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超然たる機能になる


人間は万物の長となるために、栄光と誉れを与えられているのです。ところが、万物の長となる考えを持たないで、ただ自分がしたいことをしている。これがどういう恐ろしい結果を生むかです。

神の御名を逆用して、自分のわがまま勝手なことをしている。これで地獄がないと言えるのでしょうか。地獄がないという方がよほど無茶です。もし地獄がなかったら、人間の傲慢無礼な態度は、一体人間にどれほどの権威、勲があってできると思っているのでしょうか。

寒ければ寒いと言い、暑ければ暑いという。不平不満で生活している。このような傲慢無礼に対して、霊魂はどのような責任を持たなければならないのだろうか。

神の栄光をどのように賛美するのか。自分の生活において、神を賛美しなければいけないのです。私たちは栄光と誉れを与えられているのですから、自分に与えられた栄光に基づいて、神の栄光を賛美しなければいけない。これができているかどうかです。

エノクは三百年間神と共に歩んだ。三百年間の間、神を褒め続けていたのです。だから、神に褒められ続けていたのです。これは有難いことです。エノクと同じような生活をしたいと思ったら、もっと積極的に勉強して頂きたいのです。

今の夫婦の肉体があるということが、当たり前のようになっているのです。昔の日本の女性は、肉体があるという意識を持っていなかったのです。だから、男女の交わりについて、疑問を持っていたのです。

女の人は娘時代のことをよく考えると、本当のセックスをどのように考えたらいいかが、分かっていたはずです。結婚すると皆堕落してしまうのです。男と女の関係は肉体的なものだと思ってしまうからです。肉体的なあり方にならざるを得ないということはあります。人間どうしが愛し合えば、肉体的なあり方にならざるを得ないということはあります。しかし、それは肉体というべきものではないのです。

人間の愛というのは、肉から出発しているのではない。肉体に触られると、肉体を触られたと思っている。これが間違っているのです。皆様の肉体はないのです。肉の形で霊があるのです。これが分からないのです。堕落しっぱなしになっている。男も悪いし、女も悪いのです。

そういう悪いままの状態でいたのでは、とても携挙されません。自分の肉体があると思っている状態では、キリストの復活の栄光体にあやかることはできません。「瞬く間に、一瞬にして変えられる」とあります(コリント人への第一の手紙15・50)。肉体があると思っている人は、絶対に携挙されません。肉体があると思うことが間違っているのです。第三の天にいるイエスに肉体があるのでしょうか。肉体があるままで天へ行けると思っているのでしょうか。

私が言うことは、世間的に考えると全くの気違いの考え方です。世間の標準から考えれば全くの気違いです。肉体を持っていながら、肉体がないと言っているのですから。ところが、気違いにならなければ、神と共に三百年間生活することはできないのです。

肉体がないということは、現在の理論物理学でも証明できるのです。電気のエネルギーが肉体になっている。人間から電気を抜いてしまえば、肉体は存在しないのです。肉体は原子の集合体です。原子は電子の運動によって成立しています。原子核の回りを電子が、一秒間に一億四千五百万回も回っている。もし電子が運動をやめれば、人間の肉体は瞬間的に消滅してしまうのです。

この原理を応用したものが原子爆弾です。広島、長崎に投下された原子爆弾が、いみじくも物質がないことを証明しているのです。

分子生物学から見ても、人間の肉体という固体が存在しているのではない。ただ分子の集積の密度が高い部分が肉体であり、密度が薄い部分が非肉体です。肉体と非肉体は、分子の密度の濃いか薄いかの違いだけで、その境はないのです。冷静に、平明に、綿密に考えれば、肉体がないということは誰でも分かるはずです。ところが、人間は肉体があると固く信じている。これを妄念と言わずに何と言ったらいいのでしょうか。

エノクは三百年間、神と共に歩んで、男子と女子を産んだと書いています(創世記5・22)。これをどう考えるかです。エノクは六十五年間、肉的に歩んでいた。霊的に生きたのは三百年です。霊的に生きるようになって、なお男子と女子を産んだと書いています。神と歩みながらのセックスがありうるのです。

