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​死なない命の勉強会

​ 我死に勝てり(上)

​   梶原和義

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                          はじめに

 

 「我死に勝てり」。これを聞いたら、精神障害者の戯言、異常者の寝言として、誰も信用しないでしょう。人間は必ず死ぬものだと固く信じているからです。

 ところが、人間の心の中には、死にたくない、絶対に死にたくないという気持ちが牢固としてあるのです。

 もし人間が100%死ぬものと決まっているのなら、なぜ死にたくないと思うのでしょうか。なぜ病院が繁盛するのでしょうか。

 死にたくないと思うのは、一人や二人ではありません。全世界の中の九十九%以上の人がそう思っているのです。こんなにたくさんの人が死にたくないと思っているのは、人間存在の中に死ななくても良い命、死ななくてもよい方法が潜んでいるからです。

 人間は全く不可能なことを考えることはできません。かつて、鳥を見て空を飛んでみたいと考えた人がいました。それが、飛行機になって実現したのです。魚のように海中を泳いでみたいという考えが、アクアラング、各種潜水器具、潜水艦になって実現しました。

 手で洗濯していたのを洗濯機がしていますし、薪でご飯を炊いていたのを電気炊飯器がしています。

 どこにいても、どんな時でも、人と話をしたいという願いを、携帯電話が実現してくれました。

 かつて、月に行ってみたいという人がいたようです。そんなことは絶対に有り得ない、不可能だと思っていたでしょう。ところが、アメリカのアポロ宇宙船が、それを見事に実現したのです。

 二〇一六年現在で、全世界に七十三億の人が住んでいます。死にたくないと思っている人は七十億人以上います。こんなに多くの人が望んでいることは、絶対実現する可能性がある。必ず実現するに違いない。そうでなければ、こんなに多くの人が死にたくないと思うはずがないのです。

 六千年の間、人間は死にたくないと思い続けてきました。これは人類の悲願です。これを確実に実現する方法があることを、本書で述べてみたいと思います。

 命には絶対に死ぬに決まっている命と、絶対に死なない命の二つがあるのです。絶対に死ぬに決まっている命を握り込んでいますと、必ず死にます。般若心経はその意味で、究竟涅槃と言っています。涅槃というのは、ろうそくの火が一陣の風によって吹き消されてしまうような状態です。普通の人間が生きている命は、死ぬに決まっている命です。死ぬに決まっている命を、命だと思い込んでいるのです。そのような命に対する錯覚が死になるのです。

 死とは何であるのかと言いますと、命を錯覚していることです。現在の人間は、自分の命があると考えています。しかし、自分の命があるはずがないのです。

 皆様は自分が生まれたいと思ったのではありません。従って、自分自身の命を造り上げたり、持ち続けたりする力は本質的にはないのです。命は自分のものではなく、天地のものです。

 地球が生きているから、私たちも生きているのです。ところが、自分の命という自我意識的な命があるように考えている。これが現在の人間が死んでしまうことの原因になっているのです。命を根本的に取り違えているのです。命の本質が分かっていないからです。

 現在、皆様は命を経験しているのですが、命とは何かと自問自答して頂ければ分かるのです。生活はしているけれど、命とは何かを自分自身に尋ねても、明瞭な答えは出ないでしょう。これが、般若心経でいう五蘊皆空ということなのです。

 日本人は般若心経を大変愛しています。般若心経に好意を持っています。テレビの番組でお葬式の場面が出てきますと、ほとんど般若心経を唱えています。そのように、般若心経に非常に好意を持っていながら、般若心経が本当は何を言っているのかを、真正面から受け止めようとしていないのです。

 般若心経は涅槃を究竟することを言っています。究竟するとは、見極めるとか、突き止めることになるのです。現在、生きている自分の命は空であることを見極めることが、般若心経の結論です。ところが、般若心経を愛している日本人が、般若心経の空をほとんど実行していません。般若心経を愛しているように見えますけれど、ほとんど信じていないのです。

