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                          ユダヤ人の間違い

 

 ユダヤ人はイエスの言っていることが皆目分からなかったようです。「あなたは一体何を言おうとしているのか」とユダヤ人はイエスに言ったのです。

 これはもっともな意見です。イエスが来た時には、アブラハムが神の約束を受け取ってから二千年も経っていたのです。モーセに指導されてからでも千五、六百年経過していたのです。それでも分からなかったのです。

 掟は行えば行うほど分からなくなるのです。なぜそういうことになるのかと言いますと、太陽系宇宙の存在に対する基本的な認識が間違っているからです。

 創世記の第一章に関する正確な認識ができていないからです。天地が造られたということはどういうことなのか。エネルギーが働いて現象世界が構造されています。質量というものは何なのか。エネルギーとは何なのか。これが分かっていないのです。

 現在の学問では分からないのです。アインシュタインはそれを説明したつもりでした。質量はエネルギーがあることを前提にして推論しているのです。前提にしてというのは仮定してということです。

 科学者は時間があると仮定しています。しかし、時間がどこにあるのかを説明していないのです。

 アインシュタインは時間があることの証明が全然できていないのです。時間の正体を捉えられないままで、時間と空間の相関関係を説明しているのです。これが相対性理論です。こういう感覚が間違っているのです。

 アインシュタインは、「私は虹があることは分かりますが、虹がどうしてできたのか、いつ頃から発生したのかについては、聖書を信じるしかしたかがない」と言っています。アインシュタインはある面では聖書を信じると告白していながら、ある面では聖書を信じていないのです。

 見解が分裂しているのです。霊と肉とにまたがった見解を持っていたのです。こういう考え方が現代人の考え方になっているのです。

 相対性理論が最も偉大な真理のように考え込まされているのですが、これがユダヤ主義の文明意識なのです。

 私は科学を否定しているのではありません。アインシュタインの理論は仮定にすぎないと言っているのです。神的な見方からしたら、幼稚なものだと言いますと、あなたは一体何を考えているのか、精神がおかしいのではないかと言われるでしょう。精神分裂と言われようが、物知らずと言われようが、しょうがないのです。間違っていることは間違っていると言わざるを得ないのです。

 ノーベル委員会がいくら世界一だと認めたとしても、ノーベル委員会自体が神を信じていないのです。ノーベル賞を受賞した学説が、神的な正確さを持っているとは言えないのです。

 ノーベル賞はあるユダヤ人の少数グループによって決められているもので、イエスの復活が説明できないようでは、本当の真理とは言えないのです。新約時代が原理的に説明できなければ、永遠の真理とは言えないのです。

 現代文明というものは、命が分かっていないのです。命とは何であるのか。時間でさえも分からないのですから、命が分からないのは当たり前です。アインシュタインほどの英才であっても、時間、空間の説明ができなかったのです。

 私たちは毎日、毎日、時間に接触しているのです。ところが、皆様は時間を知らないのです。私の言っていることだけが正しいと言っていますが、イエスやパウロもそういう言い方をしていたのです。

 聖書を信じるとはどういう信じ方をするのか。パウロやイエスと同じような断定ができる信じ方をしなければいけないのです。キリスト教の牧師さんや神学校の先生のような言い方をしても、何にもならないのです。彼らは人間の常識や社会通念を踏まえて発言しているのです。これが宗教です。

 イエスやパウロは人間の常識を踏まえていなかったのです。私も常識を踏まえていません。なぜなら、私はイエスが主であると信じているからです。永遠を信じているからです。

 イエスを主として信じている人は、常識を信じてはならないのです。常識を信じるなら、イエスを信じる必要はないのです。

 イエスは常識の外に立っていたのです。私も常識の外に立っているのです。ただこれだけの違いです。日本の宗教家も学者も常識の外に立っている人は一人もいません。私が知る範囲においては、一人もいないのです。

 もしイエスについて私以上の高くて深い見方をしている人がいたらお目にかかりたいと思います。そうして、私はその人の弟子になりたいと思います。

 命とは何か。物が存在すること、地球が存在すること、人間が存在すること、山が存在すること、川が存在することがあるのです。存在することが命です。これは時間よりももっと大切な問題です。

