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                          リビングの実体

 

 生きているということが、神の救いのしるしです。この他に救いはありません。生きているということが救いですから、これをしっかり掴まえて頂きたいのです。

 

 聖書に次のような不思議な言葉があります。

 「それから、人々に向かって言われた、『あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである』。

 そこで、一つの譬を語られた、ある金持ちの畑が豊作であった。そこで、彼は心の中で『どうしようか。私の作物をしまっておく所がないのだが』と思いめぐらして言った、『こうしよう。私の倉を取り壊し、もっと大きなものを建てて、そこに穀物や食糧を全部しまい込もう。そして、自分の魂に言おう。魂よ、お前には長年分の食糧がたくさん貯えてある。さあ安心せよ。食え、飲め、楽しめ』。

 すると、神が彼に言われた。『愚か者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、誰のものになるのか』。

 自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである」(ルカによる福音書12・15~21)。

 この箇所はイエス在世時代を除いて、過去二千年の間に、未だかつて正確に説かれたことがないのです。これは全く不思議な文章です。分かりやすいように思えるけれど、分からない文章です。

 この箇所が分かれば、皆様は完全に救われるのです。女性にこれが分かっていないのです。だから、貞操ということが全然分からないのです。肉体の貞操ばかりを考えて、魂の貞操を全然考えていないのです。男性もこれが分かっていないのです。

 人間と魂とは別です。一人の人の中に固有名詞の人間と、魂とが同居しているのです。普通は人間が主人公になっていますがこれは大間違いで、魂が主人公でなければならないのです。魂が主人公になれば、間違いなく救われるのです。

 皆様はリビングを毎日、毎日経験しています。これが救いの当体です。固有名詞の自分は救われる必要がないのです。リビングということは、救い主なる神ご自身が現実に皆様に神の実物を提供しているのです。

 こんな厳粛なものを与えられていながら、皆様は全く無頓着です。皆様にはもったいなすぎるのです。そこで、リビングが何であるのかはっきり掴まえたら、もう死なないのです。

 リビングとは何か。五官、心理機能、生理機能が働いていることです。現実に生きているリビングは、人間ではないのです。現実に生きているリビングは生ける神の子です。リビングの子ですから、生ける神の子です。ところが、皆様は固有名詞の人間が生きていると思い込んでいるのです。

 一人の男が生きている。一人の女が生きていると思っているでしょう。これは神がわざわざ与えている永遠の命の自分を毎日、地獄へ突き落していることになるのです。

 人間は本当にもったいないことをしているのです。リビングというのは天です。「天にまします我らの父よ」という主の祈りがあります。神は天にまします。天にましますという日本語の訳はあまり良くないのです。天でありますと言ったらいいのです。天であります我らの父よと祈るのがいいのです。

 天にましますというのは、宗教観念を持った人が訳したのです。天にましますというのは、天そのものでいますという意味ならいいのです。天そのものでいますを天にましますと言えなくはないのです。天に座っていらっしゃるという意味で考えるとしたら、この言葉は大変悪いのです。

 天であります我らの父よというのが、一番良い訳です。神は天です。皆様は自分自身の部屋を持っているのです。その部屋には神がいるのです。この部屋がインナーチェンバー(inner chember)です。この隠れた部屋には神がいるのです。

 誰でも部屋を持っています。ここに神がいるとすると、自分自身が天を持っているのです。神が天です。自分自身が生かされているという事がらが天です。自分の肉体があること、女の人は女であることが天です。

 女であることが天です。男であることが、また天です。

 男はエデンの園で深く眠らされたのですが、未だに現世で眠っているのです。深く眠らされた男は、未だに深く眠っているのです。眠っているから、善悪を知る木の実を食べて死んだことが分からないのです。善悪の木の実を食べて、神の掟を破ったことが、全然分からないのです。深く眠っているから分からないのです。

 寝ているから分からないのは当たり前だということができるのです。考えてみるとひどいものです。

 女は罪を犯していないので、個我がないということが分かればいいのです。自分の貞操はありませんが、女の貞操はあるのです。自分はいないから自分の貞操はないのです。これが本当の貞操の見方です。女の人は貞操ということが全然分かっていないのです。

 男は善悪を知る木の実を食べたことが、全然分かっていないのです。眠っていて食べたものだから、分からないのは当たり前だと言えるかもしれないのです。

 男は深く眠らされたままで善悪を知る木の実を食べたので、死んだということが分からないのです。そこで、聖書は、「眠っている者よ、起きなさい。死人の中から立ち上がりなさい」と言っているのです(エペソ人への手紙5・14)。まず眠っている状態から起きること、そうして、死人であることをはっきり自覚して、死から出なさいと言っているのです。男はこういう二段階を経なければいけないのです。

