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私の霊を神に渡す


現実というのは、時間、空間、人間の三つの間でできているのです。時間、空間、人間には、皆間があります。間というのは、あると思えばある、ないと思えばないのです。これは本質的に言えば、間というのは造られたものだということです。初めからあるものではないのです。

現在、人間が生きている命というものは、人間という言葉がありますように、一つの間なのです。哲学的な思索というのは、間について考えることです。人間社会には、政治とか経済、教育と色々な事がありますが、これは元来間から出てきたものであって、本来的には存在しているものではないのです。

人間、時間、空間の三つの間をコントロールするための一つのテクニックとして、学問という形が現われているのです。

ユダヤ人はイエスがキリストであると困るのです。イエスがキリストであると、自分たちがイエスを十字架につけた責任を取らなければならないことになるからです。

何が困ると言っても、ユダヤ人はイエスがキリストであることが一番困るのです。だから、彼らは無意識に、イエスがキリストでなくても良い方法を考えだそうとしているのです。意識的にそうしているとは言えないかもしれませんが、イエスがキリストでなくても良い方法を見つけようとしているのです。これが近代文明の成立原理になっているのです。

十五世紀頃から十七世紀にかけて、近代文明ができましたが、これはユダヤ人が世界を治める前兆だったのです。近代文明はイエスがキリストでなくても良いという理屈に合わせるために造られたのです。これがユダヤ人の文明です。その前に、古代の文明、中世の文明がありましたが、これはローマの文明、ギリシアの文明でありまして、イエスがキリストであった方が良いというセンスを持っているのです。

ユダヤ文明は、イエスがキリストであったら困るのです。だから、イエスがキリストでなくても良いという理論を、彼ら自身の伝統的なユダヤ主義に応じて造ったのが、近代文明、現代文明です。ローマ文明は人間文明本来の流れであって、現代文明は十六、十七世紀の文明の流れを受け継いでいるのです。

現代文明のいわゆる学問的という考え方が、アンチ・キリスト、反キリスト文明です。皆様は無意識に、反キリスト的文明の毒素をしっかり吸い込んでいるのです。十分に吸い込んでいるのです。

その真ん中で私たちはイスラエル伝道ということを勉強させられているのですから、全く場違いも甚だしいのです。

イスラエルの回復のために祈るとか、イスラエルに対してキリストの福音を伝えるということは、現代文明のあり方から言いますと、全く気違い沙汰です。文明が成立している方向と正反対の方向に、私たちは向かっているのです。これが命の勉強です。宗教ではない命ということです。

命とは何か。人間の本質から考えますと、命はそのままキリストという事です。

パウロは言っています。

「あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。私たちのいのちなるキリストが現われる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現われるであろう」(コロサイ人への手紙3 ・ 3、4)。

ここで私たちと言っているのは、コロサイ人の人たちに宛ててパウロが書いたものですから、コロサイ人の人々を指しているのです。コロサイ人の教会というのは、純粋な異邦人の教会であって、異邦人全体に対してパウロが呼びかけている言葉であると言えるのです。

つまり、パウロは現在の人間全体の命が、キリストであると断定しているのです。小さく解釈するのと、大きく解釈するのとでは違いますが、原理的には人間の命がキリストであると言っているのです。

これが新約時代の特長です。旧約時代は異邦人は関係がない時代です。実は、旧約時代には命という考え方がなかったのです。イスラエルの一部にはそういう感覚がありましたが、厳密に言いますと、本当の命という考え方は、ユダヤ人の中にもなかったのです。

掟を守るのは、自分たちに恵みが与えられるためです。自分たちが祝福されるために、掟を守るべきだと考えたのです。祝福されるというのは、命とは関係がありません。ユダヤ人は命を目的に掟を守っていたのではないのです。命は命、掟は掟です。

マタイによる福音書の十九章十六節で、ユダヤ人のある青年がイエスに、「永遠の生命を得るためには、どんな良いことをしたらよいでしょうか」と聞いています。

これがおかしいのです。掟を行うことによって永遠の生命を得ることができるなら、今更青年が永遠の命を得るために何をしたらよいのかを聞くはずがないのです。そういう間の抜けた質問をするはずがないのです。

