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                         国民統合とは何か

 

 人間は絶対に死ぬことが分かっています。それに対して、何か手を打たねばならないと考えなければならないはずなのです。

 それに対して、ただ聖書を勉強しているくらいではだめです。真剣に、真面目に考えなければいけないのです。

 本当に死を乗り越えるということは、頭で聖書の勉強をするくらいではだめです。皆様の聖書の勉強は本格的になりつつありますが、まだまだ霊魂の底に届く所まではいっていないようです。

 皆様の質問の内容から、そのように考えざるを得ないのです。皆様は自分自身の命のどん底を見つめていないようです。上っ面だけを見ているのです。もっと真面目に考えて頂きたいのです。

 死ぬということを真面目に考えたら、今の状態ではだめだということは分かるでしょう。神は皆様の現在の状態を非常に重視しています。重視していますから、何とか皆様を引き上げて、本物にしようという神の心があることが良く分かるのです。しかし、皆様の現在の状態ではまだ本物だとは言えないのです。

 そうなりかかっている人もいますけれど、まだ本当に本気になっているとは言えないのです。世間並の人間から抜け出すという格段の努力がなされていないのです。

 世間並の人間が多すぎるのです。真面目に考えようとしてないのです。全世界にただ一つしかない天皇制を真面目に考えようとしないのです。天のすめらとはどういうことなのか。天のすめらは西欧社会にも通用するのです。エンペラー(emperor)は世界に通用しているのです。

 現在もエンペラーは日本にしかありません。日本の国柄は大変なものです。皆様がもっと真面目に考えれば、これが分かるのです。

 

 聖書に次のようにあります。

 「ちょうど、稲妻が東から西にひらめき渡るように、人の子も現われるであろう。いちじくの木からこの譬を学びなさい。その枝が柔らかくなり、葉が出るようになると、夏の近いことが分かる。そのように、すべてこれらのことを見たならば、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい」(マタイによる福音書24・27、32、33)。

 

 この箇所はユダヤ人について言っているのです。花が咲かずに実を結ぶのはいちじくと蓮です。いちじくと蓮は普通の植物ではないのです。蓮は仏法が取り上げており、いちじくは聖書が取り上げているのです。

 いちじくは聖書ではユダヤ人の代名詞になっているのです。いちじくの枝が柔らかくなり、葉が出るようになると夏が近いと言っているのです。これは人間文明が潰れてしまって、やがて地球が完成すること、地球に本当の文明が現われることを予告しているのです。

 現在の人間文明は潰れてしまうことを示しているのです。現在の人間文明は跡形もなく潰れてしまいます。

 現代文明はファウンデーションです。本当の文明が現われるためのファウンデーションです。地球にはまだ本当の文明が現われたことがないのです。

 銃で身を守らなければならない社会、駆け引きをしなければ外交ができない政治は、本当の文明ではないのです。そろばんをはじきながら商売をすること、おべっかを言わなければ人間の付き合いができない社会は本当の社会ではないのです。偽りの社会です。

 現代の文明では人間の真心が通用しないのです。核兵器廃絶と言えばいうほど、核を持つ国が増えているのです。正直が通用しなのが現代文明です。

 こういう文明を造っているのがユダヤ人ですが、ユダヤ人が真人間ではないから、こういう文明になっているのです。

 ユダヤ人は地球全体の指導民族です。地球の中心民族です。指導民族が偽体であるために、こういう文明になっているのです。

 神をまともに見ようとしていないのです。ユダヤ人は「我は有りて在るものなり」という神が分からないのです。私は「我は有りて在るものなり」に基づいて発言しているのです。これが日本の天皇制の原点になっているのです。

 皆様は人間の正体を全くご存じないのです。死ぬに決まっている人間の正体は、でたらめなものであるに決まっているのです。全世界の人間は皆、徹底的にでたらめです。

 皆様は死ぬことが分かっていながら、死ぬことに対して本気になって対処しようとしているのでしょうか。本気になって処置しようと考えていないのです。

 天皇制がありながら、これを本気になって考えようとしていないのです。天皇は日本国の象徴であると言っています。国民統合の象徴であると言っています。国民統合の象徴とはどういうことなのか。

