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                           本具の自性

 

 仏典に本具の自性という言葉があります。皆様が生きている命は、本具の自性の命なのです。これは死なない命です。

 皆様は本来、死なない命を持って生まれたはずです。本具の自性は死にたくないという願いを持っているのです。これは本願とも言います。

 皆様は時間や空間を生きているのです。常日頃、生活でそれを使いこなしているのです。これが人間の生活です。時間、空間は人間が造ったものではありません。時間、空間は宇宙の本具の自性が現われているのです。

 本具の自性というのは、本当の命のあり方という意味です。宇宙の本当の命のあり方が、時間や空間になって現われている。これを神というのです。

 皆様は宇宙の本当の命、宇宙の真髄である命が現われている時間や空間というものを使いこなしているのです。皆様の本具の自性は、宇宙の本具の自性を使いこなすだけの力を持っているのです。

 時間、空間を平気で使いこなしているところを見れば、皆様の霊魂の本質、本性は宇宙の大生命の真髄を、十分に知っているのです。

 ところが、皆様は自分が生きているというばかな思いのために、神が分からなくなっているのです。空間の本質が分からなくなっているのです。そこで死んでしまうのです。

 皆様の本具の自性は死なないものです。死なない命を持って生まれていながら、この世で生きている生き方が間違っているために、死ななければならないことになっているのです。

 死ななければならないだけならいいのですが、死んだ後に裁かれることになるのです。皆様は現在、時間や空間を使いこなしています。だから、自分が生きている生き方を本当に知ることができさえすれば、自分自身の生き様、自分の生態を知ることができさえすれば、死なない命を見つけることは十分にできるのです。

 ところが、文明というばかなものに騙されて、政治、経済、学校教育に騙されて、ばかになっているのです。だから、本具の自性である霊魂においては、時間、空間を生きこなしていながら、魂が死んでしまっているのです。

 現実の生活では時間、空間をこなしていながら、精神的には死んでしまっているのです。こういうばかなことをしているのです。これを文明というのです。ばかな文明です。

 皆様が受けた学校教育は、こういうばかなものなのです。皆様自身の命を殺してしまうようなものです。皆様の霊魂の自性、本具の自性を殺してしまうようなものです。そのために、せっかく持って生まれた命、時間、空間を使いこなすような命を持っていながら、死んでしまうことになるのです。

 人間は時間、空間を使いこなしていながら、時間、空間の本質がさっぱり分からない。これはどういうことでしょうか。これをばかと言わずに何と言ったらいいのでしょうか。人間はそういうばかなことをしているのです。だから、死んだらとんでもないことになるのです。

 死んだら皆様の魂は全く惨憺たる状態になるのです。自分の命を無駄に生きていたからです。日本人は一人もこれが分かっていないのです。

 般若心経を千年の間読んでいながら、般若波羅蜜多が少しも分かっていないのです。何のために人間は生きているのでしょうか。皆様は死んだら必ず地獄へ行くのです。

 地獄は本来ないのですが、皆様の生活態度が間違っているために、自分自身で、毎日、毎日、地獄を造っているのです。だから、地獄へ行くことになるのです。

 皆様の生活の根本原理が間違っているということを、まずはっきり承知して頂きたいのです。政治、経済というばかなものに騙されて、学校教育というばかなものに騙されて、皆様の人格は本質を見失っているのです。だから、この世を去ってしまうとひどいめに合うのです。

 皆様は生きていながら、命が分からないのです。生きているということは、時間、空間を使いこなしているということです。時間、空間を現実に使いこなしていながら、そのことが自分で分かっていないのです。これは自分で自分の命を踏みにじっていることになるのです。こういう生活をやめて、般若波羅蜜多を考えて頂きたいのです。

 人間の常識、知識というものが、初めから間違っているのです。人間の命を殺すものが、常識、知識なのです。時間、空間を使いこなしている本来の状態に帰って頂きたいのです。

