top of page
検索
  • 管理人chaya

黄泉(よみ)の世界


私たちは霊について、あまりにも知らなさすぎるのです。肉の思いで生きているのですから、霊について知るところが非常に少ないし、また、不正確であることになるのです。しかし、聖書を勉強している人は、「肉の思いは死である」(ローマ人への手紙8 ・ 6)ということは、論理的に良く知っているのです。知ってはいるけれども、肉の思いという言葉の意味がなかなか分からないのです。

例えば、肉欲とか貪欲、人を憎むとか恨む、嘘を言うことが肉の思いであることはすぐに分かるのです。それは肉的に罪を犯すとか、肉の思いで積極的に悪いことをするとかという意味での肉の思いです。肉がそのまま欲になって狂い回っている状態です。

「肉の思いは死である」というのは、そういうことではないのです。現象意識によって見ていること、般若心経でいうところの五蘊の意識によって見ていること、人間の常識、知識に基づいて見ていることが肉の思いです。

世間並の人間が世間並に生きているのは、すべて肉の思いで生きているのです。これが死んでいるという事なのです。

現在の人間は死んでいながら、死んでいることを知らないのです。死んでいながら、死んでいるという霊の状態を知らないのです。死んでいながら死んでいるという霊の状態を認識していないということは、眠っているということです。これが、エペソ人への手紙の五章十四節で言われている、「眠っている者よ起きなさい。死人の中から立ち上がりなさい」という言葉になっているのです。

眠れる者よ起きよというと、ただ眠っているだけかと思うのです。ところが、眠っている人の方が死んでいることよりも、まだ悪いのです。

眠れる者よ起きよと言っています。その次に死人の中から立ち上がりなさいと言っています。そうすると、眠っている者がまず目を覚まさなければ、死人の中から立ち上がれないのです。だから、眠っている者がまず起きなさいと言っているのです。まず起きることから始めるのです。それから、死人の中から立ち上がるのです。

ところが、現在の人間は肉の思いで死んでいることが分からない。これが眠っていることです。死んでいながら、死んでいることが分からない。これが眠っているということです。

眠っているというのは、黄泉(よみ)にいることです。今の人間は黄泉に入っているのです。霊的に死んでいながら、死んでいる事実を認めていない。肉の思いが分からないからです。今の人間は死が分からないし、肉の思いも分からないのです。自分自身の霊の状態がどういう状態か全く分からないのです。これが黄泉にいる状態です。

黄泉にいるというのは、脈拍が止まって、医者が見放してしまって、お葬式が終わった状態にいるのです。これが眠れる者という意味です。現在の人間は全員黄泉にいる。だから、自分の悪さが分かっていない。従って、自分の思いから解脱することがなかなかできないのです。自分の思いというのは、黄泉にいる亡者の思いです。

聖書に次のように書いています。

「さて、一同はゲッセマネという所に来た。そして、イエスは弟子たちに言われた、『私が祈っている間、ここに座っていなさい』。

そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれたが、恐れおののき、また悩み始めて、彼らに言われた、『私は悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、目を覚ましていなさい』。

そして、少し進んで行き、地にひれ伏し、もしできることなら、この時を過ぎ去らせて下さるようにと祈り続け、そして言われた、『アバ、父よ、あなたにはできないことはありません。どうか、この杯を私から取りのけてください。しかし、私の思いではなく、御心のままになさってください』。

それから、来てごらんになると、弟子たちが眠っていたので、ペテロに言われた、『シモンよ、眠っているのか、ひとときも目を覚ましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである』。

また離れて行って同じ言葉で祈られた。また来てごらんになると、彼らはまだ眠っていた。その目が重くなっていたのです。そして、彼らはどうお答えしてよいか分からなかった。

三度目に来て言われた、『まだ眠っているのか、休んでいるのか。もうそれでよかろう。時が来た。見よ、人の子は罪人らの手に渡されるのだ、立て、さあ行こう。見よ、私を裏切る者が近づいて来た』」(マルコによる福音書14・32~42)。

ペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人は、イエスから誘惑に陥らないように、目を覚ましていなさいと何回も言われたのに、眠っていたのです。肉体で生きている人間は眠っているのです。肉の思いで生きている本人は、生きているつもりです。これが眠っている状態です。これが黄泉です。

人間はこの世を去って何処へ行くのかと言いますけれど、すぐに黄泉に行くのです。人間が現世に生きている時から、その思いは黄泉にいるからです。目をつぶったら、すぐに黄泉に行くのです。

だから、人間が肉体的にこの世に生きている状態が、既に黄泉であることに気づくべきです。既に、黄泉にいるのですから、ここからどうしても逃れなければならないのです。

「眠れる者よ起きなさい」。まず目を覚ませと言っているのです。誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさいと言っているのです。そうして、死の中から立ち上がりなさいと言っているのです。

人間は肉の思いで生きていながら、立派に生きていると思っている。ところがそれが黄泉なのです。

霊とはどういうものか。霊に従いて歩むとはどういう事なのか。十字架は実に不思議なものであって、イエスが人屋に行って、人屋を破ったことによって、黄泉が破られたのです。

旧約の時代には、黄泉は地平線の下にあったのです。地面の下にあったのです。ところが、イエスが黄泉を破ったことによって復活昇天した。そこで、人間全体の魂のランクが、天に上げられたのです。そこで、地面の下にあった黄泉が、地面の上に出てきたのです。イエスが昇天した結果、そうなったのです。これについて聖書に次のような記事があります。

「イエスはもう一度大声で叫んで、ついに息をひきとられた。すると見よ、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。また地震があり、岩が裂け、また墓が開け、眠っている多くの聖徒たちの死体が生き返った。

そしてイエスの復活ののち、墓から出てきて、聖なる都にはいり、多くの人に現われた」(マタイによる福音書27・52、53)。

地面の下にあった黄泉が、地面に出てきたために、眠っている多くの聖徒たちの死体が生き返った。そしてエルサレムの街中で多くの人に現われたのです。この記事は、墓の下と現世とが、同じ次元になったことを証明しているのです。

第三の天が新設されたために、本来人間がいる場所が第三の天になった。そこで、「あなたがたは死んだ者であって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのである」(コロサイ人への手紙3 ・ 3)と言っているのです。

新約時代の人間は、皆死んだ者です。命とは何か。キリストと共に神の内に隠れているのが、人間のすべての命なのです。

それなら、今現世に生きている人間とは何か。これは黄泉が上に上がってきて、黄泉にいるのです。今まで、深く潜航していた黄泉が地面に現われたのです。今、地上に黄泉が現われているのです。地上は墓場です。東京という大都会へ行ったら、それが良く分かるのです。

東京砂漠は東京墓場です。東京は死人の都です。東京人の考えは死人の考えそのものですが、人々はそれを知らないのです。これが黄泉です。死んでいながら、死んでいるという自覚が全然ない。これが黄泉にいる証拠です。

現世を去った人間は、まだ現世にいる気持ちで眠っている。死んでいることを自覚していないのです。三島由紀夫の霊を呼び出すと、今原稿を書いているというのです。これが黄泉の状態です。

今の人間は生きている形はありますが、実質的には死んでいるのです。この状態を本人は自覚していない。これが黄泉です。

現世における記憶は、すべて黄泉の記憶です。皆様には若い時の思い出があるでしょう。結婚した時の思い出、新婚旅行の思い出、色々な所へ旅行した思い出があるでしょう。これはすべて黄泉のアルバムです。だから、現世における自分の思い出を信じることをやめて頂きたいのです。

現在の異邦人の時代は、黄泉の時代です。異邦人の時が満ちますと、イスラエルの時が帰ってきます。イスラエルの時が帰る最初に、地獄が出てくるのです。これが大艱難時代です。死んだ者が黄泉からまず地獄へ落ちるのです。これは当然のことです。

今の文明は黄泉です。黄泉が決定的に集約されますと、地球になって現われるのです。これがヤコブの悩みと言われる大艱難時代です。

ヤコブの悩みが終わりますと、本格的に神の国が来るのです。このことまでユダヤ人に知らせて頂きたいのです。汝らは今黄泉にいるのだ。やがて、地獄が来るということを知らせてあげるのです。

