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                           五蘊皆空とは何か

 

 かつて京都南禅寺の勝平宗徹管長が首を吊って死にました。大本山南禅寺は、京都五山、及び、鎌倉五山の別格上位のお寺です。この人は東京大学と京都大学を出て、管長職だけではなく、雲水に印可証明を与える役目をしていたのです。学者としても宗教家としても一流の人物でした。

 この人が首を吊って死んでしまったのです。これはどういうことなのか。命のルーツが分からなかったから、死んだのです。命のルーツが分かっていたら、首を吊って死ぬことはできなかったのです。

 人間がいくら悟りを開いても、いくら学問をしても、学者になっても、博士になっても、大管長になっても、結局命が分からないのです。

 皆様は現代文明の正体をご存じないので、命が分からないのです。現代文明は非常に悪いものです。現代文明にかぶれている人は、現代文明を賛美するでしょう。

 現代文明で食べている人、例えば、学校の先生、大学の教授、会社の社長、学者、ジャーナリストという人々は、文明を賛美するでしょう。しかし、真面目に生きようと考えている人は、現代の文明に訳が分からないものがあることを感じるはずです。

 文明は人間の魂を殺しているのです。これが現代文明の悪い点です。今の人間には魂が分からないのです。宗教家にも分からないのです。仏典には魂という字がないのです。だから、魂の説明のしようがないのです。

 新約聖書には魂という字がありますけれど、キリスト教の牧師さんはキリスト教の教義を勉強していますが、聖書そのものを勉強していませんので、魂という言葉の実体を現実的に説明することができないのです。

 宗教も学問も、文明も、人間を生かしてはいるが、魂を殺しているのです。霊も魂も分からないということは、非常に重大なことで、皆様の魂が盲目になっているということです。

 本心、本願というのは本当の願いであって、人間は現世で生活しているだけでは決して満足していないのです。現世でいくらお金を儲けても、貯金をしても、保険に入っても、人間の本心に安心を与えることはできないのです。

 現在の人間は生活に一生懸命です。生活主義の文明は生活のことは考えています。生活だけを考えているのです。政治、経済も、教育も、生活だけを考えているのです。

 文明には生活主義と生命主義と両方があるのです。現代文明は生活のことばかりを考えているのです。今の大学で教えている学問は、すべて専門学ばかりです。

 専門的というのは上等なもののように聞こえるのですが、部分的ということです。

 例えば、建築の専門家は建築のことばかりを勉強しているのです。専門的ということは生活主義的ということです。この世の人間の生活に役立つことばかりを勉強しているのです。これが専門学です。

 現代は生活的には非常に進歩していますが、命が分からないのです。生活の中で命を考えようとしても、できないのです。そうすることはほとんど不可能になっているのです。

 「衣食足りて栄辱を知る」と言いますが、衣食に追われている時には、とても仏典の勉強とか、聖書の勉強はできないので、衣食が足りて時間ができたら、般若心経の勉強でもしたいという人がいます。

 ですから、生活が豊かになることは結構なことですが、「衣食足りて栄辱を知る」ということは、中国の管子の時代にはそういうことが言えたかもしれませんが、現代人は衣食足りるということを知らないのです。いくら足りても満足しないのです。

 いくらでも欲しいと思うのです。お金が儲かった人は、もっと儲けたいと思う。おいしいものを食べた人は、もっとおいしいものを食べたいと思うのです。

 欲望の満足が人間の幸福だと考えている。口ではそうは言いません。もっと上品な言い方をするでしょう。腹の中では欲望を満足したいと思っている。これが現代人の生活原理になっているのです。これをユダヤ主義というのです。

 欲望の満足は人間の幸福であるというのはレーニンの言葉です。レーニンはれっきとしたユダヤ人ですが、ユダヤ人がこういうことを言っているのです。

 現代人は自分が好むと好まざるに係わらず、賛成するしないに係わらず、生活主義の文明に引きずり込まれているのです。

 大学では生活主義の学問以外のことは教えていないのです。だから、学問をすればするほど、人間が生活主義的になってしまうのは当然のことです。

 大学を出た人が社会を指導している。社会全体が生活一辺倒になっているのです。命のことは全然考えていないのです。生活一辺倒の中で命を考えたいということは、実際はできないのです。

 文明が人間の魂を殺しているのです。人間と魂とがどういう関係になっているのかということです。皆様は今私の目の前に座っています。私が話をしています。これを常識的に考えますと、人間の行為です。専門学で考えても人間です。

