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                         父母未生以前の面目

 

 現在の人間文明は何処へ行こうとしているのか。何をしようとしているのか。これに対して明確な考え方がないのです。

 人間とは何かということがはっきりしていないのです。人間は生活過程の実体だと言っていますが、生活過程の実体というのは、人間が生活しているその状態を指しているのです。

 人間の本質という点から考えますと、人間の命の解明が全くできていないのです。人間の生活はもちろん必要です。生活を抜きにしては考えられないのですが、その生活は命のためになければならないのです。

 もし命がなければ、生活はもちろん存在するはずがないのです。生活とは命を生きることであるはずです。生を命と読むことになりますと、命を生きるのが生活であるはずです。

 命があるから生きているのです。ところが、命とは何であるのか。生命の本質は何であるのか。こういうことがはっきりしないままで学問が考えられているのです。人間存在の基本的な究明がなされていないのです。

 仮に理想社会が実現したら、人間の生活は安定したものになるかもしれませんが、人間が何のために生きているのかという問題は、依然として残っているのです。

 人間とは何であるのかについての決定的な究明がなされていないままで、革命運動を何回繰り返しても、結局人間の本質に関する問題は置き去りにされてしまうのです。

 人間とは何か。何のために生きているのか。文明は生活のことしか考えていないのです。ところが、皆様の生活はやがてピリオドが打たれる時が来るのです。死ぬという問題が発生するのです。

 死ぬという問題を人間から削除して考えることができないのです。ところが、最近は死ぬのは当たり前だ、死んでしまえばそれまでだという考えが流行しているのです。これは非常に無責任な考えです。

 死んでしまえばそれまでだという考えを、一体誰が決めたのでしょうか。死んでしまえばそれまでだという考え方が、正当であるとどうして言えるのでしょうか。

 大体、人間の魂は不滅そのものです。例えば、神霊科学の霊媒現象によって、死んだ人の魂を呼び出すことは、いくらでもできるのです。いわゆる巫女の口寄せによって死んだ霊を呼び出すことができるのです。

 以前に京都大学で、紫式部の霊を呼び出して源氏物語の研究をしていたのです。死んだ霊を呼び出すことは、日本だけのことではありません。世界各地で行われているのです。珍しいことではない。一つの科学的方式なのです。

 神霊科学の方法を用いますと、人間が死なないことが証明できるのです。人間の脳波が止まる、心臓が止まることを死と考えられているようですが、肉体的に死んでも、魂は眠っているだけなのです。

 皆様が夜寝ると同じ状態が死の状態です。人間は死ぬのではなくて、眠るのです。いわゆるご永眠するということになるのです。

 眠るだけであればいいのですが、眠ったものは必ず起きるのです。目が覚める時が当然やってくるのです。目が覚めた時が恐ろしいのです。何時、何処で、どのように目が覚めるのかということです。

 こういう問題は聖書を勉強しないと分からないのです。仏典にははっきりしたことが言われていないのです。

 人間の魂は肉体をとって地上に現われてはいますけれど、何のために生まれてきたのかということです。現代文明における世界観で言いますと、現世に生きるために生まれてきたのです。現世で楽しんで生きるために生まれてきたと考えているのです。楽しんでというのは性欲や物欲を満足させるために生きているのです。これが文明の中心思想なのです。

 倫理、道徳、哲学という考え方もありますが、これを煎じ詰めると結局、現世で人間が生きることが目的になってくるのです。

 こういうことは何のために生きているのかということの解答にはなっていないのです。

 現世で生きるために文明が存在しているのです。ところが、現在の文明は信用できるものではないのです。文明は非常にあやふやないい加減なものであって、信用できるようなものではないのです。

 人間とは何かということがはっきりしないままで、文明が展開しているのです。マルキシズムにある欠点は、文明そのものの欠点なのです。

 白人文明の欠点がそのままマルキシズムの欠点になって現われている。何のために人間が存在するのか。人間とはどういうものであるのか。人間の本質は何であるのかが分からないのです。

 生きていながら命が分からないのです。現在、皆様は命を経験していますが、命とは何かと言われると分からないのです。

 命を現在経験していながら分からないのです。どういうことなのでしょうか。これは顕在意識をやたらに信じ込みすぎているから、そういうことになるのです。人間には潜在意識と顕在意識がありますが、普通、人間が用いているのは顕在意識です。