異邦人の時代は黄泉の時代であって、こんな時代をいつまでもだらだらと引っ張っておくべきではないのです。黄泉の時代は人間が死んでいることを認識していない時代です。死んでいながら死んでいることを知らない時代です。だから、現世における思い出を握り込まないようにして下さい。現世における思い出に執着すると、黄泉の思い出を珍重することになるのです。

現世の人間の肉の思い出はそれほど広く、大きく、深く根をおろしているということを良く考えて頂きたいのです。その反対に、霊の思いがどれほど高いか、どれほど深いかを考えて頂きたいのです。

現在はへびの思いが人間を完全に掌握している時代です。人間は全くへびの思いそのものになりきっているのです。そこで、パウロは「肉体的に生きているという思いを殺してしまえ、死を死なしめなさい」と言っているのです。「肉の思いを死に定着しきってしまえ」と言っているのです。

現世が黄泉であるのですから、今更、死ぬも生きるもないのです。死んでしまっているから、もう死なないのです。これ以上、死にようがないのです。私たちに残されている道はただ一つ、目を覚ますこと、死人の中から出ていくことだけです。

肉体的に生きていると思っていることが間違っているのです。肉体的に生きているという事がらはあります。しかし、肉体的に生きているという事実はないのです。肉体的に生きていることを五官で感じられるのですが、実体的には存在していないのです。現象世界自体が空なのです。物質現象は実体がないのです。

仏教学者の故中村元氏は、般若心経の解説書の中で、物質的現象は実体ではないと書いています。大学でそのような講義をしていながら、ご本人は肉体的に生きていると思っていたのです。

物質現象はないと言っていながら、自分が生きていると思っている。この矛盾をどうするかです。故湯川秀樹氏も物質は存在しないと学生に教えながら、物質が存在するという感覚で生きていたのです。そういうことを雑誌に書いていました。

物質現象は実体ではないと言いながら、自分は物質感覚で生きている。これはまさに黄泉です。死人以上です。死んでいることを知っていながら、自分は生きているという言い方になるからです。生きていながら死んでいる。現代人の人間感覚というものは全く恐るべきものです。

物質現象そのものが、すべて空なるものです。物質現象が空そのものです。現象を見ていることが、空を見ているのです。そこで、空を信じるということは、空を見ているということを信じるのです。現象を見ていることが、とりもなおさず空を見ていることなのだという実感を持つのです。

湯川秀樹博士は物質はないと言いながら、実は物質感覚で生きていたのです。これは死んでいる状態です。そのようなことがある以上、全くの空っぽはどこにもありません。そこで、空の実体は何かと言うと、イズ(is)であるという説明しかしようがありません。I amのamです。You are のare です。am are is といういわゆるBe動詞の現在形が、絶えずプロシード(放出)されている。

これが現象体となっているのですが、このような現象がなぜ現われるようになったのか。宇宙に矛盾が発生したからです。宇宙に矛盾が発生しなければ、現象が現われる必要がなかったのです。

本来宇宙には、ワード(言)が現象になって現われる理由はなかったのです。矛盾が発生したから、現象が現われなければならなくなったのです。

現象が実体であるというアイデアが宇宙に発生したのです。これが矛盾の発生です。このアイデアが発生したことが間違っていることを証明するために、言(ことば)が現象にならなければならなかったのです。現象が実体ではないことを証明するために、現象が現われなければならなくなったのです。

宇宙に矛盾が発生したから、現象が現われたのです。矛盾律がなければ、現象を発生させる必要はなかったのです。

しかし、この現象はただの現象であって、実体は存在しないということを説明する必要があったのです。現象は矛盾によって発生しています。矛盾を信じないで神を信じるとすれば、現象が実体ではないということを信じるのです。矛盾を信じないで空を信じるとすれば、現象は実体ではないことになります。空を信じることは、神を信じることになるのです。

現象が現われたという事は、結論的に言えば、神を信じさせるためだったのです。しかし、神を信じるという結論に達するためには、どうしても経過しなければならない道程があるのです。

