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  • 管理人chaya

絶対に死ぬ命と絶対に死なない命(1)


禅宗の空には祈りがありません。禅の空は思想的な空です。祈りがある空でなければ、命にはならないのです。禅はいいものですが、鈴木大拙氏が禅を歪めてしまったのです。本でいろいろと理屈を書いたので、禅が誤解されてしまったのです。

禅とは、無が働く状態を言います。ただの空になることとは違います。老子の無為が本当の禅でなければならないのです。こういう事を、日本の禅宗は知りません。だから、禅が宗教になってしまったのです。宗教にならない禅はいいのです。宗教は最も悪いものです。

空というのは無が働くことです。これが五蘊皆空の意味です。空と無はどこが違うのかと言いますと、空は人間本来のあり方に帰ることです。五蘊皆空というのは、人間の命の本当の姿に帰ることです。

これは宗教ではありません。禅に、「闇の夜に 鳴かぬカラスの声きけば 生まれぬ先の父ぞ恋しき」という歌がありますが、これが本当の禅です。生まれぬ先の父ぞ恋しきというのが、生まれる前の命の状態に帰ることです。

仏教的な言い方をしますと、前世の因縁に帰るのです。ところが、仏教では前世の因縁の説明ができないのです。前世の因縁とは、前世の命のことです。生まれる前の命です。これに帰ることが本当の空です。これが宗教では説明ができないのです。

禅宗に生まれる前の父ぞ恋しきという歌はありますが、歌の意味を説明することができないのです。最も悪いのは、曹洞宗の禅です。内山興正氏が禅をめちゃくちゃにしたのです。また、澤木興道というお坊さんが京都にいましたが、この人もまた、禅をめちゃくちゃにしたのです。

人間は本来、仏子だから座りさえすればいい。仏子と考えて座りさえすればいいと言ったのです。人間は生きているままで罪はない。生きているままで完全だから、臨済禅のように印可証明を受ける必要はない、座るというだけで功徳がある。一寸座れば一寸の仏、一尺座れば一尺の仏というのです。これが曹洞宗の非常に悪いずぼらな禅です。臨済はそういうことを言わないのです。

曹洞宗の人は自分は今のままで仏の子と思っていますから、命を知る必要があると言っても分からないのです。今のままでいいと思い込んでいるのです。本人がそう思っているから、自分の五蘊が分からないのです。

ところが、五蘊を持ったままの人間がそのままでいいという理屈は、絶対に成り立たないのです。内山興正氏は般若心経を全然信じていないのです。澤木興道氏も悪いのです。こういう非常に悪い所が日本の禅にはあるのです。

自分の思いの中へもぐりこんでしまって、自分は仏の子だと信じ込んで、悔い改めるべき罪もないし、言い現わすべき悪もない。この身このままで仏であるという浄土真宗の悪い所と良く似ているのです。お坊さんにはそういう悪い癖があるのです。

日本には釈尊の悟りはありません。お坊さんの悟りばかりがあるのです。日本の仏教はお坊さんの宗教ばかりになっているのです。本当の悟りはありません。この頃流行している阿含宗も悟りの一種であって、自分の信仰を主張するのです。自分の観念を主張するのです。

皆様に注意して頂きたいことは何かと言いますと、五蘊皆空という事です。五蘊皆空を体得することは、この世に生まれてきた因縁を解脱してしまうということです。そうすると、生まれる前の命に帰るのです。生まれる前の命は神の命であって、死なない命です。生まれる前だから、死ぬはずがないのです。

生まれる前の命に帰ることを、神に帰るというのです。これは絶対に間違いがない命です。アイ・アム・イン・ザ・ファーザー(I am in the father)とイエスが言っていたのは、このことです。この世に生まれてきていながら、父の中へ入ってしまうのです。これが花が咲いている世界へ入ることです。花が咲いている世界とは、前世の因縁の世界です。人間の物心ができる前の命が、花になって現われている。この中へ入るのです。