瞬く間に、一瞬にして変えられる。イエスの復活の栄光体に変わってしまうのです。今までの夫婦の状態を認めていると、二人共だめになるのです。

私たちの考え方の土台が、全部変わってしまわなければいけないのです。神と共に歩むことになりますと、悪魔と共に歩んでいた生活が消えてしまうのです。悪魔と共に歩むというのは、肉の思いで生きるのです。肉の思いで生きていると、肉体はありますから、この感覚で生活していたら、エノクは絶対に天へ行けなかったでしょう。

肉体があるエノクが、肉体がないという信仰によって生きることができた。エノクができたことが、なぜ私たちにできないのでしょうか。

人間のあり方が根本から間違っているのです。結婚するまでの女は、率直に、また聰明に、自分の肉体がないことを知っているのです。女が待っている結婚と、男が待っている結婚とは、全然違います。私は女ではありませんが、女の考え方が分かるのです。結婚前の女の心理状態になって考えてみると、結婚とは何となまぐさいものかと思うでしょう。昔の女性は、全然考えていなかったのです。なまぐさい行動に困惑したのです。逃げる訳にもいかないので、当惑していたのです。

マリアも身ごもった時に、当惑したのですが、女性は結婚して、大なり小なり当惑を感じるのです。嬉しさもありますが、当惑することもあるのです。

現代文明は、人間を根本的に打ち壊してしまったのです。人類を肉の中に追い込んでしまったのです。そうして、人間の思考能力を、肉から出られないようにしているのです。私はそれに猛烈に逆らっているのです。本来の人間はそういうものではないことを、しきりに言っているのです。

皆様は肉体人間に基づいて考える習慣がついてしまっているのです。その習慣のために、自由に考える力がなくなっているのです。

皆様の魂は肉の思いで束縛されているのです。神を気楽に楽しむことができなくなっているのです。自分自身の肉の思いで、自分自身を束縛しているからです。これを断ち切ってしまうのです。

肉はない、肉はないと自分に言い続けるのです。言い続けると御霊が少しずつ助けてくれるのです。自分の力で何とかなると思ったら絶対にだめです。何ともならないからです。

信仰は戦闘的に実践すべきです。神の御霊を背景にして、戦闘的に実践するのです。自分の気持ちを無視するのです。自分自身の生活の習慣を叩き割るのです。自分の気持ちを自分で破ってしまうのです。これをどんどん実行するのです。

戦闘的実践がなかったらだめです。携挙されるかされないかは、千載一遇の兼ね合いです。皆様はどうも携挙をいい加減に考えているからいけないのです。神の救いを受けるということは、イエスが変貌山にいた時のような心境でなかったらいけないのです。

イエスは生きているうちに、神の国に入ってしまったのです。だから、死んでから復活したのです。生きているうちにエノクのような生活を実行するのです。子供を産んだらいけないと言っているのではありません。エノクをご覧なさい。男子と女子を産んだと書いているのです。エノクの方が皆様よりたくさん産んでいるのです。エノクはいわゆる禁欲主義者ではなかった。堅物人間ではなかった。非常に話せる男だったのです。自由自在だったのです。

本当に神を生きるというのは、宗教とは全然違います。もっと求め方が戦闘的でなければならないのです。皆様の求め方が生半可です。世間の人ができない事をするのです。人々から気違いと言われる人間でなかったら、とても空中でキリストに会うことはできないのです。

テサロニケ人への第一の手紙の第四章を読んでみて下さい。次のように書いてあります。

「すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初に甦り、それから生き残っている私たちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう」(4・16、17)。

空中にて主に会い、ずっとそこにいると書いているのです。それくらいの度胸がなかったら、とても千年の間キリストと共に王になるという事はできないのです。

皆様は世間の人間とは違います。これをよく考えて頂きたいのです。戦闘的に果たし眼になって頂きたいのです。

信仰は本質的にマラソンみたいなものです。人間がこの世に生きている事がマラソンです。普通の人間なら、この世に生きていて、この世の道路を走るのですが、私たちはこの世に生きていながら、天への道を走るのです。天への道を、毎日、毎日走り続けて、上っていかなければならないのです。天への道をどれだけ上っているかは、自分で分かるのです。そういう走り方をして頂きたいのです。

