梶原塾
永遠の命
聖書に「すべてのものが言(ことば)によって造られた。言によらないで造られたものは一つもない」とあります(ヨハネによる福音書1・1~3)。
「この言に命があった。そしてこの命は人の光であった」とあります。皆様の命が神の言による命であるかないか。これを考えればいいのです。それだけで、皆様が死ぬか死なないかの重大な問題が、自ら決定されるのです。
皆様が生きているのは、五官の働きによるのです。白いものが白く見える。これが生きているということであるはずなのです。
皆様は現代文明の訳が分からない誤魔化しの社会に生きているために、白いものが白く見える気持ちがありながら、それが知らない間に、皆様の気持ちが白いものが黒いものに見えてしまっているのです。これが困ったことなのです。
皆様は自分の気持ちが確かなものではない、真と言えるような誠に基づいて生きているのではないということを悟って頂きたいのです。
皆様の生理機能は言によって造られているのです。呼吸機能も消化機能も、すべて言によって働いているのです。生理が言を意味するのです。
ところが、皆様の精神状態は言によって成り立っていないのです。肉の思いである常識で皆様の精神構造はできているのです。
生活意識は言によって成り立っていないのです。皆様の自我意識、または現象意識は言によって成り立っていないのです。ここに皆様の人生の根本的な矛盾があるのです。この点を解明して頂いたら、死なない命はすぐに分かるのです。
永遠の命というものはそんなに難しいものではないのです。「父なる神の御心は、子を見て信じる者がとこしえの命を持つことである」と聖書にあります(ヨハネに夜福音書6・40)。
何でもないことです。皆様が常識というあやふやなもので考えることをやめて、呼吸機能のような、また、生理機能のような正確さで生きたらいいのです。全くのありままの事実を、ありのままに信じたらいいのです。これさえできれば、人間の命が死なないものであることが、すぐに分かるのです。
なぜこれができないのかと言いたいのです。
キリスト教の神学者は、あれやこれやと理屈ばかり並べているのです。人間の論理性に基づいて、聖書を解説しようとしているのです。これが間違っているのです。
人間の論理性は常識に基づいているのです。本当の論理ではありません。人間の常識に適合するような合理性を述べているのです。これによって神学ができているのです。
神学に基づいて聖書を考えますと、皆間違ってくるのです。正直に物事を考えないからです。
皆様の生活に病気があったり、苦しみや悩みがあったりする原因は、皆様の考え方が素朴ではない、正直ではないからです。それが原因です。
聖書が難しいのではないのです。皆様の考えがひねくれているからです。いじけているのです。ひがんでいるのです。ひがんだり、憎んだり、悩んだりすることが、人間の常識の基本概念になっているのです。
これをやめて素朴に考えることを、悔い改めるというのです。キリスト教は悔い改めていないのです。悔い改めて福音を信じるという当たり前のことを実行していないのです。だから、キリスト教で何年聖書を勉強しても、本当の神の言の実体は分かりません。
常識を棚に上げて、素朴に見たらいいのです。呼吸機能のように素朴になったらいいのです。これだけのことです。なぜこれができないのでしょうか。
私がいうことは難しいことではありません。当たり前すぎる程当たり前のことです。皆様の生活的な社会常識の方がよほど分かりにくいのです。皆様の気持ちはひねり曲がっているのです。ひがんでいるのです。うとんじているのです。疑っているのです。お互いに駆け引きをしているのです。親子どうし、夫婦どうしがこれをしているのです。こういうことをやめたらどうでしょうか。
皆様の常識的な生活根性は、徹底的にひがんでいるのです。自分みたいなものに聖書は分からないと考える。こういう気持ちがある間は、いくら聖書を勉強してもだめです。
皆様は理性がありながら、理性で生活していないのです。常識で生活しているのです。この間違いをやめることができないのでしょうか。
聖書は難しくないのです。現在、皆様は死ぬに決まっている命を持っているのです。死ぬに決まっている命を持っていながら、その命にしがみついているのです。なぜそんなばかなことをするのでしょうか。