悪魔は神を信じないという場に立ったのです。これがいわゆる矛盾です。神を信じない事になりますと、現象を信じることになるのです。神を信じないという感覚は、自分のセンス、または自分の意識を実体として信じることを意味するのです。自分の意識を実体として信じることになりますと、自分の立場、自分の経験、自分の理論が実体であるという事になるのです。悪魔はそういう場に立ったのです。

立場とか、経験、理論というものは肉です。肉の思いを実体とすることになりますと、現象を信じるという基本概念が発生するのです。

霊でなく肉の場に立つことになりますと、自分自身の理念、自分自身の立場、自分自身の経験を信じるのです。現在の自分のあり方を、百%承認することになるのです。

自分のあり方というのは、一つの現象です。または現実です。現実を真実と考える感覚は、悪魔が発明した感覚です。そういう発想がなされたのです。神はその発想を根本的に取り消すために、現実をこの世に現わさなければならなかったのです。

悪魔が拠り所とする現実、現象をまず現わさなければならなったのです。ところが、現実は本来存在するはずがないものです。存在するはずがないものを現わさなければならないという状態に神が立ち至ったので、天地創造がなされたのです。

「神が初めに天と地を創造された」(創世紀1 ・ 1)というのは、これです。初めに、天と地が造られた。天と地は何によって証明されるかと言いますと、現象によって証明する以外に方法がないのです。

現象の中に天があり、また、地がある。現象の中に、天と地が同時に存在するのです。霊と肉が同時に存在するのです。こういう方法で神は現実を造ったのです。

般若心経が言っている色不異空、空不異色というのは、神が万物を創造した時の原理を述べているのです。色と空が同時に現われたのです。これが色即是空、空即是色です。

もう一度言いますと、神が万物を創造する時に、色と空とが同時に現われたのです。同時というのは、同じ場という同時と、同じ事という同時の二つの意味があるのです。同じ時に現われたし、同じ事に現われたのです。色と空は全然質が違っているのですが、現われ方は一つです。こういう形でしか神は現わしようがなかったのです。

仮に皆様が神だと考えてみて下さい。現象によって現象が間違っていることを説明しようとすれば、どうしたらいいのでしょうか。現象を現わすと同時に、非現象を現わさなければならないのです。色と空が同時に現われたというのは、こういう理由なのです。

天地創造ということが、そのまま色即是空であり、空即是色になるのです。神が天地創造した御心をはっきり弁えたのがイエスです。イエスは現象を通して、現象が空であることを悟った。そして、空であるそのことが神である。神の御名であると悟ったのです。

悪魔は現象は実体であると思い込んで、そのまま頑張っているのです。イエスは現象は空である。空こそイズ(is)であると見たのです。それがイエーズースーという名前になって現われている。これはエホバの御名こそ救いであるという意味です。

救いであるということは、肉の人間が消えるから救いになるのです。肉的に存在する人間の思想が空になるから、死が空になるから救いになるのです。

肉の思いが死です。これが空になる。そこで、救いになるのです。エホバの御名が救いであるというのは、それです。死が空になるのです。肉の思いが空になると、人間に救いが実現するのです。これが御名が救いであるという意味です。イエスはこれを自分自身の名において証明したのです。これが、もろもろの人を照らす誠の光として現われたということです。

死が空になるのです。救いというのは空そのものです。空そのものが救いです。死が実になったら滅びです。死が空になるから救いになるのです。死が消されてしまうのです。これが恵みです。そこで、エホバの御名が救いであるとなるのです。こういうことを皆様の霊が知っているのです。肉は知らないのです。

自分が肉体的に生きているという頑固な思いを死なしめることができるなら、霊が分かるのです。肉体が実体であるという思いを殺すことができるなら、霊が分かるのです。

皆様は偶像を信じるように、肉の思いを信じすぎているのです。偶像を信じているというのは、現象感覚を信じているということです。

人間の現象感覚は全くの偶像です。非常にはっきりしているのです。現象は巨大な連峰のように皆様の前に立ちはだかっているのです。この巨大な連峰が空です。空を信じようと思った時に、目が覚めるのです。信じた時に義とされるのです。

