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  • 管理人chaya

肉体は人間ではない


愛とは何か。イエスは、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」と言っています(マタイによる福音書22・37)。

主なるあなたの神を愛するとは、どういうことを意味するのか。これはあらゆる意味で、今まで皆様が勉強してきたことと、次元が違うのです。これがなかなか分からないのです。

神を愛するというのは、神だけを愛するのであって、そのために色々なことを勉強してきたのです。色々なことを教えられてきたのですが、主なる神を愛するとなると、全く次元が違うのです。ここに聖書の本当の難しさがあるのです。

神を愛するということは、人間世界の問題とは違います。私たちは現世で愛を経験していますけれど、これは人間相手のことです。愛を経験して、愛の本質をじっと見ていきますと、神を愛するとはどういうことかが、だんだん分かってくるのです。これが分かる人は非常に少ないのですが、これを掴まえそこなったらもうだめです。

福音はルーテルやカルビンが言っているようなものとは、全然違います。ローマカトリックが言っているようなものでもないのです。キリスト教全体が言っているものとは、全然違っているのです。

聖書は人間を認めていません。これは何回聞いても分からないことです。人間を認めていないということは言葉では分かりますが、皆様の気持ちとしては分からないでしょう。だから、皆様は人間であることを前提にして愛を考えているのです。これが間違っているのです。

人間どうしの愛はありえますけれど、それは神への愛のステップ、踏み台としてありうるだけのことです。愛というのは、本来人間のものとは違います。人間が愛し合っても、何の意味もないのです。マイナスがあるばかりです。

愛し合うことによって、愛の真髄にふれることはあるでしょう。愛は経験する以外の方法では触れられません。人間の中の愛は最も高く評価されているのですけれど、それでもまだだめです。なぜだめかと言いますと、人間がいることを認めているからです。

どんなに高い神学でも、どんなに高い信仰でも、一切だめです。なぜだめかと言いますと、人間がいることを認めているからです。そのために、愛の勉強をするのです。女性の勉強が必要です。大体、女というものはありません。ないから仮に女としての発想を目の前に見せているのです。それによって何かを学ばせようとしているだけのことです。

皆様が異邦人であるというのは、非常に大きいハンディキャップになっているのです。マイナスです。それを欧米人は知らないのです。もし皆様が血統的に優れたユダヤ人であったらよかったのですが、残念ながら日本人です。このことを良く弁えて、自分を解脱しなければいけないのです。

私たちは、六千年の間、歴史の中で誰もしなかったことをしなければいけないのです。イエスがいた使徒行伝の時代に、イエスとイエスの弟子たちが経験した神の国を、私たちは教えられつつあるのです。そこへ入らなければならないのです。無理に入りなさいとは言いません。無理に入ろうとしてもだめだからです。

異邦人は元々地獄へ行くのが運命です。末の時代に神が私たちに提示している条件を完全に呑めるかどうかです。完全に呑んでしまおうとすれば、思い切って自分を解脱しなければいけないのです。

神がノアの洪水までに造った人間は、非常に高い標準の人間です。例えば、アベルの信仰を見ても、また、エノクの信仰を見ても、彼らの信仰は神と同じ水準になっているのです。人間から出てしまって神に届いているのです。これでなければいけないのです。

人間の証をいくらしてもだめです。どんなに聖書が分かっても、人間の証です。キリスト教程度です。

聖書の奥義を知ることができる人は、選ばれている人でなければだめです。選ばれている人というのは、自分の人生があっても、それにどうしても本気になれない人です。まだだめだ、まだだめだと思えるのです。その目的はどこにあるのかと言いますと、聖書の中に入りたいという気持ちなのです。現在の信仰が良くても悪くても、どうでもいいのです。とにかく神にむしゃぶりついていくだけでいいのです。

イエスとイエスの弟子以外の人が言っていることは、参考にはなりますけれど、当てになるようなことは一つもないのです。

日本の歴史は千五、六百年くらいのものですが、こんなものは歴史と言えるほどの値打ちはないのです。その中で、徳川時代の女という特殊な人格があったのです。日本の歴史の中で、聖書的に取り上げられるとすれば、徳川三百年の間の女だけです。

これはマタイによる福音書の五章から七章にある山上の垂訓の教え、例えば、誰かがあなたの右の頬を打つなら左の頬を向けよとか、誰かがあなたを一マイル行かせようとするなら、その人と二マイル行きなさいとか、下着を取ろうとする者には、上着も与えなさいというイエスの言葉を、徳川時代の女は実行していたのです。異邦人の分際でありながら、山上の垂訓を黙って実行したことは、驚くべきことです。

今の皆様には、それができないでしょう。まずそれができる人間になることです。徳川時代の女の真似をする人になって頂きたい。まずここから始めるのです。

右の頬を打たれたら左を向ける。まずこれを実行するのです。徳川時代の女の見事な姿勢は、意識せずに実行していたのです。皆様は意識してこれをして頂きたい。これができないようならだめです。