信仰はマラソンです。マラソンというのは孤独との闘いです。自分との闘いです。もう止めようと思うことが、何回あるか分かりません。もう止まろうと思うのです。一体こんなに苦しんで何になるのか。誰のために走っているのかと思うのです。

信仰もこれと同じです。分からない、分からないで、もうやめようと思うでしょう。そう思うに決まっているのです。

普通に生活していたのでは、とてもエノクと同じ生活はできないでしょう。エノクと同じ生活をしようという勇猛果敢な、無鉄砲な考えがなかったら、とてもエノクと同じようにはなれないでしょう。

皆様の本当の命は始まっていないのです。まず夕鶴のおつうの気持ちになることです。神のために損をするという気持ちです。黙ってキリストのために損をするのです。そうすると、分かってくるのです。主人が織れ織れというのですから、自分の羽を抜いても着物を織るのです。そうすると高く売れるのです。主人がもっと織れ、もっと織れというのですから、だんだん織っていくうちに、鶴の羽がなくなってしまうのです。本当の愛はこういうものです。

女の人は現世において、愛の対象になる人格に対して、おつうのような態度がとれるのです。男性は神に対してそれをしなければいけないのです。女の人が男に対してそういう態度を取るなら、男は神に対してそれをしなければならないのです。神に対しておつうになりきってしまわなければいけない。ここが難しいのです。

女の人はハートがあるからいいのですが、男はハートがないのです。ハートがないものが、それをしなければならない。どうしてもしなければならないのです。

女の人は自分の羽を抜いて衣を織ることに、喜びを感じているのです。男の場合はそういうものがないのです。男の場合は神に協力する、信仰によって生きることができるようになりますと、ハートが自分の内に醸成されてくるのです。

女の場合は、鶴が人間になって男と結婚するという芸当ができるのです。ところが、男はできないのです。なぜできないのかと言いますと、人間がいると考えている。この世に生きている人間がいると考えている。この世に生まれた自分がいると考えている。これが男の根本的な欠点です。

女は自分がいると考えても、なお、現世において中心になるべきではないと考えている。だから、女の自我意識はたかが知れているのです。強引に曲げることができるのです。男の場合は、強引に曲げると折れてしまうのです。これが男の欠点です。

女の人は普通の人でもおつうになれるのです。男はおつうになれません。それをしようとすると、初めから自分を捨ててしまわなければいけないのです。

男はおつうの真似をしようと思ってもだめです。ハートがないからです。だから、初めから自分を捨ててしまわなければならないのですが、捨てることができない。そこでどうなるのかと言いますと、神の約束の根源を知ることです。創世の原理に従って、自分を見るのです。そうして、天地万物があるということが、自分がいない証拠であるということがはっきり分かってくるまで、勉強するのです。これができなければだめです。

女の人はただついていけばいいのです。男は自分自身の自信、プライド、理知性を徹底的に消してしまうことができるまで、神の言葉に精通しなければならないのです。

エノクが神と共に生きたのは、神そのものを十分に弁えたからです。神と共に生きるということをよく考えて頂きたいのです。

エノクは神と共に三百年生きた。この短い言葉を読んでみると、エノクがどれほど神を知っていたのか。また、神に知られていたのかが分かるのです。神に喜ばれていたエノク、神を喜んでいたエノク、自分とは何の関係もない人生を、エノクははっきり見ていたのです。それくらいの男でなかったらいけないのです。

神の創造の裏表がすっかり分かる人間でなければ、自分を捨てることはできません。自分自身の論理から、すっかり抜けてしまうのです。女の人はただついていくという方法がありますが、男にはそれがありませんから、上へ抜けてしまうしか方法がないのです。

肉体人間がいるという生活意識が間違っています。これは男も女も同じです。男の場合には、それに責任感が加わらなければいけないのです。ただ自分がいないということが分かっただけではいけないのです。自分がいないということを確認すると同時に、神を喜び、神に喜ばれること、さらに現代の歴史に対する、現代の文明に対する責任を持とうとすることです。あえて責任を私に与えて下さいと神に願うことです。