 人間はただ生活していると、自分の生活のことだけしか考えません。自分の命の将来のこと、死んだらどうなるのかということを、全く真面目に考えようとしません。

 命について真面目に考えようという気持ちが起きてきますと、今の状態で生きているけれど、一体何をしているのか、生活をしていることが、何をしていることになるのだろうかいうことを考えるようになるのです。

 こういうことを真面目に考えさせられるのが、正常な人生です。こういうことを真面目に考えられない人は、初めからその霊魂は死んでいるのです。

 生活することは必要です。ところが、生活することには目的がなければならないのです。ところが、現代人は生活の目的を持っていないのです。

 子供を大学へ入れるとか、家を建てるという目的を持っている人はたくさんいます。貯金をするとか、保険に入るというのは生活の目的です。人生の目的ではないのです。人間がこの世で生活していくことの目的です。

 恋愛とか、結婚、職業というのは、皆現世で生きている場合の問題なのです。これは生活の問題に属する話です。これは誰にでもできるのです。これは人生の目的ではなくて、生活の目的です。

 私たちに必要なものは、何のために生きているのかという人生の目的です。現代の人間には、これが全くないのです。人間の魂が死んでしまっているからです。

 現代人の魂は学校教育のために殺されているのです。従って、人生を真面目に考える力を失っているのです。だから、般若心経を読んでも、般若波羅蜜多の意味が分からないのです。

 般若波羅蜜多というのは、彼岸へ渡る知恵を言いますが、彼岸へ渡るということの意味が分からないのです。だから、そういう知恵を持たねばならないとは思えないのです。

 般若心経の文句をいくら読んでみても、五蘊皆空とか色即是空といくら読んでも、分からないのです。

 白人は色即是空ということが、皆目分かりません。キリスト教という宗教を信じている人は、色即是空が全く分かっていないのです。だから、自分が救われると思っているのです。死んでから天国へ行けると思っているのです。こういうばかなことを考えているのです。

 生きているうちに、時間、空間が分からなかった者が、死んでからどうして天国へ行けるのでしょうか。生きているうちにはっきり人生目的を考えていなかった人、現世に生きていることだけを考えていた人、魂の目的を持っていなかった人が、死んでから天国ヘ行けるというばかばかしいことがあるはずがないのです。

 これはキリスト教だけではありません。仏教でも仏国浄土へ行けるということを考えているのです。仏国浄土も天国も同じことです。これは宗教の夢物語です。そういう宗教の夢物語を信じて、現実に生きている人間がこのまま天国や極楽に行けると思っている。そんなことはあり得ないのです。

 現実に生きていながら、時間、空間の本質が分かっていない者が、死んでから天国へ行くとか、極楽へ行くというばかなことがあるはずがないのです。

 宗教は人間を騙しているのです。仏教もキリスト教も、天理教も、PL教団も、日本にあるあらゆる宗教、もっと大きく言えば全世界の宗教は、人間の霊魂を殺しているのです。

 宗教によって騙されて、人間の魂が殺されている。宗教は文明の一翼を担っているのです。宗教や教育は、文明の一翼を担っているのですが、文明そのものが間違っているのです。文明を担いでいる宗教も、間違っているに決まっているのです。

 文明に賛成している教育も間違っているのです。学校教育は社会に役に立つ人間を造っている訳ですから、実学教育という意味では価値があるのです。

 ところが、人間は社会的に教育されてしまっているのです。人間の考えはこれでいいものだというように、世の中全体の流れによって自分自身の魂が殺されているのです。だから、魂の話を聞いてもさっぱり分からないのです。

 教育によって洗脳された皆様は、死ぬに決まっているのです。今生きている命は、必ず死ななければならない命です。必ず死ななければならない命であることが分かっていながら、その命をやめることができないのです。死ぬべき命の外へ出ることができないのです。これが皆様の霊魂が死んでいる証拠です。文明はそれほど悪いものです。

