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                          能動性と受動性

 

 死というのはないのです。医学的に言いましても、人間が死ぬというのはおかしいのです。人間の精神機能が正常に動いていたら、死なないのが当たり前です。理論的に言えばそうなるのです。

 人間の精神が肉体の機能に不必要な過労を強いているのです。年をとるというのはおかしいのです。精神のあり方が正常であれば、生理機能も正常に動いていますから、生理機能が老化するということはないのです。

 大体、老化現象がおかしいのです。人間の精神機能が正当に働いていましたら、生理機能がそれに伴っていくはずです。

 心理的に悪化しているのです。精神状態が正常ではないのです。精神が縮んでいる。しょぼくれているのです。その原因は何かと言いますと、自分が生きているという妄念によるのです。これが間違っているのです。

 自分が生きているという事実はありません。人間が生きているのは魂です。生きているということが魂を意味しているのです。

 人間が生きているという事実はないのです。人間が生きているという考え方を発明したのはユダヤ人です。ユダヤ人が人間が生きているという妄念を発明したのです。

 そのために、世界全体の人間が、自分が生きていると思い込まされてしまったのです。この考えをたった一人の人が破ってしまった。これが釈尊です。

 白人は自分が生きているという考え方に、皆犯されてしまったのです。ユダヤ人の思想に負けなかったのは、釈尊だけです。このことをよく考えて頂きたいのです

 ユダヤ人の思想は絶対に信じなければならないものではないのです。

 自分が生きているという考え方は、ユダヤ人の思想です。これを原罪というのです。原罪はユダヤ人独特の思想です。

 釈尊は五薀皆空、色即是空と看破したのです。人間は空だと言い切ったのです。空であれば原罪はないのです。私たちは宗教ではない般若心経を、しっかり勉強しなければならないのです。

 人間の生理機能が老化するのは、心理状態の欠陥から生じているのです。心構えが悪いから死ぬのです。

 自分が生きていると考える。自分が生きていると考えると、心理的に大変な欠陥が生じるのです。第一に心理状態が歪むのです。第二には、利害得失を考えるのです。これが自分が生きているという考えの最大の欠陥です。この考えが生理機能に影響して老化現象を起こしていくのです。

 人間の生き方が間違ってしまった。そのために神は人間を初めとして、動物全体を滅ぼしたのです。

 ノアの洪水までに、自分が生きているという意識はあったのです。しかし、利害得失はなかったのです。

 自分が生きているという意識がなかったのは、創世記の二章の段階です。創世記三章からの人間は、皆自分が生きているという意識を持っているのです。

 私たちは創世記の二章に帰らなければならないのです。アダムが善悪を知る木の実を食べて、陥罪する以前に帰らなければいけないのです。

 自分が生きているという意識を持ったら、もう負けです。自分が生きていると思うことが罪です。命は自分のものではないのです。それを自分が生きていると勝手に考え出した。これが神に対する反逆です。

 ノアの洪水までは、神は人間が生きていることを認めていたのです。自分が生きていると思っていても、神は半分くらいは認めていたのです。

 自分が間違っていることを神は人間に悟らせようとして、神の御霊が働いていたのです。ノアの洪水まではそういう状態だったのです。今から五千年程前まではそういう状態だったと言えるのです。

 その時には掟がなかった。法律がなかったので、これが悪い、あれが悪いということはなかったのです。従って、犯罪はなかったのです。ただ自分が生きているということだけは間違っていたのです。

 こういう状態でしたから、神は人間を相手にしていたのです。ところが、だんだん悪くなっていったのです。最初は、自分が生きているという意識だけでしたが、ホモファーベルと交わったことによって、人間の血液の組織体に影響するようになったのです。これによって、セックスの混乱が起きたのです。