 日本国の象徴ということは何とか観念論でごまかせますが、国民統合の象徴とはどういう意味なのか。国民というのは私たち一人ひとりです。私たち一人ひとりが統合するというのはどういうことなのか。

 私たち一人ひとりが統合するということは、あり得ることでしょうか。国民統合とはどういうことなのか分からないのです。これは聖書が分からない人には絶対に分からない言葉です。

 聖書が分かっていても、キリスト教のような分かり方ではだめです。国民統合の意味が分からないのです。

 皆様はこういう基本的な問題を全くご存じないのです。こういう問題について学問は何の役にも立たないのです。今の大学の学問は、こういう問題に対しては何の役にも立たないのです。憲法の土台の問題について、全く役に立たないのです。

 ノーベル賞ぐらいのレベルでは国民統合の意味が分からないのです。その程度のものです。聖書のレベルが高いのではありません。現代文明のレベルが低いのです。低すぎるのです。皆様ご自身も、まだまだレベルが低いのです。ともに話ができるレベルになって頂きたいのです。

 国民統合の象徴というのは、聖書の原点と同じ意味なのです。人間の人格は統合することを目的にしなければ、人格を持っている意味が説明できないのです。

 例えば、七十三億の人間が個々の人格を持っていたのでは全部死んでしまうだけです。こういうことは白人の哲学では説明ができないのです。ドイツ観念論でも説明できないのです。カントの哲学でも、国民統合の意味は分かりません。

 キリスト教の神学でもだめです。キリスト教の神学や西欧の哲学では、レベルが低すぎるのです。人間文明は本当の文明のファウンデーションのようなものです。

 女性がお化粧をする時にはファウンデーションを考えているでしょう。デザインする時にも、まずファウンデーションを考えます。人間の社会構造、文明構造にも、ファウンデーションがいるのです。

 下着というファウンデーションがいります。プロポーションを整えるために、ファウンデーションがいるのです。ファウンデーションがきちっとしていないと、上着が整わないのです。上着をよく見せるためには、ファウンデーションがきちっとしていなければいけないのです。

 人間の文明が完成するためには、まず文明のファウンデーションがいるのです。国際連合はただのファウンデーションです。ノーベル賞はファウンデーションの一部にすぎないのです。

 学問、学理学説と大げさに言いますけれど、こんなものは学問というほどの価値はないのです。人間の本当の学問は命を勉強することです。社会構造とか、政治経済の仕組みというのは、学問という価値はないのです。単なるファウンデーションです。

 政治や経済はただのファウンデーションであって、人間の本当の文明の性格とは違うのです。こういうスケールで聖書を勉強しないと、本当のことは分からないのです。

 国民が統合しないでばらばらに生きているのは、下地ができていないお化粧みたいなものです。まだ下地ができていないのです。

 天皇制というものがファウンデーションであって、これが理解できなければ、日本の国は完成しないのです。日本の国が完成しますと、いちじくの枝が柔らかになるのです。

 枝という言葉はやまと(大和)という言葉の語源になっているのです。日本語のやまとはここから来ているのです。

 皆様はもっと世界的な見地に立って、命の根底を深く見て頂きたいのです。

 いちじくの枝が柔らかくなり、葉が出るようになると、人間文明が終わりになるというのです。人間文明はファウンデーションであって、終わりになる。それから本当の文明が始まるのです。

 ユダヤ人が本気になって悔い改めたら、命の本物が全世界に現われることになるのです。これを王国時代というのです。聖書はこれくらい大きい見方をしないと分からないのです。

 本当の聖書を学ぼうと思ったら、世界歴史全体を見るという感覚で学んで頂きたいのです。自分が分かるとか分からないという小さな事を言わないで、もっと大きい見方をして頂きたいのです。

 国民は統合するのかしないのか。国民統合の象徴という言葉が成り立つのか成り立たないのか。日本の憲法第一条は果たして具体化するような力を持っているのか、持っていないのか。こういうことを私たちの人生観とどういう関係があるのか。聖書と日本の憲法との係わり合いとはどんなものかということです。

