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  • 管理人chaya

現世の人間はキャラクターである


高齢になって、この世のためにも、自分のためにも生きている値打ちがある人は生きていてもいいのですが、何にもならない人は生きている意味がないのです。この意味で、高齢福祉政策は必ずしも良いとは限らないのです。

祈る時も、歩く時も、一つひとつの行いが全部命がけでしなければだめです。高齢でだらだらと生きているのは、神が地獄へ行く人間として認定しかかっていると考えなければいけないのです。

生まれる前に、神と一緒にいたことが分からない人はだめです。そういう人は救われません。それを教えられても分かろうとしない人がいます。それは救われない人です。聖書を勉強したら皆救われるとは書いていません。救われる人もいれば、救われない人もいると書いているのです。地獄へ行く人がほとんどでしょう。聖書がいうことを本当に実行している人は、救われるでしょう。実行しない人は救われなくても仕方がありません。自分で滅びていくしかないのです。

神を現実で掴まえて、神の命をはっきり受け取ることができる人は、非常に少ないのです。神の言葉を現実的に強く深く掴まえていけばいいのです。聖書の解釈だけに留まっていてはいけない。それでは信仰になっていないのです。信仰というのは、現在神に生かされていること、現在神に生きていること、現実に神の救いを経験していることを言うのです。

人間は生きている間は、地獄の恐ろしさが分からないのです。現世というものは一応、神の国と同じ状態におかれているという点があるのであって、現世に生きている人間は地獄をまともに考えることができないのです。できないから、どうしても生き方が疎かになってしまうのです。疎かになる人はやむを得ないから、地獄へ行くしかないのです。

本当に現実が神の国であることを弁えて、今ここで、神をしっかり掴まえることができない人は仕方がありません。これができる人は、世々限りなく王となることができるのです。そして、神の仕事をお助けすることになるのです。これはよほどしっかり神を掴まえている人でないとだめです。だから、一千万人の人がいても、本当に神が掴まえられている人はごくわずかでしょう。

ダビデのように、神を目の前に見ている人しか救われないのです。ダビデが詩篇を詠んでいる感覚が、具体的に現実的に分かっている人でないとだめです。詩篇が明解でないということは、精神状態が論理的に整理されていないということです。だから、自分で話していても、他人に分からせることができないのです。そんな事では預言者になることはできません。私たちは預言者になるために聖書を勉強しているのです。皆様の視点が低いのです。宗教観念が邪魔をしているからいけないのです。

現実に、神に生かされていることさえ分かればいいのです。「今日、我汝を生めり」ということが、現実の救いの入口になるのです。ここから入っていけばいいのです。

女性が自分の貞操を持っている人は、一切神の国へ入れません。日本人の貞操観念は儒教からきているのです。徳川時代の封建制度が女性の貞操観念を造ったのです。万葉時代には、徳川時代の日本人が持っていた貞操観念、道徳、法律はありませんでした。源氏物語を読むと、そういうことがはっきり分かるのです。

女性は今の貞操観念を持っていたらだめです。この世の女にはなれるでしょう。しかし、本当の女にはなれないのです。人の妻というのは、女のままで死んでいく人間のことです。私は今の貞操観念を無理に否定するものではありません。貞操に対する観念が、全然間違っていると言いたいのです。皆様が考えているのは肉の貞操ばかりです。霊の貞操が全く分かっていないのです。

この世の道徳を重んじれば、人間の霊魂は必ず死んでしまうのです。自分の貞操を自分で握りこんでいる人は、この世の女です。自分を捨てることができないのです。この世の女は肉の肉です。隠し所という感覚を持っているからです。

男も自分の奥さんを自分の妻だと思ったらいけないのです。これは女の貞操観念を束縛することになるからです。女性のセックスの感覚を束縛してはいけないのです。神に解放しないと本当のセックスにならないのです。自分の奥さんを自分の妻だと考えて、自分の奥さんの貞操を独占できると考えたらいけないのです。男も女も両方共、地獄へ行くことになるのです。

現世の道徳は貞操観念が根本的に間違っているのです。教育も間違っている。宗教も政治も間違っているのです。貞操観念が間違っているから、教育も宗教も政治も間違っているのです。貞操は自ら生じる人格の本性であって、現世の道徳とか、教育、習慣、常識によって造られるものは、皆偽善であって、本当の貞操ではないのです。これが分からないといけないのです。

愛を受け入れる。愛を実感できるのが女の特長です。これが本当のセックスです。これが骨の骨です。女性の性器は受け入れるためにあるのです。女性のハートが性器になっているのです。ハートを開いて神の愛を受け入れるのが、女性のあり方です。これが骨の骨です。女性の貞操はハートの問題です。

イエスが私は生ける神の子であると告白したのは、サマリアの女に対してだけです。「今おまえは誠の神に出会っている。霊と誠を持って神を拝しなさい」と言っている。こんな大きなことを、水を汲みにきたサマリアの女に対してだけ言っているのです(ヨハネによる福音書4 ・ 1~26)。男には全然言っていないのです。

女の貞操は肉体の問題ではありません。ハートの問題です。現世の貞操を守りたい人は守ったらいいでしょう。しかし、地獄へ行くことになるのです。現世の貞操を持っている人は、女でなくなることは絶対にできません。女は女でなくならなければいけないのです。

夫婦であることが悪いのではありません。現世のいわゆる夫、妻という観念が間違っているのです。現世の夫、妻という観念を捨てなければ、聖書を勉強する資格はありません。妻を愛するのはいいのですが、それは現世の宗教観念で精神的に妻を束縛しているだけです。これがいけないのです。現世で妻を精神的に束縛してはいけない。束縛すると、その女性は救われなくなるからです。