とにかく、こんな離れ技をしたのは、日本の女だけです。神はそれを知っています。ですから、私たちに神から聖書の奥義が開かれて、水と霊によって新しく生まれて、神の国に入れという厳命を与えているのです。神の国にはっきり入ってしまいなさいと言われているのです。そのためには、まず徳川時代の女になることです。

服従というのは、神の御心をよく知って従うことですが、初めからそれはできないのです。初めは黙って盲従するのです。盲従している間に、分かってくるのです。服従している方向へ引っ張っていかれるのです。

人間関係でもこれが言えるのです。女は黙って男の愛に服従していれば、初めは何かさっぱり分からないのですが、服従している間に、ああこれが黙ってついてきなさいと言われたことかと、だんだん分かってくるのです。これが女の分かり方です。これが必要です。

陥罪の結果、神が女に罰則を与えた。まず第一に苦しんで子供を産むということです。苦しんで子供を産むというのが、徳川時代の女のあり方です。なぜ苦しんで子供を産まなければいけないのかと言ったら、もうだめです。黙って、苦しんで子供を産んだらいいのです。

その次に、夫はおまえを治めるであろう。それでもなお、おまえは夫を慕うであろうと言われている。そんなばかなことを言っているのです。実際この世は悪魔によって成り立っているのであって、この世の男性は皆悪魔の化身です。悪魔の化身に従わなければならないのが、女の運命です。これが徳川時代の女です。

この世を造っているのは男です。この世に生きている間は、女はこの世の男に従わなければならないことになっているのです。エデンの園において、女がアダムに善悪を知る木の実を食べさせたからです。ところが、ぐずぐず文句を言って、主人が分かってくれないからとか、同情してくれないという。これでは徳川時代の女にはなれないのですから、だめです。とにかく、徳川時代の女が基準になるのです。貝原益軒の「女大学」に言われていますが、今の女性はこれが嫌いなようです。

女が黙って神の仕置きを受けていると、今度は男が救われることになるのです。女は自分で善悪を知る木の実を食べさせたのです。男が救われるような導火線を模範的に示すことが、女の役目です。そこで、苦しんで子供を産みなさい。現世で夫に従いなさいと言われているのです。これは嫌な事ばかりです。

実は男がそう言われているのです。本当は男が苦しんで子供を産まなければいけないのです。神という夫に仕えなければならないのは男です。女に対する厳命は、実は男に対する厳命です。こういう考えを持たなければならないのです。

女には二種類あるのです。ある女と一緒になると、だんだん家が栄える女がいます。逆に、ある女と一緒になると、だんだん家が滅びる女があるのです。女の良し悪しは、男の運命を一変するのです。これは世間並の男のあり方を言っているのです。

女が今、矛盾の中に突っ込まれているのですが、女がその矛盾を黙って呑むことによって、男が女になって、自分に与えられている矛盾を呑むことができるようになる。苦しんで子供を産めというのは、男に対する命令です。

女は愛する人に求めたら、何でも与えられるのです。男も又、そうでなければならないのです。男がもし神を愛しているとすれば、神に求めたら何でも与えられるのです。これができるような見本を、女が男に示さなければいけないのです。

エノクは三百年の間、神と共に歩んだとあります。この実績はすばらしいものです。エノクは現世において、神の国に入っていたのです。神と共に歩むというのは、神の国に入る事を意味するのです。

女の場合、黙って従えばいいのですけれど、いつまでも黙って従うことは難しいのです。徳川時代の女は従い続けていましたけれど、個々に喜びがあった訳ではありません。だから、信仰の徳、霊魂の徳が与えられていません。

霊魂の徳が与えれていないとすれば、いくら行いが正しくても、自分の魂に徳がありませんから、神を誉めることができないのです。だから、救われません。

皆様は黙って実行しなければならないのです。不平不満のままで実行しても、自分の魂に徳が与えられませんから、いつまでも神に栄光を帰すことはできません。女が絶対服従しなければならないことについて、また、人間が鳥や獣と同じような位置づけをされたことについて、なぜそうなったのかを良く弁える必要があるのです。

エノクやノアまでの状態では、人間は鳥や獣と一緒ではなかったのです。ところが、人が皆その道を乱したので、人間の位置が転落してしまったのです(創世記6 ・ 5~7)。

自然人たちはアダムの子孫の美しいのを見て、自分の妻とした。その時、セックスが欲望に変わったのです。本能性を欲望性に変えてしまった。これは恐るべき間違いです。とんでもない間違いをしてしまったために、神は男と女を獣と同じ位置に置かなければならないことになったのです。そこで、人間を滅ぼすと同時に、獣も滅ぼさなければならなくなったのです。