おまえは掟をどう考えているのかとイエスに言われて、青年は、「小さい時から掟を守っています」と答えたのです。青年は小さい時から掟を守っているつもりでいたのです。

ところが、青年は現世の生活が祝福されるために掟を守っていたのであって、永遠の命が目標になっていたのではないのです。

旧約時代の一部の預言者以外には、永遠の命という感覚は全然なかったのです。ましてや異邦人においておやです。

釈尊は永遠の命という思想は、全然持っていません。命の勉強は実は世界中で、今まで全然していなかったことです。イエスやパウロ、イエスの十二使徒は、もちろん命を考えて述べ伝えていたのですが、その時だけで終わっているのです。

命を勉強する人間がほとんどいなかった。ましてや近代文明になると、命を考える人間は全くいません。ただ生活のことだけを考えているのです。どうしたら生活を向上できるかだけしか考えていないのです。

宗教ではないとはどういう事かと言いますと、命ということです。これが分からないのです。命を考えようとする気持ち、意識が全然ないのです。近代文明に犯されている皆様は、異邦人と同じ感覚を持っているのです。

皆様は聖書の勉強はしていますが、命の勉強はほとんどしていないのです。皆様はユダヤ人のような勉強の仕方はしていません。それなら、イエスやパウロと同じような感覚で聖書の勉強をしているかと言うと、そうではないのです。命の勉強をしていれば態度が違うはずです。

命というのは、生きているそのことです。永遠不滅の絶対間違いのない定着点が、本当の命です。この命の中へ入るのです。命を掴まえるのです。命の中へごそっと入ってしまうのです。今生きているのは、命を生きているという形で経験させられているのです。皆様がしている経験を生かして使えば、とこしえの命になるのです。

皆様が今椅子に座っているとします。椅子に座っていることが、命を経験していることです。命を知ることができるような座り方をしているのでしょうか。していれば、すでに神の国に入っているのです。

ご飯を食べること、お茶を飲むことが、命を経験していることです。命を経験するということは、生というポイントを生活するという形で眺めているのです。生に生きなければならないのです。

キリスト教は死んだら天国へ行くと言います。これはキリスト教に命がないことを、はっきり証明しているのです。

今皆様が生きていることは、そのままとこしえの命を得るために、何をなすべきかという質問をしていることになるのです。生きていることによって質問をしているのです。神もまた、皆様に質問をしているのです。あなたは毎日生きているが、それによって命を確かめたか、命が分かったかと毎日言われているのです。

例えば、お茶を飲んだら、お茶の味がします。お茶の味とは何か。命が分かったかという神の側からの問診です。ご飯の味、果物の味、魚の味、牛肉の味とは何か。皆様はただ果物を食べた、魚を食べたと思っている。これが肉の思いです。

皆様は未だかつて世界の人々が考えたことがない、根本的、基本的なテーマと取り組んでいるのです。生きるとは何か、死ぬとか何か。この問題にがっちり取り組んでいるのです。この問題を卒業しなければ、イスラエルに伝道はできないのです。

ユダヤ人はイエスがキリストであると困るのです。それに対して私たちは、彼らが一番嫌がっているキリストを説かなければならないのです。あなたがたの命はキリストであるということを言わなければならないのです。この難事業に取り組んでいるのです。

それは難しいことかというと難しくないのです。現に皆様は神から問診を受けているのです。毎日、お茶を飲んだり、ご飯を食べたりしています。お茶を飲むことが、神と対話していることです。ご飯を食べることも神と対話しているのです。神と対話していながら、命が分からないはずがないのです。何でもないはずです。考え方の土台がどこかずれているから分からないのです。

肉体とは何か。肉体と肉とは全然違います。実は、肉体は存在していないのです。皆様方の肉体は生理機能の現われです。生理機能が骨となり血となって現われているのが、人間です。生理機能が形をとっている状態が肉体です。ところが、形をとっているというのは人間自身の概念であって、実は形はないのです。