これは誰にでもできるのです。物心さえ捨ててしまえばいいのです。そうすれば、皆様の生命がそのまま死なない命になっているのです。これは曹洞宗の言い方と非常によく似た言い方ですから、摩り替えられる危険性がありますから、よくよく注意する必要があるのです。どこまでも五蘊皆空を徹底した後に言えることなのです。

曹洞宗のお祖師さんである道元は、澤木興道氏のようなことは言っていません。「生死の内に仏あれば生死なし」と言っています。生死なしというのは、生まれる前のことを言っているのです。曹洞宗ではこの世に生きている状態の生死と言っています。これが間違っているのです。

生きている状態と、死ぬという状態が裏表になっているのです。皆様が息を吸い込んでいる時は生きている。吐く時は死んでいる。死んだり生きたりしながら、人間は存在しているのです。これを生死というのです。

仏というのは、五蘊皆空の実体を言います。この世に生まれてはきましたが、五蘊皆空を悟ると生まれる前の命に帰れるのです。これを澤木興道氏は言っていません。澤木興道氏は空とはからっぽだと言っていました。からっぽだというのは、空が分かっていない言い方です。空とはからっぽではないのです。生まれる前の命に帰ることが空です。

命を知るためにどうしたらいいのかと言いますと、この世の思いを解脱する。物心を解脱するだけのことです。この世で習ったこと、この世で勉強したこと、この世で経験したと思っている事が間違っているのです。

皆様が生かされている命は上等ですが、物心が間違っています。迷いです。皆様の生活は物心によって成り立っていますが、皆様の生存は物心に関係がないのです。生存している皆様と、生活している皆様は別人です。これをよく考えて頂きたいのです。

物心がなければ生活はできません。ところが、生存というのは、皆様の心臓が動いていること、目が見えること、耳が聞こえるということです。お腹が空いたらご飯を食べるということが生存です。

生活は何を食べようか、何を飲もうかと考えるのです。生存は必要欠くべからざることです。生存に欲は全然ありませんが、生活にはいつも欲がついて回っているのです。生存している状態は、人間の生理機能そのままです。また、心理機能がそのまま出ているのです。これが生まれる前の命になっているのです。これを先天性と言います。本能とも言います。本能性、先天性というのは、この世に生まれる前に、皆様に植えられている命の本質です。これをしっかり掴まえるのです。

イエスはそれをそのまま生きたのです。生まれる前の自分を間違いなく見つけたのです。この世に生まれてはきたけれど、この世に生まれていない自分をそのまま生きて見せたのです。

イエスは十字架につけられて一度死ぬような形をとったけれども、死ぬ必要がなかったので復活したのです。死ぬべきものでなかったから、復活した。これが人間歴史の秘密です。

皆様はこの世に生まれて、二十四時間以内にお母さんのおっぱいを飲みました。その時、おっぱいの味を知っていたのです。クモの子が巣を造ります。自分の体の何百倍という大きさのすばらしい巣を造るのです。幾何学的に優れた巣をクモの子が造るのです。どうしてそんなことができるのかと言いますと、生まれる前の能力によってできるのです。これが本能性です。この本能性が死なない命になっているのです。

ところが、この世に生まれたことが業です。この世に生まれると、必ず間違いを教えられるのです。物心が間違いです。そこで、物心を解脱して、生まれる前の清廉潔白な命の状態に帰ることができた人だけが、神のヘルパーになるのです。永遠の宇宙を治める、本当の万物の霊長になるのです。

仏教には万物の霊長になって、神のヘルパーになるという思想がありません。何のために成仏するのか。例えば、ナムアミダブツと言って仏国浄土へ入ったとします。仏国浄土へ入って何をするのでしょうか。この説明ができないのです。

福沢輸吉氏は臨終の時お坊さんに、「もうすぐ息が切れるから、両手を胸の前で合わせて念仏を称えなさい」と言われた。そうすれば、「この世を去る時に、仏さんが迎えに来てくれるから、ナムアミダブツを心から称えれば、仏国浄土へ行ける」と言われたのです。