自分の命が死ぬに決まっている命であるということは、十人が十人、百人が百人共、皆知っているのです。このことが分かっていながら、自分が生きていると思っている命、死ぬに決まっている命を自分の命だと思って、それにしがみついている。常識的に生きている命にしがみついているのです。
皆様の命は常識で考えている命です。こんなものはだめです。死ぬに決まっているからです。常識で考えている命を、常識でしがみついている。こういうばかなことをなぜやめないのでしょうか。
キリスト教では常識的に生きている人間が常識的に神を信じているのです。だから、いくら勉強してもだめです。
牧師も、神父、神学者も、キリスト教の人々は、常識が通用する世界で述べているのです。常識が通用する世界では、神の言は通用しないのです。
日本人の中に、人々から正直な人だと言われる人がたくさんいます。これは儒教的な正直さ、人間的な正直さであって、徹底していないのです。
西郷南洲の正直さと、イエス・キリストの正直さでは、正直さのスケールが全然違うのです。
恋人どうしが駆け引きするというのは、本当の恋を知らないのです。人間の恋をしているのです。人間の恋というのは、常識に基づいて自分が幸福になろう、自分だけが得をしようと思っている気持ちが無意識に働いているのです。これが駆け引きになっているのです。
すべての物が言によってできているのです。すべての物、すべての事がらになっているのです。事も物も同じなのです。
皆様の心理状態が、気候、天候のように素朴な感覚になればいいのです。
皆様の理性は物と事と理を理解することができるのです。これをロゴスというのです。これが皆様の生命状態の基本原理です。
ところが、皆様は生命原理の基本状態によって見ていない。生きていない。これが死んでしまう原因なのです。
常識はロゴスを全然問題にしていないのです。人間は理性で生きています。物と事の上に立って生きているのです。物柄、事柄の上に立って生きていながら、これを正当に評価していないのです。常識的に考えているからです。
人間の意識は困ったものです。意識は二つあるのです。自我意識と現象意識があるのです。これを聖書は「肉の思い」と言っています。これが皆様の生活意識になってしまっているのです。
生活意識は肉体的に生きている人間の意識です。肉体の意識が自我意識になり、現象意識になっていて、生活意識が根本的に肉の思いになってしまっているのです。だから、皆様は死なねばならないに決まっているのです。
困ったことに、皆様の毎日の生活意識がそのまま認識になってしまっているのです。だから、皆様の認識はでたらめな認識ばかりです。これが物の考え方になっているのです。
人間の認識が間違っているのです。その原因は何かと言いますと、意識が間違っているのです。意識は生きている間だけしか通用しないのです。死んだ途端に人間の意識は消えてしまうのです。
皆様の意識が皆様の認識を造っているのです。認識の世界が皆様の命の世界になっているのです。
自分の生活意識が自分の記憶になっているのです。これがそのまま生活の認識になっているのです。これが記憶になっているのです。
そこで、この世を去ってしまうとどうなるのかと言いますと、皆様の生活意識、認識がそのまま記憶になってしまうのです。
人間の肉体は電気釜の中へ入れたら焼けてしまいますが、皆様の記憶や認識は焼けないのです。これが火の池の原因になるのです。
皆様は今のままでは死んだら裁かれます。人間は一度死ぬことと、死んだら必ず裁かれると聖書は断定しているのです。
一度死んで、そして、死んだ後に必ず裁かれるのです。その結果、地獄へ行くことになるのです。これは絶対的な事実です。こういうことが分かっていながら、なぜこの状態から逃れようとしないのでしょうか。私が神に用いられている原因は、これから逃れようと考えただけです。こういうばかばかしい生活状態から、逃れるべきだと考えただけのことです。
しかも、私は本当に神の期待どおりにしたかと言われますと、した所もありますが、実行できなかった所もたくさんあるのです。それでも、神は大目に見てくださったのです。神の御心の中心テーマに順応しようと考えて、附属的なテーマはしなかったのです。
そういうあやふやな状態でしたが、死んでしまうに決まっている命をやめようと考えたのです。それだけで、神は私を救ってくださったのです。完全に救ってくださったのです。そこで、皆様の前で堂々とイエスの説明ができるようになったのです。