 自分が生きているという考え方と、セックスの混乱が起きたために、人間がだめになってしまった。人間の血液の染色体がだめになってしまったのです。

 遺伝子がだめになったのです。そこで、神は人間を見切ってしまったのです。ノアの洪水の時に、神は人間を見切ってしまったのです。

 そこで、すべての人間を洪水によって滅ぼそうと考えたのですが、ノアの信仰によって、ノアの家族だけは救われたのです。しかし、人間を動物扱いしたのです。

 それまでの人間は、死ななくてもよかったのです。ノアの洪水以後の人間は、死ぬべきものだとなったのです。死ぬべきものが人間だとなったのです。

 こういうことを日本の学者は全然知らないのです。日本の学者は聖書を勉強していないのですから、人間に対する正確な認識がないのです。

 中国でも韓国でも同様です。アメリカやヨーロッパの学者も同様です。ただ人間の生活だけを考えているのです。

 孔子や孟子は人間の生活だけを考えて、儒教を造ったのです。これが間違っているのです。人間の生活は神を根底にしなければ成立しないのです。神の存在を根底にしないで、人間の生活のみを考えた。これが孔子や孟子の根本的な間違いです。

 孔子は命のことを全然考えていません。論語には命のことを全然書いていません。道徳ばかりを書いているのです。そのように、命を問題にしなかったのです。

 「我未だ生を知らず、いわんや死においておや」と孔子は言っています。生とか死を問題にしなかったのです。死ぬのは当たり前だと思っていたのです。

 人間は何のために生きているのか。そんなことは自分は知らないと言っているのです。死んだらどうなるのかは分からない。ただこの世に生きているだけが人間だというのが孔子の思想です。

 孔子の思想を修正したのが老子です。孔子と老子は同じ時代の人物です。老子は無と有とを考えたけれど、命のことは考えなかったのです。無為と有為について言及しています。

 有為転変と言ったのは老子です。この世の中の事物一切は因縁によって仮に存在しているもので、常に移り変わっていく、はかないものであるという考えです。

 有為は転変するに決まっているものです。これは孔子の思想を批判しているのです。老子は孔子を批判するつもりで言ったかどうかは分かりません。孔子は有為ばかりを言っているのです。どのように生きたらいいのか、どのように生活するのか、政治はどうあるべきかを説いたのです。

 孔子は有為の専門家です。無為を全然説かなかったのです。老子は無為を説いたのです。しかし、命を説いていないのです。

 命というのはユダヤ独特の思想です。生命はユダヤ人独特の思想ですが、このユダヤ人が人間は死ぬべきものだ、生命は死ぬべきものだという定義をつけてしまったのです。

 これが間違っているのです。私たちはユダヤ人のために祈らなければなりませんが、これは全世界から死を追い出すことなのです。人間の歴史から死を追い出すのです。これがユダヤ人に対する祈りの中心ポイントです。この祈りをして頂きたいのです。

 私たちは人間が幸せになるために勉強しているのではありません。地球から死を追い出すことが目的です。

 これは根本的な問題ですが、今世界でこれを考えているのは私たちだけです。私たち以外に誰も考えていないのです。

 私たちは地球から死を追い出すために聖書を勉強しているのです。そのために、永遠の命を勉強しているのです。

 永遠の命というのは当たり前のことです。死ぬ方が間違っているのです。このことをユダヤ人に知ってもらいたいのです。ユダヤ人がこのことを理解したら、全世界から死が追い出されるという、歴史的事実が現われるのです。イエスが復活したことが、全世界に証明されることになるのです。

 これが人間の最高の願いです。私たちはこれを切望しているのです。宗教ではないというのはこういう意味になるのです。

 皆様は世界的な視野に立って考えて頂きたいのです。皆様は日本人であるという気持ちが強すぎて困るのです。日本人というものがあると思っていることが間違っているのです。

 日本人というのは人間が勝手に造ったものです。国籍や民族があると考えていることが間違っているのです。これは人間が造ったものですが、神が一時的にそういうものを許しているのです。人間が死ぬことになったから、仕方がないから神が認めているものです。

 国籍や民族は神が造ったものではないのです。ノアの洪水によって、神は人間を認めないという態度をとっているのです。

 皆様も正式に神に認められてはいないのです。それは、皆様が神を認めていないからです。皆様の中には御霊を受けている人がいますが、御霊を崇めていないのです。これはばかなことです。