 人間の常識、知識が顕在意識ですが、これを過大に評価しすぎているのです。人間の生活意識が顕在意識です。これを信じすぎているのです。学問や宗教、政治経済、常識は全部顕在意識です。

 こういう意識は般若心経で言いますと、五蘊になるのです。ところが、般若心経では五蘊皆空と言っているのです。人間の考えは皆間違っていると言っているのです。

 人間の常識をいくらひねり回しても、人間とは何かということの解答は出てこないのです。何のために生まれてきたのか、さっぱり分からないのです。

 何のために生きているのかが分からないままの状態で、社会、国家、政治、経済を行っているのです。生きている間はそれでもいいでしょう。しかしそれでは、魂が全く置き去りにされているのです。

 現在の文明で、命のこと、魂のことという一番重要な、一番肝心なことを真面目に考えている学問は一つもありません。こういうものが現代文明です。だから、現代文明は信用できるものではないのです。

 生きていながら命が分からないのです。これで人間の責任が果たせるのかということです。人間はこの世で生活するため、この世で楽しむために生まれてきたのではありません。魂の眼を開くために生まれてきたのです。

 ところが、魂の眼を開くことをしないで、肉体生活の便利さだけを考えて生きているのです。確かに、現代文明によって生活は便利になりましたが、魂はますます盲目になっているのです。こういうとんでもない現象が起きているのです。

 そこで、般若心経と聖書を通して、こういう間違いを根本的に是正したいと考えているのです。

 般若心経はこういう意識で生きている人間を、空だと言っているのです。そのとおりです。常識や知識を信頼している人間の生活態度そのものは、空っぽだと言っているのです。これが般若心経の思想です。

 般若心経は宗教ではありません。般若心経は宗教を真っ向から否定しているのです。東洋無という考え方は宗教ではありません。また、単なるインド哲学でもありません。

 現世で生きている常識、知識の世界は全くの空なのです。空そのものです。その証拠に、人間が何のために生きているのか分からないのです。分からないままで文明を造っているのです。そして、人間がどんどん死んでいくのです。

 人間が死んでいくのです。ただ死んでいく。それでおしまいなのです。こんなばかなものは、空だと言わなければならないのです。般若心経が考えている色即是空という考え方は、本当です。宗教ではありません。信じても信じなくてもどちらでもいいというものではないのです。

 聖書はイエス・キリストが復活したことを中心にして書かれています。イエスが死を破ったという事実があるのです。これは歴史的事実です。

 一週間に一回日曜日がありますが、これはイエスが復活した記念日です。現在、世界中の人間が日曜日を守っているのです。これはイエスの復活を記念しているのです。このような社会的な必然性、歴史的な必然性はどうして存在しているのかということです。

 今年が二〇一六年であることは西暦紀元です。西暦紀元はイエスの誕生を暦年の基準にしているのです。世界の歴史はイエスが存在したこと、復活したことを中心に展開しているのです。これもまた宗教ではないのです。

 キリスト教は宗教です。キリスト教の神学を抜きにして聖書そのものを取り上げて考えますと、聖書は宗教ではありません。般若心経も宗教ではありません。これは人間の霊魂の目を開く、非常に有力な道標であると言えるのです。

 人間を勉強するためには、何かの基準、何かの道標が必要になります。般若心経の空と、聖書の復活を取り上げて、皆様と一緒に命の勉強をしたいと思うのです。

 皆様は今のままでは死んでしまいます。このまま放っておいたら必ず死んでしまいます。私はこれを見過ごすことができないので、いろいろな本を書いて警告しているのです。

 現在の人間は生活のために有頂天になっています。生命のことを全く考えていないのです。顕在意識に誤魔化されて、魂を問題にしていないのです。非常に危険な状態にあるのです。

 霊には亡霊と生霊とがあるのです。亡霊は死んだ霊です。死んだ人間は亡霊になっているのです。

 人間の魂は脳波や心臓が止まったら、眠っているのです。眠っている証拠に、霊媒で呼び出すと出てくるのです。起きてくるのです。起きてくるというのは、死んでいないということです。人間は眠りはしますが、死なないのです。

 それでは、死ぬということがないのかと言いますと、あるのです。この世を去るというのは死ぬことにはならない。ただ眠るのですが、本当の死は何かと言いますと、人間としての責任を果たしていない者が人間としての責任を果たすために、強制的に責められるということです。これが本当の死です。