だから、私は死にません。イエスの命を持っているのですから、絶対に死なないのです。これを堂々と皆様の前で言えるようになったのです。
今の人間の命は信用できないのです。世間の人は自分の命を皆信用していますけれど、何とばかかと言いたいのです。私は若い時にそれを考えたのです。
人間は子供が大人になって死んでいくのです。食べて寝て、子供を産んで死んでいく。こればかりをしているのです。一度死んで、死んだ後に裁きを受けることを、世間の人は皆しているのです。ばかなことをしているのです。
皆様も同じことをしているのです。自分が生きていると思っているでしょう。自分が生きているという考え方が、根本から間違っているのです。
皆様は生かされているのであって、生きているのではないのです。生かされている命を掴まえさえすれば死なないのです。
皆様は生かされているのです。神の命で生かされているのに、自分の意識で生きているのです。これが間違っているのです。これをやめたらいいのです。
こんな簡単なことがなぜ実行できないのでしょうか。私は若い時から、できるだけ実行しようと思っただけです。すべき事の五、六%しかできなかったでしょう。それでも、神は認めてくれたのです。まともな命をまともに生きようという気持ちを、できるだけ持とうと考えたのです。これだけのことで、神は認めてくれたのです。
こんなことぐらい皆様はできないのでしょうか。私ができたくらいのことが、なぜ皆様にできないのでしょうか。
死ぬことが分かっていながら、死ぬ命を自分の命だと思い込んでいるという悪い癖を、なぜ捨てようと思わないのでしょうか。
死ぬに決まっているような命は自分の本当の命ではない。人間には理性が与えられています。理性を持って考えることができる人間が、死ぬのは当たり前だ、裁かれるのは当たり前だということを、断じて受け入れることはできないと私は考えたのです。
世間の大人は皆死ぬ命が自分の命だと思っているのです。私は大人の生命観は間違っている、大人は皆ばかではないかと思ったのです。だから、私は生涯をかけて、死なない命、とこしえの命を見つめてやろうと考えたのです。
これくらいのことが皆様にはできないのでしょうか。できている人がいるかもしれませんが、堂々と天下に言わないからいけないのです。自分の心の中だけで思っているだけではだめです。聖書に、「人は心に信じて義とされ、口で告白して救われる」とあるのです(ローマ人への手紙10・10)。信じることと、口に言い現わすことを絶えずするのです。毎日、するのです。
自力の力量を考える必要はありません。自分の理想を堂々と発表するのです。発表すれば、自分も実行しなければならなくなるのです。そうすると、できるのです。そして、今までの生活意識、記憶と違った認識の世界が開けてくるのです。これが皆様の新しい人生になるのです。
正直に、大胆に、素朴に考えるというだけのことです。今までの生活は間違っていたと言うのです。言うと実行しなければならない気持ちが起きてくるのです。
明治維新に活躍した西郷南洲、吉田松陰、坂本龍馬といった人たちは、当時の日本人としては優れた考え方でしたが、世界観が非常に小さかったのです。
人生観という点では西郷南洲は当時の人々に尊敬される人でした。ところが、世界観がだめでした。命もいらない、お金もいらない、位もいらないという人間は、個人的には優れた人物であったと言えるかもしれません。
南洲は人生観では良いと言えるかもしれませんが、世界観がだめでした。当時の日本社会のことしか考えていなかったのです。常識的に人間が生きている世界だけを見ていたのです。
従って、彼の世界観というのは、徹頭徹尾、肉に基づいた世界観であって、命の真髄を知らなかったのです。南洲は自分の命を知らなかったのです。死ぬべき命を自分の命としていた。だから、考え方が本当のものではなかったのです。国の命を考える前に、人間存在の命を考えなければならないのです。
人間存在の命とは何であるのか。これがはっきりしますと、国の命が分かるのです。南洲は人間の命を考えないで、国の命を先に考えたのです。だから、倒幕とか勤王とかを考えたのです。これは世界観が小さいことを意味しているのです。
私は最低でも地球存在を考えて発言しているのです。もっと大きく、太陽系宇宙全体を視野に入れて考えているのです。地球はなぜ存在するのかを考えているのです。日本でこれを考えた人は一人もいなかったのです。