 人間が死なねばならないとはどういうことなのか。これについて、もっと真剣に考えて頂きたいのです。死ぬということはどういうことなのか。これを真面目に考えて頂きたいのです。

 

 聖書に、「一度だけ死ぬことと、死んだ後、裁きを受けることとが人間に定まっている」とあります(ヘブル人への手紙9・27)。

 

 死ぬだけなら、肉体が不完全であるから仕方がないと言えますが、死んだ後に必ず裁きを受けると言っているのです。なぜ裁きを受けるのでしょうか。

 裁きを受けるというのは、魂の審判を受けるということです。魂の審判は人間の歴史が終わった後のことなのです。地球の歴史が一切終わった後に、神によって直接人間の霊魂の裁きが行われるのです。それまでは、人間の霊魂は裁かれない。一時的に死んだ魂は待合所に入れられるのです。これが黄泉(よみ)です。

 人間の歴史がすべて終わった後に、人間として地球上に生きていた人間を全部甦らせて裁きを行うのです。すべての人間を甦らせて、死なない人間にしておいて霊魂の審判を行うのです。

 霊魂の審判とは何か。人間は死なねばならないことが分かっていながら、死に対して真面目に考えなかったということが、神が人間の霊魂を徹底的に裁く一番大きい原因になるのです。

 皆様は死ぬことが分かっています。分かっているどころか、人間は死ぬために生きているようなものです。人間は死ぬべくして生きているのです。

 現在の人間の命は、死ぬべくして生きているのです。死という一点に向かって歩んでいるのです。これが人間の一生です。こういう生き方を人間は強制されているのです。死ぬことを強制されている。これに対して怖れもせず、わななきもせず、平気な顔をして生きているのです。これが神に逆らっている一番大きいことなのです。

 神が人間を裁かなければならない原因は、神が人間に死を与えているにも係わらず、人間は何も考えない。平気な顔をして生きているからです。これは神をばかにしているのです。神を虚仮にしているのです。これが神に裁かれる原因になるのです。

 死を真剣に、真面目に考えようとしないことが、人間の最も悪いことなのです。こういうことを真面目に考えようとしないことがいけないのです。

 国民が統合するというのはどういうことなのか。国民は統合することによって、死を免れることができるのです。国民一人ひとりが人格的に統合することによって、一人ひとりの死が消えるのです。ここに国民統合の非常に大きい意味があるのです。

 このことを日本の憲法第一条に謳っているのです。国民統合という意味が分からないのに、国民統合の象徴という言い方をしているのです。これは誠に不思議千万な憲法の文字です。

 こういう憲法が日本で政治的に通用しているのです。国民統合ということは何かと言いますと、人格の統合になるのです。人格が統合される、人格が統一されますと、人間は死ななくなるのです。これが死を免れる唯一の方法です。

 これを聖書では、「イエスが主である」と言っているのです(ローマ人への手紙10・9)。イエスが主であるということは、人間の人格が統一されることを言っているのです。こういうことが日本の憲法には政治的に言われているのです。

 聖書は霊魂の真理として言われているのです。日本の憲法と聖書にはこういう関係があることをよく承知して頂きたいのです。日本人にはこれを承知する責任があるのです。

 イエスが主であるというのは、英語ではJesus as Lordになっています。これが人格が一つにされる原理です。どこでどのように人格が一つになるのか。アズロードというのは新約聖書の原点です。

 二〇一六年現在で、世界で七十三億の人間がいますが、これは無意味なのです。日本に一億二千万人いますが、これが無意味なのです。

 固有名詞の人間、個々の人間は全部死んでしまうに決まっている人間です。死んでしまうに決まっている人間が、死なない人間になるためには、ジーザス・アズ・ロードを信じる以外に方法がないのです。

 私はこれを人格の統合という言い方をしているのです。これが前世におけるアダムと、現在の皆様との関係になるのです。

 ばらばらに生きている固有名詞の人間は必ず死ぬべき人間です。死ぬのが嫌なら、地獄へ行くのが嫌なら、火の池に投げ込まれることが恐ろしいのなら、ジーザス・アズ・ロードを受け入れたらいいのです。