信じようと本当に思った時に、目が覚めるのです。死人の中から出ようという決心がはっきりできるのです。これを御霊を受けたというのです。

聖書に、「予め知りたる者を召し、召した者を義とする」と書いています。義とするという状態になりますと、初めて死人の中から出ていくことができるのです。皆様はこういう段階を進んでいるのです。必ずそうなるに決まっているのです。

また、聖書に次のようにあります。

「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神はご自分を愛する者たちのために備えられたのである。

そして、それを神は御霊によって私たちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものを極め、神の深みまでも極めるからである。

一体、人間の思いはその内にある人間の霊以外に、誰が知っていようか。それと同じように神の思いも、神の霊以外には知るものはない」(コリント人への第一の手紙2 ・ 9~11)。

もし皆様が本当に神を愛しているとしたら、目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮かびもしなかったことが、皆様には分かっているはずです。これがもし分かっていないとすれば、皆様はまだ神を愛する所までいっていないのです。自分を愛する所で芯どまりになっているのです。

皆様の現在の意識状態が、人の心未だ思わざる所をまだ分かっていないとしても、どうしてもそれを知りたいという願いがあるでしょう。それをぜひ掴まえたいという気持ちがあるでしょう。

だから、神は皆様に与えようとしているのです。そのような志を皆様に起こさせたのは神です。従って、皆様方はまだ人の心未だ思わざる状態のことが分かったとは言えないにしても、分かろうという気持ちがあるとすれば、神からご覧になれば分かったことと同じなのです。分かっているのと同じです。そこで、心を強くして頂きたいのです。

かつてイエスはトマスとピリポを前にして、「私はこれから父の所へ行く。お前たちは私が何処へ行くのか、その道はあなたがたに分かっている」と言ったのです。

ところがトマスは、「主よ、何処へおいでになるのか、私たちには分かりません。どうしてその道が分かるでしょう」と言ったのです(ヨハネによる福音書14・1~5)。

トマスやピリポはイエスが何処を通って何処へ行くのか、皆目分からなかった。しかし、それを知りたいという願いがあったのです。イエスはその願いを見て、「お前たちはもう知っている」と言っているのです。

イエスの目から見れば、トマスやピリポは既に知っていることになるのです。同じように、神から見れば、皆様も知っていることになるのです。

イエス・キリストから皆様の心理状態を見れば、皆様は目が未だ見ないことを既に知っていることになるのです。目が未だ見ず、耳が未だ聞かず、人の心が未だ知れない所の神の秘密を、皆様はすでに知っていることになるのです。

イエス・キリストの側に立つという気持ちが、般若波羅蜜多になるのです。自分の側に立たないで、向こう側に立ってしまうのです。

皆様は現象意識が山のように存在している自分の気持ちに立とうとする、悪い癖があるのです。これはただの癖です。絶対的な運命ではありません。

皆様はそれを避けることができない自分の運命のように妄信していますが、イエスは「なぜ父を示して下さいと言うのか。父と私は一つではないのか。こんなに長い間お前たちと一緒にいるのに、まだ父が分からないのか」と言っているのです。

皆様はまだ空が分からないと思っているのは、皆様がそう思っているだけです。その不信仰を捨てるのです。霊を渡すのです。霊を渡すとはどうするのかと言いますと、自分の霊を神の御霊に渡すことです。これが霊を渡すということです。

元々、人間の霊は神の御霊から出てきたのです。人は神にかたどりて神のかたちのように造られているのですから、神に帰るしかないのです。そうすることによって、本来あるべき姿に帰ることになるのです。これをしなければ、皆様の人生が完成しないのですから、仕方がないのです。

ところが、皆様自身は自分の霊を知らないのです。肉は良く知っていますが、霊については本当に無知です。皆様は肉の思いでずっと生きていて、霊に従いて歩んだことはありますが、自分では知らないのです。

霊に従いて歩んでいながら、自分の霊を知らないのです。神の御霊に導かれて、知らず知らずのうちに、霊において歩んだことはあったのです。

肉の思いで歩んでいる自分の気持ちと、霊に従って歩んでいる自分とを、はっきり仕分けることができないのです。例えば、トマスやピリポはイエスの話に耳を傾けていたのですが、その時、彼らは霊に従いて歩んでいたのです。彼らは自分で知らずに霊に従って歩んでいたのです。