例えば、一枚の木の葉をじっとご覧になると、形があるように見えますが、それは木の葉が存在するその時点のあり方を示しているのです。

目の前の花瓶に一輪の花が活けてあるとします。すばらしいバラの花が咲いています。バラの花は一週間もすれば枯れて散ってしまいます。一週間で枯れて散るというのは、満開になったその日から、毎日、毎日枯れているということです。毎日、毎日枯れているということは、毎時間ごとに枯れているのです。もっと厳密に言えば、瞬間瞬間、枯れつつある。瞬間瞬間、形が変わっているということです。瞬間瞬間、形が変わっているということは、形はない、流動していることを意味するのです。

バラの花が咲いているというのは、その日その日の時間における形態のあり方です。状態、コンディションです。花が咲いているというのは、その日その時における状態を指すのであって、これは形態ではなく状態です。

皆様の肉体も同様です。例えば、風邪をひくと、体のコンディションが変わります。健康な時の状態と風邪をひいた時の状態とでは、顔色も違いますし、体温や脈拍も違います。呼吸の状態も違います。

厳密に言いますと、皆様の健康状態は日によって違います。食事や気温、天候の状態によって違っているのです。皆様の肉体は、一定不変の形態を持つものではないのです。その時その時の状態が現われているのです。端的に言いますと、食事をする前と後では違うのです。

肉体は不変のものではなくて、いつも変化しているのです。それを不変のものと思うのが肉の思いです。

肉体は状態です。コンディションです。コンディションは霊なるものです。霊というのは事がらです。事がらは状態を指すのです。肉体は実は霊なるものです。これは間です。現象的な肉体があると考えている人は、絶対に救われません。神の御心に反するからです。神の御名を崇めていないからです。

神の御名を崇めるとはどうすることか。神の栄光が皆様の形を造っているのです。形は一定不変ではなくて、その日、その日のでき様です。形という言葉はありますが、地球上に実は形と言えるものは存在していないのです。形は厳密に言うと、存在していません。霊なるものの現われなのです。

それでは形は何かと言いますと、パウロは「肉に体があるように、霊にもまた体がある」と言っています。コリント人への第一の手紙の十五章四十四節に書いています。皆様の肉体は人間が生きているという霊です。生きている霊が自ら体をなしている。これを肉体というのです。

自分はいないと言いますが、自分がいないのは当たり前です。肉体がないのですから、自分はいないのです。それを肉体という固形体があるもののように思い込んでいる。こういう考えが既に死んでいる考えです。

皆様の実体は魂であって、人間ではありません。人間という言葉の概念の中に、肉体的状態が無言のうちに含まれているのです。ところが、肉体的な人間はいないのです。

間というのは、一本の線だけではできません。二本の線を引くと、線と線の間ができるのです。これが間です。

色々な働きが集結されて、ある状態を造っている。これは何か。「闇が淵の表にあった」とあります(創世記1 ・ 2)。形があると考えるのは闇の思想です。自分がいる、自分が今まで何十年間も生きてきたという考え方は、闇の思想です。闇が淵の表にあり、神の霊が水の表を覆っていた。淵の表と水の表とはどういう関係にあるのか。こういう事が分かれば、皆様は死ななくなるのです。

肉体とは何かということを哲学的に考えることは、死に勝つためです。皆様は死んではいけないのです。現在生きているままの状態で、神の国に入らなければいけないのです。

皆様が現在生きているという事は、生かされている事です。生かされているという事が神の国です。本当に生かされているという事の中に入ったらいいのです。これを霊を渡すというのです。これをしなければ、本当のイスラエル伝道は絶対にできません。

人間の歴史が始まって以来、集団で神の国へ入るということは、未だかつてなかったことです。これに私たちは挑戦しようと考えているのです。私たちには神の言葉が開かれている。神の御名が、私たちの信仰を証しておいでになるのです。

私たちは今、命の勉強をしているのであって、命の勉強ということは、死を破ることです。イエスが死を破ったように、私たちも死を破ることができるのです。

死とは何かというと、肉の思いです。パウロは「肉の思いは死である」と言っています。「霊の思いは命である」と言っています。今まで皆様が何十年間か生きていたというその思いが、皆様自身を殺しているのです。