 時間があること、空間があること、これは存在と命に乗っているのです。存在するということは生きていることを意味するのです。生きていることは存在することを意味するのです。

 時間空間的な観念に立って言えば、命が存在になります。生命論的な観念に立って言えば、存在は命になります。見方によって言い方が違ってきますが、命も存在の一つのものなのです。

 存在や命が分かっていたら、時間の説明がはっきりできるはずです。あるということが分かっていたら、時間の本質が説明できるはずです。

 私が話していることは、今までの宗教家や哲学者が言っていなかったポイントを申し上げているので、一朝一夕になかなかご理解できないかもしれませんが、皆様に真面目さがありさえすれば、必ず分かって頂けるに違いないと思います。だから、時間や回数を重ねてお話ししているのです。

 私は皆様が分からないとは考えていません。分かるようになると考えています。

 イエスがユダヤ人に話した時に、ユダヤ人は話す内容を知るべきであるし、また、心を開けば分かるに決まっていると思っていたでしょう。

 私はイエスの心境に立って皆様に申し上げているのです。生きていれば分かるに決まっているのです。皆様が生きているという状態を冷静に考えれば、イエスが言ったこと、また、私がお話しすることが分かるに決まっているのです。

 私はイエスの受け売りをしているだけです。もし私が言うことが間違っているなら、イエス・キリストが間違っているのです。

 イエス・キリストは復活したことによって、彼自身が存在と命との原理を宇宙にはっきり確証したのです。彼の復活において、神は一人の人を死人のうちから甦らせて義をもって裁く時を定めたのです。これは使徒行伝の十七章三十一節にはっきり書いてあるのです。

 一人の子を死人のうちから甦らせて、義をもって全世界を裁く日を確定した。神は全世界の人に向かって、悔い改めることを命じているのです。

 神は皆様に悔い改めを命令しているのです。日本人の因縁が良かろうが悪かろうが、聖書を認めようが認めまいが、神は神です。

 神が神であること、造り主であり創造者であること、絶対者であるという権威において、神は皆様に悔い改めを命令しているのです。これに従わなければ、皆様は神に従わないことになるのです。

 私は神の受け売りをしているだけです。これは私の思想ではありません。だから、私の思想に打ち勝つ思想はありえないのです。もし私の思想を木っ端微塵に粉砕することができるとしたら、イエス・キリストの復活を粉砕することができるでしょう。そんなことはできるはずがないのです。

 地球が創造されたことを否定することはできるのでしょうか。これができる学者はいるのでしょうか。聖書に記されていることを宗教的ではなくて正当に説いていますから、私に頭を下げることは私に降参したのではない、イエス・キリストの復活に頭を下げただけなのです。

 皆様が現実に生きている命は、死ぬに決まっている命です。その証拠に、死ぬに決まっていることを皆様自身がよくご承知のはずです。承知していながら、その命を棚に上げることがなかなかできないのです。

 その理由は何かと言いますと、皆様は自分の命に何程かの値打ちがあると思っているからです。それが間違いです。皆様自身の人生観や世界観を信じていても、何にもなりません。

 例えば、キリスト教を信じていても、それが何になるのでしょうか。生長の家を信じて何になるのでしょうか。これをよく考えて頂きたいのです。ご利益があるかもしれません。天理教も信じたらご利益があるかもしれませんが、宇宙的な原理から見たら間違っているだけです。

 キリスト教を信じてご利益があるとして、また、天理教を信じてご利益があるとして、そのご利益の本体は何でしょうか。

 大学を卒業してノーベル賞をもらったとしても、その本質は何でしょうか。日本の元総理大臣の佐藤栄作氏はノーベル賞をもらいましたが、彼はどうなったのでしょうか。死んだだけのことです。

 死んだ人は負けた人です。しかし、パウロは死に勝ったのです。「我は勝ち得て余りあり」と言っているのです(ローマ人への手紙8・37)。勝ちすぎて困っているくらいだと言っているのです。