 白人によって造られた文明は生活のためにはなりますけれど、魂のためには非常に悪いのです。

 文明を生活のために利用するのは結構です。車に乗ったり、電車、飛行機に乗ったりするのはいいでしょう。文明を利用するのはいいのですが、文明にかぶれることは絶対に悪いのです。

 皆様の頭は文明にかぶれてしまっているのです。皆様は文明を尊敬しているでしょう。尊敬していなくても、信じているでしょう。文明病にかかっているのです。

 文明病にかかっているために、皆様の霊魂は文明に殺されてしまっているのです。白人主義の文明に殺されているのです。キリスト教の文明に殺されているのです。

 キリスト教というのは、これほど悪いものです。人間の本当の命を考えないで、人間の霊魂を殺してしまうのです。宗教はそれほど悪いものです。

 文明の本質が人間の本質を裏切っているのです。皆様はそういう状態で生活させられているのです。皆様の肉体の生活はこの世にいるのは仕方がないのですが、魂の目を開くことによって、霊魂だけはこの世から出てしまうことを考えなければならないのです。そうしなければ、毎日、毎日の生活によって、皆様は地獄へ追いやられることばかりをしているのです。だから、この世を去ったらひどいことになるのです。

 皆様の魂は本具の自性でありまして、非常に尊いものです。非常に尊いものを皆様は毎日の生活によって、踏み殺しているのです。ひどいことをしているのです。

 もっと霊魂のことを考えて下さい。文明に従わないで、自分の本具の自性、魂の本性に従って生きるような生き方をして頂きたいのです。

 毎日の生活で、地獄を造るというばかな生活をやめて頂きたいのです。

 本具の自性を何が持っているのかと言いますと、霊魂が持っているのです。人間が持っているのではありません。霊魂の本質が本具の自性を持っているのです。

 霊魂は人格によって現わされているのです。皆様の人格は格です。命には格があるのです。人間が生きている命の状態を人格と言います。これは何処から来たのかと言いますと、神から来たのです。

 神には神格があります。神の神格から人間の人格ができているのです。神は目に見えないものです。人は目に見えるものです。これが違うだけです。神と人とは格が違うだけです。

 神と人は本質は同じですが、格が違うのです。皆様の命は皆様のものではありません。命は本質的には神のものです。神のものだから、皆様には格が与えられているのです。格があるということは、自分のものではないということです。これが人格です。

 皆様は生まれた時から、母親のおっぱいの味を知っているのです。赤ちゃんは生まれる前におっぱいの味を知っていて、生まれてきたのです。

 人間には前世があったのです。前世があって現世があるのです。前世で人間の人格の基礎ができたのです。現世では人格が肉体的に現われているのです。これを魂というのです。

 前世で命の基礎がありました。現世でそれが肉体的に現われているのです。この状態を魂というのです。肉体が魂ではありません。人格が肉体的に生きている状態を魂というのです。肉体には大いに関係がありますが、肉体は魂ではないのです。

 人格が肉体的に生きている状態が魂です。自分が生きていると考えないで、生きている状態を考えて生活すれば、生きている在り方が変わってしまうのです。これを信仰というのです。

 信仰という言葉は大体よくないのです。宗教では信仰という言葉を盛んに使っていますので、私が信仰と言いますと、宗教の信仰と混同されてよくないのですが、信仰というのは、自分の霊魂が生きている状態をそのまま見つめて生きることをいうのです。

 自己存在が生きている状態を見つめるのです。そうすると、神が分かるのです。これが正しい信仰です。自分が生きている状態を見つめることによって、正しい神を発見するのです。