日本人の道徳観念は、根本から間違っているのです。一人の男が一人の女を独占する。また、一人の女が一人の男を独占する。これが間違っているのです。

人間がこの世に生まれてきたことが死んだことであって、この世に生きていることは死んでいることです。この世にいる人間は必ず死ぬのです。この世の道徳は死から逃れることができない束縛です。道徳を守っていれば、必ず死んでいくのです。

夫婦という社会通念でお互いを見ることが間違っているのです。お互いに愛し合えばいいのですが、愛し合わずに夫婦という感覚で見ている。愛を道徳にからませている人間の常識が間違っているのです。愛はどこまでも愛であって、道徳はどこまでも肉です。これを混同していることがいけないのです。日本の社会道徳は根本から間違っているのです。

私たちが現世で精神的なあり方を学ぶことによって、本当の霊魂の生き方を勉強するのです。道徳を守るためではないのです。道徳は善です。信仰は最善です。善は最善の敵です。道徳は信仰の敵です。

夫婦はお互いに恋人関係でないといけない。その方が楽しいし、嬉しいのです。愛を求めない者は肉です。愛を求めることに、もっと熱心になって頂きたいのです。夫婦であるという意識を持っていると、素朴な気持ちで相手を愛することができなくなるのです。夫婦という気持ちに束縛されてしまうからです。社会的な道徳意識が強くなって、愛という観念が消えてしまうのです。

夫婦という気持ちをやめて自由な気持ちになると、かえってお互いに本当に愛することができるかもしれないのです。現在の夫婦生活は封建時代の名残りであって、これを重んじている人は、絶対に神の国には入れないのです。愛しているという意識が持てない男、持てない女はだめです。

神の国に入る前に、水と霊とによって新に生まれるということを納得して、経験しなければいけないのです。皆様はこの世に生まれて、この世に生きてきたと思っています。この意識がそのまま火の池になるのです。固有名詞の人間が生きていたらいけないのです。

この世に生きている人間はパーソナリティーではなく、キャラクターで生きています。現世で生きている人間は、全部キャラクターで生きています。性格が生きている。人格が生きているのではないのです。

空が青いのは、神の人格がそのまま現われているのです。太陽が照っているのも、神の人格が現われているのです。これが本当の人格です。神は太陽を通して、また、空の青さを通して神の人格が分かるように、命の息を吹き込んでいるのです。それが分からないのは、自分の性格で妨害しているからです。

死ぬべき命を自分の命だと思っている人を、頑固な男というのです。死ぬべき命を生きているということを知っている。知っていながら、死ぬに決まっている命を自分の命だと思っている。神は固有名詞の人間を初めから認めていないのです。ところが、人間は固有名詞の自分しか認めていない。これが間違っているのです。

俳句が好きな人は、俳という字の意味が分かれば救われるのです。ところが、俳句をしている人が分からないのです。高浜虚子は句を詠むのが好きでしたけれど、俳になっていないのです。俳とは何か。俳は人にあらず、非人をいうのです。人間として生きていながら、その生きている人間を生きているままで捉えていないのです。これが俳です。

俳という字は世界の文化思想の中でも、特筆すべきものでしょう。俳とは、生きている人間を見ていながら、生きている人間のままで捉えない。違った形で捉えるのです。これが俳です。

俳を聖書では霊と言います。俳句を詠んでいる人は沢山いますが、皆嘘ばかりを詠んでいるのです。芭蕉は見ていても、見ている角度が少し違っていたのです。人間は世間の人間が考えているものとは違います。それに気がついたのが、芭蕉の入口です。ところが、いくら詠んでも、人間ではないことの確かさ、正確さを詠み切ることができなかったのです。どこまでも芭蕉の俳で終わっているのです。古き人間が新に生まれることができなかったからです。

ヨハネは言っています。

「よくよくあなたがたに言っておく。誰でも、水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれる者は肉であり、霊から生まれる者は霊である。あなたがたは新しく生まれなければならないと、私が言ったからとて、不思議に思うには及ばない。

風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこから来て、どこへ行くかは知らない。霊から生まれる者も皆、それと同じである」(ヨハネによる福音書3 ・ 5~8)。

風がどこから来て、どこへ行くか分からない。霊から生まれる者も皆それと同じである。これはめったに分からないことです。イエスが生きていた心境、イエス自身のあり方がよく出ているのです。

皆様が本当に新しく生まれて神の国へ入ったら、風のようになるのです。どこから来て、どこへ行くのか分からないという風格ができる。柔らかそうで硬い、硬そうで柔らかい人間になるのです。世間並の人格とは全く変わってしまうのです。

イエスはどこから来て、どこへ行くかを、全然考えていません。三日目に甦ることは何とか言っていますけれど、何とか言っているだけで、三日目に甦って第三の天に行くことを全然考えていなかったようです。こういうことを考える人間なら、イエスのような行動はできなかったでしょう。

皆様は今のままで、間違いなくとこしえの命を持っているのです。聖書の勉強をしていない世間一般の人でも、とこしえの命を皆持っているのです。ところが、皆様は霊と肉の仕分けができないのです。

大体、俳という思想が日本でどうしてできたのか。何を目当てにそういう字を考えついたのかということです。俳とは生きている人間が肉体的に生きていながら、肉体的に生きていない心境を出そうとしているのです。

短歌はそうではありません。肉体的に生きている気持ちを赤裸々に出しているのです。短歌は肉体的に生きている人間の気持ちを無視したらいけないのです。

俳句は肉体的に生きている人間を無視しなければいけないのです。ところが、自分が生きている実体から抜け出していないのです。自分が生きている実感をしっかり掴まえて、そこで自分ではない味を出さなければいけないのです。これが俳句です。霊です。霊の思いは命であるとはこういうことです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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