 御霊を受けたということは、御霊によりて歩むためです。ところが、御霊を受けていながら御霊によりて歩んでいない。こういうばかなことをやめて頂きたいのです。

 ただ普通に生きている人でも、御霊によりて歩むべきです。御霊を受けている人は、当然御霊によりて生きるべきです。ところが、御霊によって生きていない。

 これは七十三億の人間に対して申し訳ないのです。皆様は聖書を信じて御霊を受けていながら、なお自分が生きていると考えている。これはけしからんことです。

 こういう間違った考えを自分の中から追い出すのです。皆様が本当の人間として神を見ていないから、ユダヤ人が未だにだらしがない生き方をしているのです。

 ユダヤ人が間違っているのは、皆様が間違っているからです。まず皆様がまともに生きて頂きたいのです。

 大体、人間はパウロのように、また、イエスのように生きるのが当たり前です。パウロやイエスは特別に偉い人ではありません。イエスのような感覚で生活ができて当たり前です。私はそのように生活しようとして励んでいるのです。

 イエスやパウロのように生活できなければいけないと言っているのではありません。イエスのように生活しなければならないという責任を、実感しないことがいけないのです。

 イエスと同じような生き方をしたいと思うのです。自分が生きないで、神と一緒に生きるのです。自分が勝手に生きないで、神と一緒に生きるのです。神の中で生きるのです。

 命の流れの中に入ってしまっていることです。これが普通の人間の生き方でなければならないのです。これができないというのは、動物人間になるのです。

 自分が生きている。神が分からないことを、日本人は当たり前のように考えています。これは人間が動物並の存在であるということを自ら表明していることになるのです。

 人間は理性と良心を持って生きています。これは獣にはあり得ないものです。ところが、理性と良心を持っていながら、肉の思いで生きている。これは理性と良心を汚していることになるのです。

 理性と良心が人間の命の本質であって、命の本質を自分の思いで汚しているのです。これが動物並の人間であることを示しているのです。

 動物は理性や良心を持っていないから、それを汚すことがないのです。だから、動物は自分自身を汚そうとはしていないのです。

 犬が生きている状態は、そのまま霊によりて生きているのです。犬や猫は完全な命を完全に生きているのです。人間は完全な命を不完全に生きているのです。

 犬の生き方の方がずっと上等です。犬は嘘を言いません。人間は嘘を言って生きているのです。犬は人間におべっかする時もあるようです。猫も同様です。羊は人間になつきません。ただ養ってもらっているということだけになついているのです。これが本当の生き方です。

 人間になつくのは間違っているのです。羊はただ人間に餌をもらうということになついているのです。

 アブラハムは羊を飼っていました。羊を飼っていることによって、神によってどのように生きるべきかを教えられたのです。これがユダヤ人の祖先のアブラハムです。

 人間より羊の方が上等です。肉の思いを羊は持っていないからです。

 般若心経に五蘊皆空という言葉がありますように、人間の考え方はすべて間違っているのです。

 釈尊は一切空と看破しました。空という考えが正しいのです。空以外の考えは皆間違っているのです。宗教も、学問も道徳も、政治も経済も皆間違っているのです。空ということだけが正しいのです。

 まず空という場に立たないと、正式な出発ができないのです。人間が何かの考え、思想、主義、主張を持っていますと、勉強したことが皆歪んでしまうのです。

 空を基礎にしないと、自分の悪い癖の上に上塗りをすることになるのです。これが間違っているのです。

 自分が生きているという考えの上にいくら積んでもだめです。自分が生きているということが間違っているのです。

 自分が生きているのではない。生きているということを磨くのです。そうすると、死なない命、死なない人が分かるのです。

 自分という考え方は有為転変ですが、自分という感覚はなければいけないのです。しかし、あってはいけないのです。これはどういうことかと言いますと、自分をみずからの分として生きるか、おのずからの分として生きるかです。このことをよく考えて頂きたいのです。