 現世を去ることが死ではなくて、現世で魂の眼を開いていなかったその怠慢を責められ、糾弾されることになるのです。これが本当の死です。

 人間とは何かということを知らない状態が死んでいる状態なのです。人間とは何か、何のために生きているのか。これをはっきり知らない状態が、既に死んでいる状態なのです。だから、危ないのです。

 今の文明社会は全部死人の社会です。今の文明は死の文明です。人間とは何か、魂とは何かを知らないままで社会を造っている。これが死んでいる社会です。

 皆様の魂は死んでいるのです。だから、危ないのです。魂の眼を開くのです。魂の眼を開けば生き返るのです。今の人間は既に死んでいるのですから、死なないようにと考えたり、自分の命を守る必要はないのです。死なないようにと考えるよりも、命とは何かを考えて頂きたいのです。

 命を求めなければいけないのです。皆様はちょっと体の状態が悪くなったら、すぐ病院へ行くでしょう。急病になれば救急車を呼ぶでしょう。

 皆様は肉体の生命については非常に敏感ですが、魂の命のことは全然考えていないのです。こういう物事の考え方が死んでいる人の考え方なのです。

 文明はただの生活の知恵です。大学で教えている学問は、すべて生活の知恵ばかりです。生命の知恵は全くありません。生活の知恵ばかりを教えているのです。

 そういうことを大学で勉強してきた人が社会の指導者になるのですから、社会がどんどん悪くなるばかりです。死の文明を造って、得々としているのです。

 亡霊は眠っている霊です。生霊は生きている霊です。亡霊と生霊にどういう関係があるのかと言いますと、それぞれの家系において死んでいる魂は生きている魂を非常に当てにしているのです。これは仏典にも書いてありますし、聖書にも書いているのです。

 生きている人間の勉強次第によっては、死んでいる人間の魂を幸福にするということはできないことではないのです。「孝行をしたい時に親はなし、墓に布団は着せられず」と言いますが、墓に布団を着せても仕方がないのです。

 皆様は今生きているのですが、皆様の家庭で亡くなられた魂は、親御さんであっても、おじいさんおばあさんでも、その魂は今生きている皆様を頼りにしているのです。

 生霊は大変な力を持っているのです。生霊になぜ力があるのかと言いますと、生霊は神と共に生きているからです。神の力が働いているのです。だから、生霊の力は亡霊には相当強く響くのです。生きているということは、神と共にいることです。

 皆様の心臓が動いていることが神という事実です。皆様の目が見えるということが、神という事実です。神というのは事実です。神は事がらです。

 今皆様は神と一緒にいるのです。だから、強いのです。皆様が偉いのではなくて、皆様と共にいる神が偉いのです。ところが、皆様は神をご存じないのです。だから、人間は死んでいると言わなければならないのです。

 もし皆様が本当に神が分かれば、亡霊にそのことが分かるのです。自分の家系の死んだ魂がそれを感じることができるのです。そうすると、因縁を断ち切ることが可能になるのです。

 現在、皆様が生きているということは、亡霊に対して非常に大きい責任を任されているということになるのです。また、天地万物に対して、万物の霊長としての非常に大きい責任を持たされているのです。

 だから、生活していることだけで、有頂天になっているべきではないのです。私たちはこういうことについて、共に勉強すべきです。顕在意識に捉われないで、良心の声に耳を傾けて頂きたいのです。

 皆様の良心は神を知っているのです。命の本質を知っているのです。ところが、常識や知識でそれを押さえつけているのです。だから、五蘊皆空を悟って、常識や知識をはねのけて、魂の眼を開きたいという熱心な気持ちを持てば、私がお話ししていることを理解して頂くことは可能です。

 命の本質を捉えるのです。これはできないことではないのです。私は現在これを実行しています。実行しているから、皆様にはっきりお話しできるのです。

 私たちは神と一緒に生きているのです。生きているとは神と対話していることなのです。この神は天地を造った神を言うのです。日本の産土神や氏神とは違います。人間を現実に生かしている神です。

 人間が生きていることは、神と対話しているのです。生活していることは、神と対話していることなのです。食物の味が分かる。目で物の形が分かる。色が分かるのです。味、形、色は神の自己顕現です。神が万物として現われているのです。