 佐藤栄作氏はこういうことが言えたのでしょうか。湯川秀樹氏にこういうことが言えたのでしょうか。

 人生は終極的に勝つことが目的です。死に勝つことが目的です。自分自身の自我意識に勝つことです。死んでいく人間の思想に勝つのです。死んでいく自分の運命に勝つのです。

 キリスト教を信じてこれができるのでしょうか。宗教を信じて何になるのでしょうか。宗教を信じても死に勝てません。必ず負けるのです。

 宗教を信じても、現在の学問を信じても、皆様は死ぬに決まっているのです。何のためにキリスト教を信じるのでしょうか。人間の常識によって信じているのです。常識に一杯担がれているのです。

 常識という通念が困るのです。皆様は常識の上に立っているのです。社会通念というのが常識です。宗教も学問も皆常識の上に立っているのです。聖書はこれを肉の思いと言っているのです。

 常識や人間の通念に立って物事を考えているとしたら、私の考えを否定することができないでしょう。

 私は常識や社会通念によって生きてはいないのです。常識や社会通念が間違っていることは、いくらでも証明できるのです。それは死ぬに決まっている人間の考え方だからです。

 常識に立っている人は死に勝つことができません。命の本質を見極めることはできません。

 宇宙の本体、大宇宙の本体は永遠の生命です。これが地球では物理的に表現されているのです。直径が百五十億光年と言われている大宇宙の中に、生命現象が確実に存在すると言われているのは地球だけです。

 SFの世界では地球以外にも生命体が存在する星があると言っていますが、これはユダヤ人のお伽噺です。これに真実性があると思われるなら、お伽噺を信じたらいいでしょう。そういう人の考えはその程度のものなのですから。

 常識通念はこの世に生きている間は通用しますけれど、この世を去ってしまったら一切通用しないのです。学問も宗教も、道徳も法律も、この世を去ってしまうと三文の価値もないのです。

 キリスト教の教義というのは、現世にいる間は通用しますけれど、神の前には絶対に通用しないのです。これを考えて頂きたいのです。

 こういうことを言う私は非常に優れた人物か、希有の大馬鹿者でしょう。イエスもそのように言われたのです。イエスの言うことは大法螺吹きに思えたでしょう。気違いと言われたのです。私もやがてそのように言われるでしょう。常識に正反対のことを言っているからです。

 自分が生きているという意識、いわゆる自我意識を乗り越えなければいけないのです。これを捨ててしまうことです。これにはなかなか苦労すると思います。一朝一夕にできることではないのです。

 長年、聖書を勉強している人でも、自我意識を本当に乗り越えられる人はなかなかいないのです。めったにいないと言ってもいいでしょう。これは簡単にできることではないということは事実です。

 皆様の何十年間かの経験、記憶、自分の思想を乗り越えていかなければいけないのです。今まで勉強してきた神学的な思想とか、宗教観念の全部を乗り越えてしまわなければならないのです。これは一朝一夕のことではありません。辛抱強く何年も何年も続けるしかないのです。

 

 聖書に次のようにあります。

 「さてサウロはなおも主の弟子たちに対する脅迫、殺害の息を弾ませながら、大祭司の所に行って、ダマスコの諸会堂あての添書を求めた。それは、この道の者を見つけ次第、男女の別なく縛り上げて、エルサレムに引っ張って来るためであった。

 ところが、道を急いでダマスコの近くに来た時、突然、天から光がさして、彼をめぐり照らした。

 彼は地に倒れたが、その時、『サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか』と呼びかける声を聞いた。そこで彼は『主よ、あなたはどなたですか』と尋ねた。すると、答があった、『私はあなたが迫害しているイエスである。さあ立って、町に入って行きなさい。そうすれば、そこにあなたのなすべきことが告げられるであろう』。

 サウロの同行者たちは物も言えずに立っていて、声だけは聞こえたが、誰も見えなかった。サウロは地から起き上がって目を開いてみたが、何も見えなかった。そこで、人々は彼の手を引いてダマスコへ連れて行った。