 人間はリビングが分からないのです。リビングとは生かされていることです。これはそのまま永遠の命です。生かされているということさえ分かれば、絶対に死なないのです。

 「そして、自分の魂に言おう。魂よ、お前には長年分の食糧がたくさんある」と言っているのです(ルカによる福音書12・19)。リビングの実体に向かって、魂よと言っているのです。

 人間の魂とは何か。リビングそのものが魂です。リビングソール(living soul)と、リビングゴッド(living God)は同じものなのです。

 リビングソールにおいてでなければ、リビングゴッドはあり得ないのです。リビングゴッドにおいてでなければリビングソールはありえないのです。

 リビングということは、神にも魂にも通じるのです。リビングということは大変なことです。ザ・シール・オブ・ザ・リビング(the seal of the living)は大変なことを言っているのです。これが日本に与えられた生ける神の印です。リビングが神です。生ける神です。

 リビングを人間の側から見ても間違ってはいないのですが、人間の側からだけ見ると、魂を失ってしまう見方になるのです。神の側から人間の魂を見ないといけないのです。

 人間の側からだけで魂を見ているから、「愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう」と言っているのです。

 聖書の言葉を正確に読むのと読まないのとでは、大変な違いになるのです。正確に読んだら、現実に生きていることがそのまま永遠の命であることが、はっきり分かるのです。分かるように書いてあるのです。こういう聖書が与えられていながら、死んでしまうというのは、本当にもったいない話です。

 今皆様の目が見えます。今目が見えるということが、生ける神が共にいますということです。生ける神が共にいますから、目が見えるのです。これが生ける御霊の働きです。これさえ分かれば死なないのです。

 目が見えることが御霊の働きだということが分かることを信仰というのです。自分が生きていると考えたら、御霊を無視しているのです。御霊をなみしているのです。これは御霊に逆らっているのであって、この人は死んでしまうのです。

 自分が生きていると思って生きている人は、自分の記憶で生きているのです。自分の記憶で生きないで、信仰によって生きるのです。そうすると、自分の記憶は消えてしまうのです。自分の記憶が消えて、信仰だけが毎日残っていくのです。そうすると、死ななくなるのです。このようにして、記憶の入れ替えは完全にできるのです。

 記憶の入れ替えをして下さい。自分の記憶はこの世を去ってしまうと凍結します。人間の記憶は現世を去ったら凍結します。記憶が凍結すると、黄泉(よみ)になるのです。

 記憶が凍結すると、それが黄泉を造っていくのです。黄泉が初めからあるのではない。人間の記憶が黄泉を造るのです。自分の記憶が自分の黄泉を造っていくのです。

 黄泉は孤独です。自分の記憶は他人の記憶と一緒にはなりません。自分の記憶はいつまでも自分だけの記憶です。

 死んだら自分が親しかった人に会えるとか、去年死んだ人に出会えると思ったら大間違いです。死んだら、自分の記憶の世界へ行くのです。自分の記憶が自分の行き先を決定するのです。これが黄泉です。

 自分の記憶を持ったままで死んだ人は、必ず黄泉へ行くのです。間違いありません。

 生きていることがリビングです。生きていることは神に生かされていることです。神に生かされているということは、神の命を与えられているということです。これが救いなのです。これが分からない人はだめです。

 聞き方が足りないという人はもっと聞いてもいいのです。そして、分からないことはどんどん質問したらいいのです。

 皆様の食生活は生まれる前のエデンの園からの伝承です。エデンの園から伝えられているものを受け止めているのです。性もそうです。食生活、性生活というのは、皆様が信じても信じなくても、先天的なものです。先天性というものは、永遠性ということです。

 食生活や性生活というものが、現世におけるリビングの基本になっているのです。食と性が家庭の基本です。この他にはないのです。

 人間は食と性があるから働いているのです。性に関係がない人でも食は必要ですから、働いているのです。

 人間が現世に生きていることは、前世に係わりがある食と性が基本です。この世に生きているということは、前世に生きていたことの続きになっているのです。これをいくら否定してもだめです。

 本能的なことが皆様の生活の中心になっているということが、皆様の生活がリビングであって、リビングは前世からの続きになっているということを示しているのです。これを否定してもしょうがないのです。

 聖書を信じていても、信じていなくても、このことはすべて真実なのです。皆様が現実に生きていて感じていること、例えば、砂糖を舐めて甘いと感じることが、永遠の命に係わりがあるのです。

 甘いとはどういうことか、これが霊魂に係わりがあるのです。食べておいしいとか、形を見てきれいだと思うこと、人間の五官で感じているのは、初めからあった命の言葉を感じているのです。

 初めからあったというのは、地球ができる前、宇宙のビッグバーンが始まる前ということです。それを皆様は初めからあった命の言葉として、毎日、見たり聞いたり、舌で味わったりしているのです。これをリビングというのです。