「仏国浄土へ言ったらどんな仕事があるのか」と聞くと、「仏国浄土は極楽だから、仕事はない」と言われた。諭吉が「何も仕事がないのか」と聞くと、「何にも仕事はないから、ゆっくり休める」というのです。「それなら、極楽浄土へ行くのをやめる、地獄の方がいい。私は仕事がなかったらいる気がしないから、仕事がない所へは行きたくない」と言って、ナムアミダブツと言わなかったという有名な話があるのです。

福沢諭吉氏は訳が分からない男でした。「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と言っていますが、誰がそんなことを言ったのかということです。天は人の上に人を造った。これがイエスです。

彼が書いている「学問のすすめ」という本は、現世だけのことを書いていて、命ことは一つも書いていないのです。一万円札になる値打ちはないのです。世間で有名な人は、皆間違っています。有名な人のいうことを聞いたらだめです。この世に通用することだけをいうのですが、神の前に通用することは言いません。永遠に通用することを言わないのです。

この世に生まれてきたとはどういうことか。肉なるものとしてこの世に来たのです。肉体を持つものとしてこの世に出されたのです。これがカルマです。業です。これを果たさないといけないのです。業を果たすと、生まれる前の命に帰れるのです。これが空です。

五蘊とはこの世で勉強したことです。この世の記憶も理屈も、全部五蘊です。皆様が苦労しているのは、この世に生きているからです。

どうしたら解脱できるのか。皆様の心臓が今動いています。心臓が動いているということは、先天性の命、本能性の命が皆様の中に働いていることです。この本体を掴まえるのです。

この本体を神というのです。生まれる前から神は皆様と一緒にいるのです。生まれた後も皆様と一緒です。生まれた後の神はどうなっているのかと言いますと、潜在意識という形で皆様の中に入っているのです。大手術をしたら分かります。皆様の中に神がいるかどうか、今の医学では分かりませんが、説明はできるのです。それを掴まえたらいいのです。

この世に生まれたという因縁を切ってしまえば、皆様は死なない命に帰るのです。これを業を果たすというのです。あるがままにあらしめる。ありてあるというのが神です。

イエスが十字架につけられたのは、業を果たすためです。十字架によって、すべての肉を否定した。業を消してしまったのです。従って、十字架を受け取ることが、業を果たす一番てっとり早い方法です。

キリスト教では、イエス・キリストの十字架が絶対に分かりません。そんなに偉い人がなぜ殺されたのか。宗教に反対したから殺されたのです。この意味がキリスト教では絶対に分からないのです。

この世に肉体を持ったままで生きていることが間違っているのです。皆様は今、肉体を持っているとお考えになっています。これが常識です。肉体を持っているという感覚が常識です。常識が人間の悪因縁の塊です。

因縁と言いましても、生まれる前の因縁と、生まれた後の因縁とがあります。生まれた後の因縁を悪因縁と言います。人間は悪因縁で生活しています。これが間違っているのです。

生まれる前、前世の因縁に帰ればいいのです。そうすると、神の子になるのです。聖書では前世の因縁を神の子と言います。これは生まれる前の命です。これが前世の因縁です。

皆様はこの世に生活しているのが自分だと思っていますが、これが間違っているのです。生活しているのは、業(ごう)の塊です。この世に生活している皆様は、悪因縁の塊です。これを自分だと思い込んでいると、必ず死ななければならないのです。ただ死ぬだけならいいのですが、この世に生きていて考え違いばかりをしていたのです。考え違いばかりをしていたということのお返しは、絶対に請求されるのです。

私たちの前世の因縁の本性はただの魂です。人間とは違うのです。魂というのは、皆様の目が見えること、耳が聞こえること、五官の働きです。心理機能です。これが先天性の命です。これをどのように使うかです。

命が魂の本体ですが、魂の本体が人間になってこの世に生まれてきて、どのように魂を使うかを神が見ているのです。皆様と一緒に見ているのです。だから、誤魔化しはできないのです。日本の税務署は皆様と一緒に住んでいませんから、誤魔化しができるのです。しかし、神は二十四時間中皆様と一緒にいますから、誤魔化しはできないのです。