 彼は三日間、目が見えず、また食べることも飲むこともしなかった。

 さて、ダマスコにアナニヤという一人の弟子がいた。この人の幻の中に主が現われて、『アナニヤよ』とお呼びになった。彼は『主よ、私でございます』と答えた。

 そこで、主が彼に言われた、『立って、〝真っすぐ〟という名の路地に行き、ユダの家でサウロというタルソ人を尋ねなさい。彼は今、祈っている。彼はアナニヤという人が入ってきて、手を自分の上において、再び見えるようにしてくれるのを、幻で見たのである』。

 アナニヤは答えた、『主よ、あの人がエルサレムでどんなひどいことをあなたの聖徒たちにしたかについては、多くの人たちから聞いています。そして、彼はここでも、御名を唱える者たちを皆捕縛する権を、祭司長たちから得てきているのです』。

 しかし、主は仰せになった、『さあ、行きなさい。あの人は異邦人たち、王たち、また、イスラエルの子らにも、私の名を伝える器として、私が選んだ者である。私の名のために彼がどんなに苦しまなければならないかを、彼に知らせよう』。

 そこでアナニヤは、出かけて行ってその家に入り、手をサウロの上において言った、『兄弟サウロよ、あなたが来る途中で現われた主イエスは、あなたが再び見えるようになるため、そして、聖霊に満たされるために、私をここにお遣わしになったのです』。

 するとたちどころに、サウロの目から、うろこのようなものが落ちて、元どおりに見えるようになった。そこで、彼は立ってバプテスマを受け、また食事をとって元気を取り戻した」(使徒行伝9・1~19)。

 

 パウロはイエスを信じる前は、誰よりも熱心なユダヤ教信者でした。彼はイエスを信じる人を片っ端から掴まえて牢獄に放り込んだのです。

 このパウロがダマスコ途上で天から太陽よりも輝く光に照らされて盲目になったので、三日間の間、全く目が見えなくなったのですが、イエスを信じるアナニヤに祈ってもらって、目からうろこが落ちて、再び見えるようになったのです。

 目からうろこが落ちるのです。これを経験して頂きたいのです。

 人間の社会通念、宗教観念はうろこのようになって、その人の魂をがっちりと閉ざしてしまっているのです。このうろこは自分ではとりはずしができないのです。神の御霊によってでしかはずれないのです。

 そこで、男性は女性の本能をよくよく勉強して頂きたいのです。男性の心理よりも女性の本能の方が真理を掴まえるためには有効なのです。

 とこしえの命を掴まえるためには、女性の本能の方が有益です。論理的に演繹するためには、男性の方が優れていますが、直感的に神の本質を掴まえるためには、女性の方が優れているのです。男性による論理的な聡明さと、女性による直感的な鋭さの両方がいるのです。そうすると、イエスがとてもすばらしいものであることが分かるのです。

 

 イエスが主であるこということです。パウロは言っています。

 「すなわち、自分の口でイエスが主であると告白し、自分の心で神が死人の中からイエスを甦らせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである」(ローマ人への手紙10・9、10)。

 

 これが今のキリスト教では実行されていないのです。イエスが主であるとはどういうことか分からないのです。

 イエスが主であるというのは、自分自身の主体的存在であるという意味であって、自分自身の命の主としての存在がイエスなのです。従って、命としての自分は消えてしまうのです。

 イエスが主であることを信じますと、自分が消えてしまうのです。ヨハネは言っています。「あなたがたは心を騒がせないがよい。神を信じ、また、私を信じなさい」(ヨハネによる福音書14・1)。

 心を騒がすなと言っています。心を騒がすなという意味が分からないのです。心を騒がすとは、聖書が本当に正しいかどうかは分からない。他にもっと正しいものがあるのではないかと思うことです。あれがよいかこれがよいかと迷うのです。

 かつてパウロは、アグリッパ王の前でイエスについて色々説明したのですが、アグリッパ王は、「おまえは私を簡単に説き伏せられると思っているが、そうはいかない」と言ったのです(使徒行伝26・19~29)。

 皆様の常識もこれと同じことです。私が色々と懇切丁寧に説明しても、それくらいのことで説き伏せられませんよという気持ちが、皆様の中にあるのです。これが皆様の常識です。

