top of page

                          ホモ・サピエンス

 

 今の人間の脳細胞はほとんど働いていないのです。全体の数%しか働いていないのです。食欲生活、性欲生活、金儲け生活のためには、よく働いているようですが、人生とは何か、命とかは何か、地球とは何かを、一切考えようとしていないのです。

 現実としては、今の人間にはカルマとしての命があるだけです。ところが、真実はそうではないのです。私たちが生きている真実は、キリスト紀元に生きているのです。

 キリスト紀元の人間はイエス・キリストの復活の命に生きているということです。キリストが復活したというのは、新しい物理次元が現われたということです。復活後のイエスは人間の肉体ではない新しい体によって現われたのです。

 イエスは復活して、新しい体になって焼き魚を食べたと書いているのです(ルカによる福音書24・42)。だから、キリストの復活は物理的、生理的な問題になるのです。

 現在の人間の歴史の中には、そういう不思議な部分があるのです。死んだ人間が復活して、魚を食べた。そういう文書が公文書として世界中に置かれているのです。

新しく誕生したアメリカの大統領は聖書に手を置いて宣誓するのです。こうしなければ、アメリカの大統領には就任できないのです。

 これはどういうことか。キリストの復活という問題は、人間存在の基本になるのです。西暦紀元はキリスト紀元ですが、これは人間が死なないものだということが、歴史的に証明されたので、新しい歴史の暦年算定ができたということです。これがキリスト紀元です。

 それまでの人間は死ぬに決まっていたのです。ところが、イエス・キリストが復活した以後、人間は死ぬに決まっているのではないということが実証されたのです。必ずしも死ぬものではないことが、はっきりしたのです。そこで、新しい歴史が始まった。これがキリスト紀元です。

 ところが、日本人はこういうことに対しては全く無知です。なぜ西暦紀元が始まったのかということを、真剣に考えようとしないのです。

 聖書を基本にして考えますと、現在の人間の命はイエスの復活の命の拓本になっているのです。こういうことは新約聖書にはっきり明記してあるのですが、それを取り出して公に講義しているのは、私が初めてかもしれないのです。

 キリスト教の人々は聖書を正確に読んでいないのです。イエス・キリストが復活したことは言いますが、今生きている人間の命とどういう関係になっているのかが分からないのです。

 今の人間の命は復活の命の見本になっているのです。少し真面目にこれを考えてみれば、死なない自分が見えてくるのです。

 ところが、これを考えないで死んでしまうというのは、もったいない、本当にもったいないことなのです。実に残念無念なことです。

 考え方を少し変えさえすれば、今皆様が生きている命が、そのまま永遠の命に通じることが、はっきり分かるのです。これを皆様にお話ししたいのです。

 イエス・キリストが復活したのは、歴史的事実です。キリスト紀元があるということは、イエスが復活したことの証拠です。

 キリストが復活したということは、皆様がその気になって勉強すれば、皆様の命が永遠の命に通じるものであることがよく分かるのです。

 プラスのエネルギーの原理は何処から来ているのか。これが分かりさえすれば、皆様の命はそのまま死なない命であることが分かるのです。

 それが分かるためには、皆様の脳細胞の働きはあまりにも貧弱です。だから、死なない命を掴まえるために発奮して頂きたいのです。

 キリスト以前には、人間には本当の死がなかったのです。死んでも地獄がなかったのです。ただこの世に生きていることが無くなるということだけでした。

 今はそうではないのです。命が二つ存在しているのです。絶対に死ぬ命と、絶対に死なない命ができたのです。

 自分の気持ちで生きている者は、必ず死ぬのです。イエスの気持ちで生きている者は、絶対に死なないのです。

 皆様は自分の気持ちで生きています。こういう人は必ず死にます。生かされている人は死なないのです。これが今の人間には分からないのです。学者や宗教家にこれが分からないのです。

