ず死ぬのです。「水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることができない」とイエスが言っていますが、皆様はこれを実行したでしょうか。経験しているでしょうか。
皆様は水から生まれたのでしょうか。霊から生まれたのでしょうか。水から生まれるとは洗礼を受けることです。水と霊とから新に生まれて神の国に入ることが、新約聖書の目的です。
これが実行できない人は、まだ新約聖書を本当に学んではいないのです。宗教的に勉強してはいるでしょうけれど、本当に聖書の中に入り込んでいないのです。
水はあるということの宇宙現象です。ありてあると言ってもいいし、あるだけでもいいのです。あるということの宇宙現象が水です。宇宙現象がなくなれば水はいらないのです。
闇が淵の表にいなければ、宇宙現象はいらないのです。闇が淵の表にいる間は、宇宙現象が必要なのです。闇が淵の表にいなければ、神の霊が水の表を覆うことがないのです。
水は宇宙現象の原点的なものであって、現在の宇宙現象はなければならないものです。なぜあるのかというと、宇宙があることが水によって証明されているのです。
宇宙がなぜあるのかという質問と水がなぜあるのかという質問は同じことです。水があることが宇宙があることです。宇宙がなくなったら水がなくなるのです。
水があるということが、神の御名を証明しているのです。水があることが神の証明になっているのです。水があるから地が生まれたのです。水がなければ地はないのです。
土は現象です。現象という物質が土です。地があることと土があることとは違うのです。地は水みたいなものです。地は言葉とよく似ているのです。土を耕すというのは、現象を耕すということです。人間が造られている土はそういうものを意味するのです。
水と霊とから新に生まれるというのは、人間であればできるのです。人間は神の命を吹き込まれているので(創世記2 ・ 7)、神の命を理解することができるのです。また、神の命を自分のものとすることができるのです。
水を理解することができるし、土を理解することができるのです。土を耕すためにはどうしても水の根源を知らなければならないのです。
イエスは、「水と霊とから生まれなければならない」と言っています。水から生まれるとは洗礼を受けるということです。何のために洗礼を受けるのかと言いますと、ノアの洪水をもう一度確認するためです。
ノアの洪水を自ら体験するために洗礼を受けるのです。三位一体の神の名によって洗礼を受けると、ノアの洪水を受けたことが私たちの人生の実体になって働くのです。水が働くのです。これを水から生まれると言うのです。
水から生まれるということは、ありてあることの原点に返ってしまうのです。生まれる前の状態になってしまうのです。生まれる前の状態になると、皆様の生活の原理がどうなるのか。固有名詞に全然関係がない人間になるのです。親とか兄弟、親戚縁者に関係がない人間になってしまうのです。
従って、水から生まれた人間は死なない人間になるのです。この世に生まれた人間は死にます。必ず死にますが、この世に生まれていなければ死なないのです。死ぬはずがないのです。
ヨハネは次のように言っています。
「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手で触ったもの、すなわち、いのちのことばについて―このいのちが現われたので、この永遠のいのちを私たちは見て、その証をし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのちは、父と共にいましたが、今や私たちに現われたものである」(ヨハネの第一の手紙1 ・ 1、2)。
ヨハネが言っているように、皆様が今生きていることの実体、五官、心理状態、生理機能は永遠の命です。固有名詞が生きている、固有名詞が自分の実体であると思っているから分からないのです。
人間の肉体はないのです。生きているという事はありますが、肉体はないのです。
人間として生きていれば、死ぬに決まっているのです。ところが神から見ると、人間の命ではない命を生きているのです。人間として生きていない人に向かってイエスは、「神の国を求めよ」と言っているのです。
なぜなら生きていることが神の国です。皆様の肉体はないのです。水から生まれた人間はそうなっているのです。
洗礼を受けた人は、生まれる前の状態に帰ってしまっているのです。生まれる前に帰っているのに、固有名詞の人間がいると思うことはおかしいのです。死ぬことがおかしいのです。水から生まれた事実をはっきり確認したらいいのです。
生きているという事は、命の言なのです。ヨハネが言っているように、初めからあった命の言が現われたのです。
初めからあった命の言が、今私たちに現われた。これを肉体と言っているのですが、私たちの肉体ではない。初めからあった命の言なのです。だから、神の子です。
肉体があるのではない。初めからあった命の言が肉体となっているだけです。洗礼を受けるとそうなるのです。これを水から生まれると言っているのです。