 日本人は皆みずからとして生きているのです。おのずからとして生きていないのです。おのずからとして生きているとはどういうことかということです。

 人間は自然現象を見学するために生まれてきたのです。自然現象を正しく見学しますと、人間は死なない命が分かるのです。自然現象はすべて死なない命の標本です。

 死なない命を見学するために、この世に生まれてきたのです。見学するということは、見学する本人がいるのです。見学するための本人が自覚しなければ、見学できないのです。自覚する必要があるので、自分という人格がいるのです。

 見学の本体としての人格を意識させているのです。自分が基礎になって見学しないといけないのです。いくら見学しても、自分がいなければ何もならないのです。

 見学は経験と言ってもいいのです。経験するために、自分という意識を与えたのです。自分という一人称を与えたのです。私という一人称を与えたのです。

 私という一人称は経験の本体として持つべきものなのです。主観的に生きている本体ではないのです。主観的に生きている本体ではなくて、経験している本体なのです。

 アブラムはこれが分かったのです。そこで、アブラハムになったのです。アブラハムというのは多くの国民の父です。多くの国民というのは、神を経験する魂をいうのです。

 自分が生きているのではありません。神を経験するのです。神を経験しているということは、命を経験していることなのです。

 富士山を見るとなぜ感動するのか。富士山を見ると、山を見るのとは別の感覚がするのです。普通の山を見ているという感じとは違うのです。威風堂々たるものを感じるのです。

 これは自然現象の代表的なものであって、日本に富士山があることは、神が日本民族に対して格別にアピールしているものがあるのです。神が日本民族のために予め造っておいたのです。

 他の山を見ても、富士山のような感動はないのです。富士山は景色の代表です。人々は富士山を見て何を感じているかです。藤田東湖が詠んでいる「白扇さかさまにかかる東海の天」という歌があります。

 藤田東湖の「正気の歌」の歌の感覚と、富士山を見た時の感覚は同じです。

 富士山を見て正気を受ける、霊気を受けるのです。正気とは命の気です。正気はそのまま霊気です。天地正大の気です。

 天地正大の気というのは命です。富士山はそれを人間に見せているのです。富士山を見て、その感動が自分の命になったら、自分が生きているという命が消えるのです。

 富士山を見たら誰でも感じるのです。富士山はただの山の景色とは違います。命の権威が現われているのです。これは天地万物を造った造り主が、直接人間の霊魂に自分を見せているのです。自分の一つの姿を見せているのです。

 造り主の一つの姿を、富士山という格好で人間に見せているのです。これを見るために人間は生まれてきたのです。おのずからを見るために、生まれてきたのです。おのずからというのは天然ということです。

 天然を見るために人間は生まれてきたのですが、そのために自分という人格を持たされたのです。だから、おのずからの分は正しいのです。

 人間は自分で生まれてきたのではない。また、自分で生きているのでもない。自分が生まれたいと思って生まれたのではない。従って、自分が生きているのではないのです。おのずから生きているのです。

 目が見えるというのはおのずからの働きです。呼吸機能はおのずからの働きです。これを人間は経験しているのです。

 人間は天地の命で生きているのです。天地の命は死なない命です。これをどうして掴まえるかということです。イエスはこれをはっきり掴まえていたのです。しっかり掴まえたのです。

 イエスは死なない命をしっかり掴まえていたのです。だから、十字架によって殺されて地獄へ行ったが、そこにとどめておくことができなかったのです。死んだ状態でおくことはできなかったのです。そこで、死から追い出されて現世に引き返えされたのです。

 イエスははっきり殺されたのですが、その状態でいることができなかったのです。死んだままの状態でおくことができなかった。なぜなら、死なない命をイエスは持っていたからです。この命を掴まえたらいいのです。

 旧約聖書には、「王たちもあなたから出るであろう」と書いているのです(創世記17・6)。

 アラブ首長国連邦、オマーン、カタール、カンボジア、クエート、サウジアラビア、バーレーン、ブータン、ブルネイ、マレーシア、ヨルダンに王室があります。ヨーロッパではイギリス、オランダ、スウェーデン、スペインなどに王室があります。現在、世界で二十七の王室がありますが、聖書はすべてユダヤ系であると言っているのです。