 生きている人は必ず死にます。生かされている人は絶対に死なないのです。この簡単な原理を分かって頂きたいのです。

 本願寺にいく人々は生かされていると言います。宗教や倫理、道徳を信じている人々も生かされていると言いますが、誰に生かされているのかということが分からないのです。

 仏に生かされていると言われるかもしれませんが、仏という人格は実在する人格ではないのです。抽象概念を人格化したものが仏です。

 大日如来、阿弥陀如来は実在していないのです。人間の理想人格を抽象化しているだけなのです。

 実は生かされているという気持ちが間違っているのです。なぜなら、自分が生かされていると考えているからです。自分が生かされている自分は自我意識の自分です。

 大自然に生かされている、天然自然に生かされている、神に生かされている当体は死なないのです。これが死なない命の当体です。これを分かって頂きたいのです。

 難しいと考えてはいけないのです。今までの考え方が間違っていたのです。皆様が頑固すぎるからいけないのです。

 命は私たち個人のものではないのです。公のものです。死とは何か。死はマイナスのエネルギーです。初め宇宙には死がなかったのです。マイナスのエネルギーはなかったのです。ところが、死の法則が宇宙に発生したのです。そこで、地球という曼陀羅ができ始めたのです。神の国ができなければならなくなったのです。

 地球ができ始めたということがキリスト計画です。キリスト以前の人間には死がなかったのです。旧約聖書を見ますと、神がイスラエルに、ある町の人間を全部殺してしまえと言っているのです。幼児も老人も、女も男も、全部殺してしまえと言っているのです。

 異邦人から見ますと、聖書の神は何とひどい神だとなるのです。殺すことを命令しているからです。ひどいことをする神だとなるのです。

 ユダヤ人と異邦人では、神の取り扱いが全然違います。これは地球という曼陀羅をよく読んでいかないと分からないのです。この説明が完全にできる人はいないのです。

 なぜそうなっているのか。これについて漠然と説明できる人はいるでしょう。正しく説明できる人はいないのです。はっきり曼陀羅を読んでいないからです。

 人間の六千年の歴史が曼陀羅であって、これを正しく読んでいかなければいけないのです。

 人間歴史は神の物語であって、曼陀羅です。重要なテーマはノアの洪水です。これが日本人に分からないのです。

 旧約聖書を勉強している人には分かります。ノアの洪水については天地創造という映画にも出ていましたが、その意味が正確に分かっている人がいないのです。

 ノアの洪水以後の人間は全部動物扱いをされているのです。ユダヤ人を含めて、異邦人も全部動物扱いをされているのです。

 ノアの洪水以前の人間と、ノアの洪水以後の人間とでは、人間存在の意味が全然違っているのです。

 人間は学問で考えますと、哺乳動物であって、人科の人です。哺乳動物である人間というのは、人亜科の人です。人亜科の中にはチンパンジー属、ゴリラ属、オランウータン属が含まれているのです。

 私たちは生理学的に考えますと、哺乳動物と同類であって、神が人間を動物扱いしていると言いましたが、人間自身が人間を動物扱いしているのです。ただ人間と動物の違いは、人間には魂があるということです。これが人間と動物の決定的な違いです。

 人間には魂がありますから、この面をしっかり見ていけば、人間は動物状態から脱出して、神の子になることができるのです。これが大きいのです。

 神とは何か。人間は誰でも自分の中に神という概念を持っていますから、本当の神が分からないのです。この神という概念を捨てなければ、誠の神は分からないのです。

 誠の神を知るためには、新に生まれることが必要です。聖書に、「神の言葉によって新しく生まれる」とあります(ペテロの第一の手紙1・23)。生ける誠の神である聖書の言葉によって新しく生まれるのです。

 聖書に生ける神、リビングゴッド(living God)という言葉がありますが、これはリビング、生きている事が神を意味しているのです。また、I am the all mighty Godという言葉がありますが(創世記17・1)、生きているということがall mighty Godになるのです。

 生きているということがmightyになるのです。私たちが鼻から息を出し入れしていることは、mightyになるのです。

 目で見ることがmightyです。これが神です。これが神ですから、私たちが鼻から息を出し入れしていることがmightyです。日本人が考えている神とは全然違うのです。