 皆様の中にある常識は私がいうことは簡単に同意できないと思っているのです。これが皆様の中にある古き人です。

 この古き人は六千年生きていたのです。この伝承が皆様の中に存在しているのです。そこで、一番の急所を申し上げたいのですが、皆様の経験とか、記憶とか、神学論、哲学の通念とか、宗教観念を信じていたとしても、これはすべて人間の常識なのです。

 人間が生きているという状態を認めているのです。人間が現世に生きている状態を見ているのです。これが宗教観念になり、学理学説になっているのです。こういうものを信じている人間は皆死んでしまうのです。

 人間の文明、人間の歴史はやがて潰れてしまいます。これをよく考えて頂きたいのです。

 皆様が心から信じている文明の正体は何なのか。これはユダヤ人の芝居です。世界的なスケールを持っていますので、簡単に潰れるとは思いませんが、やがて潰れるのです。

 もし世界の首脳が集まって、核兵器全廃の決意をしたとしても、何になるのでしょうか。私もそれには賛成ですが、それくらいのことで魂の目的が達成できるのでしょうか。

 世界平和を実現したとしても、やはり皆様は死ななければならないことになるのです。

 現在の文明は行き先が真っ暗です。お先真っ暗です。

 

 イエスは言っています。

 「しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いであろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さはどんなであろう」(マタイによる福音書6・23)。

 

 その暗さはどんなであろうというのは、死んでから後の暗さはどんなであろうという意味です。

 人間は何となく死んでから後のことを知っています。しかし、今生きているという事実があるのです。死が来るのはまだ先のことだと思っているのです。まだ死なないから大丈夫だと自分自身を慰めてはいるけれど、実は何時この世を去るか分からないのです。

 内の光が暗ければ、その暗さはどんなであろうとあります。今の人間の命には光がない。光がない状態で生きていて、もし死ぬことになったらどうなるのか。真っ暗なのです。これを率直に考えなさいと言っているのです。

 「もしあなたの目が明るければ、全身が明るいだろう」と二十二節にありますが、全身が明るいとはどういうことかです。全身は英訳でwhole bodyとなっています。これはオールボディ(all body)ではないのです。

 ホールボディというのは人間存在全体を指しています。現世に生きている人間だけとは違います。

 生まれてくる前に命の原理があったのです。今命があります。死んだ後には影響があるのです。この三つ全体を含めて、ホールと言っているのです。

 人生は現世に生きている間だけではありません。ルネッサンス以降の文明は、人間が現世に生きていることだけが文明であるというばかばかしい考えを人間に植え付けたのです。これがユダヤ主義の一番悪い点です。

 ユダヤ教は現世に生きているのが人生だと考えているのです。ヘブライズムの原理を無視しているのです。旧約聖書の原理を無視するために、ギリシアの古典文学を担ぎだしたのです。これがルネッサンスです。

 ユダヤ人はヘブライズムを捨てて、ヘレニズムの文明を強調したのです。ここにユダヤ人のけしからんトリックがあるのです。これを現在の学者は見破ることができないのです。

 マルチン・ルーテルの間違いが分からないのです。彼は大変な間違いをしていたのです。これを見破っている神学者は一人もいないのです。

 ユダヤ人は二千年もの間、掟を行っていた。いくら掟を行っても平安が感じられない。そこで、掟を行うことにうんざりしたのでしょう。ヘブライズムを棚上げにして、ギリシア文明を担ぎ出した。いわゆる文芸復興を強調したのです。ここにユダヤ思想の非常に危険なトリックがあるのです。

 これは全くいんちきです。ルネッサンス以後の神学、宗教、学問は全部嘘です。現代の文明は皆ルネッサンスの流れを追っているのです。道徳も法律も皆そうです。これが間違っているのです。

 死んでいくに決まっている人間の命を、そのまま認めてしまったのです。死んでしまえばそれまでと堂々と言っているのです。その結果、神は死んだと言っているのです。日本的にいうと、神なんかあるもんかとなるのです。