 ユダヤ人問題は世界の歴史の中心です。良い事も悪い事も、ユダヤ人が中心にならなければ世界が動かないようになっているのです。

 歴史の流れが人間の命の正直な見本になっているのです。歴史の流れと一緒に人間の命の流れがあるのです。歴史の流れが分からなかったら、個人の命運は分かりません。

 人間の肉体は地球の原理によって存在しているのです。人間の命は歴史の流れによって存在しているのです。

 人間が完成されますと。時間と空間が完成されるのです。そうすると、本当の国が現われるのです。地震があるというのは、できそこないの地球です。台風、津波、飢饉、旱魃がある地球は本物の地球ではないのです。

 砂漠があり、伝染病があり、疫病がある地球は本当のものではない証拠です。

 やがてキリストの復活が歴史的事実になって現われるのです。これを千年王国というのです。これが実現すると初めて、本当のことが分かってくるのです。今の学問、宗教、政治、経済、法律はすべて消えてしまうでしょう。

 その時には、日本は非常に大きな役割を果たすことになるのです。

 私たちがキリストの再臨の勉強をすることが、将来の日本にとって、非常に大きいプラスになるのです。

 日本人は徳川幕府三百年の間に、世界観が大きく変わってしまったのです。儒教の考え方が日本人に徹底的に植え付けられたのです。義理人情という考え方が日本人の気質になってしまったのです。

 内村鑑三氏はキリスト教に儒教をくっつけて、日本的キリスト教、儒教的キリスト教を造ってしまったのです。

 内村鑑三氏の考え方は完全に間違っています。アメリカのアマースト大学で勉強していながら、ユダヤ人の本質を何も知らなかったのです。ただユダヤ人の思想にかぶれて帰国したのです。

 「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と福沢諭吉が「学問のすすめ」に書いていますが、これはユダヤ人思想からきているのです。福沢諭吉もユダヤ思想にかぶれていたのです。

 今というのは、人間の命を正確に掴まえるための急所です。これが空になるのです。

 今という時の他に時間はありません。人間が生きているのは、時の流れによって生きているのです。過去とか未来に時間はないのです。

 今の時が連続してあるだけです。イエスは「明日のことを思い煩うな」と言っています。「一日の苦労はその日一日だけで十分である」と言っているのです(マタイによる福音書6・34)。

 今日だけのことを考えたらいいのです。昨日のことは考えてもしかたがない。明日のことを考えるな、今日だけのことを考えたらいいというのです。

 世間の人は過去のことを考えて生きているのです。過去の計画を考えて、今日生きているのです。だから、本当の命が分からないのです。

 今生きていることが魂です。従って、魂として生きるのが本当の生き方です。昨日、何があっても、一年前に何があっても、関係がないのです。

 ところが、皆さんの悪い癖は、今まで五十年生きてきた、六十年生きてきたと思っているでしょう。これが間違っているのです。その思いが嘘です。人間は嘘に騙されているのです。

 今までこの世に生きてきたと思っている思いに騙されて、死んでしまうのです。人間の常識というのは、すべて幻覚です。こういうことを日本人は信じているのです。五蘊皆空というのは、人間の考えはすべて幻覚だと言っているのです。

 白人にはこういう考えはありません。日本人には今というご利益が良く分かるはずです。般若心経でいう究竟涅槃は、今だけしかないと言っているのです。

 今だけに生きるのです。今以外のことは全部考えないのです。これが究竟涅槃です。涅槃はそれを言っているのです。これを老子の哲学で言いますと、無為になるのです。

 今まで生きてきたことも、これから生きていくことも、両方とも捨ててしまうのです。今だけを掴まえるのです。過去も未来もなくなってしまうのです。それだけでいいのです。

 とこしえの命は、今ここで掴まえなければ掴まえられないのです。今掴まえなかったらだめです。

 今という時間はとこしえにあるのです。今はなくならないのです。平成がなくなっても、西暦がなくなっても、今はなくならないのです。地球が消えても、今はなくならないのです。人間が生きようが死のうが関係なく、今はあるのです。

