top of page

                           明けの明星

 

 釈尊の悟りの要点は、未だかつて日本では正確に説かれたことがないのです。日本で説かれているのは、釈尊の悟りの内容があまりにも遠大であるため、また、悟りの内容をそのまま説いたのでは理解できないので、釈尊の悟りの内容を理解させるために、分かりやすく、現在の人間が生きている状態を主体的にして説いたのです。また、現在の人間が生きている状態に基づいて、彼が見た所の悟りの内容を知らせるために説明したのが仏典です。これが仏教になっているのです。

 釈尊が悟りを開いた時に直感的に分かったことは、伝えられる所によりますと、いわゆる華厳浄土の思想です。華厳浄土の思想というのは、豪壮な思想でありまして、現在までにまだ現われていない荘厳な世界です。

 これは言われても分からないのです。浄土そのものの華厳世界です。これは説明しようとしたら、形容詞ばかりになるのです。

 形容詞ばかりの説明をされても、ああ立派なものだ、ああすばらしいものだ、大したものだという言葉ばかりになるのです。大したものだ、立派なものだということは分かりますが、立派とは一体どういうことなのか。大したとはどういうことなのか、すばらしいとはどういうことなのかが分からないのです。

 死んでいくに決まっている人間に、死んでいかないすばらしい世界のことを説こうとしたのです。説いても説いても、すばらしいすばらしいというように形容詞ばかりを羅列することになったので、聞いている人たちはただぽかんとしてしまったのです。

 釈尊はこれではいけないと思ったのでしょう。方向転換をして、分かりやすいことを説いたのです。人間はこの世に生きてはいるけれど、人を憎んだり、嘘を言ったり、インチキをしたりすることが間違っているということを話し始めたのです。これが阿含経です。

 華厳経と阿含経とでは全然違うのです。釈尊は考えたのです。現世に生きている人間に教えるためには、現世に生きているようなことを教えなければならないことになる。華厳浄土というのは、やがて現われる彌勒の世界です。

 彌勒の世界は釈尊の悟りの中に煌めいてはいるけれど、釈尊自身がその世界へ具体的に行っているのではないのです。

 釈尊自身は直感したのですが、その世界へ入ったのではないのです。明けの明星によって来たらんとする世界があることを悟ったのです。明けの明星というのは、やがて現われるべき太陽の直前に出る星です。

 やがて現われる太陽は新しい世界を意味するのです。釈尊は夜明けを直感したのです。明星を見たということは、夜明けを直感したのです。

 何を直感したのかと言いますと、現在の地球は仮の姿の地球であって、太陽系自体も仮のものです。物理的に存在する地球は、一つの世代にすぎないのです。

 物理的に存在するものは絶対的なものではないのです。物理的に存在するということ自体が、暫定的なものであるということを意味しているのです。これを釈尊は空と言っているのです。

 やがて来たらんとする輝かしい彌勒の世界は暫定の世界ではない。恒久の世界です。釈尊は恒久の世界があることを悟ったのです。暫定の世界が空であることがはっきり分かったのです。そこで、般若心経にあるように、色即是空、五蘊皆空と言ったのです。

 五蘊皆空というのは、人間の知識、常識は空である。死んでいく人間の思想は、全部五蘊だと言ったのです。これが空なのです。

 ところが、釈尊は空という世界、彌勒の世界の説明ができなかったのです。説明のしようがなかったのです。釈尊は彌勒の世界を直感したのですが、見たのではないのです。その世界に入っていないのです。

 彌勒の世界が必ず来るに違いないということは分かったけれど、それを具体的に見ていないのです。そこで、彼は現実の世界を離れてしまうことを強調したのです。それが彌勒の世界を直感するペースであると考えたのです。これが仏教になっているのです。

 仏教の教えというのは、現世の人たちに来たらんとする華厳浄土の世界に到るべき心構えを説いているのです。心構えを説いていますが、華厳浄土そのものを説いてはいないのです。

 釈尊の悟りの本当の内容は日本に全然伝わっていないのです。明けの明星の内容は何であるのかということは、日本では分かりません。釈尊は明けの明星を見て悟ったとは言うけれど、その内容が分からないのです。

 明けの明星を見たというのは仏法です。仏法が日本にはないのです。釈尊は現世の人たちに対して、現在生きている人間は死んでいく人間であるから、現世にこだわりを持ってはいけない。現世に執着を持ってはいけないということを、いろいろな角度から説いています。これが仏教です。