例えばイエスが弟子たちに、「あなたがたは私を誰と言うのか」と聞いた時に、ペテロが「あなたこそキリストです」と言ったのです(マルコによる福音書8・29)。これは霊に従っていなければ、そういう答えができるはずがないのです。

イエスは、「それはお前が答えたのではない。父なる神に言わせられたのだ」と言っているのです。そのように、現在霊に従いて歩んでいながら、霊に従いて話していながら、分からなかったのです。

パウロも、「誰でも皆御霊に感じなければ、イエスが主であるということができない」と言っているのです。

イエスを主と呼ぶことが、御霊に感じていることなのです。皆様もイエスを主と言い現わすことがしばしばあるのです。これは皆御霊に感じているのです。その瞬間、御霊によって生きているのです。ところが、それだけでは尻切れとんぼになるのです。

ペテロもそのとおりです。生ける神の子キリストであると言って、イエスに自分の気持ちを語っていながら、後からすぐに、「サタンよ引き下がれ、あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と叱られているのです(マルコによる福音書8・33)。

皆様もそれと同じことをしているのです。もう少し御霊の導きを深く心に弁えて、霊に従いて自分を管理しなければいけないと言いたいのです。

この世に生きていることは、黄泉にいることです。このことをよく考えたら、自分の霊を神に渡すことはできるのです。これが十字架を信じることです。

イエスから見れば、ペテロもピリポも霊に従いて歩んでいるように見えたのですが、本人がそれを自覚していないから、それが本人自身のものにはならないのです。神から認められていても、本人が神の御名を崇めることをしなければ、信仰にはならないのです。そこで、皆様も自分の霊を渡すことをお考え頂きたいのです。

人間の霊とはどういうものか。人間の中にいて、人間のことを知っているのは、その人の内にある霊だけだと書いています。これはどういうことか。人間のこととは何かと言うと、第一に人間がこの世に生まれてきたことです。理性と良心が肉体を持ってこの世に生まれてきたことが、人間の霊です。

人間のインカネーション(受肉)とはどいういうことなのかを、人間の霊はよく知っているのです。その証拠に、世間並の考えで、現世に生きていることが間違っていることを、皆知っているのです。

つまり、肉に従いてこの世に生きるため、生活するために、生まれてきたのではないということを、皆様の霊は知っているのです。だから、道元禅師のように、「生を明らめ、死を明らめるは、仏家一大事の因縁なり」と言われると、そうだと思うのです。諸行無常、諸法無我、涅槃寂静と言われると、そのとおりだと思うのです。

諸行無常という言葉は、誰でも知っているくらいに分かっているのです。人間には霊があるから、それが分かるのです。

トルストイが死ぬ少し前に、「私は人生において、一番大切なことができなかった。どうでもいいことはたくさんしてきたが、一番大切なことがとうとうできなかった」と言ったのです。人間は一番大切なことが何かを、直感的に知っているのです。国家のため、社会のためというのは、一番しなければならないことの次くらいのものです。

一番しなければならないことは、神の国と神の義を求めることだということを知っているのです。神の国と神の義という大目的がはっきり自覚できないので、国家のため、社会のため、芸術のため、学問のためと言っているのです。これはしなければならない最高のことをしないから、次善活動によって間に合わせようという気持ちです。

国家社会を良くしようとか、人間生活を幸福にすることが最高のものとは思えないのですが、それ以上のことが分からないから、この程度で手を打っているのです。

釈尊の悟りも実はそれです。釈尊の悟りはそれよりも上等ですが、なさねばならない最高の一歩手前まで行ったのです。釈尊の悟りは最高、無上の悟りであると考えた。阿耨多羅三藐(あのくたらさんみゃく)三菩提(さんぼだい)と言っている。阿耨多羅三藐三菩提まで行ったのですが、それ以上のものは分からなかったのです。

それ以上のものは何かと言いますと、アミダーバーとアミダーユスの二つです。アミダーバーは無量光、無量の知恵です。アミダーユスは無量寿、無量の命です。これを釈尊自身が言ったかどうかは分かりませんが、ダルマカラーという人が悟ったことになっているのです。