 日本には紙屑みたいに神が山ほどあるのです。あってあって困るくらいにあるのです。八百万の神々と言いますから、八百万も神があるのです。

 日本の神社で考えている神というのは、実在しないのです。それは人間の妄念で造った神です。

 人間の魂に勝つものはありません。自分の魂の本質を弁えることです。そうすると、誠の神が分かるのです。これを実行して頂きたいのです。

 霊魂の本質は生まれる前にあったのです。これが前世です。生まれる前に前世があった。前世で人間の人格ができたのです。人間の人格の基本原理が前世でできたのです。

 ところが、前世で間違えたのです。前世で陥罪という間違いを犯したのです。前世で間違えたのです。だから、現世に生まれて来なければならなくなったのです。

 人間は前世で失敗をしたので、現世に生まれてこなければならなくなったのです。

 人間はこの世に生まれた時に、カルマを持たされたのです。この世に生まれたというカルマ、業(ごう)を持たされたのです。皆様が肉体を持っているというのは、業です。

 大体、人間の人格の本質、本性は、神の人格と同じものでした。それが肉体を持たねばならなくなったのは、生まれる前に罪を犯したからです。前世で罪を犯したのです。前世で間違えたのです。

 前世で人間は神を見ることをしないで、自分を見たのです。神を見ることをしないで自分を見ていたために、自分が生きているという妄念を持たねばならないような因縁を造ってしまったのです。

 皆様は現在、自分が生きていると思っているでしょう。自分の命があると思っているでしょう。こういう間違いは前世で造ってきたのです。前世でそういう妄念を造ったのです。現世に生まれた時には、自分が生まれてきたという妄念を持たされて生まれてきたのです。その時に、皆様は死ぬべき命を背負いこんで生まれてきたのです。

 そこで、現世に生きている間に、この世に生まれてきた業(ごう)を果たしてしまえば、死なない命に帰ることができるのです。

 どうすればいいのかと言いますと、自分自身の本具の自性という人格を見つけたらいいのです。罪を犯す前の自分の自性に帰ったらいいのです。

 自分という人格の前の人格に帰るのです。陥罪する前の人格に帰るのです。

 自分の人格を自分で握り込んでいる間は、必ず死にます。死んだら地獄へ行くのです。なぜ地獄へ行くのかと言いますと、自分の命を間違った方向へ連れて行って、毎日、毎日、生活しながら、自分の命を汚してきたからです。そういう実録があるのです。実歴があります。その尻ぬぐいを自分でやらされるのです。これが霊魂の裁きです。

 前世における間違いを、現世において正そうとしないで、前世の間違いをそのまま現世で生きている。自分が生きているという人間のカルマ、人間の妄念に従って生きていると、生きているということが、毎日、毎日、罪を犯していることになるのです。

 毎日、毎日、現世で罪を犯していたという償いを来世でやらされるのです。

 自分という人格がその責任を取らされることになるのです。これは当たり前のことです。自分が生きている、自分で生きていると思っていたのですから、その責任を取らされるのは自分です。

 人間は前世で罪を犯したということがはっきり分かれば、現世で自分が生きているという思いは間違っているのだということが分かるはずです。

 自分が生きていると思っていることは間違いだということに気がついて、自分が生きているのではない、霊魂が生きているのだということに気がつくはずです。

 生きているというのは神に育てられているということですから、生きているというお方、生きているという神に従って、生きるということを考えるのです。

 自分が生きているという考えをやめて、神に従って生きるという気持ちを持ちさえすれば、今までの因縁を脱ぎ捨てることは、十分にできるのです。そうすると、地獄へ行く必要がなくなってしまうのです。地獄へ行く必要がなくなるだけではなくて、その人の霊魂が前世で罪を犯したという失敗が許されるのです。そうして、先祖代々の罪まで許されるのです。これは大変なことです。

 皆様が本当に悟りを開いて、般若波羅蜜多を実行したら、皆様も両親も、祖父母も、先祖代々までも罪が許されるのです。これは大変大きいことです。

 皆様が前世での失敗を認めて、この世に自分が生きていることが悪いのだということを見極めて、この世に自分が生きていることが間違っているのだということを見極めて、その思いを捨てるのです。そうして、神によって生かされていることを確認するのです。