 ルネッサンス以後の学問を信じている人は、皆一杯担がれているのです。

 現代文明はやがて完全に行き詰まるでしょう。世界首脳が集まって、軍備撤廃するでしょう。世界連邦ができて国境がなくなるでしょう。その時、全世界の人間は拍手喝采するのです。人間文明のすばらしい花が開くのです。人々は万歳、万歳というでしょう。

 ところが、イエスは言っています。「人々が無事太平と言っている時に、滅びがたちまち来るであろう」。平和が来た、文明の花が開いたと言って、万歳、万歳している時に、人間の足元がすくわれると言っているのです。これが今の世界の状態です。

 文明はやがて行き詰まるに決まっているのです。国家、社会もやがて潰れるでしょう。文明そのものが行き詰まってしまうのです。

 日本という国に国家目的がありません。日本社会が永遠に存続する可能性は保証されていないのです。

 皆様の命はどうでしょうか。本当に生まれてきて良かったと言えるのでしょうか。命の実体が分かっているのでしょうか。

 生というのは地球があること、太陽があること、宇宙があることです。あるということが命の実体です。悪魔がある。神がある。人間がある。自然がある。「ある」ということではないものは一つもないのです。

 悪魔でも人間でも、あるという原則を否定することはできないのです。これがエホバです。エホバというのは、人間が分かるか分からないかという問題ではないのです。

 皆様が生きていることがそのままエホバです。地球があることがエホバです。地球がエホバではありません。地球があるということがエホバです。

 「私はありてあるものである」と言っています。これがエホバです。約束の原点です。神とはそういうものです。

 

 ヨハネは言っています。

 「永遠の命とは唯一の誠の神でいますあなたと、また、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることであります」(ヨハネによる福音書17・3)。

 

 I am that I am.とあります(出得エジプト記3・14)。これはあるということが私だという意味です。am , is , areというビー動詞が神なのです。これが皆様が生きている根本原理です。皆様が生きている根本が、am , are , isです。

 神はモーセに向かって、おまえが生きていることが神だと言ったのです。おまえが生きていることが私(神)だと言われたモーセが分からなかったのです。

 モーセは神がはっきり分からないままの状態で、神の前から去ってしまった。ここにユダヤ人の間違い、欠点があったのです。

 神が私はありてあるものであると言った時に、それはどういうことですかともう一歩踏み込んで聞いたらよかったのですが、モーセはそれをしなかったのです。これがユダヤ人の悲しい運命の基礎になっているのです。

 モーセは確かに神と問答したのです。しかし、the name of God.神のネーム、神の実体が分からないままで、ユダヤ教ができたのです。これがユダヤ人の大欠点になっているのです。

 モーセの信仰が間違っていたのです。こんなことを四千年の間、言った人はいないでしょう。私はモーセの信仰が間違っているとはっきり言っているのです。イエスも言っているのです。

 モーセの間違いを聖書によって堂々と反駁できる人が、ユダヤ人の指導ができるのです。私はユダヤ人の指導ができるのです。ユダヤ教ははっきり間違っていると言えるからです。

 神を信じているつもりのユダヤ人たち、神の掟を守っているつもりの彼らが、神の実体が全然分かっていないのです。

 キリスト教も同様です。だから、ユダヤ教とキリスト教が世界の人間の魂をめちゃくちゃにしていると言っているのです。

 皆様の命は今のままでは死ぬに決まっています。現在、皆様が信用している国も、社会も、世界の文明も皆行き詰まってしまうに決まっているのです。

 

 聖書に次のようにあります。

 「また見ると、大きな白い御座があり、そこにいます方があった。天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった。 

 また、死んでいた者が大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。数々の書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これは命の書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、裁かれた」(ヨハネの黙示録20・11、12)。

 

 大いなる御座(great white throne)が神の御名です。この前に大いなる者も小さき者も、現世における大企業の社長、大統領、首相、国会議員、一介の職人、サラリーマン、家庭の主婦も立っていた。これは地球の歴史が終わった後に、あらゆる霊魂に対する神の大審判が行われる光景です。