ダルマカラーというのは、法蔵比丘というお坊さんです。これは釈尊の若い頃を模型にした人格ですが、これは造り菩薩、造りものの人格です。

ダルマとは法です。カラーとはそれを持っているという意味です。法を持っていると言われているお坊さんが、アミダーバーとアミダーユスの二つを悟って、ある国の長者になった。その国が極楽浄土と言われる幸ある国です。その国の長者になった。これが大無量寿経の思想です。

大無量寿経には、ある人が人間の本願として四十八の願を立てて、その真相を把握したので、彼は阿弥陀如来になったとあるのです。

どうしてなったのかと言いますと、人間自身の命の本質は、無量光(無限の知恵)であり、同時に無量寿(無限の命)でもあると悟ったからです。これは何かと言いますと、人間は言葉を使うことができるのです。理性の本性、言葉の本性が、宇宙の無限の光から来ていることを、人間の霊は知っているのです。

皆様は言葉を使っています。皆様が使っている言葉は、初めからあったものです。神と共にあったものです。その言葉は神です(ヨハネによる福音書1 ・ 1)。皆様の口から出る言葉は神です。そのことは皆様の霊は知っているのです。

人間の霊は人間の値打ちが阿弥陀如来であることを知っているのです。それを神の御霊に渡すのです。神の御霊に渡すということは、神の約束に渡すということです。御霊は約束です。約束は御霊です。この約束様と言わねばならないようなお方によって、天地は造られたのでありますし、約束によって保たれているのです。この方に自分自身の霊を渡すのです。

そうすると、奇妙なことが起こります。現象が空であることがスムースに分かるのです。現象は空であるというと、現象は空っぽであるという気持ちに捉われるのです。そこで、緩衝地帯を設けるのです。

まず皆様は現象は存在であると思って下さい。その次に存在はイズ(is)であると思うのです。次にイズ(is)は空であると思うのです。こう考えればいいのです。

現象は存在である。存在の実体はイズ(is)である。イズ(is)は人間の感覚で言えば空であることが分かるのです。そこで、色即是空、空即是色がやっと理解できるのです。これが一種の信仰工学というものです。

人間の霊を神の御霊に渡すための段階とは、今述べたようなことになるのです。これは論理的に承認ができても、またしても思想的にだけ聞いて実行しないことになりますと、今度はもう救われません。

分からないことは構いません。何回でも質問して頂いて、実行できる所から少しでも前進したらいいのです。そして、どんどん押していったらいいのです。

自分の肉の思いを押し退けて進んでいくのです。空の信念に基づいて、どんどん生きるのです。肉の思いに遠慮会釈することなく、自分自身の思いに遠慮気兼ねすることなく、他人にも遠慮気兼ねすることなく、どんどん生きるのです。これをしないと、論理的に分かっても実行できません。少々人に迷惑になっても構いませんから、空に従って生きるのです。

五蘊皆空、五蘊皆空と口で唱えて生きるのです。色即是空、色即是空と言いながら生きるのです。そうすると、自分の思いを自分で信じなくなるのです。自分の思いは五蘊に決まっています。五蘊は色蘊が第一です。受想行識と四つの蘊がついてくるのです。

色蘊というのは、現象は実体だという思いです。これが土台になって、受蘊(感覚作用)、想蘊(表象作用)、行蘊(意志、欲求などの心理作用)、識蘊(対象を識別する作用)の四つの蘊がついてくるのです。色蘊をまず滅ぼすのです。これを踏みつけるのです。自分の思いを自分の勇気で圧倒するのです。

イエスが「天国は激しく襲われている。そして、激しく襲う者たちがそれを奪い取っている」(マタイによる福音書11・12)と言っているのは、こういうことです。激しく攻める者は、神の国を奪うのです。激しく攻めなければだめです。自分の気持ちに遠慮したり、他人の顔色に遠慮していたらだめです。

空をどんどん実行するのです。これをすれば皆様の中に、神の御言葉の実が結ばれていくのです。そうして、預言の霊が与えられるのです。預言の霊が与えられない人は、いつまでも実行しない人です。これはすぐに分かるのです。