 こういう生き方をすることによって、自分の人生を捨ててしまうのです。自分が生きているという妄念を捨ててしまうのです。そうすると、自分の罪から抜け出すことができるのです。死ぬべき自分から抜け出すことができるのです。これをして頂きたいのです。

 自分が生きていてはだめです。自分という人格、自我意識による人格は、死んでしまうに決まっている人格です。死んでしまうに決まっている人格から抜け出して、自分ではない別の人格に移るのです。

 ただ生きている人格を生きるのです。自分が生きているのではなくて、生きているという状態が自分になっているのです。

 自分が生きているのと、生きている状態が自分として現われることとは、天と地の違いがあるのです。

 自分が生きているというのは間違っています。しかし、自分が生きているという状態は天地自然の姿ですから、本当の霊魂の姿に帰って、自分を見ることができれば、死んでから地獄へ行くことがないのです。

 人間の命は、前世、現世、来世の全体が命です。これが生涯であって、現世だけが生涯とは違うのです。前世、現世、来世全体を見通すような考えを持って頂きたいのです。

 現在の人間文明は遅かれ早かれ、滅びてしまうに決まっているのです。文明がある間に、本当の人間の命の本質に目覚めた者だけが、現在の文明から抜け出すことができるのです。

 日本の歴史は根本的に間違っていたのです。だから、日本人の霊魂は全部地獄へ行くことになるのです。ただ本当の命に目覚めた人に関係がある人たちは甦ることを許されるでしょう。

 性善説、性悪説という考え方があります。人間の性は果たして善なのか、悪なのかということですが、この世に生きている人間として考えると、性善説を唱えるでしょう。

 日本に生まれた人で「立派な」と言われている人がいます。聖徳太子、千利休、芭蕉、道元、親鸞等、色々な人が出ました。現世的には立派に人だと言える人はいるでしょう。しかし、こういう人々は永遠の命には関係がなかったのです。例えば、二宮尊徳とか、中江藤樹は永遠の命を知らなかったのです。現世で立派な人であったというだけのことだったのです。

 イエス・キリストは現世ではむしろ立派であったとは言えないかもしれないのです。ところが、永遠という立場から考えると、唯一の人格者であったのです。

 これは考える時の立場によるのです。現世に立って考えるか、永遠に立って考えるかが問題です。前世、現世、来世全体に立って考えて下さい。

 この世の人間はやがて全部死んでしまいます。世界中の人間は全部死んでしまいます。地球上に一人も住めなくなる時が必ずやってくるのです。

 今から数万年、あるいは数十万年以前には、地球上に人間と言われるものは一人もいなかったのです。そして、人間社会はこの世にできたのです。できたということは、やがてなくなってしまうことを意味するのです。

 人間が現世にいることを前提として考えますと、霊魂の本当の悟りは得られません。人間は何のためにこの世に生まれてきたのか。地球上になぜ人間が生存しているのかという根本的なことを考えて頂きたいのです。

 人間の歴史を乗り越えて、大きく考えるのです。そうしないと、霊魂のことが分からないのです。霊魂がこの世に出てきたのは、人間社会に生きることではなくて、前世、現世、来世全体を勉強するためです。これが人間の霊魂の運命です。

 仏教やキリスト教や、学問を勉強してもだめです。もっと大きい考え方を持つのです。この世に人間が生まれる前から、人間が地球上から消えてしまった後のことまで考えるのです。そうすると、初めて、何が正しいのか、何が正しくないのかが分かってくるのです。

 イエス・キリストは現世に生まれてきたのです。そして、現世を完全に解脱したのです。完璧に解脱したのです。その結果、彼は殺されたけれども、また、復活したのです。そして、新しい命、永遠の生命を現わしたのです。

 永遠の生命の実物をはっきり示すことができたのは、イエスだけです。この人をよく勉強したら、永遠の生命が分かるのです。

 イエスという人は人間と言えば人間ですが、誠の人間です。誠の人間というのは、現世において罪を犯していない人です。

 イエスは天から下ってきた人であって、イエスは自分が生きているという気持ちは持っていなかったのです。神が自分を生かしていると考えたのです。イエスの行動、考えには罪がなかったのです。