 ところが、全体学というのがあるのです。例えば、孔子、老子、釈尊、ソクラテスなどいわゆる先哲賢人と言われた人々が考えたのは、専門学ではなかったのです。全体学で考えたのです。

 全体学というのは人間の霊魂のあり方を根本から考えるということです。人間はなぜこの世に生まれてきたのか、私とはどういう人間なのか。何が人生の目的なのかを勉強するのです。これが全体学です。この中には、自ら科学的な分野もありますし、教育的なこともあります。政治、経済的なことも含まれているのです。数学も法律も含まれているのです。

 人間は現世で生きることが目的ではないのです。現世に生きるのは、現世の目的です。人間存在という面から考えますと、現世に生きていることだけが、人間存在ではないのです。死んでからというのがあるのです。また、生まれる前もあるのです。

 生まれる前があって、現在の命があるのです。生まれてきたと言いますが、何処からか来たのです。死んでいくというのは、何処かへ行くのです。そのように、生まれてきた、死んでいくという考え方で人生を見るのです。これが全体学です。

 ところが、現世における生活だけの人生を豊かにしようと考えますと、近世文明になるのです。現代文明になるのです。

 現代文明はこの世に生きている人間の生活だけを問題にしているのです。これがユダヤ主義であって、白人文明の最も悪い点です。物質文明の最も悪い点がこれです。

 生活することはもちろん必要ですが、生活するということは、自分自身を本当に完成するためにあるのです。文明を完成するために生活があるべきです。

 ところが、現代文明は白人文明によって押し流されてしまっているのです。白人文明を指導しているのがユダヤ人です。

 日本でも、文明開化をする前の日本と、現在とでは、全然違ってしまっているのです。文明開化以前の日本では、全体主義の文明でした。

 全体学を勉強していながら、科学の勉強をするとか、政治学を勉強するとか、法律を勉強するということは、十分にできるのです。全体学という素養があれば、科学も哲学も政治学も分かってくるのです。

 全体学を勉強するという根本的な素養をマスターしないで、専門学だけを勉強しているので、人間が皆おかしくなっているのです。魂が分からなくなっているのです。

 常識で考えますと、こうして話をしている状態では、人間に見えるのです。常識とは何か。般若心経で言いますと、五蘊です。

 目で見たとおりのものがあると考えている。これを色蘊というのです。目で見たものが原理になって、これをどのように受け止めるか、どのように考えるか、どのように実行するか。これが受想行識になっているのです。これが五蘊です。

 そこで、五蘊が皆間違っていると言っているのです。これが五蘊皆空です。般若心経のこういう思想を全体学というのです。

 全体学から考えますと、皆様の命とは何であるかが分かってくるのです。全体学を勉強しますと、人間の命に対する素養が自らできるのです。

 自分は何のために生きているのかということを真面目に考えますと、こうして話し合いをしていることが人間ではなくて、魂だということが分かってくるのです。見方が変わってくるのです。

 例えば、目の前に花が置いてあるとしますと、前から見るのと後ろから見るのとでは全然違って見えるのです。人間が生きているということでも、自分の認識によって見方が違ってくるのです。

 常識で考えたら、ただの人間です。全体学から人間の命を見ますと、人間ではなくて魂になるのです。皆様が今椅子に座っていらっしゃるということが、魂なのです。目が見えること、耳が聞こえること、考えることができること、字を書くことができることが、魂です。

 魂として自分を見るのと、世間に生きている人間として見るのとでは、命に対する見方が全然違ってくるのです。

 魂と人間とでは見方が違うのです。主観的に見れば人間ですが、客観的に見れば魂です。後ろから見たのが人間だとしたら、前から見たのが魂です。

 ユダヤ人たちの中にも、自分たちの考えが相当間違っているということを問題にしている人がいるようです。最近の文明は根本から間違っているのです。だから、核兵器がのさばっているのです。

 中国の共産主義と、アメリカの資本主義は、ただ単なるイデオロギーの違いです。このイデオロギーの違いが、全面核戦争によって、全世界の滅亡になるかもしれないのです。こういうばかばかしいのが現代文明です。

 この世に生きていることだけが人間だと考えているのです。人間はこの世に生きているだけのことですが、人間が生きているという事がらは人間ではないのです。

 目で見たままのものは人間ですが、生きているという事がらは人間ではないのです。生きている事がらは霊です。目で見たままのものを人間として見るか、生きているという事がらを見るのか、どちらを見るかです。善悪利害を判断して、愛とか恋とか言いながら生活している。美しいとか美しくないとか、おいしいとかおいしくないと言っている。