だから、ちょっと強く言われると、腹をたてたり、私みたいな者はだめだという僻み根性を持ったり、焼きもちを妬いたり、自分の気持ちを人が理解してくれないと思ったりするのです。

思い煩いとか、悲しみ悩みは、すべて肉の思いです。今まで皆様が生きていた思想が、そのような思いを皆様に与えているのです。それが死んでいる証拠です。ちょっと強く言われると、もう暗くなる。死んでいるからそういうことになるのです。今まで皆様が生きていた記憶、肉の思い、肉の記憶が皆様を殺しているのです。

今まで生きていたということが、その人の霊です。これを神に渡すのです。自分の思いで発言している人は死んでいるのです。霊を渡さなければいけないのです。自分が生きていたということを渡すのです。これを渡せば、人間が変わってしまいます。これができなければ、キリストの花嫁の備えの勉強をする資格はありません。

キリストの花嫁の備えの勉強というのは、聖書の中の最高の勉強です。これをすることができる人は、霊を渡した人だけです。花嫁の備えができた人だけが、イエスの証ができるのです。イエスの証をすることが私たちの仕事です。これをするためには、花嫁の備えができていないとだめです。

皆様にイスラエル伝道をして頂きたい。直接イスラエルへ行って伝道ができなくても、イスラエルの回復のために祈って頂きたいのです。

イスラエルの回復のために祈るということは、霊(人生)を渡してしまわなければ、できません。霊を渡さなければ、イスラエルに対する本当の祈りにはならないのです。皆様の祈りはそれなりに効果がありますが、信仰による祈りとは言えない所があるのです。

とにかく、分からなくても祈ることが必要ですが、霊を渡して祈ると効果が格段に上がるのです。神の信仰によって祈るからです。

霊を渡すと自分の信仰ではなくなり、神の信仰になるのです。皆様の記憶を入れ替えててしまうことです。これが一番必要です。

皆様は亡くなられたら、多分火葬されるでしょう。土葬でも同じことです。火葬になれば当然灰になります。体は灰になりますが、その人の記憶は灰になりません。そこで、霊魂の裁きという問題があるのです。今まで生きてきたという記憶を灰にすることです。これが誠の清めです。

ペテロは言っています。

「むしろ、あなたがたを召して下さった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。

聖書に、『私が聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである』と書いてあるからである」(ペテロの第一の手紙1・15、16)。

ユダヤ人はこれを問題にしているのです。「神は聖なる者であるから、あなたがたも聖なるべし」。これがユダヤ教の中心思想です。これが皆様に分かっていなければいけないのです。

神が聖なる者であるように、私たちも聖なる者であれとはどうすることかと言いますと、あなたがたのすべての行いにおいて、聖でありなさいと言っているのです。

これを英訳で言いますと、be ye yourselves also holy in all manner of living となります。オール・マナー・オブ・リビングにおいてとは、生きているすべてのマナーにおいて聖であれと言っているのです。

生きているマナーが聖になると、皆様は初めて麻の細布を着たような、さばさばとした状態になるのです。生きていることの心地好さがはっきり感じられるのです。今までの気持ちで生きていると、生きていることが非常に辛いのです。

最近、ある学生が罪に問われました。自分は潔白であるが、生きていることが嫌になったと言って自殺してしまいました。潔白なら死ぬ必要はないのです。毎年日本では三万人以上の人が自殺しているのですが、オールマナーが聖でないから、そういうことになるのです。

今までの記憶で生きていると、大かれ少なかれ、人間は生きていることが嫌になるのです。私みたいな者はだめだと思うのです。そういう記憶が皆様の魂を殺すのです。地獄へ連れて行くのです。

自分の記憶が自分の魂を地獄へ連れて行くのです。だから、生きているうちに、自分の記憶と絶縁してしまわなければいけないのです。記憶の入れ替えをするのです。精神工学の外科的手術をするのです。