地球はなぜ存在するのか。地球は将来どのようになるのか。従って、現在の人間はどのような考え方であるべきかということを堂々と言った人は、日本には一人もいないのです。
いろいろな理論や理屈をいう人はいます。そういう人はイデオロギーにこだわっているのです。イデオロギーではなくて、地球が存在するということです。これをどのように理解するかという事です。
地球は造られたものです。造られたものはなくなるに決まっているのです。無に帰るとはどのように帰るのか。その時に人間の霊魂はどのように変遷すべきか。人間はそれに対してどのように対応すべきかということです。
天地の創造と、地球の壊滅という問題があります。その間に、人間の霊魂が介在して、どのような役割を演じるのかという問題です。これが私の世界観です。
人生観よりも世界観の方が正確でなければならないのです。マルクスは地球の終末については一言も述べていません。こういう世界観ではだめです。
物理構造の世界はどのように変化するのか、どのように存在するのか、どのように終末していくのかという問題です。これについては、マルクスは一言も述べていないのです。マルクスだけではなくて、世界中の科学者、哲学者、神学者も述べていないのです。
とこしえの命、永遠の生命について発言する者は、地球の初めと終わりについて、しっかり説明ができなければならないのです。西郷南洲、吉田松陰、マルクスも、皆説明していないのです。
本当の意味で、人間の命の真髄を貫いて、地球存在の真髄を貫いて、達観する感覚で人間の霊魂はこうあるべきだとはっきり言った人は、日本にはいないのです。私はそれを話しているのです。
イエスがいろいろな奇跡を行ったこと、また、自分がキリストであることを人に言ってはいけないと弟子たちに口止めしているのですが、これはどういうことかということです。これは当時のユダヤ社会の実情を考えれば分かるのです。
イエスがナザレ村で大工の倅として生まれたことを考えて頂きたいのです。ナザレ村というのは、碌な人間が住んでいないさげすまれた村だったのです。「ナザレから何の善いものが出ようか」と言われていたのです(ヨハネによる福音書1・46)。
イエスがナザレの人間であるということだけで、眉唾物であると思われていたのです。従って、イエスがメシアであること、キリストであることを軽々しく口外してはいけないとイエスは考えたのです。ユダヤ人が誤解するに決まっているからです。
イエスはキリストとはどういう者であるかを良く知っていたのです。人間の中からどうしても一人出なければならない世界全体の贖い主であることを知っていたのです。
ユダヤ人は神の約束を与えられて、神の約束の真髄を世界の人たちに証しなければならない責任国民ですから、ユダヤ人がキリストという人格に対して誤解を持ってしまいますと、取り返しのつかないことになるのです。
盲人の目を開けること、足なえを治すこと、病人の病を治すこと、人間の不幸を幸福に変えることがキリストの役目です。
キリストは全世界の人間を死ぬべき状態から死なない状態に切り替えてしまうことが責任目標なのです。だから、ユダヤ人に誤解されることを、一番恐れていたのです。
イエスは病気を治したり、神の言葉を説いたりしながら、キリストであるということを発表することについて、非常に慎重な態度を取っていたのです。
イエスが病気を治すことを見たり聞いたりしただけで、イエスがキリストだというように安直な感覚で宣伝されることを、非常に警戒したのです。
キリストに対する本質的な誤解をできるだけ避けるべきだと考えたのです。自分以外の人間がイエスがキリストであると言いふらすことを、極端に恐れたのです。キリストの在り方をできるだけユダヤ人に正確に受け止めてもらいたいと思ったのです。責任がない人にいい加減な形で、ナザレのイエスがキリストだということを言われたくなかったのです。
ユダヤ人は初めからキリストを誤解していたのです。旧約時代に考えていたメシア思想と、ナザレから出たイエスがキリストであるということは、非常に大きい違いがあるのです。天と地ほどの違いがあるので、自分自身がキリストであるというように言われることを、非常に警戒したのです。恐れたのです。
できるだけキリストを誤解されたくなかったのです。だから、安直にキリストだということを戒めたのです。キリストに対する誤解が、全世界を不幸にするからです。