 人間は母親から生まれてきましたが、これは仮の人間です。必ず死んでしまう人間です。そこで、死にたくないと思ったら、新しく生まれる必要があるのです。神の言葉によって新しく生まれることによって、死なない命に生まれるのです。これを体験して頂きたいのです。

 人間の実体は肉体ではなくて、神の口から出る言葉が実体なのです(マタイによる福音書4・4)。

 聖書の言葉は概念ではなくて、実体を持っているのです。人間の言葉でも実体があるのです。例えば、パン屋さんに行って、「このパンをください」と言ってお金を払えば、そのパンをくれるのです。そして、食べられるのです。言葉が実体になって現われるのです。

 神と人間との関係もそのとおりです。創世記に「神が『光あれ』と言われた。そこで、光があった」とあります(1・3)。水の間に大空があって、「水と水とを分けよ」と神が言ったので、そのようになったのです(同1・6)。

 神が人間を生かそうと考えた。そこで、人間が生きているのです。神が目を働かせている。そこで、人間の目が見えるのです。神が人間の心臓を動かしている。そこで、人間が生きているのです。これが神と人間との関係です。

 例えば、花が咲いているとします。咲いているのは咲いている世界があるのです。目は咲いている世界が分かります。私たちの心は咲いている世界の中へ入っていけるのです。これはシャーマニズムではなくて、リアリズムの最も端的なことです。

 花が花であることとは何かです。「であること」が花として現われているのです。花が咲いているというのは、花であることが花があることになって咲いているのです。「であること」が神です。

 森羅万象の上に天が広がっているのです。下を見ると花という形しか見えないのです。花の上というのは、花が咲いているという事がらです。花が咲いているという事がらと、花とは違うのです。

 花は目に見えますが、咲いているという事がらは見えません。これが霊です。これが神です。

 上というのは英語ではaboveですが、これは上と訳さなければしょうがないのです。上とは事がらです。状態です。ここに神が実在しているのです。

 地球が自転公転しています。森羅万象があります。大自然があります。自然現象があるのは、その原理がなければならないのです。

 花は花でありうる原理がなければならないのです。これが神です。これが上です。この上を天とも言いますし、霊ともいうのです。天にましますと言っても、霊にましますと言っても同じことなのです。

 「神は霊である」とありますが(ヨハネによる福音書4・24)、「神は天である」と言ってもいいのです。神が天にましますとは、神は天そのものでありますという意味です。天そのものであります神の御名を崇めなさいと言っているのです。

 目に見える形があるのは下です。仏典に胎蔵界という言葉があります。森羅万象の世界があることを胎蔵界と言っているのです。

 胎というのは母の胎内の胎です。女体の胎です。現在の森羅万象は人間のはらわた(腸)みたいなものだというのです。

 私たちは今森羅万象の世界に生きているのです。神のはらわたの世界に生きているのです。はっきり言いますと、人間は肉体的には生まれていますけれど、まだ霊的に生まれていないのです。これが胎蔵界にいる人間の状態です。これは母の胎内にいる状態です。

 人間が母親から生まれるように、皆様の魂が万物として現われている神に育てられて、発育するのです。そうして、新しく生まれるのです。現世に生きている肉なる命ではなくて、霊なる命を自覚するようになるのです。そうして、生きていながら上の生活に入ってしまうのです。

 上という字は引っ繰り返すと下になるのです。下を引っ繰り返すと上になるのです。皆様は現在生きている姿を、肉体的にしか見ていません。これは下の状態として見ているのです。

 肉体的に生きている状態を上から見れば、上になっている自分が分かるのです。キリストの復活以後の人間は、皆様が信じても信じなくても、全部復活の命として働いているのです。神がそういう処置をしているのです。

 今年はキリスト紀元の二〇一六年です。キリスト紀元というものは人間が新しくなってしまってから二〇一六年経過しているということです。

 皆様が今生きているのを上として見たらいいのです。ただそれだけのことです。そのように見ることができたら、神も見えるし、命も見えるのです。天国がはっきり分かるのです。