 花を見たら美しいと言いますが、美しいとはどういうことか。専門学ではこれが説明できないのです。

 皆様が生きていることが魂です。魂だから美しいということが分かるのです。美しいというのは、科学では分からないのです。おいしい、嬉しい、麗しいということは、科学では分からないのです。

 皆様の生活の中心は何かと言いますと、美しいものを見たい、おいしいものを食べたい、楽しく生きたいと思っていることです。楽しいということを、科学では説明できないのです。哲学でも説明できないのです。

 皆様が生きているということが霊です。ザ・リビング(the living)です。今生きていることの実体が霊です。これは難しいことではないのです。少し目を開いて全体学を考えるということが、人間完成の目標です。これが人間の最終目標です。これを考えるべきであって、何が良いか悪いかということではないのです。

 今の人間は現世に生きていることしか考えていない。この考え方は間違っているのです。これは間違っているというよりも、人間存在として適当ではないと言うべきでしょう。

 現在の歴史は、闘争、闘争の繰り返しです。いつも自分が得をしよう得をしようと考えているのです。自分自身に対する考え方が間違っているから、こういうことになるのです。

 文明のあり方は根本から間違っているのです。現代文明というものには、目的がないのです。これをご承知頂きたいのです。今の文明には目的がありません。やがて、この文明は壊滅するに決まっているのです。

 人間は死ぬために生きているようなものです。文明は壊滅するために存在しているようなものです。こういう愚かなことを繰り返していることを、よくよくご承知頂きたいのです。

 国防でも政治でも、皆間違っているのです。国家経営の方針が間違っているのです。日本という国に目的があるのかというとないのです。

 国に国家目的がない。人間に人生目的がない。文明は文明目的を持っていない。人間は目的なしに盲滅法に生きているのです。これが現在の悪さですから、このことをよくご承知頂きたいのです。

 十五世紀、十六世紀頃から、ユダヤ人のメシア思想が台頭してきました。ユダヤ人の世界制覇が進んできたのです。コロンブスがアメリカ大陸を発見したのもその一環です。

 ユダヤ人が台頭するまでは、人間の考えは素朴でした。何のために生きているのかということが、学問の目的になっていたのです。般若心経を勉強することが、学問の基礎だったのです。般若心経だけが学問ではありませんが、こういう種類のものを勉強することが、学問の基礎だったのです。

 現在では、人間とは何かということを考えることが、全くばかみたいなことになっているのです。最初から、生活主義、科学主義、政治経済主義になっているのです。

 現在の人間は、自分が生きているというばかな妄念を持っています。これを人間のカルマというのです。カルマを果たさなければ、人間は本当の命が分かりません。白隠禅師のような優れた人でもだめでした。

 自分が生きている。自分が悟っていると考えたからです。白隠禅師は自分が悟ったのです。南禅寺の勝平管長は自分が悟ったのです。自分が悟ったからだめなのです。

 本気になって勉強したら、自分が空であることくらいは分かるのです。人間存在を深く考えるということをしますと、生命が分かってくるのです。

 生活がなければ生命は分かりません。だから、生活することはもちろんいいのですが、生活することだけを目的にしてはいけないのです。生活することにおいて、自分の命を考えることです。これがなければ何のために暮らしているのか、何のために生活しているのか分からなくなるのです。

 今の日本人の生き方は死ぬために生きているのです。皆様の今までの生活を冷静に判断して下さい。何のために生きていたのでしょうか。何が分かったのでしょうか。結局死ぬだけです。

 今までの皆様の生活をこのまま続けていけば、死ぬだけです。他に目的は何もありません。このことをよく考えて頂きたいのです。

 ユダヤ人はメシア思想を持っていまして、これで世界を統一しようと考えているのです。これが間違っているということに気づいたユダヤ人もいるようです。

 日本ではジャーナリストも、学者も、これに気がついている人はいないようです。世界の本当の動きが分かっている日本人がいないのです。日本の政治家はこれから世界がどうなるのかということを知らずに政治をしているのです。

 人間は偶然に生きているのではないのです。必然的に生きているのです。人間がこの世に生まれてきたことも、偶然ではないのです。マルクスは人間は偶然に生まれてきたと言っていますが、そんなばかなことはありません。