今でもユダヤ人はキリストを大変誤解しています。そのために、全世界の人間が毎日、毎日、死んでいるのです。
イエス・キリストの十字架、復活によって、既に人間は死ななくても良いことになっているのです。ところが、毎日何万人も死んでいるのです。こういうばかげた原因は、ユダヤ人がキリストを信じていないからです。
ユダヤ人がキリストを真面目に信じるようになれば、キリストの再臨はすぐに実現します。キリストの再臨が実現すれば、キリストの復活の命が歴史的事実になります。そうすれば、全世界の人間の命の状態は、一遍に変わってしまいます。
イエス・キリストの復活は重大な問題であって、世界歴史が変わってしまうというとんでもない大きい事件です。この焦点に立っているのがユダヤ人です。
ユダヤ人のキリストに対する誤解が、全世界の不幸の原因になっているのです。原子爆弾ができたのは、キリストに対する誤解によるのです。
やがて、全世界の文明は収拾がつかない大混乱に陥るでしょう。大混乱の原因はキリストと神を正しく信じていないからです。
現在、神が日本で誠の福音を展開しつつあるのです。ユダヤ人がまともに話を聞くのは日本民族だけです。白人を信じていません。白人全体を誤魔化してしまったのはユダヤ人自身です。自分たちが騙した白人のいうことを、信じていないのは当たり前です。
ユダヤ人は日本人を騙していないのです。また、日本人もユダヤ人を迫害していません。第二次大戦中に、杉原千畝や安江大佐のように、多くのユダヤ人を救っているのです。
日本人の言うことなら、真面目に聞いてみようというユダヤ人がいるはずです。神の処置によってユダヤ人に聞くことをさせているのです。
現在、私はイエス・キリストについて堂々と発言しています。イエス在世当時は、キリストについて口外することを禁じられていましたが、現在は大いに発言するように仕向けられているのです。神の処置が全く違ってしまっているということを、よくよく理解頂きたいと思います。
私たちのこういう発言によって、歴史は大きく変わることになるでしょう。人間はもはや死ぬべきではない。イエス・キリストの十字架、復活によって、全世界の人間を死なない状態にしているのです。
人間文明の終末において、日本民族から死なない命が全世界に述べ伝えられるべきです。
人間の認識というのは非常に大きい問題です。人間の精神は非常に大きい力があるのです。人間の精神が持つ力はとても大きいものです。
イエスは彼自身の精神によって世界を救うことができると考えたのです。世界を救うという問題は人間の罪悪に関することだけではないのです。
現在の人間は死んでしまっている魂の現われとして、死んでいく肉体が与えられているのです。もし皆様が死んでいくべき自分の魂をはっきり見極めて、死んでいくべき自分を捨ててしまって、イエスのあり方になぞらえて自分の精神を考えることができるとしたら、皆様の肉体は死なない体に変わってしまう可能性があるのです。
皆様の精神構造を変化させることによって、皆様の肉体構造は変化するのです。同時に肉体構造が変化するだけではなくて、地球の物理構造も変化させることができるのです。
精神構造は自分一人のものとは違います。全世界の人間につながるような形で、精神を分担させられているのです。
人間の精神の偉大さ、人間に与えられている人格の偉大さを考えるといいのです。皆様の人格は三位一体の神のペルソナの延長です。投影です。
「われわれの形に、われわれにかたどって人を造った」とあります(創世記1・26)。人間の人格構造は人間の精神構造の基本であって、人格の基本は万物の造り主である神です。
神の人格が人間の人格であり、ここから人間の精神構造が出ているということを考えて頂きたいのです。
皆様は自分の人格が自分一人のものであると考えないで頂きたいのです。自分が生きているとか、自分の人格は自分のものだと考えないで頂きたい。
宗教指導者がどう考えようが、他人がどう考えようが、自分の人格は自分のものだというばかばかしい考えを捨てて頂きたいのです。
皆様の人格は三位一体の神のペルソナの延長になっているのです。皆様は本当の人格に基づいて精神構造を転換することになるのです。つまり、悔い改めて福音を信じることになりますと、皆様の中でイエスの人格が働くようになるのです。
皆様とイエスとは存在的には同じものです。だから、イエスの精神構造がそのまま皆様の精神構造にならなければいけないのです。