 今、今、今という今はあるに決まっています。これを掴まえたらいいのです。これが無為です。

 今を掴まえると、過去も未来もなくなってしまうのです。だから、無為になるのです。自分が生きていることが無になるのです。今だけがあるのです。

 自分もないし、他人もないのです。今だけがある。これが本当の般若波羅蜜多です。

 今という時がある。これが命です。今という時だけが、とこしえです。このことを道元禅師は平常心と言っているのです。平常の心が今です。

 道元は平常心是道と言っています。「春に百花あり、秋に月あり、夏に涼風あり、冬に雪あり、若し、閑事(かんじ)の心頭(しんとう)に掛かる無くんば、すなわち、是れ人間(じんかん)の好事節(こうじせつ)」(無門関)と言っていますが、これが平常心是道です。しかし、この言い方は不完全です。イエスの言い方が完全です。

 道元、親鸞、弘法大師、そして、日本のお祖師さんの考え方はイエスから見たら子供みたいなものになるです。

 今を掴まえるのです。この今というのがどうしてできるのか、今だけが命です。

 今は神が造っているのです。今という時は神が造らなければ造るものがいないのです。これを捉えるのは人間です。人間がいなかったら、今はあってもないのと同じになるのです。神が時間を流していても、人間が生きていなければ、今という時間はできないのです。

 皆様の魂はどういうものでしょうか。皆様はけっこうな命を生きているのです。けっこうな命を生きていて、けっこうな話を聞いているのです。皆さんはけっこうすぎるくらいになっているのです。

 時間を流しているのは神です。人間は時間を造ることはできません。神がいくら時間を流そうとしても皆さんがいなかったら、時間は造れないのです。このために、人間に自分という自覚が必要なのです。

 言(ことば)が働いて万物ができているのです。言が命の根本です。これが働いて花ができているのです。

 花はどうして咲いているのか。人間に花を見せようという神の言があるのです。これが花という格好で現われているのです。これを人間の霊魂が受け止めているのです。

 人間の霊魂の本質は言です。だから、花が咲いているのを感じることができるのです。神の言は全知全能です。神の言は能動性です。積極的に働きかける言です。

 神は働きかける言です。太陽が輝いている。森羅万象がある。花が咲いているというのは、神が人間に働きかけている状態です。

 晴れている。曇っている。雨が降っているというのは、神が人間に語っている状態です。ところが、人間はただ晴れている、曇っている、雨が降っていると思っているのです。

 晴れている、曇っている、雨が降っていると感じるのは、人間という言が神の言を受け止めているのです。それで、晴れている、曇っている、雨が降っていると思うのです。神の言の働きを、人間の理性は受け止める力を持っているのです。

 男が女を抱くように、神は能動的に働いているのです。女が男に抱いてもらいたいように、人間は神に愛されたいのです。

 晴れた日に気持ちが良いと感じるのは、神に愛してもらいたいと考えているのです。まずいものよりおいしいものが良いと思う。おいしいものというのは、自分の舌にあう感覚です。これを人間は感じているのです。

 人間に植えられた言があるのです。これが、五官、生理機能、心理機能です。人間に植えられたものと植えたものがあるのです。植える人は神です。人間は植えられたのです。

 神に植えられたのが人間の機能です。これが女の状態です。これによって、人間は神を愛するのです。

 女は男に愛されると目が開くのです、男に愛されなかったら、女は目覚めないのです。まず神が人間を愛するのです。そうすると、神に愛されていることに気がつくのです。

 花がきれいだと感じているのは、その人が神に愛されているのです。その花を見てきれいだと思うことは、神に愛されていることに気がついた状態です。

 花を見てきれいだと思うのは前思です。これは女を見てきれいだと思うのと同じことです。きれいというのはどういうことか。ただきれいだと思うだけでは命にはならないのです。