 一軒の家にはたくさんの柱が立ててありますが、偶然に立っている柱は一本もありません。人間が現在生きていることについて、説明ができないから、偶然という言葉で誤魔化しているのです。これがユダヤ人の浅知恵です。このユダヤ人の知恵を日本人は全面的に受け入れているのです。ユダヤ化されているのです。

 大学を出た人は、ほとんどユダヤ化されているのです。これは仕方がないでしょう。しかし、そういうものに捉われてはいけないのです。自分の経験や自分の思想に捉われていると、訳が分からないことになってしまうのです。

 私たちは何ものにも捉われてはいけないのです。私はユダヤ主義にむやみに反対しているのではないのです。どちらでもいいのです。ただ人間が生きているという事がらを正しく見ていくという事だけを主張しているのです。

 これが般若心経の思想であって、これが学問の基礎になるべきです。般若心経は基礎であって、学問の完成ではありません。

 般若心経は全体学の基礎です。全体学の完成はイエスが復活したこと、死を破ったことです。五蘊皆空、一切空というのは基礎であって、完成はイエスの復活です。

 イエスが死を破って三日目に甦ったことは、歴史的事実です。これが人間完成の典型的な目標です。出発点が五蘊皆空です。般若波羅蜜多です。般若波羅蜜多を入口にして、イエスの復活を掴まえるのです。

 今の命ではない、新しい命、完全な命を掴まえることができるのです。結論的に申しますと、自分が生きているという気持ちがある間は、何を勉強しても、何を悟っても、単なる抽象観念にすぎないことになるのです。

 自分が生まれてきたと考えることが間違っているのです。皆様は自分が生まれたいと思ったことはないでしょう。自分が生まれたいと思って生まれた人は、絶対にいないはずです。

 皆様が生まれたのは皆様の自由意志ではないのです。自分以外の意志によって生まれてきたのです。従って、自分の意志だけで生きているのは、根本から間違っているのです。これにまず気付いて頂きたいのです。

 皆様は自分が生まれたいと思ったのではありませんから、皆様の命は自分のものではありません。もし命が自分のものであるのなら、寿命を延ばそうと縮めようと、自分の自由にできるはずです。ところが、そうはできないのです。肌の色、顔の形を自由に変えることはできないのです。

 自分の肉体も、自分の精神も、自分の魂も、自分のものではないのです。これを自分のものというように誤解しているのです。

 皆様がこの世に生まれた時には、本当の魂を持って生まれたのです。ところが、物心がついて、だんだん悪くなってきたのです。物心によって自分が生きていると思い始めたのです。人間は物心によって、自分が騙されているのです。

 世間によって物心を植えられたのです。人間はかわいそうに、生まれて世間に出たことによって、世間に騙されて、死なねばならないような運命になってしまったのです。これを人間のカルマというのです。

 このカルマ、業(ごう)を果たさなければ、本当の命は見えません。本当の命を見るためには、自分の業を果たすのです。カルマをなくすのです。これを考えなければいけないのです。

 カルマとは何かと言いますと、自分が生きているという考えです。自分が生きている。自分が幸せになりたいとか、自分が仏国浄土へ行きたいとか、自分が天国へ行きたいと考えるのです。これは皆人間の業です。人間の煩悩です。

 自分が幸福になりたいと思っている人は、絶対に幸福になれません。自分を握り込んでいるからです。

 よく考えて頂きたいのですが、自分という気持ちが皆様の一番の重荷です。自分がいると思うから、嘘をいうのです。焼きもちをやくのです。

 自分というのは自我意識です。自我意識というものがどうしてできたのか。この説明が仏教ではできないのです。哲学でもできません。聖書を勉強するしかないのです。キリスト教ではない聖書を勉強するしかないのです。

 宗教でも学問でも、自分というものがいつできたのか、自分の本性は何なのかは、絶対に分からないのです。これが分かれば魂が救われるのです。

 素朴な感覚で、冷静に真面目に考えれば、死なない命を見つけることは、そんなに難しいことではないのです。死なない命というのは、仏教で言いますと、とても難しいことになるのです。

 新約聖書によりますと、イエスは十字架につけられて、完全に死んでしまったのです。そして、三日目に復活したのです。死なない命があることを、人類に証明したのです。これは歴史的事実です。これを世界歴史から削除することはできないのです。