 現在、肉体的に生きている気持ちを肉的ではなく、霊的に見るのです。肉的というのは現世的な意識、世間一般の人間の常識、知識による意識です。現実的な意識によって見る意識です。

 現実的な意識ではなくて、事がらとして見るのが霊的な見方です。生きているという事がらとして見るのです。これが霊的な見方です。

 花を見ても、花を物質として見ないで、花が咲いている事がらを見るのです。花が咲いているというのは、咲いているという事がらです。これを見ていることが分かりますと、霊的に見ることができるのです。

 実は私たちは無意識にそうしているのです。目が鼻が咲いている事がらを見ていながら、意識が物質的な花を見ていると思っているのです。これが肉の思いです。

 肉の思いがある間は神は見えません。肉の思いがなくなってしまいますと、万事万物が存在していることが皆神であることが分かるのです。

 森羅万象は神が化けているのです。そうでなければ、森羅万象が存在するはずがないのです。森羅万象として神が自らを提起しているのです。

 森羅万象を見ることによって、霊なるものを見ることができるのです。これを観世音というのです。万物の姿を見たり、万物の音を聞いている。これが観世音です。観世音することがこの世に生まれてきた目的です。

 仏典の真髄と聖書の真理を織り交ぜて考えますと、非常に良く分かるのです。花が咲いていることの実体が分かるのです。

 本当の世界に入っていきますと、言葉が神であることが分かるのです。

 聖書に、「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった」とあります。言の本質は遺伝子の原理でありまして、花が咲いていることが遺伝子の働きです。花というもの、咲くというのも遺伝子の働きです。固形的にあるものと、活動的に働くものとは、遺伝子が違うのです。

 イエスが神を見ている状態が本当の信仰です。イエスの見方だけが正しい見方になるのです。ところが、日本人にとってはイエス・キリストが悪魔のように見えるのです。嫌で嫌でしょうがない。一番嫌なのです。日本人はキリストが一番嫌なのです。

 キリストという言葉が日本人は一番嫌いです。こういう日本人的なばかばかしい先入観を捨てて、皆様が鼻から息を出し入れしていることが神だということが分かればいいのです。

 イエスはこういう見方で神を見ていたのです。「私は神の内にいる」と言ったのです(ヨハネによる福音書14・10)。神の内にいることがイエス自身だったのです。

 人間はホモ・ファーベルからホモ・サピエンスに進化したのですが、ホモ・ファーベル以前には、ホモ・ラボランスという者がいました。これは働くことも理性を持つこともできない人間です。全くの類人猿みたいなものでした。知恵もなく働くこともできない者でした。

 ホモ・ファーベルになると、石で獣を殺したり、弓矢で動物を殺すことができたのです。ホモ・ファーベルというのは働く人間という意味です。

 ホモ・サピエンスは考える人間です。遊んでいる類人猿と、働くことだけの人間と、考えることができる人間と、三種類の人間がいるのです。

 現在、人間が生きています。これは考えるという形で生きていることを意味しているのです。これがホモ・サピエンスです。考えるという形で生きているのは、ホモ・ファーベルではないのです。

 考えるとはどういうことかと言いますと、商売のことを考えるとか、政治のことを考えるというのは、考えることにはならないのです。これは先人のやり方を踏襲したら、何とかできるのです。これは考えなければならない程難しいことではないのです。

 政治は難しくないのです。その時の世界のあり方、日本の事情を考えたらいいのです。この場合の考えるというのは思案するということです。

 本当に考えるということは、自分が未だに経験しなかった世界に踏み込んでいくことです。考えるという原理は神に帰るということです。人間の生命の本質を見極めようとすることです。