 日本には仏教はありますけれど、本当の明けの明星によって来るべき世界が分かっていないのです。釈尊自身がそれを見ていないから、言いようがなかったのです。

 華厳経にはその一部が出ていますけれど、大半は形容詞で終わっているのです。しかし、明けの明星の思想はほんの僅かですが、見ることができるのです。

 ヨハネの黙示録の二十二章の十六節に、復活の後のイエスが、「私は輝く明けの明星である」と言っているのです。正確には、「私は輝くものである。明けの明星である」と二回言っているのです。

 これが釈尊が見た本当の内容であると思われるのです。釈尊とイエス・キリストとの連関関係ですが、全世界の宗教家、哲学者に全然分かっていないのです。全く分かっていないのです。

 私はこれに驚いたのです。実は東西文明の本当の根底は、輝く明けの明星です。これをご承知頂きたいのです。

 

 ペテロは次のように言っています。

 「こうして、預言の言葉は私たちにいっそう確実なものになった。あなたがたも夜が明け、明けの明星がのぼって、あなたがたの心の中を照らすまで、この預言の言葉を暗闇に輝くともしびとして、それに目をとめているがよい」(ペテロの第二の手紙1・19)。

 

 あなたがたの心に明星が出るまで、聖書を勉強しなさいと書いているのです。

 

 明星が出るとはどういうことかと言いますと、聖書に次のような記事があります。

 「六日ののち、イエスはペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変わり、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。

 すると、見よ、モーセとエリヤが彼らに現われて、イエスと語り合っていた。ペテロはイエスに向かって言った、『主よ、私たちがここにいるのは、すばらしいことです。もし、おさしつかえなければ、私はここに小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために』。

 彼がまだ話し終えないうちに、たちまち輝く雲が彼らをおおい、そして、雲の中から声がした、『これは私の愛する子、私の心にかなう者である。これに聞け』」(マタイによる福音書17・1~5、ルカによる福音書9・28~35)。

 

 肉体的に生きていたイエスの姿が、イエスが着ていた衣と一緒に、輝く存在になってしまったのです。現実の肉体の次元が、霊の次元に変わってしまったのです。

 肉の次元と霊の次元とをはっきり示したのです。イエスは自分の肉体的存在において、それを見せたのです。この状態が明星になるのです。

 輝かしい別の世界、霊の世界を見せたのです。肉の世界ではない霊の世界が、皆様の心にはっきり見えてくるまで、しっかり聖書の勉強をしなさいと言っているのです。

 皆様の中に霊の世界がはっきり見えてくるまで、聖書の勉強をして頂きたいのです。

 釈尊もこれが言いたかったのです。輝く明けの明星によって新しい世界が現われることを、釈尊は見たのです。人々に新しい世界を見てほしかったのです。

 法華経は釈尊最後の説教だから一番上等だと日蓮宗の人々が言いますが、上等とか安物はないのです。最後も最初もないのです。

 問題はなぜ釈尊が法華経のような説教をしたのかということです。般若心経のような説教をなぜしたのかということです。

 やがてこの世界が消えてしまうのです。太陽系宇宙はやがて消滅する。そうして、消えない恒久の世界が現われるに決まっているのです。これを釈尊は見たのです。

 やがて現われるべき恒久の世界のことを考えれば、現実の太陽と地球は、単なる一時的な現象にすぎないのですから、この世界に囚われてはならない。時間、空間の世界に執着してはならないということを、釈尊は繰り返し繰り返し説いているのです。これが釈尊の真意です。

 だから、法華経二十八巻が有難いとか、般若心経が有難いとか、大無量寿経が最高であるとかということはないのです。最高も最低もないのです。釈尊は、人間社会、人間の考えは空しいものだと言いたかったのです。

 釈尊は本当の世界を直感していた。ところが、本当の世界がいつ、どのようにやってくるのかについては、詳しく説明することができなかったのです。ただ明けの明星は間違いない、確かなものだ、本当の世界は必ずやってくると言ったのです。