固有名詞の人間として生きていたら、必ず死にます。肉体的に存在する固有名詞の人間はいないのです。水から生まれるとそうなるのです。洗礼を受けると神の信仰が働くからです。神の信仰とノアの洪水の水とが働くのです。だから、水から生まれるのです。
水から生まれると、この世に生まれる前の状態に帰ってしまうのです。これを新に生まれると言っているのです。
霊から生まれるというのは、神の御霊によって生まれるのです。
聖書に次のようにあります。
「あなたがたが新に生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生ける御言(みことば)によったのである」(ペテロの第一の手紙1 ・ 23)。
肉体的な親から生まれたのは、死ぬべき命として生まれたのです。仮に生まれたのです。だから、死ななければならない命に、もう一度生まれなければならないのです。
私はこれがどうしても分からなかった。しかし、どうしても新しく生まれることを経験したかったのです。そこで神に求めたのです。とことん神に求めようと思ったのです。「あなたがたは、こうして神の霊を知るのである。すなわち、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白する霊は、すべて神から出ているのである」(ヨハネの第一の手紙4 ・ 2)。この言葉が心に残りました。
この一句が妙に心に残ったので、この一句をとことん黙想しようと考えたのです。何年でも、神から答を教えられるまで、執念深く問い続けようと決心したのです。当時はサラリーマンをしていましたから、会社へ行って仕事をしていましたが、ほとんど上の空で仕事をしていました。
朝から晩まで、この一句を考え続けたのです。二年間、この一句だけを考えていましたが、二年後の朝の通勤途中の電車の中で、突然に目の前の景色が全く変わってしまいました。巨大な柱にぶつかったのです。神ご自身にぶつかったのです。思わず「おやじだぁー」と叫んでしまいました。そして、今まで生きてきた自分という思い、自我意識、自分の経験、自分の思想が木端微塵に吹っ飛んでしまいました。そして、生かされている当体がイエスであることが分かりました。
その時は全くの赤子でしたが、その後、御霊を崇めて御霊に導かれて、だんだん成長してきたのです。
聖書の言葉はどこでもいいのですが、気にかかる一句がありましたら、これを捉えて、その真意が分かるまでとことん黙想してみるのです。そうすると、ある時、この世の親、この世の思想から生まれた自分が完全に爆破されてしまう事が起きます。そして、聖書の一句が自分の命になるのです。この一句から生まれるのです。
これが聖霊を受けることでありまして、この体験を必ずして頂きたい。この体験が新しく生まれることですから、これを基礎にして本当の聖書の勉強をすることができるのです。
霊から生まれるとどうなるのか。実在しないはずの自分が実在することになるのです。これを霊から生まれるというのです。聖霊の降臨によって実在しないはずの初めからあった命の言が存在しているのです。これがヨハネの第一章の一節、二節に書いてあるのです。
肉体的に存在する固有名詞の人間は全く実存していないのです。生きているという事がらが、肉体という幻になって見えるだけです。固有名詞の名前で生きていて、肉体的に生きている。それを自分自身で確認していたら、必ず地獄へ行くのです。聖書を信じていないからです。
生きているという事がらが形を取っているだけです。事がらが形を取っているのです。事がらは霊です。事がらが形を取っているだけであって、人間がいるのとは違うのです。
生ける神を父と呼んでいた自身が、事がらとして生きていたのであって、イエスという人間がいたのではないのです。これをイエス自身がよく知っていたのです。固有名詞は皆様自身とは何の関係もないのです。生きているという事がらが皆様という格好になっているだけです。
形は実体ではありません。水から生まれること、霊から生まれることの二つを経験したらいいのです。従って、生きているという形があるのは当たり前です。水と霊とから生まれても、形があるのは当たり前です。もし形がなかったら、とこしえの命が経験できないのです。
水から生まれることによって、個人的な命は実存していないことを実感するのです。霊から生まれることによって、とこしえの命が形として存在していることを知ることができるのです。これが皆様自身です。生きているという状態を冷静に冷静に判断したら、そうなっていることが分かるのです。
聖書の勉強をするということは、水のバプテスマの意味を知り、聖霊のバプテスマを受け、十字架、復活の勉強をすることです。これを勉強したら、私が言うことが分かるはずです。これが正しく分からないのは、聖書の勉強を正しくしていないからです。
水と霊とによって新に生まれて神の国に入るのです。毎日、毎日、これを実行するのです。皆様の生活が神の国に入っている生活でなかったらいけないのです。これが嫌なら地獄へ行くしかないのです。
今の世界には、水と霊とから新に生まれて神の国に入るということを、実行している人がいません。皆様にはどうしても実行して頂きたいのです。
(内容は梶原和義先生の著書からの引用)