イエスが、「私を信じなさい」というのは、こういうことを言っているのです。現世における人間の精神構造ではなくて、イエス・キリストの精神構造が皆様の精神の中で働き始めるようになるのです。
イエスが言っています。
「私の言葉をおまえたちが受け取れば、おまえたちの中で私の言葉が働くようになる。本当の命がおまえたちの中で働く結果、イエスの復活の命が、そのままおまえたちの肉体構造の中で働き出すようになる」。
皆様がそのような精神構造を持つことができるとしたら、万物に伝わっていくことになるのです。人間は万物の長としての位を与えられているのです。万物の主としての私たちが、イエスと同じような精神構造を持つ人がある一定の人数になると、世界の歴史ががらっと変わってしまうのです。
イエスの復活という歴史的事実、科学的事実が、歴史の真ん中で実体的に働き始めることになるのです。
イエスの復活の命がそのまま人間社会の中で発酵することになるのです。その結果、人間の歴史は見事に変わってしまうのです。
現在の政治、経済はでたらめなものです。皆様にはイエスと同じ精神構造が与えられていますから、イエスをマスターすることは十分にできるのです。
皆様の人格とイエスの人格は同じものです。今までの皆様の生活意識を捨てたらいいのです。今までの皆様の生活意識が、皆様をスケールの小さい人間にしてしまったのです。
今までの生活意識を捨ててしまえば、イエスの生活意識に同化することは十分にできるのです。私でさえもイエスの何十分の一くらいの真似ができるのですから、皆様は十分にできるのです。
大胆に今までの生活意識を振り捨てて下さい。そうすると、死ぬべき人格がなくなるのです。死なない命の人格が自分のものになるのです。こういう大胆素朴な考えを持って頂きたいのです。
今までの皆様の生活意識が間違っているのです。今までの生活意識さえ捨ててしまえば、死ぬべき自分を捨てて、イエスの人格によって神の光の内を堂々と歩むことは何でもないのです。それほど難しいことではないのです。完全に実行できるのです。
実行しようと思えば、神がどんどん実行させて下さるのです。できるだけしようと思いさえすれば、必ず実行できるのです。
今まで生きてきた皆様の人生は皆様自身の人生ではなくて、皆様の人間に対する見方が、皆様の人生になって現われていただけのことです。
皆様の人生観がそのまま皆様の人生になって現われていたのです。そこで、人生観の転換をしたらいいのです。人生観の転換というのはどういうものかと言いますと、世界観や価値観に基づいて人生観を考えるのです。世界観や価値観のことを考えないで人生観のことを考えますと、宗教になってしまうのです。すべての宗教の悪い点は、世界観や価値観を考えないで、人生観を第一に考えようとしたことです。
西郷南洲のことを言いますと、世界観や価値観のことを考えないで、当時の国家観を第一に取り上げたのです。彼はやはり薩摩人としての人生観に基づいて、薩摩のことを考えたのです。薩摩の国を変えるという意識が日本全体に広がっていったのです。
彼は人間とは何かということを考えていなかったのです。薩摩人とは何かということが基本になっているのです。正直という点では良かったのです。素朴で大胆であったという点では尊敬できると思いますが、彼の思想は幼稚でした。
坂本龍馬は世界の中の日本と言っていますけれど、彼は世界のことを知らなかったのです。ましてや地球のことは全然知りません。
当時の世界の人々は二十億人くらいでしたが、白人のこと、東洋人のことはよく知らなかったのです。龍馬は釈尊の悟りのことは知らなかったのです。
彼らの考え方は国家意識とか、社会意識というものだったのです。従って、明治維新の傑物には世界観と言えるようなものはなかったのです。価値観も非常に低いものだったのです。
明治維新に活躍した人たちは、あの時代だったから、あれだけの仕事ができたのですけれど、今日の社会であれば政党の党首くらいだったのです。
社会構造が変わっているのです。今私たちが考えなければならないのは、今まで生きてきた人間とは違うということです。
今まで生きてきた皆様の意識は、死んでしまうに決まっている人間の意識です。死んでしまうに決まっている意識を脱ぎ捨てるのです。これが必要です。
死んでしまうに決まっている意識を脱ぎ捨てるのです。これを新約聖書で言いますと、「十字架を負う」となるのです。