 そして、イエス・キリストが「私は輝く明けの明星である」と言ったのです。釈尊が明けの明星を見たという大思想、世界の将来に対する大発見がインドで伝わったのです。

 釈尊入滅後の五百年後に、インドの三人の学者がその星を見て、イエス・キリストの誕生祝いに来ているのです。

 イエス・キリストの誕生を祝いに来た三人の学者が、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、何処におられますか。私は東のほうでその星を見たので、その方を拝みに来ました」とユダヤ人に聞いたのです(マタイによる福音書2・2)。これが新約聖書の始まりです。

 釈尊の悟りと新約聖書の始まりという連関関係は世界文明の根底における大問題です。私はこのことを教えられたのです。

 このことは、聖書にも、また、仏典にも言明されていますけれど、それがどのようなつながりを持っているのかということは、未だかつてインドでも、ユダヤでも、また、ヨーロッパでも言われたことがなかったのです。これが日本で発見されたのですから、私はそれを説いているのです。

 やがてこの思想は世界に広がっていくでしょう。これは大変なことなのです。

 東西の大精神が一つなのです。インドの三人の博士が黄金、乳香、没薬を持って、イエスの誕生祝いに行ったのです。この三人の博士は何をお祝いに行ったのか。これと新約聖書とどういう関係にあるのか。これをはっきり説明できる人が、世界の宗教家、哲学者に一人もいないのです。

 キリスト教はこれが分かっていないのです。マタイによる福音書の第二章が、どうして書かれたのか。もしマタイによる福音書の第二章がなかったら、イエスがキリストであるという証明が何処にもないのです。

 マタイによる福音書の第二章がなかったら、イエスがキリストであるという説明はできないのです。

 未だかつて、西洋の宗教家も、東洋の宗教家も、どのような哲学者も発見したことのない、東洋文明の精髄と西洋文明の精髄とが、輝く明けの明星という一点において、完全に一致するのです。

 昭和天皇ご崩御の大葬儀には世界百六十カ国から国家元首、またはそれに相当する高位高官の人が参列しています。これは世界が変わる前兆です。白人文明が凋落して有色人種が世界を指導するに違いないということが、昭和天皇の大葬の礼によって証明されているのです。

 その中心になるのが日本であるというのです。これは釈尊が発見した明けの明星の一見と、新約聖書が造られた原理、イエスがキリストとなった原理をよく考えたら分かるのです。

 やがてイエス・キリストが再臨します。イエス・キリストの再臨というのは、彼の復活が世界の中心になるということです。

 本当の聖書とはどういうものか。人間の命とはどういうものか。世界歴史はどのように流れていくのか。

 現代教育、学校教育は皆様方を物が分からない人間にしてしまっているのです。学理学説は部分的な概念ばかり、情報ばかりです。生活情報ばかりです。

 学問は人間が考えた生活情報です。本当の真理は一つもないのです。政治情報か、経済情報か、社会の情報ばかりです。今の大学に真理と言えるものは一つもないのです。歴史を動かすものは一つもないのです。

 昭和天皇の大葬の礼にそれが現われているのです。世界に新しい歴史が来ることを示しているのです。日本が東洋の中心にならなければならない状態が起こってくるのです。

 皆様は学校教育の弊害から出て下さい。もっと平明な、冷静な考え方ができる人間になって頂きたいのです。

 皆様の思想が根本から間違っているのです。だから、皆様は死んでしまうのです。これをよく考えて頂きたいのです。

 人間は思想と生命が一つになっているのです。釈尊が空だ空だとやかましく言ったのは、この点なのです。皆様の思いと皆様の命は同じ次元のものです。皆様が思っているとおりの状態が、皆様の命になっているのです。だから、皆様が自分の思いに囚われている間は、死んでしまうのです。

 死ぬのが嫌だったら、自分の思いを脱ぎ捨てるのです。例えば、自分の奥さんに対する思いを脱ぎ捨てるのです。女性に対する思いを脱ぎ捨てるのです。そうすると、魂とはどういうものかが分かってくるのです。

 奥さんに対して今までの見方を続けていたら、魂に対する正確な認識はできません。従って、イエス・キリストを固く信じることはできないのです。

 思想と生命は一つです。皆様の奥さんに対する思想が、そのまま皆様の生命になってしまうのです。死にたくないのなら、今までの皆様の思想を脱ぎ捨てることです。

 

 パウロは次のように述べています。

 「すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅びゆく古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新にされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しい人を着るべきである」(エペソ人への手紙4・22~24)。

 