 皆様はそれを現実に経験しているのですから、分からないはずはないのです。どうぞ魂の眼を開いて頂きたいのです。

 学校教育が現世における生活の知恵だけを教えているだけなら、何の意味もないのです。人間完成への足がかりにはならないのです。

 読んだり書いたり考えたりすることが基礎になって、人間の命の本心にタッチしていくような方向に行くのが最も望ましいのです。

 顕在意識というものは、更に奥深く、宇宙の本質、また、人間の本質に向かって進むための足台にすぎないのです。もちろん、足台なしには伸びていけませんので、基礎的な学的素養はどうしても必要なものです。教職についている方が、宇宙への前進、人生への前進を志して頂けるとしたら、大変喜ばしいことであると思います。

 人生は現世にいる間だけではないのです。俗に、生まれてきたと言います。また、死んでいくと言います。生まれてきたというのは何処からか来たことを意味します。死んでいくというのは何処かへ行くことを意味するのです。

 生まれて来て、死んで行くのですから、過去、現在、未来という三つの世代を、現世という形で今経験しているのです。

 皆様が生きている現実の中に、生まれてくる前の命があるのです。また、皆様がこの世を去った後の命もあるのです。

 仏教ではこのことを三世と言いますが、三世の人生が現実を中心にして展開しているのです。現実、現世、現前をしっかり見つめるという態度を取れば、生まれる前の自分について眼が開かれるのです。同時に死んだ後の自分についてもはっきり見えてくるようになるのです。

 これはそれほど難しいことではないのです。人間の理性はそれくらいの力を持っているのです。

 現在、学者が理性という言葉を使いますが、これは本当の理性ではなくて、知性のことです。合理主義の考え方、自然科学的な考え方は知性であって、理性ではないのです。

 理性は現象世界の上にあるものです。現象世界より深いもの、高いもの、大きいものです。現象世界によって制限されるものではないのです。現象以上の広がりを持っているのです。

 理性が眼を覚ましますと、生まれる前の自分が分かるのです。

 仏典に、「父母未生以前の面目」という言葉があります。無門関の中にある問答の一つです。両親が生まれる前のあなたの本当の姿が分かっているのかと言っているのです。自分が生まれる前ではないのです。

 両親が生まれる前のあなたの本当の面目が分かっているのかと言っているのです。碧厳録の中にある有名な言葉ですが、父母未生以前の面目が本当の人間です。

 皆様に神が分かれば、理性の眼が開かれるのです。神は理性の本源です。神は天地のロゴス(言)の本源です。天地の言(理)の本源ですから、神が分かりますと、皆様の魂の眼が開かれるのです。そうしたら、父母未生以前の自分自身が分かるのです。それから、この世を去った後の自分も分かるのです。

 過去世と現世と来世の三つを含めて人生というのです。三世を貫く考え方が、まともな人生観であって、現世に生きている間だけが人生ではないのです。

 神とは何かについて少しお話ししておきます。新約聖書十一章六節に、「神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることを、必ず信じるはずだからである」とあります。

 日本語で神のいますこととなっていますが、英訳では、must believe that he is となっています。これは神がイズ(is)であることを信じなければならないという意味です。

 神とは何かと言いますと、イズです。ビー動詞が神です。男が男であることが神です。女が女であること、太陽が太陽であることが神です。

 太陽があることがイズです。神の本質はイズです。これは日本の神とは全然違います。全く違います。皆様が人間であることが神です。地球が存在するという事がらが神です。

 あること、であること、この二つが神です。これが神の本質であって、神が自ら自分のことを、「私は有って在る者」I am that I am.と言っているのです(出エジプト記3・14)。私は(am)であると神が言っているのです。

これが神の本質であって、キリスト教で考えている天にまします神とは違うのです。天にましますということがアイアム(I am)のことです。イズのことです。このことがキリスト教では分からないのです。

キリスト教の人々は聖書を読んでいますが、聖書の本質が読まれていないのです。宗教観念で読んでいるから分からないのです。

 神は昨日のことでもないし、明日のことでもない、今のことです。現前を適確に掴まえますと、過去のことも未来のことも、現前の中に集約されるのです。

 仏典に「現前を得よ」とありますが、これは神を掴まえるのと同じ意味になるのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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