 なぜそういうことになるのかと言いますと、般若心経を仏教という宗教が扱っているからです。般若心経は、無苦集滅道、無老死、亦無老死尽、無無明と言っています。苦集滅道は四諦のことです。四諦が無であると言っています。四諦八正道は大乗仏教の教学の中心思想です。これを般若心経は無という一字で片付けてしまっている。こういう大胆不敵なことをしているのです。

 般若心経は仏教という宗教の教義を否定しているのですが、それを現在の仏教がしきりに用いているのです。般若心経をばかにしているのです。般若心経を口先だけで唱えているが、その思想を正当に理解していないのです。

 仮に正当に理解していても、それを実行しようと考えていない。般若心経の講釈をする人はたくさんいます。仏教大学へ行けば、すぐ教えてくれます。ところが、それをはっきり実践している人はほとんどいません。だから、日本の伽藍仏教が保たれているという、皮肉な結果になっているのです。

 般若心経を否定するから、日本の仏教の形式がどうにか保っていけるのです。もし般若心経を本当に信じて、日本の仏教者がまともに取り上げるとすれば、日本の仏教は消えてしまうかもしれないのです。

 宗教は現世に生きている人間を幸いにすることを目的にしています。現世では家庭円満、商売繁盛、死んでから天国や極楽に行けると言っています。これは現世に生きている人間を肯定していることになります。般若心経はこれを真っ向から否定しているのです。寺があることが空だ、宗教家が生きていることが空だと言っているのです。

 ちょっと考えますと、般若心経の言い方は非常に冷酷無残なようですが、実は非常に親切で良心的な言い方なのです。なぜかと言いますと、般若心経が空だというのは、現在生きている皆様の命を空じてしまうからです。皆様の生命観、生命意識を空じてしまえ、空っぽにしてしまえ、なくしてしまえと言っているのです。

 これはひどい言い方のようですが、皆様が現在持っている命は、死ぬに決まっている命です。死ぬに決まっている命を捨ててしまうことは、死なない命を受け止めることになるのです。

 命には死ぬに決まっている命と絶対に死なない命がありますが、死ぬに決まっている命を捨てても、現在皆様の心臓が動いている事実が消える訳ではありません。

 例えば、今日、皆様が自分の命を空じてしまうという決心をしても、皆様の心臓が止まる訳ではありません。自分の命を空じても、生きているという事実はあるのです。これが死なない命になるのです。

 だから、般若心経が考えている究竟涅槃、死んでしまえという言い方は、非常に有難い言葉になるのです。これは皮肉ではありません。本当のことです。今まで、五十年間、六十年間生きてきたと思っていることが間違っているのです。それを捨ててしまうと、皆様は新しい命の糸口を見つけることができるのです。

 般若心経は命を捨てろとやかましく言いますが、新しい命を皆様に提供することはできません。究竟涅槃ということは、命を捨てることを奨励しているのですが、新しい命が何であるかということを、皆様方に説明しているのではないのです。

 そこで、宗教ではない聖書がどうしても必要になるのです。キリスト教はだめです。キリスト教は永遠の生命の実体が分かっていないのです。それは神の実物が分かっていないからです。宗教的にキリストを信じると、罪が許されて、永遠に生きるということを教義としては教えていますけれど、本当の永遠の命を皆様に差し上げることはできません。

 宗教ではない般若心経が分かりますと、仏教で考えているようないい加減な般若心経ではない、本当の般若心経の真髄、涅槃の真髄が皆様にご理解頂けるでしょう。今まで生きていた自分の命を空じてしまうだけの勇気があれば、聖書によって必ずとこしえの命を捉えることができるのです。そこで、宗教ではない般若心経と聖書が必要なのです。

 生きていることは観念でも、概念でも、教義でもないのです。本当に生きているのです。ところが、生きているという事実がありながら、命の実体が何かと自問自答すると、答えられないのです。

 日本人の生活意識が間違っているのです。生き方が不真面目なのです。生活については非常に熱心ですが、命については不熱心です。これが今の日本人の生き方です。これが間違っていると申し上げたいのです。

(​内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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