間違ったユダヤ人問題を、自分の心で解決しようという、心からの誠意を持つこと、自分の意志を全く捨ててしまうことです。こういうことができる男でなければ、エノクのようにはなれないのです。

男は女の勉強をすることが一番大切です。女は結婚前の自分に帰ることが必要です。男の場合でも、それが言えるのです。結婚前に女が持っていた清純な感覚は何であったのか。これが本当の愛でした。本当のセックスでした。

今からでも遅くない。一度落ちるところまで落ちて、また、引き上げられたらいいのです。神はいと低き者を、いと高き者にすると言っているのですから。

イエスは十字架にかかって、人屋(ひとや)にまで下ったのです。どん底まで行ったのです。どん底まで行って、一番頂上まで行ったのです。私たちもそのようにすればいいのです。少しも恐れる必要はありません。真心さえあればいいのです。

創世記一章二節を、穴があくほど読んで頂きたいのです。この原理が分からない人は、信仰のマラソンはできません。日本人である皆様が、キリストの花嫁になれるということは、普通の人間ではとても考えられることではないのです。皆様はただの異邦人です。それが神の宇宙経綸の参画者になるのです。神と一緒に宇宙を経綸する参画者になるのです。

神と一緒に天地万物を支配するというその責任を、神に分けてもらうほどのすばらしい人生を掴まえようとしているのであって、とても人間が考えられることではないのです。

聖書の救いは、人間が考えているような救いとは全然違います。神と共に、天地万物を支配する。さらに、神がこれから太陽系や銀河系を支配しようという遠大無限、悠久無双の神の経綸に参画して、宇宙的な大仕事をしなければならないのです。

聖書の言葉は、今までの自分を持っていたのでは絶対に実行できません。今までの自分が聖書の勉強をしようと思うことが間違っているのです。

自分が救われたいと思うことがいけないのです。自分が救われるも救われないもない。自分はどうでもいいのです。

命の言葉である聖書に、人間完成への唯一の見本が示されている。人間完成が聖書として現われているのであって、自分を完成することとは違うのです。

人間完成という言葉は、人間が完成されることではなくて、神が人間を造った目的が完成されるのです。自分という人間に関係がないのです。良かろうが悪かろうが、自分に関係がないのです。聖書が自分自身になってしまった人だけが救われるのです。

人間から言えば、人間が完成される必要はありません。人間は獣と同じグループの動物ですから、救われなくてもいいのです。死んだらいいのです。

神が人間を造ったという不思議なことがあるのです。御座の回りに二十四の位がある。これが人間がいるということであって、自分がいることとは関係がないのです。

御座の回りには四と二十の位があるのです。四と二十の位があるということが、自分なのだということが分かればいいのです。そうすると、四と二十の位が何をしなければならないのかが分かるのです。

自分が救われるのではない。救われるというのは、聖書に書かれている四と二十の位が完成することなのです。神の位の回りにあることが成就することであって、この世にいる自分が救われることではないのです。御座の回りにある四と二十の位がどうならなければならないかが分かってくるのです。

人間はただの機能です。神もただの機能です。これは大変危険な言い方になりますが、神はただの機能です。悪魔は人格です。これは大変な事です。人格を重んじる人間は全部だめです。悪魔の子だからです。

宇宙の機能が神です。実は宇宙の機能がおのずからという絶対人格です。おのずからというのは人間が考える人格とは違います。神は機能的人格であって、宇宙全体をひっくるめて、厳然とあるのです。天然自然、おのずからは大きいものです。これが分からないのです。

ただの人格は全部悪魔です。神が現世で人格を持つとすれば、その神は悪魔です。

宗教の神は人格があるのですが、ありてある神は人格がないのです。絶対です。絶対に人格があるのでしょうか。絶対というのは超然たる機能です。

私たち自身が超然たる機能になることができたものだけが、神に同化することができるものになる。そこで、救いが消えてしまうのです。

哲学的に言いますと、悪魔は人格を意味するものであって、神は機能を意味するのです。人格を尊ぶのは皆悪魔です。日本民族とか日本精神というのは、人格です。これは全部悪魔です。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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