 皆様は現在固有名詞の人間として神から離れて生きているでしょう。これが死んでいると言っているのです。既に死んでいるにも係わらず、生きていると思っている。だから、死が分からないのです。

 命とは神のことです。神から離れたことを死というのです。人間は神から離れてしまった。だから、死んだのです。

 命の主は神です。命の主が神であるにも係わらず、人間は神から離れてしまっている。神はアブラハムに、「汝、わが前に歩みて全かれ」と言いました(創世記17・1)。神の前に歩むことをしない。神の後に去っている。そうして、神と別々に生きている。

 「神なんかあるもんか」という感覚で人間は生きているのです。これは既に死んでしまっている気持ちです。死んでしまっている人には神が分からないのです。

 人間は神と離れて生きています。皆様は固有名詞の人間として生きているのです。自尊心と自我意識と、基本的人権によって生きているのですから、自分の命があると思っているのです。これが死んでいる証拠です。

 死んでしまっているから、死が分からないのです。人間は神から離れてしまっているのです。だから、皆様は根本的に、また、基本的に神を信じていないのです。皆様の霊魂はまだ神の前に出ていないのです。

 あまりにも露骨に本当にことを言いますと、皆様はやる気がなくなってしまいますから、なるべく甘やかして神の前へ連れて行こうと思っているのです。こうしなければしょうがないから、こういう方法をとっているのです。

 皆様が固有名詞で生きている以上、皆様の霊魂は神を知らないのです。皆様が固有名詞で生きることをやめなければ、神は分かりません。固有名詞で生きることをやめると、神の前に生きているということが分かってくるのです。

 固有名詞で生きることをやめると、ジーザス・アズ・ロードになるのです。人格が統合するのです。固有名詞で生きている間は人格はばらばらです。七十三億の人格に分裂しているのです。

 一つの人格が七十三億に分裂しているのです。皆様は七十三億の人間の一人として生きていて、自分自身の利害得失を考えている。これが現代文明の根本的な間違いです。

 現代文明は個々の人格を認めているのです。人権を認めているのです。これが間違っているのです。これをやめなければいけないのです。

 自分の意見とか、自分の利害得失を持っている間はだめです。これを持っている間は、生ける神の子ではないのです。イエスを信じていないからです。これは信仰ではないのです。

 信仰というのは、生きていることがそのままイエスであると実感できる状態をいうのです。イエスの名において生きるのです。今の人間は神から離れてしまっているのです。だから、死が恐ろしくないのです。死に対して、死を恐れるという純真さ、素朴さがないことが、現代人の最も悪い点です。

 自分が救われようと考えている。自分が天国へ行こうと考えている。これはけしからんことです。自分が生きていると思っている人間は全部死んでしまうのです。聖書の原理からしたらそうなるのです。

 固有名詞の自分が分かったとか分からないとかを考えているのです。こういう考えを持っている間は、死を恐れるという純真な考えを神は与えないのです。

 本当に死が怖いと言える人は素朴な人です。本当に心から死が怖いと言える人は、神を恐れる人です。神に近い人だと言えるでしょう。現在、こういう人はいないとは言えないですが、非常に少ないでしょう。皆様はその中の一人になって頂きたいのです。

 皆様は神から離れているのです。固有名詞の人間として生きているからです。これが間違っているのです。だから、死が恐ろしくないのです。

 死に対する恐れを持っている人は聖書の勉強ができる人です。しかし、本当に聖書の中に入りたい、水と霊とによって新に生まれて神の国に入りたいと心から願う人は、今の自分から出てしまわなければだめです。そういう悲痛な願いがない人はだめです。

 固有名詞の自分から出るのです。皆様の心臓が動いていることが神です。目が見えることが神です。ところが、皆様は自分の心臓が動いていることに従って生きていません。自分の常識に従って生きているのです。自分の知識に従って生きているのです。日本人の常識、知識に従って生きているのです。これをやめて頂きたいのです。