 私たちは歴史的事実において、人間は死ぬものではないということを主張しているのです。イエスの復活の命が人類全体に及んでいるからです。だから、人間は必ずしも死ぬものではないのです。

 必ずしも死ぬものではないというのは、死なない命を見つけることができるかもしれないという可能性のことを言っているのです。

 私が言いたいのは、人間は本来死ぬべきものではないと言うことです。

 日本の老人福祉についてですが、人間の寿命が延びることは結構なことですが、寿命が長くなれば長くなるような生き方を指導する用意が政府になければならないのです。

 ただやたらに寿命を延ばすだけなら、政治の貧困です。人間は本来死ぬべきものではないのです。それを死なねばならないと考え込んでいるのです。これが現代文明の根本的な欠陥です。

 文明は生活のことは面倒を見てくれますが、生命のことは全然考えようとしないのです。ユダヤ人は人類の指導民族です。動物の世界にはボスがいるのです。猿の集団にはボス猿がいるのです。

 人間にもボスがいるのです。家には家族のボスがいますし、学校にもクラスのボスがいるのです。個人的にもボスがいますし、民族的なボスもいます。世界の国、民族にもボスがいます。これがユダヤ民族です。

 ユダヤ人は他の民族が考えられないことを考えるのです。ユダヤ人に霊は分かりませんが、霊と肉の中間を考えるのです。日本人は肉しか考えられないのです。経済、政治、科学、教育の根本原理を考えたのは、皆ユダヤ人なのです。

 ところが、ユダヤ民族が間違えているのです。ユダヤ人は四千年程前から間違えているのです。ユダヤ人の間違いが現われているのが、近世文明、現代文明です。

 人間はなぜ死ぬのかと言いますと、命について考え違いをしているからです。生命と言いますが、命というのは人間が現世に生きている命を指します。生は大自然の命、死なない命をいうのです。大木が大地に生えている姿が生です。

 生は天然自然のいのちです。おのずからのいのちです。命はみずからのいのちです。生は天地自然のいのちですが、花の色は天地自然のいのちの色です。天地自然のいのちは皆様の目が見える状態であるのです。目で天地自然のいのちの色を見ていながら、それを自分のハート(心)で掴まえることができないのです。そこで死んでしまうのです。これは残念なことです。

 生が分かれば、人間は死なないのです。この世に生まれた時には生のいのちを持っていたのです。死なない命を持っていたのです。ところが、物心がついたために、死ぬ命に変ってしまったのです。これが人間の業です。カルマです。このカルマを乗り越えたら、間違いなく死なない命を掴まえることができるのです。

 皆様は目で花の色を見ることができるのです。花の色は死なない命の色です。それが目で見えるのです。これをよく考えて頂きたいのです。

 皆様が持って生まれた五官の働きによって、見たり、聞いたり、触ったりすることができるのです。これはそのまま生のいのちを感じているのです。

 皆様の五官、即ち、本能性は先天性です。これに仕合わせたらいいのです。これが霊魂の本体です。

 皆様の五官の働きは先天性であって、生まれる前から持っていたものです。これが五官の働きです。この五官の働きが皆様にあるのです。これが霊魂の直接の働きです。

 五官を宗教や学問ではなくて、いのちの光として見るのです。このやり方が最高の学です。こうして見ていきますと、五官の本体が分かるのです。

 食物を食べると味が分かります。味が分かるということは先天性の働きです。味も先天性のものですし、味わっている機能も先天性のものです。先天性と後天性があるのです。

 本能性というのは先天性です。後天性は常識です。人間には常識と五官の本能性の両方があるのです。常識はこの世で生きるための知恵です。常識、知識はこの世でしか役に立ちません。

 本能性は先天性のものであって、先天性は未来性を意味します。生まれてきたというのは、先天性から来たということです。死んで行くというのは、未来へ行くのです。

 常識で生きないで、先天性で生きるのです。皆様の目は海の色、空の色が分かるのです。これは命の色です。人間は命を感じることができるのです。

 山があり、川があり、森があります。景色があるのです。景色とは何でしょうか。分からないのです。誰でも分かっているはずのものが、誰にも分からないのです。

 景色を見に行く旅行のことを観光旅行と言います。実は光を見に行くのが観光旅行です。景色には命の光がそのまま現われているのです。天と地の命が一つになり、それが光になって見えるのです。これを見ることを観光というのです。