これは人間のためです。本能が欲望になったからです。皆様の生活でも、もしセックスが欲望になっているとしたら、どうしたらいいのかという問題です。これに対してはっきり答えを出さなければいけないのです。信仰が分かっていないから、こういうことになるのです。

聖書に次のようにあります。

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来たる者は、神のいますことと、ご自分を求める者に報いて下さることを、必ず信じるはずだからである」(ヘブル人への手紙11・6)。

神がいますことを信じるという箇所を英訳ではmust believe that he is となっています。イズ(is)という訳は本当に難しいのです。イズをどう訳したらいいのか。神がいますと訳しても、全くの誤訳とは言えないのです。しかし、正訳とも言えないのです。

神がいますことを信じなければならないとありますが、神はどこにいますかということです。神がイズであると直訳しても、神がいますと訳しても、実は同じことです。神がいますと訳しても、まんざら間違っているとは言えないのです。

神がいますというのは、神がいることを信じなければならないのですが、神がいるというのは、どこにいるのかということです。そうすると、that he isは同じことになるのです。

信仰がなければ、神に喜ばれることができないとありますが、これは言葉を変えれば、神を喜ぶことができないとなるのです。信仰がなければ、神を喜ぶことができない。信仰があれば、神を喜ぶことができるのです。人間的に言うと、本当の信仰がなければ、神を喜ぶことができないのです。

今の人間が堕落した原因は何か。皆様は木下順二氏が書いた戯曲の「夕鶴」をご存じでしょう。この戯曲は鶴の恩返しを題材としたものです。女性は、本来、夕鶴のおつうのような気持ちを持っているのですが、それが現在ではだめになっているのです。

だめになったままではいけない。もう一度おつうの気持ちにならなければいけないのですが、どうしてそうなったのかと言いますと、皆様が肉体があると思っているからです。

結婚するまではそうではなかったのですが、結婚してしまうと、肉体があるということを強く意識し始めるのです。肉体がある女になってしまうのです。良かれ、悪しかれ、セックスを肉体的なもののように考えてしまうのです。自分に対してなされる男の行為を、肉体的なものだと思い込んでしまう。それは本人が肉体意識を持っているからです。それが間違っているのです。

本来、肉体人間はいなかったのです。神が造ったのは、リビング・ソール(生ける魂)であって、肉体人間ではありません。

肉体人間ができたのは、ノアの洪水直前です。肉体的人間を人間とするのは、ノアの洪水以後に、人間がすべての獣と同じように取り扱われるようになってからです。これは洪水以前の人間とは本質的に違うのです。

洪水の時に、人間の本質が変わってしまって、鳥、獣と同じレベルになってしまったのです。そこで、神は人間を初めとして、鳥や獣もすべて滅ぼしてしまおうと決心したのです。人間自身が、鳥、獣と同列のあり方になってしまったからです。

今の人間に肉体があるとすれば、獣と同じになるのです。したがって、セックスが欲望になるのです。これだけならいいのですが、今の人間はいっぱしの理屈を言い、神なんかあるもんかと堂々と言っているのです。

食べたいものを食べ、したいことをしている。洋食を食べたり、中華を食べたり、和食を食べたり、シーフードを食べたり自由にしているのです。車を運転したり、電話をかけたり、パソコンを使ったり、テレビを見たり、飛行機に乗ったりしている。こんなことを鳥や獣がするのでしょうか。

人間が衣食住において、自由が与えられているという事は、恐ろしい事です。これは神と同質の権利を与えられているということです。

神が肉体を持っていたら、人間と同じような生活をするでしょう。これはイエスが示したとおりです。イエスは神と同じでした。イエスは人間が生きているのと同じ姿であった。しかし、イエスの方が普通の人間よりももっと貧弱だったのです。

神が肉体を持ったとしても、人間ほどの贅沢はしないのです。今の人間は食べたいものを食べ、着たいものを着て、行きたい所へ行っている。こういう事に対する支払い、代償はどこでするのでしょうか。

肉体を持っているという点では鳥や獣と同じですが、人間のような生活はできません。人間は肉体を持っている上に、衣食住の自由があるのです。これは人間から見ると大変なプラスですが、神的に見ると大変なマイナスです。

食べたいものを食べ、行きたい所へ行く。テレビを見たり、インターネットをしたり、ゴルフをしたり、海外旅行をしている。こういうことが、なぜ人間に許されているのか。これは神を知ることを前提にして許されているのです。

これに対するお返しを、いつ、どこでするのかです。つまり、神を喜ぶために、神が人間に栄光と誉れを与えているのです。ところが、人間は神を全然喜ばなくて、肉の欲望を喜ぶために、栄光と誉れを悪用しているのです。人間である権利を振り回して、したいことをしている。これがどれだけの罰則に当たるのかを、よく考えて頂きたいのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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