 皆様のリビングは、百三十億年以上も前のことを、毎日経験しているのです。

 科学の思想はだめです。科学は物質があると信じているのです。そういうものはないのです。科学や、いろいろな学問を信じると、リビングが信じられなくなるのです。

 遺伝子があるのではない。電子の運動があるのではない。素粒子があるのではない。宇宙全体にオールマイティーがあるだけです。これを現実というのです。これをリビングというのです。

 科学は人間が造った思想です。これは肉の思いです。科学を信じることは、死を信じることになるのです。科学がいうことが仮に正しいとしても、オールマイティーゴッドに対しては、何の価値もないのです。人間の命には三文の価値もないのです。

 リビングがあるだけです。この中に哲学も、科学も、原子も、自然現象も皆入っているのです。こういうものを全部含めてリビングというのです。リビングゴッドというのです。

 リビングゴッドという事実はありますけれど、科学的事実、学問的事実というものはないのです。こういうものを夜店の屋台のように並べて誇っているのがユダヤ人です。これをルネッサンスというのです。ですから、ルネッサンスの考え方が根本から間違っているのです。

 科学を生活のために利用するのは構いません。それを尊敬することが間違っているのです。

 リビングということ自体が永遠の命です。リビングの実体が本当に分かると、聖書がありありと分かってきます。

 イエスがこの世に現われたのは、リビングをどのように生きたらいいのかということを、私たちに教えるためです。リビングがそのまま命です。これを教えるためにイエスは来たのです。

 皆様もイエスと同じ生き方をしたらいいのです。分からないことがあったら、神にアスクしたらいいのです。神にアスクしたら大体答えてくれるのです。質問の仕方が悪いといけないのです。御霊を崇めて、御霊に質問するのです。

 御霊を崇めることが下手な人は、御霊に質問をすることも下手です。御霊に質問しているつもりでも、していないのです。そういう人は人間に質問しなければしょうがないのです。

 そういう人は私に質問して下さい。どんどん質問して下さい。そうして、御霊に質問することができる人にできるだけ早くなって頂きたいのです。

 人間が魂に問いかけていることはしばしばあるのです。金持ちが自分の魂に向かって、「魂よ」と言っていますが、この場合の魂は英訳では大文字のソウル(SOUL)になっています。

 人間は普通、魂を小文字のソウル(soul)として見ています。その人は大文字の魂で感じるような手応えはありません。

 大文字の魂は、神とほとんど同じものとして見ているのです。神なくして魂はないし、魂なくして神はないのです。神と魂は親子の関係です。

 

 イエスは、「祈る時、自分の部屋に入り、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい」と言っています(マタイによる福音書6・6)。

 

 自分が生きているということが、自分の部屋です。これが隠れた部屋です。生きているという部屋の中には、父なる神がおられるに決まっているのです。

 生きているということが天です。生きているという天には、神がいるに決まっているのです。人間は誰でも生きているということを持っているのです。持っている以上、神を持っているに決まっているのです。

 こういう感覚で神を仰ぎ見ることになりますと、神も大変喜んで相手になって下さるのです。

 一番必要な心理状態を言いますと、神を信じるということです。これが異邦人にはなかなかできないのです。

 本当に真正直に、生真面目に、本当に誠意を尽くして、あるがままの状態で神を信じて、神に物を言えば、神もまた、あるがままの状態で相手になってくれるのです。これが分かるのです。はっきり分かります。手応えがあるのです。

 そうして、神の御心を実行しなければならないということが分かるのです。神とイエスの状態と同じ状態になることができるのです。

 自分の記憶で生きるのではなくて、信仰によって生きるのです。

 人間が普通の常識で生きていたら、全部記憶になります。信仰で生きていると、神の御座(a great white throne)がそのまま自分が生きている場になるのです(ヨハネの黙示録20・11)。大変なことになるのです。

 神は皆様と一緒にいるのです。皆様が生きているということは、当たり前のことではないのです。人間が生きているということ、リビングソールということは、これは不思議な経験をしているのです。

 いろいろなものが食べられること、見えること、聞こえること、男から見て女がいること、女から見て男がいること、これは全く前世の感覚です。前世と同じ感覚で見ているのです。

 私たちは驚くべきロマンの世界に生かされているのです。これが分からずに死んでいくというのは、全くの馬鹿です。大馬鹿です。

 人間は現世で大変なことを経験しているのです。リビングという世にも不思議なことを経験しているのです。人が生きているということは、興味津々たるものです。不思議なものです。

 リビングというのは楽しいものです。お茶を一杯飲んでも、ミカンを食べても、それは不思議な経験をしているのです。

 皆様は現在生きているのですから、不思議な経験をしているということを承知して頂きたいのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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