冷静に、子供じみた気持ちで、素直になればいいのです。この世に生きていて、この世で覚えた人間の業の感覚を、相手にしないという方法を取ればいいのです。

どうすればいいかと言いますと、自分のことを一切考えない。自分の今までの利害得失を一切考えないのです。自分が生きているということに、心理機能や生理機能が働いているということに目をつけるのです。これが第一です。心理機能や生理機能は自分で造ったものではありません。与えられたものです。ここに目をつけるのです。

自分の考えは五蘊です。般若心経は五蘊皆空を教えているのです。般若心経だけではいけないのです。この世に生まれた後の物心が間違っていると言っていますが、これが分かってどうするかが書いていないのです。

これを教えるのが新約聖書です。女性が生きている状態の中心を正しく見ると、そこに新約聖書が現われることが分かるのです。女性が生きている土台の感覚がすばらしいのです。人の世話をする。人に仕えることが女性の喜びです。このことが、般若心経には書いていないのです。

自分の常識を捨てた後にどのように生きるのかと言いますと、命に仕えるのです。神に仕えるのです。神と言っても、命と言っても同じです。太陽が輝いていることに仕えるのです。花が咲いていることに仕えるのです。花に水をやることも仕えることですが、咲いているという事に仕えるのです。そのことと一つになるのです。太陽が輝いていることの中へ、自分の命が入ってしまうのです。これは生まれる前の命を会得すればできるのです。

まず五蘊皆空から始めて頂きたいのです。空というのは、生まれる前の命に帰ることです。これは現世の人間から考えると無になりますが、無が働いていることが無為ですが、これが空です。無為は老子の哲学ですが、老子と釈尊の関係はこういう事になるのです。

本当の命を見つけて、本当の命に生きるというのは、単純明快なことです。生け花の勉強の方がよほど難しいのです。鼻から息をしているということが、皆様の本当の命です。これは自分がしていることとは違います。皆様は自分で鼻から息を出し入れしているとは思っていないでしょう。勝手に息をしているのです。これが命です。

この世の経験の長い人は、自分を捨てることがなかなかできません。それを捨ててしまったら、自分の命がなくなるような気がするからです。この世に生まれてきたのは業ですが、それを捨てたらいいとは簡単に思えないのです。それが、この世に生きていた業のしるしです。捨てようと思えないし、簡単に捨てられるような気がしないのです。それが業です。

一番分かりやすく言いますと、鼻から息を出し入れしている自分がいます。これがザ・リビングです。生きているという事と、自分という人間とは何の関係もないのです。これを分かって頂きたいのです。

自分が何とかしなければならないと思う。自分が悟らなければならないと思う。それが間違っているのです。自分が悟ったらいけないのです。自分は消えてしまわなければいけないのです。

人間のリビングということが、そのまま自分の命です。道元はそれを言っているのです。リビングがそのまま仏子です。仏の子であると言っています。澤木興道氏はこの世に生きている自分が仏子だと言っている。これは大間違いです。

仏法はいいのですが、仏教が間違っているのです。仏教にはお祖師さんの宗教はありますが、釈尊の本当の悟りはありません。仏教は分かりもしないことを分かったように言うから間違っているのです。仏教ではこういうことは間違いかもしれませんと言って教えればいいのです。仏教がそのように正直に言うのなら、私は仏教の悪口を言いません。仏教が完全なもののように言うからいけないのです。

この世に生きていることが業です。この世で色々勉強した事が、実は自分の中に業を積んでいたのです。

ルネッサンス以降の文明は完全に間違っています。ユダヤ人がイエスをキリストであることが信じることができないので、イエスをキリストと信じなくてもいいような理屈を考え出した。これがルネッサンスです。人権主義、民主主義です。

民主主義はこの世に生きている人間を認めるのです。これを認めると、人間は必ず死にます。この世に生まれてきて、この世に生きていた人間を認めると、人間は必ず死ぬのです。この世に生まれた自分を自分だと思い込んでしまうと、その人は死ぬに決まっているのです。

ところが、生まれる前の自分が自分だと分かりますと、この世に生まれて死んでしまう自分とは、関係がないことが分かるのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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