 「肉の思いは死である」とパウロが言っていますが、皆様は肉体人間として生きていると思っているでしょう。これを肉の思いというのです。肉の思いの自分を自分だと思っているのです。この思いを持っている人は既に死んでいるのです。

 肉体的に生きているのを自分だと思っている人は、既に死んでしまっている人です。これが聖書の正しいレベルです。このレベルで聖書を見なければ、聖書を勉強する値打ちはありません。これをよく考えて頂きたいのです。

 見たり聞いたりしていることは、魂の働きです。これが分からないのです。皆様は自分の目で見ているつもりです。ところが、見ているのは自分ではないのです。

 私は梶原ですが、梶原という者が見ているのではないのです。私の魂の働きが見ているのです。これは前世からの魂のつながりです。前世からの機能性で見ているのです。

 魂は前世からの命の機能性です。五官の働きが見ているのです。これは固有名詞の自分に関係がないのです。皆様はこの世に生まれなくても見る力はあったのです。この世に生まれたので見ていますが、これは固有名詞の人間とは何の関係もないのです。その証拠に、加藤さんが見ても、木村さんが見ても、赤いものは赤いと見えるのです。

 もし自分が見ているとしたら、その人独特の見方になっているはずです。加藤さんの見方と木村さんの見方とは、全然違った見方になるはずです。

 自分が見ているとしたら、加藤さんが見ている花の見方と、木村さんが見ている花の見方とは違うはずです。ところが、誰が見ても花は美しいと見えるのです。従って、五官の機能は皆様自身の機能ではないのです。

 果物を食べておいしいと感じるのは、自分の舌とは違うのです。前世からの本能性によって感じているのです。五官の働きは前世からの本能性、機能性を指しているのです。これを魂というのです。

 魂には固有名詞はありません。固有名詞に関係はないのです。これを人の子というのです。人の子というのは、人間の客観的な機能性をいうのです。

 人の子には名前はありません。五官の働き、視覚、聴覚は人の子の働きです。固有名詞には関係がないのです。人の子と天皇制には大関係があるのです。

 天皇は固有名詞に関係がないのです。国民統合のシンボルとはこのことを言っているのです。固有名詞が統合するのではないのです。人格が統合するのです。

 人格は固有名詞と何の関係もないのです。加藤であろうが田中であろうが、関係がないのです。人の子になったらいいのです。

 「ちょうど、稲妻が東から西にひらめき渡るように、人の子も現われるであろう」とあります(マタイによる福音書24・27)。人の子のしるしが東に現われる。人の子がまず日本に現われるのです。これを天皇というのです。そうして、東から西へひらめき渡るのです。日本に現われて西のイスラエルに伝えられるのです。これがキリストのしるしです。

 もし皆様がイエスが主であるという言葉を信じることができなければ、五官を信じたらいいのです。固有名詞の人間であることをやめるのです。山田であるとか、山中であるということは、どうでもいいのです。固有名詞は親が勝手につけた名前です。そんなものにこだわる必要はないのです。

 五官の働きを自分だと考えたらいいのです。五官や生理機能、心理機能が自分です。これさえあれば十分に生活していけるのです。

 皆様のリビングというのは、五官の働きを指すのです。ザ・リビングはこれをいうのです。ザ・リビングは神の延長線上にあるのです。これをじっと見つめれば、神の元へ帰ることができるのです。

 リビングを見ないで固有名詞を見ようとする。自分の利害得失を考えようとする。これが悪い癖です。自分の利害得失を考えたらもうだめです。

 自分の利害得失はないのです。本当に死から逃れようと思ったら、死にたくないと思ったら、利害得失を全部捨てて頂きたいのです。

 皆様の五官の働きというのは、生まれる前の自然性、天からの自然性です。これがこの世に現われているのです。これが魂です。これは利害得失には関係がありません。

 よく考えて頂きたいことは、固有名詞の人間は目的を持っていないということです。固有名詞の人間はこの世では目的があるでしょう。この世はやがて潰れるに決まっているのです。この世で財産を造っても、家を建てても、この世の権利はやがてだめになるに決まっているのです。