 イエスは自分に生きていなかった。イエスを通して、神が生きていたのです。このイエスの人格がすべての人に当てはまるべきです。

 命を通して、神が生きていると考えるのです。これがすべての人格を通して流れている本当の考え方です。

 イエスはこれを主張したのです。自分が生きていることを考えていなかったのです。

 私たちは自分が生きていると考えています。そこで、死んでしまうのです。イエスは自分が生きているとは考えていなかったのです。自分は生ける神の子であると考えたのです。生ける神が自分という形で現われていると考えたのです。

 イエスは十字架につけられて死んだのですが、もし殺されていなかったら死ななかったでしょう。死ぬべき命を持っていなかったからです。

 私たちは自分が生きていると考えている。ところが、生きているのは自分の命ではないのです。自分の命は何処にもないのです。神に生かされているのです。神に生かされている命が自分という形で現われているだけです。だから、イエスと同じ考え方を持つのが当たり前です。これが普通の人にはできないのです。できませんから、自分の命を自分で汚すことをしてしまうのです。その結果、その魂が裁かれなければならなくなるのです。この点をよくよくご注意頂きたいのです。

 地獄は本質的にはありません。皆様は皆様自身の地獄を勝手に造っているのです。

 毎日、毎日、自分が生きていることによって、自分の地獄を造っているのです。

 死んだ後、来世はあるに決まっているのです。できるだけ正直に生活しなければならないとか、善事善行をしなければならないとか、人が見ていなくても行いを正しくしなければいけないと考えるのですが、なぜそうしなければならないのでしょうか。

 人が見ていても見ていなくても、行儀良くしなければいけないとか、約束を破ってはいけないとか、責任を果たさなければならないと考えるのです。なぜこう考えるでしょうか。人に分からなければ悪いことをしてもよさそうなものですが、そうはなかなかできないのです。

 なぜ悪いことをしたらいけないのでしょうか。法律を破るとか、警察の厄介になるようなことはしたらいけないのですが、そういうことがなければ、少々、嘘を言っても、また、誤魔化してもいいのではないかと思っても、そうはできないのです。

 もし現世に生きている間だけが人間なら、少々悪いことをしてもよいのではないかと考えるのが当たり前のようですが、そうは考えないのです。

 人は見ていても見ていなくても、なるべく嘘を言わないように、人を憎んだり、恨んだりしないようにするべきだと、百人が百人共、千人が千人とも思うのです。なかなか実行できないとしても、そのようにしたいと思うのです。

 なぜそのように思えるのでしょうか。人に知られなければ悪いことをしても良さそうに思えますが、そうしないのです。それは死後の世界があるからです。

 もし現世に生きている間だけが人間であるのなら、死んでからのことはどうでもいいのです。もし後生がないのなら、死んでから霊魂の裁きがないのなら、何をしようと自由のはずです。このように考え生きている人もかなりいるようです。

 人が見ていても見ていなくても良いことをしなければならないという考え方は、何処から出てくるのでしょうか。その原因は何でしょうか。

 その原因は来世があるからです。死んでから後の人生があるのです。死んでから後の人生があるから、生きているうちにあまりひどいことができないのです。人が見ていても見ていなくても、この世を去ってから後があるから、あまり無茶なことはできないのです。

 今の生活が終わっても、後生という形で人生はなお続いていくのです。だから、現世に生きている間に誠の命を発見しておけば、死がなくなるし、死後の裁きもなくなるのです。

 人生勉強というものはこういうものです。来世はあるに決まっています。生まれる前に人生があったように、死んでから後の人生もあるのです。こういう全体を考えるのです。生涯全体を考えて、自分の人生を考えて頂きたいのです。