 きれいだと思うのは人の魂でそう感じているのです。人間の魂が求めているのは、命の本質です。

 人間の魂は神から出てきたものです。人間の魂が求めているものは命だけです。

 魚を食べる時には、口にあうように料理してもらいたいと思います。口にあうようにとはどういうことか。人間の味覚は魂の働きです。口にあうようなものを食べたいと思うのは、無意識に霊魂の救いを求めているのです。

 口にあうというのは、魂が救われることです。口にあっておいしいと感じているのは、瞬間的に救われていることです。これをおいしいと感じるのは、神を誉めているのであって、魂は瞬間的に神の愛を受け止めているのです。

 魂は神から出てきたものですから、神だけを求めているのです。神の他には全然魅力がないのです。神だけしか魅力を感じないのです。

 神以外のものは何を持ってきても、魂は感心しないのです。神が自分の親であることを知っているからです。

 皆様はきれいなもの、おいしいもの、五官の感覚にぴったりとくるようなものだけを求めているのです。これは魂が救いを求めている証拠です。

 五官の働きは魂を代表して、いつも救いを求めているのです。五官の働きは、何が救いなのか、救いでないのかを良く知っているのです。おいしくないというのは救いではないと思っているのです。おいしいというのは救いだと思っているのです。

 とこしえの命であるかないかを、五官は見分けているのです。皆様の目の働きは本当の命か、偽物の命かを見分ける力を持っているのです。

 酒でも女でも、霊魂に結びつけて考えたら、皆救いになるのです。酒は酒、女は女と思っているからいけないのです。

 人間の五官はそのまま魂の働きですから、五官の中に救いがあるに決まっているのです。五官の中に魂の救いがあるに決まっているのです。

 主人を愛しているから、主人の口にあう料理を作りたいと奥さんは思うのです。洋服のデザインを考えるとか、ヘアースタイルを考えるというのは、皆霊魂に関係があるのです。

 洋裁学校の先生は教会の牧師さんと同じようなことをしているのです。教会の牧師さんも、美容院の先生も同じことをしているのです。料理人は大和尚と同じ仕事をしているのです。

 この世の職業はどんなものでも皆霊魂につながっているのです。人間が現実的に生きていることが魂の救いに関係しているのです。

 現世では、会社や町内の人々の中で、嫌な人、憎い人と思える人がいるのです。まず自分自身が肉体的に生きているのを自分として見るか、魂を自分として見るかを、自分に聞いてみるのです。

 魂の命を求めている人が憎むのは、本当の悪です。しかし、肉体人間が出世するために、現世の地位や名誉を求めているのは、魂の働きではありません。

 肉体人間が憎むというのは、自分に利害得失があるから人を憎むのです。これは肉の思いです。利害得失に関係なく、霊魂の立場で悪いと思う場合は、本当に悪いのです。

 釈尊でもイエスでも悪いと言っていることがあるのです。悪いと思うことがいけないのではなくて、霊的に悪いと思うか、肉的に悪いと思うかです。本人の心次第です。

 皆様の中には、御霊を受けている人がいます。御霊を受けるというのは、聖書の言葉が命になっているのです。ところが、御霊を崇めることをしていない。これはどうかしているのです。

 人間の五官というもの、また、人間の魂は神しか求めていないのです。

 皆様は人間であるという自覚で生きているからいけないのです。人間であるという気持ちで生きていたら、神を絶対に信じることはできないのです。

 人間であるという気持ちではなくて、魂であると思うのです。魂であるという気持ちで神を求めなかったらだめです。

 人間として生きている者は皆死んでしまうのです。人間として生きていることは魂的に言えば、死んでいるのです。死んでいる証拠に、人間として生きていると思っているのです。

 だから、人間として生きている状態から、一段引き上げられるために、御霊を受けるのです。皆様の中の多くの人は御霊を受けているのです。御霊を受けたのに、人間という気持ちで生きている。これがいけないのです。

 人間が生きていると考えるのは、人間社会の常識です。人間社会の人間は、皆幻覚ばかりで生きているのです。人間の歴史があったことが幻覚です。日本という国があることが幻覚です。