霊を渡すのです。今まで生きてきた記憶を神に渡すのです。自分が持っていたら、必ず地獄へ行くことになるからです。地獄へ行く前に、毎日、毎日の生活が苦しいのです。

行いを清くしようと思ったら、必ず偽善者になってしまいます。行いを清くするのではなくて、生きているオールマナーを清くするのです。生きている心構え、生きている生活マナーを変えてしまうのです。

十六、七世紀以降のユダヤ文明の根本原理は、イエスがキリストでは困るということです。イエスがキリストではないとするためには、唯物史観が手っ取り早いので、これを強力に広げたのです。誰でも分かるからです。

唯物主義と即物主義があります。現代人はほとんど即物主義です。本当の唯物史観は勉強しないと分かりませんが、即物主義は私たちが生まれながらにして肉の下に売られていることですから、よく分かるのです。人間は全部即物主義に陥っているのです。

肉体がある。万物がある。地球があると考えている。これが淵の思想です。大体、淵はないのです。淵は水が集まって勝手にできているだけです。勝手にできているというのは、般若心経的に言えば五蘊です。蘊というのは積み重なりとか寄り集まるという意味です。淵は積み重ねであり、寄り集まりでもあるのです。

闇が淵にあったという事は、星雲状態をいうのです。太陽系宇宙以外は皆淵です。あるSF作家は、宇宙には太陽系宇宙のようなものが他にもたくさんあると言っていますが、これはフィクションです。漫画の世界の話です。

淵はないけれども、あるように見えるのです。これを五蘊というのです。五蘊という思想を発見したのは悪魔です。これを信じている人間は、悪魔の子になっているのです。何十年かこの地球に生きていたから、自分の気持ちを拭いさることができないようになっているのです。

これは聖霊によって拭いさって、助けてもらうしかしょうがないのです。皆様の思想は、自分ではどうにもなりません。御霊を崇めればできるのです。御霊を崇めなかったら、自分の思想を変えることは絶対にできません。自分の思いを自分で変えることができない人は、自分の思いに捉われて、必ず地獄に引き込まれるのです。

現在皆様は自分の気持ちで生きていると思っているでしょう。自分の気持ちで生きているということが、黄泉(よみ)にいることです。黄泉から出なければいけないのです。黄泉から出て、清くなって麻の細布を着るのです。

皆様は古き人という五蘊の衣を捨てて、霊なる新しい人の衣に着替えて、神の国へ行く備えをして頂きたいのです。思想の入れ替え、記憶の入れ替えをして頂きたいのです。

これをするためには、霊を渡さなければできないのです。今まで生きてきたという事がらを、神に返してしまうのです。皆様の記憶はもり上った五蘊です。ひがみ根性の裏打ちをしているのが、皆様の自尊心です。私の考えは間違っていないというど根性と、私みたいなものはという根性が裏表になっている。

自分は善人だと思い込んでいる。その堂々たる自信と、私みたいなものはという卑屈な考えが同居しているのです。優越感と劣等感が裏表になっている。これが淵の表にある人の心理状態です。

今の現象世界では、形はないけれどもあるように見えるのです。これが蘊です。これが人間の記憶になっていくのです。皆様の記憶は、全部肉の記憶です。学問も、常識も、すべて地獄へ連れていくものばかりです。

そこで、この間違っている肉の記憶を神に渡すのです。皆様の命を、神の命に付け替えるのです。命の方向へ命を転換するのです。

淵は実体があるように見えるのです。水がたくさん集まっているから、深い淵のように見えるのです。見た所、確かに深い淵がありそうに見えますけれど、実体はないのです。実体は水だけです。

「闇が淵の表にあった。神の霊が水の表を覆っていた」とあります。闇(悪魔)はありもしない表に張りついて頑張っている。ありもしないものをあるように考えている。これが淵の思いです。私の気持ちはこんな気持ちだ、あんな気持ちだと考える。自分の気持ちがあると思い込んでいる。これが魂が淵の表にある証拠です。これをやめるのです。

自分の気持ちを自分で握り込んでいる。これほどばかなことはありません。自分の気持ちは悪魔の代弁です。悪魔が皆様の中に入って住んでいるのです。悪魔が住んでいるから、悪魔の思いが停滞しているのです。