 死んでから後の生涯があるのです。現在の白人主義の文明は、現世だけのことしか考えない。これが現代文明の根本的な間違いです。

 般若波羅蜜多というのは、現世を去って、現世ではない霊の世界へ行くことです。これは当たり前のことです。般若波羅蜜多という思想は当たり前の思想です。特別に難しいことを考えたり、特別に賢いことを言っているのではないのです。

 来世のことを考えるのは当たり前です。考えないのが間違っているのです。明治時代までの日本人は、皆こういうことを考えたのです。

 明治時代までの親は必ずそう考えたのです。子供に「生あるものは必ず死する。形あるものは必ず壊れる」と教えたのです。

 こういうことを教える親は、今の時代には全くいません。明治時代から考えると、現在の世の中は格段に悪くなっているのです。

 明治維新のやり方が悪かったのです。本当の文化を考えないで、政治経済の方に重点を置いたからです。これが悪かったのです。明治政府の思想が小さかったのです。

 明治政府は白人文明を無条件で受け入れたのです。受け入れなければ世界と付き合いができないから、やむを得ないということは言えますけれど、現代文明に占領されてしまったのです。

 そうして、日本がだんだん悪くなったのです。生あるものは必ず死するのです。皆様には死んだ後の人生を考えるという人になって頂きたいのです。これが永遠の命を考えるということになるのです。

 般若波羅蜜多という思想はいいのですが、これを思想的にだけ言っているのが宗教です。私たちはこれを実行することを主張しているのです。

 思想的にだけ言っている場合には、どんな立派な思想でも宗教になってしまいます。実行すれば命になるのです。これをぜひ考えて頂きたいのです。

 私は幼稚園の子供に高校生向けの話をしているようなことを言っていますから、難しいのは当然です。

 幼稚園の子供は自然に大きくなって、小学校へ行けるのです。そして、小学校の子供は大きくなって中学校に行きます。ところが、皆様の霊魂は自然に大きくなるという訳にはいかないのです。

 求めなければ大きくならないのです。その人自身が求めることです。質問することです。探し求めることです。探って求めるか、頭で考えて質問するか、とにかく、探し求めるということをしなければ、皆様の魂は成長しないのです。

 成長しなければどうなるのかと言いますと、自分の霊魂を殺してしまうことになるのです。

 皆様は現世に生まれました。やがて現世を去るのです。現世に生まれた霊魂は、命を見つけなければいけないのです。

 命を見つけた人は命を持った状態で、神の国に入れるのです。命を見つけ損ねた人は、死んだままの状態で現世を去るのです。

 人間は百人が百人共、千人が千人共、神に生かされているのです。時間、空間に生きています。時間、空間の本質は神です。時間、空間に生きているという人は、神に生きているのです。

 現在の文明は、時間、空間の本質を説明しません。文明くらいのものでは説明できないのです。現在の学問は非常にレベルが低いのです。現在の科学は非常にレベルが低いのです。だから、時間、空間の本性を説明することができないのです。

 そこで、般若心経の彼岸へ渡るということをしますと、人間の精神状態が良くなるのです。そうすると、私がお話ししていることが難しくないと思われるのです。

 私の話が難しいと言っている人は、時間、空間の本質が分かっていない人です。時間、空間の本質が分かっていないままの状態でいる人は、自分の命を自分で汚しているのです。自分の命を自分で踏み潰していることになるのです。こういう人は地獄へ行くことになるのです。

 実は地獄はないのですが、自分の命を自分で汚しているから、地獄へ行かねばならないように自分でしているのです。

 時間、空間の本体は神です。時間、空間の本体と付き合っていながら、時間、空間の本体が分からないままの状態ですと、地獄へ行くことになるのです。

 時間、空間を、七十年、八十年もの間経験していながら、それに対して、難しかった、難しかったと言って死んでしまうと、ひどいことになるのです。これを考えて頂きたいのです。

 難しい、難しいと言って逃げないで、難しかったらもっと勉強して頂きたいのです。こういう点がこのように分からないのですが、どのように考えたらいいのでしょうかと、謙虚な質問をしたらいいのです。