 この世では固有名詞の人間は存在価値があるように思えますが、神の前には一切通用しないのです。神の前に存在しているのは人の子だけです。しかし、人の子は固有名詞に関係がないのです。

 固有名詞の人間が百人いても、万人いても、この世だけしか通用しないのです。固有名詞の人間は一切目的を持っていないのです。これをよく考えて頂きたいのです。

 皆様は固有名詞の人間が利益を得なければいけないと考えている。固有名詞の自分が救われなければならないと考えているのです。得をしなければならないと考えている。これは現世における人間の妄念です。本当の自分の魂ではないのです。

 皆様の魂は救われたいと思っていないのです。魂の本質は本当のことを知りたいと思っているのです。今、ここでこうして生きている本当のことを知りたいのです。今ここに神がいるからです。神はここにいるのです。死んでから神を見つけるのではありません。

 神はここにいるのです。この神を掴まえたらいいのです。私の言うことに力があって、これに抵抗ができないのは、私は今ここにいる神を知っているからです。私自身が神に生きているという事実を、皆様に証しているのです。これが世間の宗教家には絶対できないのです。

 私は今ここに神がいると言っているのです。この神を掴まえなければ死んでしまうと言っているのです。

 信仰とは今ここで、神を掴まえることです。明日、明後日に神を掴まえるのではないのです。今ここで、神が掴まえられないのは、宗教観念を信じているからです。

 今ここにいるままで、神が分からなかったら、信仰とは言えないのです。皆様は今ここで、神が掴まえられない。なぜかと言いますと、固有名詞の自分を信じているからです。魂と思わずに、山田太郎という固有名詞を自分だと思っているからです。

 人間の魂と固有名詞とが、どういう関係になっているかです。エデンにおけるアダムと、現世の七十三億の人間の関係がどうなっているかです。

 なぜ一人の人間が七十三億になっているのか。皆様には一人ひとりが陥罪前のアダムに帰れるような人になって頂きたいのです。固有名詞の自分を脱ぎ捨てて、人の子になって頂きたいのです。固有名詞がない人のグループになって頂きたいのです。

 現世では名前がなければお互いに呼びにくいから名前はいりますが、固有名詞は本当の自分ではないことをよく承知して頂きたいのです。

 人間存在という点から考えますと、固有名詞の人間、肉の人間は存在していないのです。神の前に一切存在していないのです。これをパウロは「肉は益なし」と言っているのです(ヨハネによる福音書6・63)。

 益なしというのは何の役にも立たないということです。何の力もない、何の目的もない、有害とか無害とかを言えるものではないということです。空々寂々と同じ意味になるのです。全く空なのです。

 現在の人間文明、人間社会は神の前には全く益がないのです。人間歴史には全然目的がありません。国際連合に目的がないのです。

 アメリカに何の目的があるのでしょうか。イギリスやロシアに何の目的があるのでしょうか。今の日本に何の目的があるのでしょうか。目的がないのです。目的がない国はやがて滅びるに違いないのです。

 現在の人間の歴史は夢を語っていますが、内容は何もないのです。肉は益なしです。皆様が生きているのは、肉体人間として生きていますが、肉体を持っているということは、五官の感覚が肉体的に生きているということです。

 目で見たり、耳で聞いたりする機能が生きている。機能が神の言葉を受け入れているのです。目や耳の働きは、地球ができる前、地球のファウンデーションを見ているのです。地球のファウンデーションが今の地球になっているのです。

 もし地球のファウンデーションがなかったら、地球ができるはずがないのです。地球のファウンデーションが甘い味になったり、赤いという色になったり、森羅万象になっているのです。地球のファウンデーションがなかったら、森羅万象はないのです。

 皆様の目は地球のファウンデーションを見ているのです。地球ができる前の原形を見ているのです。

 皆様は陥罪前には個我がなかったのです。自我意識がなかったのです。ところが、神が絶対に食べてはいけないという善悪を知る木の実を食べた結果、自ら善悪を判断することになったのです。