 二十二節に、情欲に迷って滅んでいく古き人を脱ぎ捨ててと言っています。女性に対する考え方を変えてしまえば、情欲はなくなってしまうのです。

 大体、女性は男性の情欲の対象とすべきものではないのです。男の対象として考えるべきものではないのです。

 現在の夫婦の考え方が土台から間違っているのです。現在の夫婦の結婚生活の在り方を認めていたら、必ず死ぬことになるのです。社会構成の根本が間違っているのです。

 神の国に入るということは、現在の社会から出てしまうことです。今の社会は家族が単位になってできていますけれど、大体家族というものが間違っているのです。

 夫婦であることが悪いのではありませんけれど、夫婦に対する考え方が間違っているのです。夫婦であることをやめる必要はありません。考え方を変えてしまわなければいけないのです。特に男性の考え方を変えてしまう必要があるのです。

 古き人を脱ぎ捨ててとあります。古き人を脱ぎ捨てて、心の霊を新にするのです。心の深みまで新にされてと書いていますけれど、この箇所を英訳では、and that ye be renewed in the spirit of your mindとなっています。心の在り方を全く変えてしまうと言っているのです。

 そうして、新しい人を着るのです。これをして頂きたいのです。これが嫌なら死ぬだけです。物事の考え方が間違っているのです。現在までの社会制度を認めてしまった男の考え方が間違っているのです。

 女性に対する考え方が根本から間違っているのです。これを修正してしまわない以上、聖書の勉強をいくらしてもだめです。

 キリスト教の人々はこれが分からないのです。キリスト教の牧師さんが分かっていないのです。キリスト教の牧師さん自身が性欲を捨てていないからです。だからだめなのです。

 カトリックもだめです。プロテスタントもだめです。宗教は仏教もキリスト教も、その他あらゆる宗派も全部だめです。

 全世界の男性は性欲を信じているのです。これが間違っているのです。男性が男性的に性欲を考えている以上、死ぬに決まっているのです。男性が死ねば、女性も死ぬに決まっているのです。

 この問題をパウロは取り上げて、死ぬに決まっている人間を脱ぎ捨てなさいと言っているのです。脱ぎ捨てるというのは、思いを捨てるのです。思いを捨てると命が変わるのです。

 皆様の思いが皆様の命になっているのです。思いが命になっているのですから、思いを変えてしまえば、命が変わるのです。

 性欲は存在しないということが、はっきり分かる人間になればいいのです。心の霊を新にしたらいい、性に対する考えを新しくしたら、死なない人間になれるのです。

 イエスを信じるというのは、そういうことなのです。何でもないことです。思いが命を造っているのですから、これを変えてしまったらいいのです。だから、思いを変えることを断固としてやって頂きたいのです。

 今や人間の歴史は終わりに近づいています。日本が東洋の中心であり、東洋が世界の中心になるべきです。

 「誰が東から人を起こしたのか」とイザヤが言っています(イザヤ書59・19)。神が起こしたのです。人とは天皇陛下のことです。日本の天皇制の恐ろしい権威性がだんだん分かってくるでしょう。

 だから、皆様の考え違いを入れ替えて頂きたいのです。五蘊皆空です。性欲があるという考え方が間違っているのです。男の考えが間違っているのです。

 今までの白人主義の考え方が間違っているのです。学問という考え方が間違っているのです。今までの人間の思想は必ず死ぬという人間の思想です。

 皆様が今までの考えを持っていたければ持っていてもいいでしょう。それは自由ですが、必ず死ぬのです。死ぬのが嫌だったら、今までの考えを捨てて頂きたいのです。

 イエス・キリストを勉強することによって、自分自身の思想の根底を入れ替えてしまうのです。

 パウロは「心を更えて新にせよ」と言っていますが(ローマ人への手紙12・2)、心をどのように更えるのかということです。

 

 イエスは言っています。

 「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコによる福音書1・15)。

 

 悔い改めてとは心を入れ替えることです。心を入れ替えて福音を信じるというのは、どうしたらいいのか。どのように心を入れ替えたらいいのか分からないのです。

 キリスト教でいう心を入れ替えるというのは、常識的に生きていて心を変えることをいうのです。例えば、人に嘘を言うとか、親不孝をするとか、人の悪口を言うということ、そういうことを後悔して、謝るべきことを謝って、正しく生活する必要があるということです。