 時間、空間に対して、もっと謙遜になって頂きたいのです。時間、空間を当たり前のように用いないで、時間、空間に対して、もっと勉強しながら謙遜な態度をとって頂きたいのです。

 そうして、神に教えてもらうような態度で、神に質問して頂きたいのです。皆様は傲慢です。分からない、分からないというのは、自分の気持ちを神の前に突き出しているのです。こういう傲慢な言い方をしないで、謙遜な言い方をして頂きたいのです。そうしたら、神に聞かれるでしょう。

 物理学では物理運動は存在するが、物質は存在しないと言っています。物理学ではそうなるのです。ところが、現在の人間は物質が存在すると思い込んでいるのです。

 現在の人間の常識では、物質が存在すると思っているのです。物理学的に考えるなら、物理運動は存在するが、物質は存在しないと考えるのが本当なのです。だから、原子爆弾ができるのです。

 もし物質、物体があるのなら、原子爆弾ができるはずがないのです。物質があるというのは、人間の認識の間違いです。

 物理運動はあるけれど、物質や物体はないという物理学の原理が正しいというのは、学的に正しいという意味です。だから、原子爆弾ができるのです。

 物理運動はあるが物体はないのだということを、学問では言っていますけれど、常識ではそれを考えていないのです。そういう間違いが起きてきているのです。

 聖書は人間の常識を肉の思いと言っているのです。般若心経ではこれを五蘊と言っているのです。五蘊皆空というのは人間の思いは皆間違っているということです。色即是空というのは、物質、物体はすべて空だということです。

 物理運動だけがあるという考え方は、般若心経で言えば正しいのです。しかし、常識ではそのように考えられません。皆様の肉体は常識的には存在しますけれど、理論的には存在しないのです。従って、自分の肉体は存在していないと考えるのが、物理学の見方です。

 学問をこのように活用すれば、般若波羅蜜多は当たり前のことです。自分の肉体は存在しないと考えるのです。日本の国は存在しないと考えることが当たり前です。

 常識では自分の肉体は存在すると思えるのです。国土が存在すると考えるのです。そう考えなければ現世が成立しないのです。

 政治、経済は国土があること、人間の肉体があることを信じて成立しているのです。そこで、現世の学問は物理運動という理論を信じることが学問なのか、肉体があることを信じることが学問なのか、一体どっちが本当なのかということです。

 肉体があること、国があることを信じるのが学問なのか、物理運動だけしかないということを信じることが学問なのか、この二つの考え方があるのです。これが現代文明の欠点です。考え方を分裂させてしまうのです。これを統一するという考え方がないのです。

 だから、現代文明、現代の学問を捨ててしまうような大胆な決心がなければ、本当の般若波羅蜜多は分からないのです。

 彼岸へ行ってしまうのです。彼岸というのは向こう岸です。日本という国があるのはこちらの岸です。般若波羅蜜多というのは、日本という国を問題にしないのです。日本社会を問題にしない所へ置いてしまうのです。

 日本社会を超えてしまって向こう岸へ行ってしまうと、初めて本当の天皇制が分かるのです。今皆様はこちらの岸にいます。現代の日本社会にいますから、天皇制の意味がさっぱり分からないのです。般若波羅蜜多で見れば、天皇制の意味がよく分かるのです。

 全世界の人間に本当のイエス・キリストの復活の命が分かっていないのです。日曜日はイエス・キリストの復活記念日です。イエス・キリストの復活記念日に、イエス・キリストの復活が全く分かっていないのです。

 日曜日とは何のためにあるのか。日曜日は何の日なのか。イエス・キリストが復活したのです。イエス・キリストが彼岸に渡ったのです。その記念日が日曜日です。この説明ができる人がいないから困ったものです。

 日曜日の意味が日本人に分かっていないのです。このことを分かってほしいのです。

 日曜日は死なない命を確実に掴まえたその記念日です。日曜日があるということは、人間が死なないということの証拠になるのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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