 皆様のように永遠の生命を見つけてやろうという人は、考える人になるのです。

 商売のことは理性を使わなくてもできるのです。知性だけで十分です。常識で十分です。理性は知性よりも次元が高いのです。

 無の働きによって地球ができた。こういうことは理性によらなければ考えられないのです。

 宗教や哲学は人間が生きているということから出ていません。生きている人間が幸せになろうと思うのです。

 本当に考えるということは、神に帰ることであって、現世から離脱することを考えることが、考えるということです。

 皆さんはそれができるのです。私の勉強会に参加して、熱心に勉強して、自分自身から出ていこうとしているからです。

 今までの生き方は間違っていたので、今までの人生ではない別の生き方の世界へ進んでいこうという気持ちが働いているのです。これが本当に考えるということです。

 世間の人がやっていないことをするのです。これが本当のホモ・サピエンスです。

 生きているというのは世間並に生きているのです。世間並に生きているということは、死んで行くに決まっている人間と同様に生きているのです。

 世間並の人間と同様に生きることをやめて、生かされているということを自覚するのです。命は自分のものではない。神が人間を生かしているのです。こういう考え方を持って頂きたいのです。

 そうすると、命に対する考え方が変わってくるのです。これが考えるということです。これができる人はめったにいないかもしれません。本当に、ホモ・サピエンスと言える人は今の日本には非常に少ないでしょう。

 エコノミックアニマルというのは、考える人間ではないのです。エコノミックアニマルはホモ・ファーベルのことです。働く人のことです。日本人は働く人間ではあるが、考える人間ではないのです。

 現在のアメリカ人もイギリス人も、皆ホモ・ファーベルになっているのです。私たちが初めて本当に考えるということを教える人間になるかもしれないのです。

 これは私たちが初めではではないのです。釈尊がいたのです。イエスがいたのです。釈尊はユダヤ人ではなかったのですが、空を掴まえたのです。

 異邦人の中で釈尊だけは研究する値打ちはあります。孔子、孟子、荘子は考える人ではなかった。老子は考える人に近かったと言えるでしょう。異邦人の中で本当に考えた人は釈尊だけだったと言えるでしょう。

 老子は考える人に近かったと言えますが、結論を見つけてはいないのです。無が働いて地球ができていると言いましたが、地球が何のためにできたのかということが分からなかったのです。地球曼陀羅を完全に読んでいないのです。地球曼陀羅が読めないと、本当に考える人とは言えないのです。

 皆様は今までの日本人のレベルではない、もう一段、上のレベルに立って頂きたいのです。考える人間になって頂きたいのです。

 そうすると、神に生かされている命が分かるのです。

 キリストまでの人間は人間的な生き方を自ら認識していなかったのです。神が父であることが分からなかったのです。

 老子、孔子、孟子、荘子という頭が良い、非常に謙虚な学者でも、神が全然分かっていなかったのです。神が分からないから、命も死も分からないのです。

 孔子は、「我、未だ生を知らず、いわんや死においておや」と言っています。死は分からないと言っているのです。生が分からないから死は何のことか分からないと言っているのです。

 当時の人間は死を恐れなかったのです。死ぬのは何でもない。当たり前だと考えていたのです。ところが、キリストが来たことによって変わってしまったのです。

 ノアの洪水によって、人間は全員動物扱いされるようになったのです。ホモ・ファーベルになったのです。ところが、イエスによって、この考え方が否定されたのです。

 イエスが神において生きることを実行したのです。そうして、死ぬべき運命を変えてしまったのです。このことによって、人間自身に復活する能力があることが証明されたのです。死を乗り越える能力があることが、イエスによって証明されたのです。

 イエスを勉強しようという気持ちがある方はイエスと同じ素質があるからできるのです。

 イエスそのものを勉強しようという方は、イエスと同じ能力があることを示しているのです。

 キリスト教はそうではありません。キリスト教の人々は自分が天国へ行きたいと考えています。これはイエスを勉強しようということとは違います。イエス様は偉い方で救い主様だと思っているのです。だから、自分とイエスは段違いだと思っているのです。

 キリスト様は偉いお方だ。だから、キリスト様によって自分が救われると思っているのです。これがキリスト教の考えです。

 宗教を信じている人々はホモ・サピエンスとは言えないのです。宗教を信じている人は、自分が救われたいのです。自分が救われたいから、寺や教会へ行くのです。自分を育てようと思っているのではありません。