イエスが言っています。
「誰でも私についてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、私に従ってきなさい」(マタイによる福音書16・24)。
イエスの生活の仕方、イエスの世界観や価値観が本当のものです。その証拠にイエスは十字架につけられて死んだけれど、復活したのです。死を破って復活したのです。
イエスが復活したのは、イエスの世界観が神の世界観と一致したからです。だから、死が消えてしまったのです。死ぬべき人格ではなかったのです。
皆様もイエスについていきたいという気持ちを持つことによって、今までの自分が生きてきた世界観や価値観を脱ぎ捨てることができるのです。今までの自分の生活意識を捨ててしまうのです。そうして、今までの生活意識ではない、ただ生きているという人格、ザ・リビング(the living)という人格になるのです。
この人格になりますと、生まれる前の自分が見えてくるのです。また、現世を去った後の自分が見えてくるのです。過去、現在、未来に関する悠遠な命が見えてくるのです。これが永遠の生命です。
永遠の生命の認識ができますと、今生きている自分が消えてしまうのです。現世の自分は消えてしまうのです。
過去、現在、未来の命が見えてくるのです。今生きているのは、生まれる前の命と、現世を去った後の命との合作になるのです。これがイエスが持っていた人生観です。
イエスは現世だけの人間として生きていたのではないのです。現世を去った後の自分を知っていた。それは現世に生まれる前の自分が分かっていたからです。
現世に生まれる前の自分を知ること、現世を去った後の自分の見通しがつくようになることをホールボディ(whole body)というのです。
ボディというのは人間の肉体を意味する場合もありますが、本体とか、実体とか、あり方とかを意味する言葉にもなるのです。
ホールボディと言いますと、人間の命に係わる全体です。生まれる前と、現在と、現世を去った後までの命の全体です。これをホールボディと言います。これが分かってきますと、現世に生きている自分がなくなってしまうのです。そうして、永遠の自分が分かってくるのです。
そのためには、この世に生まれて、この世の両親によって育てられて、今日に到った自分が消えてしまう必要があるのです。
今鼻から息をしている生理構造の原態が皆様自身です。目が見えるということが皆様の命の原態です。皆様が命の真髄に目覚めることができれば、死なない人間になることができるのです。これを光の内を歩むというのです。
イエスはそういう生き方をしていたのです。イエスの生き方をするためには、今までの自分が十字架にかかってしまう必要があるのです。十字架によって死んでしまうのです。
パウロは言っています。
「私はキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、私ではない。キリストが私の内に生きておられるのである」(ガラテヤ人への手紙2・19、20)。
私はキリストと共に十字架につけられたのであって、今生きているのは私ではないとパウロがはっきり言っているのです。
このとおりに言えるのです。私はキリストの十字架によって死んでしまったのであって、今生きているのはイエス・キリストです。固有名詞の山田太郎という人間とは関係がないのです。これがザ・リビングの私です。
ザ・リビングの私というのは、昨日まで生きていた私とは違います。今、ここに生きている私です。これがザ・リビングです。イエスはこのような感覚で生きていましたから、皆様もそのような感覚で生きて頂きたいのです。
そのためには、宗教ではない聖書の中へ、自分の命を投げ込んでしまうのです。これが必要です。これはキリスト教を信じることではありません。イエスの人生の中へ入り込んでしまうのです。そうすると、皆様の命が神の命に変化してしまうのです。
今までの自分、固有名詞の自分が消えてしまうのです。名なしの権兵衛になるのです。これが人の子です。人の子というのは、山田太郎でも加藤清正でもないのです。名前がない人間になるのです。
皆様は名前のある人間でありすぎて困るのです。日本人としての山田太郎という人間は死んでしまうといいのです。そうすると、飄々たる生ける神の子になるのです。こういう人になって頂きたいのです。
(内容は梶原和義先生の著書からの引用)