 皆様には天地自然のいのちを見る力があるのです。これは死なない命を見ているのです。見る力を掴まえるのです。これを信じるというのです。命を掴まえるのです。神を信じることとは違います。自分が生きている命を掴まえるのです。ここに神がいるのです。

 大変に結論的な言い方になりますが、実は人が生きているということが神です。皆様の手が動き、足が動き、心臓が動いているということが神です。これを悟るのです。イエスはこれを掴まえたのです。ところが、皆様はなかなか掴まえることができない。なぜかと言いますと、みずからの分、即ち、自分をしっかり掴まえて、それを自分だと固く信じているからです。

 人間は皆、自分の命があると考えている。これは困ったものです。これが人間の根本的な迷いです。これを業(ごう)というのです。般若心経はこれを五蘊と言っています。五蘊とは自分が生きているという思いです。

 自分が生きていると思うから嘘を言いたくなるのです。自分が生きていると思うから、焼きもちをやきたくなる、人を憎んだり恨んだりするのです。自分が生きていなかったら、焼きもちをやく必要がないのです。苦しんだり、悲しんだりするのは、自分が生きているから起きるのです。

 地獄へ行くのは自分が行くのです。だから、死ぬのが嫌なのです。

 死ぬのが嫌だというのは、二つの理由があるのです。七十年、八十年の間、自分が生きていたと考えている。これが間違いだったのです。命が自分という格好になって現われていたのです。自分が生きていたのではないのです。こういう考え方を霊というのです。

 自分が生きていたという事実はどこにもないのです。そういう事実がないのに、あると思い込まされていたのです。騙されていたのです。誰に騙されたのかと言いますと、死の権威を持ったもの、人間の魂を死ぬ方へ引っ張っていくものに騙されたのです。これが悪魔です。

 キリスト教にも悪魔という言葉がありますが、悪魔の説明をしないのです。説明ができないからです。また、神の説明もできないのです。命の説明もできないのです。

 人間が造っているこの世では、人間一人ひとりが五蘊の塊です。この世全体が五蘊の集積です。二〇一六年現在では、七十三億の五蘊が固まって文明を造っているのです。五蘊の城が文明です。こんなものを信じていたら、全部地獄へ行くのです。

 これがユダヤ人のトリックです。恐るべきトリックです。私は現代文明をぼろくそに言っているのです。

 人間は死ぬのが嫌です。なぜ嫌かと言いますと、死んだら後に何かがあるという気がするのです。何かがあるという予感がするのです。

 人間は生まれる前に先天性があったのです。それが今、肉体的に現われているのです。飲んだり、食べたりしているのは、先天性に基づく生活の営みです。これが衣食住です。だから、霊魂は死んでからも続くのです。これは当たり前のことで、私は宗教の理屈を述べているのではありません。宗教では却って霊魂の説明ができないのです。

 霊魂不滅について、はっきり説明ができる牧師さんはいないのです。現在の人間の霊魂はどこにどうあるのかが宗教では説明ができないのです。

 皆様に与えられている五官の先天性は死んでからでもなくならないのです。顕在意識はこの世を去ったらなくなります。潜在意識はなくならないのです。

 人間には良心がありますが、これを潜在意識というのです。現在の哲学では、自我意識がどうして発生したのか分からないのです。

 潜在意識は霊魂の本能性です。これがあるために、人間は死んだ後にどうなるのかということを考えざるをえないのです。

 現世に人間が生きているのはでたらめです。人数が多い政党が政治を引っ張っていくのです。邪魔者は殺せという考えが、現世では通用するのです。

 現世は矛盾だらけです。不条理だらけです。こういうことについて、一体、いつ、誰がバランスするのでしょうか。生きているうちは公平にはならないのです。死んでから公平にされるのです。死んでから何処で公平にされるのでしょうか。

 人間は善悪ということを良く知っています。良いことをした人が報われるとは限らないのです。悪いことをしても大儲けする人がいるのです。この決済はいつされるのかと言いますと、現世を去った後に行なわれるのです。

 「天網恢恢疎にして漏らさず」と言いますから、天による裁きはあるに決まっているのです。もしそれがなかったら、現世ではせいぜい悪いことをしたらいいのです。

 今生きている人間は常識に誤魔化されているのです。だから、死んだらしまいだと考えようとするのです。そう考える方が都合がよいから、死んだらしまいと考えようとするのです。

霊魂は自分のものではないのです。命は自分のものではない。自分を捨ててしまわなければ、本当の救いを得ることはできないのです。

​(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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