top of page

生と死

すべての根源がなければ、万物または万事が展開するはずがないのです。神という万有の根源を把握することなしに、何を考えても無意味です。虚無になってしまうのです。 仏法は真実だと聖徳太子は考えた。世間虚仮、世間は嘘である。仏法は真実だと考えたが、その時点では仏教的思考方式しかなか...

父の懐(1)

ヨハネは次のように書いています。 「私たちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、恵みに恵みを加えられた。律法はモーセを通して与えられ、恵みとまこととは、イエス・キリストを通してきたのである。 神は見た者はまだ一人もいない。ただ父の懐にいる一人子なる神だけが、神...

父の懐(2)

私たちの魂は本来御子です。私たちの魂がこの世にいるということは、御子が闇の中に住まわせられたように、御子が私よりも一歩先に闇に住まわせられていたのです。そういう経験を持っておられた御子が、もう一度人間としてこの世に下されたのです。今度は肉体を持って下されたのです。...

父の懐(3)

十八節には、「神を見た者はまだ一人もいない。ただ父の懐にいる一人子なる神だけが、神を現わした」とあります。父の懐にいる彼だけが、神を現わしたのであるとはどういうことか。イエス・キリストというお方は、かつて闇の懐にいたのです。今は父の懐にいるのです。闇と光の両面が完全に分かっ...

父と共にいる

人間は自分が生きているという立場から福音を見ようとするのです。これは無理もないことかもしれません。現在生きている人間を全く抜きにして福音を考えなさいと言っても無理ですけれど、現在生きている人間を基礎にして考えたら、必ず宗教になってしまいます。どんなに深く考えてもだめです。...

神に生きる

人間が現世で生きているという事は、もちろん自分が生きているのではありません。生かされているのです。生かされているというのは、もちろん神に生かされているのです。だから、生かされているという事自体が、父の大能の内の御手の内に置かれているということになるのです。...

神の業(わざ)が現われる

聖書に次のような記事があります。 「イエスが道を通っておられる時、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちはイエスに尋ねて言った、『先生、この人が盲人なのは、誰が罪を犯したためですか。本人ですか、それとも両親ですか』。 イエスは答えられた、『本人が罪を犯したのでもなく、また、そ...

あとがき

人より高い所から見るようにして頂きたい。これができたら人間は死なないのです。 人間の概念はぼやっと見ているのです。そうではなくて分解的に見るのです。皆様が生きている実存状態を分解して見るのです。皆様は生きている状態をそのまま見ています。だから間違っているのです。...

1
2
bottom of page