 そうして、天も地も御顔の前から逃げ去ったとあるのです。

 今現在、皆様が見ている天地万物は現象体です。現象体というのはビジョンです。天地万物はただのビジョンなのです。物質存在は実体的にあるのではありません。

 皆様の肉体も、鼻から息を出し入れしているという生理機能があるだけであって、肉体が実存しているのではありません。

 天地万物は御顔の前から逃げ去った。森羅万象は神の御顔の前から逃げてしまったのです。皆様は神の御顔が何か分かるのでしょうか。こんなことがキリスト教で説明できるのでしょうか。絶対にできないのです。

 皆様の肉体は神の御顔の前には、本当に存在しているのではないのです。人間の歴史が終わるまでの間、仮に一つのビジョンとして現われているだけなのです。

 従って、皆様は自分が生きているという大きなことを言うのはやめて頂きたいのです。自分が生きているという事実は何処にもないのです。神の前に鼻から息を吸うことを認められているだけであって、呼吸機能の働きがビジョンとして現われているだけです。

 

 ダビデは次のように言っています。

 「主よ、わが終わりと、

 わが日の数のどれほどであるかを私に知らせ、

 わが命のいかにはかないかを知らせてください。

 見よ、あなたは私の日をつかのまとされました。

 私の一生はあなたの前では無に等しいのです。

 まことに、すべての人はその盛んな時でも、

 息にすぎません。

 まことに人は影のようにさまよいます。

 まことに彼らはむなしいことのために、

 騒ぎまわるのです」(詩篇39・4~6)。

 

 人間は血気盛んな時でも、影のようにさまよっていると言っているのです。まして、八十歳や九十歳の年寄りは全く影にすぎないのです。

 ヤコブは、「あなたがたはしばしの間現われて、たちまち消え行く霧にすぎない」と言っています(ヤコブの手紙4・14)。

 私も皆様も固有名詞の人間は一人も存在していないのです。ただ、人の子がいるだけです。人の子が一人いるだけです。これをイエスというのです。

 神が公認しているのは人の子だけです。イエスだけを認めているのです。だから、皆様がイエスの中へ入るなら救われるのです。

 

 イエスは言っています。

 「すべて重荷を負うて苦労している者は、私の元に来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイによる福音書11・28)。

 

 私の元に来なさい。私の中に入ってきなさいと言っているのです。私の中へ住み込んで(abide)しまいなさいと言っているのです。これをキリスト教は全然していないのです。ただイエスを信じなさいというだけです。イエスを利用して、商売をしているのです。

 イエスの名に隠れて、こそっと救われようと考えている。これがインチキです。こういうことを全知全能の神が黙って見逃すと思っているのでしょうか。

 「我は全能の神なり。汝わが前に歩みて全かれ」と言っていますが(創世記17・1)、神の前とはどういうことか。わが前に歩みて全かれとはどうすることか、これがユダヤ教もキリスト教も全然分かっていないのです。

 皆様は神の前よりも自分があると思いたいでしょう。これを悪魔からの肉の思いというのです。

 皆様の現世の命は明らかに悪魔の偽りの認識の思想の中に入っているのです。

 神が認めている人格は一つしかありません。これが仏説阿弥陀経の阿弥陀如来になって現われている。これが実はイエスです。大無量寿経の中にも現われているのです。

 宗教は神らしいものをもってきて、偽物の神を造るのです。それを人間は拝んでいるのです。これが間違いです。神らしいものを拝まずに、誠の神を拝むのです。

 神とは何か。皆様が生きていること、心臓が動いていることが神です。この神を拝むのです。なぜこのことを認めようとしないのでしょうか。

 皆様の肉体的な命は必ずなくなります。文明も、国も、社会も滅びるのです。文明も国も社会も目的を持っていません。学問も目的を持っていません。ノーベル賞も目的を持っていません。科学も目的を持っていないのです。

 これらは現世の生活を便利にするという目的はあります。生活を豊かにするという目的はありますが、現世を去ったら、何の意味もないのです。

 やがて、天地万物が神の御顔の前から逃げ去ってしまいます。万物が逃げてしまうのです。物理運動の原則が変わってしまうからです。そうすると、原子が消えてしまうのです。そうして、地球が終わるのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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