 そういうことはしないよりはしたほうがいいと言えるのですが、とにかく人間存在に関する考え方が間違っているのです。

 自分が生きているということに対する考えが間違っているのです。心を替えるということについては、端的な言い方をしますと、イエスに学ぶということです。

 

 イエスは言っています。

 「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つひとつの言で生きるものである」(マタイによる福音書4・4)。

 

 人間に対する見方が問題です。人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つひとつの言で生きているのであるというのが、イエスの人間に対する見方になるのです。イエスはこのような認識を持っていたのです。そうすると、皆様の意識がだんだん変わってくるのです。

 信じるということは、できるだけイエスに近い人生観を持てばいいのです。イエスに近い人生観を持とうと考えれば、自然にイエスと同じ意識に近い意識になっていくのです。

 人はパンのみで生きているのではないということは、パンで生きている人間もいることはいるけれど、本当の人間と言えるものは、神の口から出る一つひとつの言が人間の正確な、正当な認識であると言っているのです。

 神の口から出ている言と言えば、瞬間、瞬間の、時々刻々の命のことです。これが実は皆様の本体です。

 時が流れているということは、神の口から言が流れ出しているということなのです。時々刻々時が流れているということが、人間の魂の本当の姿なのです。このような魂の本当の姿を自分として認識する時には、肉体的に存在する仮の姿の自分はあることはあるけれど、それは本当の自分ではないと言うことがよく分かるのです。

 イエスの言に基づいて、自分に対する認識をできるだけイエス的に認識しようと考えれば、皆様の思想は自らイエスに近いものになるのです。これが意識を転換するいちばん正確な、一番正当な方法です。

 聖書を勉強することのコツを申し上げておきます。

 

 パウロは次のように言っています。

 「なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思う。肉の思いは死であるが、霊の思いは命と平安である」(ローマ人への手紙8・5、6)。

 

 肉に従ったままで聖書を学んでも効果はないのです。現世に生きている肉体人間、固有名詞の自分を自分であると考えながら聖書を学ぶのが宗教です。こういう学び方をしても無意味です。神の前には無価値です。聖書を学ぶということは、霊に従って学ばなければ、本当のことは分からないのです。

 霊に従って学ぶということが、なかなかできないのです。そこでまず、般若心経によって五蘊皆空の原理を学ぶことです。色即是空の原理を学ぶことです。

 般若心経に対して柔軟に、自分自身を空じるということができるような気持ちを持たなければ、霊に従うということはできません。私が般若心経と聖書を一緒に学ぶ必要があると言っているのは、こういう意味になるのです。

 般若心経に従って、肉体的に生きている常識的な自分を解脱するのです。これを建前にすることを承知しなければ、聖書をいくら学んでも、ただの観念の遊戯になるだけです。これはだめです。何の役にも立ちません。

 色即是空を理屈でいくら知っても、本当に色即是空ということが自分の生活で実行できなければ、聖書を学ぶということが無意味になるのです。

 キリスト教では自分自身の肉の思いをどのように空じるかということが分からないのです。肉の思いを滅却するということの要領がさっぱり分からないから、常識を持ったままで、また、学校教育の内容を信じたままで聖書を勉強しているのです。これでは何年勉強してもだめです。まともな信仰には絶対になりません。

 キリスト教を五十年勉強しようが、六十年勉強しようが、本当の信仰にはならないのです。これははっきり言えるのです。

 そこで、般若心経に基づいて、人間の常識、知識をまず否定することです。これが五蘊皆空です。常識、知識をまず捨ててしまうことです。

 自分が肉体的に生きていることがカルマであるということを、はっきり認めるのです。カルマを鵜呑みにした状態で神を信じようとしてもだめです。

 聖書にはカルマという言葉はありませんが、罪人と言っているのです。「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっている」とあるとおりです(ローマ人への手紙3・23)。

 人間が常識で生きていることが、罪を犯していることなのです。常識で生きていれば、心にもないおべっかを言ったり、自分の利益だけを求めるに決まっているのです。。こういうことをするのが罪です。

 人間が普通に商売をしていることが罪なのです。だから、神の栄光と福音の実体を自分の魂の経験の中へ取り入れることはできないと言っているのです。

 皆様が常識的な考えを持ったままで聖書を勉強しても、原罪意識が皆様の頭の中にこびりついている以上は、聖書の勉強が空転しているのです。思想的には分かっていますが、実質的には分かっていないのです。だから、本当の信仰にならないのです。命にならないのです。