 自分が救われたいと思うことが間違っているのです。イエスが誕生するまでの人間は、人間とは何かが分からなかったのです。イエスが現われたということは、人間の本来の価値がイエスのようなものであることを教えることが、目的だったのです。

 イエスが現われたことによって、考え方によって人間はイエスと同じになるのだということが証明されたのです。それ以後には、動物並の生き方を正しいとせず、イエスと同じような考え方を持つことができるということが可能になったのです。人間が死ぬべきではないことをイエスが証明したのです。

 これを神の側から言いますと、イエス一人が復活したということは、全人類が復活する可能性があることを神が認めたことになるのです。

 イエス一人が復活したことは、すべての人が復活する可能性があることを、神が認めたのです。

 もっと端的な言い方をしますと、神が全人類を復活させたのです。キリスト紀元では、すべての人間はもう死ななくても良い状態になっているのです。

 キリストという基本的な人格が神の前に確立されて、神がそれを認めたのです。キリストが甦ったということは、全人類を甦らせたということになるのです。

 イエスという曼陀羅を読むことが、一番難しいのです。神は一人の人を甦らせたのです。一人の人を甦らせたということは、全人類を甦らせたことになるのです。

 全人類が甦ることを神が認めたのです。

 甦るということは死を破ることです。皆様に死を破る資格が十分にあることを神が認証しているのです。神が認めているのです。

 皆様が神が認めているという認め方を勉強すれば、死なない命が分かるのです。死なない人間が分かるのです。

 純情素朴な頭には死なない脳波が働き出すのです。純情素朴がプラスのエネルギーを働かす原因になるのです。

 生きている者は死ぬけれども、生かされている者は死ぬことがないのです。

 神が地球を造った原因は死の法則を滅ぼすためです。最初、宇宙には死が無かったのですが、死が生まれたのです。どうして死が生まれたのかと言いますと、神の一族の中心になる者の霊が、自分がいるという意識を持ち始めたからです。自分が生きているという意識を持ち始めたからです。これが死の発生です。

 神の一族ですから、当然神において生かされていると思うべきなのですが、そう思わなくなったのです。神の一族の高官というべき者が、自分が生きているということを意識し始めたのです。

 ところが、自分が生きているという意識は、神以外には持ってはいけない意識です。神は自ら存在する力を持っていますが、神以外の者は神においてでなければ、生きていることはできないのです。

 人間でも、太陽光線や空気がなければ生きていけません。従って、人間は自分で自立、自存することはできないのです。このことを認めると、私たちの命は私たちのものではないことが分かるのです。従って、私たちは自分が生きているのではないのです。生かされていると考えなければならないに決まっているのです。

 ところが、地球が始まる前に、自分がいるという思いを持つ者が出現した。これが宇宙に死が発生した原因です。これを自滅させるために、神が曼陀羅を書き始めたのです。

 曼陀羅の原則が約束です。曼陀羅の原則になっている法則が神の計画です。神の計画はある目的があって始められたのです。その中心になる人格がイエス・キリストです。

 今世界中の人間は本当のイエスを知らないのです。アメリカでもイギリスでも、本当のイエスが全く説かれていないのです。ところが、本当のイエスの実体が私たちにおいて説かれているのです。これは驚くべきことです。

 本当のイエス・キリストの正体が日本で説かれ始められていることは、驚くべきことです。これが日本の国体と大関係があるのです。ですから、日本から世界の指導原理なるものが掲揚されるような高級な民族になるべきなのです。

 東の果ての民族が、最高のリーダーシップを取るのです。一番最低の民族が世界を指導する民族になるべきです。そういうことを神が期待しているのです。

 人格の本質を転換させようという新しい考えが、日本から出るべきなのです。

 絶対真理というものには条件があります。これが分かると、共産主義のどこが間違っているのか、宗教のどこが間違っているのか、白人文明のどこが間違っているのか、日本人の今までの世界観のどこが間違っていたのかが分かるのです。

 ですから、今までの矮小な自分の考えに固執しないで頂きたいのです。

​(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

bottom of page