神の霊が水の表を覆っている。水というのは目に見えないものです。目に見えないけれどもある。あるけれども、目に見えないものが霊です。肉は目に見えるけれどもないのです。どちらが命の保障になるかです。

神の霊が水の表を覆っていた。ここから聖書の物語は始まっているのです。悪魔が淵の表に頑張っている。そこで、神は悪魔を押さえ込んで悪魔を罰するために、天地を造ったのです。水の表を覆っている神の御霊が働き出したのです。これが天地創造です。

天地創造の原理がはっきり皆様の頭に定着しないと、皆様は命の実体が分かりません。神の霊が水の表を覆っている。これが分かって初めて、「光あれと言いたまいしければ、光ありき」ということが分かってくるのです。

神の言が水を用いて、すべてを造っていったのです。「地は水より出て、、水によって成り立っている」とありますように、天地万物は水によって成り立っているのです(ペテロの第二の手紙3 ・ 5)。

水の表を神の霊が覆っていた。水の表というのは、目に見えない水のことです。淵は目に見える水です。淵は水の裏です。水の表は目に見えない霊なる水です。水の裏は目に見えるのです。そこで、目に見えるものは現われているものから出てきたのではないという、難しいテーマを考えなければならないのです(ヘブル人への手紙11・3)。

物質はどうして生まれたのか。私たちが目で見ているものは、現われているものから出てきたのではないのです。信仰によってそれが分かると言っているのです。

神の言でもろもろの世界が造られている。目で見ているものは、現われているものから出てきたのではない。これが分からない人は、まだ本当の信仰が分かっていないのです。

この文章がなぜ分からないのかと言いますと、今までの物の考え方が皆様を毒しているからです。今までの気持ちが、皆様の魂を押さえ込んでいるのです。これが皆様自身の敵です。

皆様は自分の気持ちで自分が縛られているのです。今までの物の考え方、親の家で大きくなったとか、あそこであんな遊びをしたとか、学校で勉強したとか、社会でいろんな経験をしたとかというのは、全部肉の思いです。

今までの自分の癖を信じたり、自分の感情を信じたり、自分の気持ちや自分の理屈を信じている。これは全部間違っているのです。淵の表の思想だからです。

今まで何十年間か生きていたという思いを、神に渡すのです。霊を渡すのです。霊を渡すことが、十字架を信じることです。イエスは、「父よ、私の霊を御手に委ねます」と言って、息が切れたのです(マタイによる福音書23・46)。

霊を渡していない人は、まだ十字架を受け取っていない人です。だから、救われないのは当たり前です。何十年間かこの世に生きていた。こういう自分を持っている人は、絶対に神の国へは入れません。しかし、人間は神の国に入るために、この世に生まれてきたのです。この世に生きるために生まれてきたのではないのです。

この世に生きていてもいいのですが、この世にいながら神の国へ入ったらいいのです。神の国に入れるのです。皆様が生きていることが神の国です。生きていることの本当の姿を発見すれば、神の国にいることがはっきり分かるのです。

神の国は死んでから入る所ではありません。生きているうちに入る所です。生きているうちに入らなければ、神の国の値打ちがないのです。

今まで自分が生きてきたという思いが、自分自身を殺しているのです。今まで自分が勉強してきたという思いが、自分を殺しているのです。この思いを神に渡すのです。これが霊を渡すことです。

「彼(イエス)の死のように比しからば、甦りにも比しからず」とあります。イエスと同じような死に方をしなければいけない。これが霊を渡すことです。イエスが霊を渡したように、皆様も霊を渡して頂きたいのです。

とにかく、皆様が生きてきたことが嘘です。悪魔の思いによってそう思い込まされているだけです。自分が救われたいとか、自分の信仰を受け取ってもらいたいとかを考えるのは、どうかしているのです。自分はどうなっても構わない。自分が生きていたという事実を神に返すのです。黙って返したらいいのです。そうしたら、自ずから皆様の行状が清くなるのです。

自分の霊を神に渡してしまえば、行状、オールマナーが清くなるのです。これが神が聖であるから、私たちも聖になるという秘訣です。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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