 肉の思いというのは何か。肉体的に生きている自分を認める場合には、肉の思いになるのです。

 霊に従って生きようと思えば、肉体的に生きている自分を認めないという場に立つのです。これを強引にするのです。例えば、今まで甘いものが好きだった人でも、この習性と別れてしまうのです。

 男性的な意味での性欲を考えていた自分と別れてしまうのです。なぜなら、今までの皆様は死ぬに決まっているからです。

 常識的な思いでなければ聖書が勉強できないというくらいに、人間は腐っているのです。この文明時代においては、人間は完全に腐っているのです。だから、こんな人間の意識状態で聖書が信じられるはずがないのです。

 こういうことをいうのは私だけでしょう。他にはいないでしょう。聖書の値打ちを高く皆様に紹介しようと思ったら、こう言わざるを得ないのです。

 肉の思いは死です。肉体的に生きているという自分を認める思想を持ったままで聖書を信じることになりますと、いくら学んでもそれは永遠の命にはならないのです。

 しかし、これは何でもないことです。言葉でいうと、非常に難しいようですが、肉体的に生きているという考えが騙されている考えなのです。

 肉体的に生きているという自分の気持ちが騙されているということに気づけばいいのです。例えば、砂糖を舐めたら甘いと思うことは肉の思いではないのです。霊の思いです。甘いという感覚は霊です。味覚は生まれる前の霊です。皆様は生まれる前から味覚を持っているのです。

 生まれた後の思いが肉の思いです。生まれる前の思いは肉の思いではないのです。砂糖を舐めて甘いということは肉の思いではないのです。これは生まれる前の霊の感覚が、今皆様の舌にあるのです。

 生まれる前の感覚、前世の感覚がそのまま現世で働いているのです。これが霊の思いです。人間の五官の感覚は、すべて前世の感覚です。味覚も、聴覚も、触覚も、すべて前世の感覚です。これは霊です。

 ところが、肉体的に感覚しているから、肉体の感覚と思うのです。学校教育がそのように教えているのです。学校教育の教え方が間違っているのです。

 両親の考え方が間違っていた。兄弟の考えが間違っていた。親戚の人々の考えが間違っていた。職場の人々の考え、知人の考えが間違っていたのです。

 皆様は生まれる前に五官というすばらしい霊の感覚を与えられていたのです。これがリビングの実体です。だから、皆様のリビングの実体というのは、実はとこしえの命なのです。

 それを肉の思いで受け取っているから、肉の思いになってしまうのです。甘いという感覚を肉体的な自分が食べて甘いと思うから、また、肉の思いで受け止めるからいけないのです。

 受け止め方が悪いのです。現世の常識が悪いのです。甘いという感覚が悪いのではない。感覚に対する感じ方が悪いのです。

 五蘊皆空です。人間の考え方、感じ方が全部間違っているのです。人間の行動が悪いのではなくて、行動に対する思いが間違っているのです。そこで、思いを替えるのです。

 心を替えて新にするのです。人間の思いというのは人間の精神の思いです。これを新にしていけば、生まれた後の感覚ではなくて、生まれる前の感覚で自分の生活を見るということは十分にできるのです。

 肉というのが一番危ないのです。釈尊の思想の一番重要な点は、肉を否定していることです。これが釈尊の一番良い所です。

 聖書はもちろん肉を否定しています。「肉は益なし」という考え方で、また、「肉の思いは死である」という言い方をしているのです。

 釈尊は「肉は空だ」と言っているのです。とにかく、肉というのは幻です。皆様の肉体、地球が肉です。時間、空間の世界が肉です。

 皆様は肉体を持つ状態で生まれました。これがカルマです。肉体の世界に生まれたことがカルマです。これから抜け出さなければ、絶対に救われません。

 肉の思いは死です。「肉に従う者は肉のことを思う」とあります。肉体的に生きている自分が肉体の感覚を持っているということが、もはや罪の虜になっているのです。

 だから、私が心からお願いすることは、肉の思いから解脱して頂きたいということです。肉の思いから一歩踏み出してください、踏み出せるのです。

 肉の思いから勇敢に踏み出して頂きたい。踏み出せるのです。肉の思いは皆様を縛り付けるだけの力はありません。皆様が自分の肉に反対したら、肉の思いから出ることはできるのです。これをしないからいけないのです。肉の思いを持ったままで、聖書が分かったと何回言ってもだめです。肉の思いは死であるから、肉体的な人間になってこの世に生まれたことが、皆様のカルマです。これから出てしまうのです。そうすれば、死ななくなるのです。