 善悪を自ら判断すると、どうしても個我が発生せざるを得ない。善悪利害を考えるということは、神から離れることになるのです。

 自分自身で善悪利害を考える結果、個我が発生したのです。個我が発生したために、神の国から追い出されたのです。神の国を追い出されてこの世に放たれたのです。

 人間はこの世に生まれた時に死んでいたのです。誕生日というのは命日です。誕生日としてお祝いをしているのがおかしいのです。

 この世に生まれた人間は必ず死ぬのです。なぜなら、前世で食べたら必ず死ぬという善悪の木の実を食べてしまった。そこで、死んでしまったので、現世に追放されたのです。この世に生まれた人間は皆死んでいるのです。だから、誕生祝いをすることが虚しいのです。

 どうしたらいいのかと言いますと、死なない命を掴まえたらいいのです。死なない命を掴まえるためにどうしたらいいのかと言いますと、前世に罪を犯す前にいた自分を引っ張り出したらいいのです。前世にいた自分というのは五官の働きです。五官の働きの自分を引っ張り出したらいいのです。これがリビングのシールです。

 

 聖書に次のようにあります。

 「また、もう一人の御使いが生ける神の印を持って、日の出る方から上って来るのを見た」(ヨハネの黙示録7・2)。

 

 The seal of the living Godとは五官のことです。赤いものを見て赤く感じることが、生きている証拠です。これが神です。この神を掴まえたらいいのです。生ける神の印をはっきり持っていたら、死なない命を人に与えることができるのです。命の実物、神の実物を掴まえるような勉強をして頂きたいのです。

 人間が生きていることは神と一緒にいることなのです。これにいつ気がつくかと神はじっと見ているのです。神と人はインマヌエルの状態にあるのです。神は皆様と一緒に生きているのです。一緒に生きていて、これにいつ気がつくかということを、神はじっと見ているのです。

 生きているということは神そのものです。神の実物が皆様の魂に付き添って、一緒に生きているのです。だから、甘いものが甘いと感じられるのです。丸いものが丸いと見えるのです。

 五官の働きはそのまま神の実物を意味しているのです。だから、固有名詞の自分を捨ててしまって下さい。

 固有名詞の自分はこの世で通用するだけです。この世はやがて消えてしまいます。天皇陛下自身も死んでしまうのです。人間社会全体がだめになるのです。日本だけでなくて、世界全体がだめになるのです。

 人間文明はめちゃくちゃになるでしょう。こういうものが永続するはずがないのです。人間文明が潰れた後に、本当の命が全世界に現われます。

 人格を統合すべき本当の人格が現われます。これをイエス・キリストの再臨と言います。キリストが再臨するまでは、ファウンデーションの世界が現われているのです。

 人間文明がファウンデーションの文明です。こんなものをまともに信じる必要はないのです。

 現在の政治、経済、学理学説の中には、本当の真理はないのです。嘘ばかりです。これを肉の思いというのです。肉の思いだから、いろいろと理屈をつけて誤魔化しているのです。学理学説は理屈ばかりで組み立てたものです。これにノーベル賞を与えているのです。

 イエスが主であるということは、イエスが神であるということとは違うのです。人間として現われているという意味で、Jesus as Lordなのです。

 人間が神を信じることは、人間が存在することの本質、本性にたち帰った状態を意味するのです。神の実体を掴まえるのです。神の実体を受け止めると、神の中にそれがあることが分かるのです。これが神と人とが一つになることを意味するのです。この状態がイエスの状態です。

 イエスは人間のあり方の本質をそのまま現わしたのです。魂が神の実体の中へ入り込むことに成功したら、こうなったのです。

 神の実体は宗教では絶対に分かりません。神の実体はザ・ネーム・オブ・ゴッド(the name of God)です。これが宗教では分からないのです。

 「天にまします我らの父よ、願わくば、御名を崇めさせたまえ」とあります。ネームを崇めさせたまえと言っている。御名を崇めるとはどうすることなのか。これがキリスト教では全く分かっていないのです。イエスは御名を崇めることを本当に実行したのです。その結果、人の子という人格が分かったのです。これがイエス自身です。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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