 これはこの世の事実ですが、この世の事実というのは、やがてこの世を去る人間から考えると、幻覚になるのです。

 皆様のこれまでの人生は、この世を去ると幻覚になってしまうのです。今まで八十年生きていたとしますと、八十年間の幻覚を掴まえて、幻覚を頼りに生きていたことになるのです。

 親がいたとか、兄弟や子供がいたということが幻覚です。この世を去ってしまうと、何の係わりもなくなるからです。

 親子とはどういうものか。妻とはどういうものか。現世にいる間に、妻の実体、親子の実体を掴まえておかないといけないのです。

 現世に生きている間に、幻覚ではない命の妻、命の親子をしっかり掴まえておけば、永遠のものになるのです。これを掴まえ損ないますと、それらの人々を幻覚の世界に置き去りにしてしまうことになるのです、

 死んでからいくら悔やんでもだめです。宗教とか、学問は、人間の霊魂には何の足しになりません。ましてや、保険をかけておこうが、不動産や貯金を持っていようが、この世を去ったら何の関係もないのです。

 人間が今まで生きてきたのは幻覚です。このことを真面目に考えて頂きたいのです。

 今まで持っていた常識を棚に上げたらいいのです。そうして、自分の本当の姿を見て下さい。

 皆様は好きな食べ物があるでしょう。例えば、果物が好きな人は、果物を通して大自然の味、神の味を受け止める霊魂になっているのです。

 食べ物のどういうものが好きかということを考えてみますと、その人の霊魂の性質が分かるのです。

 そのように、皆様は現世でおいしいものが食べたい、きれいなものを見たいと考えてきたでしょう。おいしいものとか、きれいなものが皆霊魂の救いに関係があるのです。それを素直に受け取ると、神がその人の霊魂を愛しているということが、ストレートに分かるのです。神の愛の信号が直に分かるのです。

 神が自分の魂を愛しているということが、はっきり分かるのです。これを素直に受けなさいと言っているのです(ヤコブの手紙1・21)。

 植えられた言葉には魂を救う力があるのです。おいしいと思うことには、魂を救う力があるのです。これはとても大きいことです。これは本当の神を経験している者でないと、この説明はできないのです。

 こういうことは宗教では全く分からないことです。人間の五官がそのまま救いになるのです。これを受け止めるためには、まず般若心経で自分が空になることです。そうすると、命が神のものだということが分かるのです。

 命を経験したことは神を経験したことと同じです。神が経験している経験と、私が経験していることは同じ経験なのです。

 イエスはこういう生き方をしたのです。自分が経験したことは神が経験していることと同じだと考えていたのです。私もそう考えられるのです。

 生ける誠の神が私たちの父です。皆様の食欲も性欲も、悪い所は一つも無いのです。皆様が肉体的に生きていると思っていることが悪いだけのことです。惚れることが悪いのでもないし、抱くことが悪いのでもない。肉体的な思いで抱いているからいけないのです。

 肉の思いは死です。霊の思いは命ですし、平安です。霊の思いを掴まえたらいいのです。神が自分の魂を愛している。これが分かればいいのです。

 男性が女性に触って何を感じるのか。女性に触って、びびっと強烈に感じるのは何かです。魂の喜びを感じているのです。これは欲ではないのです。魂の喜びがストレートに入ってくるのです。

 女性に触って感じているものは、実は女性に触っているのではなくて、神に触っているのです。なぜかと言いますと、男のために女を造ったのは神です。女がいることは、神があることと同じことになるのです。

 こういうことは聖書を深く勉強しないと無理かもしれません。男性が好きな女性に触っているのは、神に触っているのです。

 触らなくても見ているだけでもいいのです。人間から見て、本当の異性は神です。神と人間の関係が異性です。神が男性で人間が女性です。これが本当の異性です。

 人間の男と女は同性です。一つの霊でつながっている異性が本当の異性です。男女の恋愛感覚は、神と人との感覚を煎じ詰めたものです。神と人との霊魂の係わりを煎じ詰めたものが、人間の恋愛になるのです。

 恋愛が上手な人ほど神が良く分かるのです。ダビデは恋愛の名人でしたから、神が良く分かったのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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