 肉体的な状態で生きている自分から一歩出てしまうのです。肉の思いを捨ててしまうのです。自分の奥さんに対する肉の思いを捨ててしまうのです。

 例えば、鯛の刺身を食べたとして、鯛の刺身に対する自分の肉の思いを捨てるのです。刺身の味は、生まれる前の味です。生まれる前の味覚神経で食べているから、それをおいしいと感じる。おいしいと意識しているのは前世の意識なのです。

 生まれる前の感覚で刺身を食べるのです。そうすると、霊に従いて歩むことができるのです。夫婦の場合は、この見方を夫婦生活に適用するのです。

 今までの夫婦の気持ちで愛し合っていたら、必ず死にます。だから、死ぬ気持ち、死ぬ命を捨ててしまうのです。

 皆様は毎日、毎日、生まれる前の感覚で、見たり聞いたり、食べたりしているのです。皆様の五官の感覚というのは、生まれる前の感覚です。ところが、皆様の意識が間違っているのです。

 生まれる前の感覚で味わっていながら、現実の意識でそれを捉えるために、現実になってしまうのです。刺身でも女性でも同じことです。世界中のどんな有名な学者、宗教家でも、ここまではっきり教えてくれる人はいないのです。

 とにかく、皆様は死んでいくに決まっている自分を見切ってしまうのです。これはできるのです。

 刺身を食べているのは前世の自分が食べているのです。生まれる前の自分が、生まれる前の感覚で食べているのです。今の自分が食べているのではないのです。

 従って、現在の自分は空です。現在、食べている自分は空です。自分は色即是空の中に入っているのです。これがはっきり分かると、イエスが水から上った時と同じ状態になるのです。

 パウロがそうです。霊に従って生きているのです。これが実行できると、皆様は初めて新約聖書の中に入っていけるのです。これを神の国へ入ると言っているのです。水からと霊から新に生まれて、神の国に入るのです。

 皆様は現実の生活において、前世を生きているのですから、これを現世と考えるのがいけないのです。

 皆様のザ・リビングは、実は前世です。五官の働きは前世のものです。これが生ける神の印、the seal of the living Godです。

 皆様が生きているというリビングは、そのまま救われていることなのです。現世で生きているのではない。前世がちょっと現世に顔を出しているだけなのです。

 天にいるイエスがこの地上に、ちょっと顔を出したのです。天から下って、なお天にいたのです。イエスは天から下ったが、なお天にいて生活していたのです。これを皆様もしたらいいのです。私もそれをしているのです。これをすると、初めて皆様は現世に関係がない人になるのです。

 現世で何を言われようが、何をされようが、格好だけは現世にいますけれど、本人の気持ちは現世にはいないのです。

 私もそれをしているから、はっきり言えるのです。皆様にもそれをして頂きたいのです。できるに決まっているから、ぜひして頂きたいのです。そうすると、世界が変わってしまうのです。

 永遠の命を現世で経験するのです。死なない命を現世で経験するのです。これをして頂きたいのです。

 イエス・キリストを信じるというのは、思想的に理解するだけでなくて、自分の肉を離れて霊に従って生きることです。自分の肉の思いを捨ててしまうのです。

 肉の自分から一歩出てしまうのです。そうして、霊に従って生きるのです。これをすることを御霊を崇めるというのです。

 まず聖霊を受けることをして下さい。聖霊を受けなければだめです。水からと霊からとによって、新しく生まれるのです。水から生まれることが洗礼です。キリスト教の洗礼がだめというわけではありませんが、キリスト教では洗礼の意味が全然分かっていません。

 霊から生まれるとは、御霊に従って霊によって生きるのです。霊的に生きるのです。これをキリスト教は知らないのです。

 水からと霊からとによって新に生まれるのです。神の国に入るのです。これを実行して頂きたいのです。これを本当に実行しているのは、私たちだけです。全世界でグループとして、水から新に生まれ、霊から新に生まれて、神の国に入るということを文字通り実行しているのは私たちだけです。このグルーブを神は当てにしているのです。 

 新に生まれることによって、命を替えてしまうのです。これを実行して頂きたいのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

bottom of page