ここまでしなければ救われません。自己完成しないのです。神がパウロに、「汝はわが名を持ち行く選びの器である」と、はっきり言いました。これが任命です。

人間の霊は自分自身の中にあるアミダーバーとアミダーユスを知っているのです。阿弥陀如来が自分の中にあるのです。言葉を使うということで分かるのです。

「この言に命があった。そして、この命は人の光であった」(ヨハネによる福音書1 ・ 4)とあります。言の命は無量寿です。言の光は無量光です。皆様が言葉を持っていること、文字を使うことによって、皆様が自分自身の中に阿弥陀如来を持っていることが証明できるのです。

これを証するものが、人間自身の霊です。そこで、人間自身の霊を神の約束に張りつけるのです。神の約束がなければ、人間の霊がこの世に出てくるはずがないのです。魂がこの世に出てくるはずがない、受肉するはずがないと考えるのです。

そうすると、皆様方自身が約束の当体になるのです。自分自身が存在することが約束の当体になるのです。約束そのものになるのです。これをイエス・キリストの信仰というのです。「イエス・キリストの信仰でなければ救われない」とパウロが言っているのです。

「人間の霊が人間の思いを知っている。そして、神の御霊の他には神の深い御心を知っている者はない」とあります。これは、人間の霊と神の霊のあり方が同じであるということを言っているのです。

神の御霊によらなければ、聖書に書かれていることの本当の意味は分かりません。例えば、一人の人がすべてに代わって死んだのだから、すべての人は皆死んだのだという言い方は、全く神のことなのです。神の処置です。神の処置は神の御霊でないと分かりません。だから、御霊を受けて頂きたいのです。

聖書をよく注意して見ますと分かることですが、現世は暫定的な現象世界であって、永遠不朽のものではないことが、何回も繰り返し書かれているのです。

パウロは、「私たちが目をつけているのは見える所ではない、見えない所である」と言っているのです。見える所は暫くですが、見えない所は永遠です。

人間は現象を実体だと考えていますけれど、この見方が間違っているのです。現象は実体ではありません。理性によってよく見れば、現象が実体ではないことが分かるのです。

見えているものは、見えないものによって造られているのです。現われていないものによって、現われているものが成立しているのです。不可視世界がなければ、可視世界があるはずがないのです。目に見えない光線がなければ、目に見える光線があるはずがないのです。

目に見えない命が、目に見える命を造っているのです。花でも、目に見えない命が目に見える花を造っているのです。だから、目に見えているものは空です。空は存在であり、存在は空です。

現象は存在である。存在はイズ(is)である。イズ(is)は空である。これをよく承知頂きたいのです。

目に見えるものが存在するという考えを、徹底的に否定するという決心をして頂きたい。この決心を続けると、現在肉の思いで生きていることが、黄泉の世界にいることだと自覚できるのです。

この世は黄泉です。死人の墓場です。だから、今の人間社会にも、文明にも、目的がないのです。目的がない社会と文明がだらだらと続いているのです。この状態から脱出すると、本当の目的がはっきり分かるのです。


(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

閲覧数:31回0件のコメント

最新記事

すべて表示

はじめに

まず、自分の意見を捨てて、命そのものを生活する、命そのものを自分の世界観の基礎にするという考えを持てばいいのです。自分が生きていると考えている間はだめです。 命は光と同じ意味です。光は自分の存在を照らす光です。自分の存在だけでなく、過去、現在、未来に対しての光になるのです。これは阿弥陀経でも言っているのです。大無量寿経でも言っています。無量寿如来と無量光如来の二つの如来が一つになると、阿弥陀如来に

天然と自然

皆様には現在生きているという事実があります。生きているのは自分の命で生きているのではありません。命が自分という形で現われているのです。 命は宇宙全体の営みです。皆様が生きていらっしゃるという事は、宇宙の営みに与っていることなのです。これは宗教には関係がありません。皆様の魂は生まれる前にこの営みに触れていたのです。 その時に根本的な失敗をしてしまいました。神と一緒に、神の前で生きていながら、神を意識

bottom of page