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                            上智と下智

 

 死ななければならないと思っている人は、人間が分かっていないのです。本当の学を勉強していないのです。

 死んでしまうような人間は、何を考えても、何を言い残してもだめです。そういうものは、三文の価値もないのです。やがて、消えてなくなってしまうのです。

 今の大学で教えているものは、消えてしまうものばかりです。人間文明はいつか消滅してしまうに違いないことを、大学教授は知っているのです。それとなく知っているのです。はっきりは知らないかもしれませんが、直感的には人間は全部死なねばならないし、文明それ自体もやがて消えてなくなってしまうことを知っているのです。

 国家社会と言いますけれど、国家も社会もいつかなくなってしまうのです。日本という国もいつか必ず消えてしまうのです。国のためと言ってもだめです。

 今の人間は現世に生きていることしか知らないのです。ところが、般若というのは、それとは違うのです。般若とはどういうものかと言いますと、上智です。

 死なねばならない人間の知恵は下智です。今の学問は下智です。現在の人間の考え方は五蘊です。これを空じてしまったら、上智を持つことになるのです。

 生まれながらの人間は自分は人間だと思い込んでいる。これは下智の人間です。常識とか学問、宗教、教育は下智に属するのです。これは死ぬに決まっている人間の考え方なのです。

 イエスが現われて、上智の見本を見せたのです。釈尊は下智ではだめだと言い切ったのです。下智は一切空だと言ったのです。しかし、上智の実物をはっきり見せなかったのです。

 大学へ行ったとしてもだめです。死ぬ人間が死ぬ人間の学問をしているのですから、勉強してもただ死ぬだけです。

 般若心経には「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄」とあります。般若心経を二、三行読んだだけでも分かるのです。

 ところが、般若心経を毎日読んでいる人が、観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄と読んでも、何のことか分からないのです。

 何のために般若心経を読んでいるのでしょうか。日本人は「心経読みの心経知らず」ばかりなのです。私は真面目に般若心経を勉強しただけなのです。世間の人は般若心経を真面目に読んでいないのです。

 だから、自分の考えが間違っていることが分からないのです。五蘊皆空が分からないのです。

 釈尊は下智が空だと言ったのです。しかし、上智が何であるのかということを言わなかったのです。般若ということは言ったのです。般若というのは、一つの形容詞のようなものでありまして、摩訶というのが般若の実体を示しているのです。

 摩訶というのは不思議とか、偉大とか、奇妙とかという意味です。摩訶般若波羅蜜多と言いますが、般若自身が摩訶です。偉大な上智です。

 偉大な上智の現われはどのようなものか。もし本当に上智を持った人間が現われたとしたら、どうなるのであろうか。これは般若心経に説明されていないのです。

 観自在菩薩というのは抽象人格であって、歴史的に現われた人物ではないのです。五蘊皆空と言ったとしても、観自在菩薩はいないのです。五蘊皆空ということを実践するとどういう効き目があるのかは、観自在菩薩は知らないと言うでしょう。

 観自在というのは、観世音と訳してもいいのです。観自在と訳したのは、西遊記を書いた玄奘です。観世音と訳したのは、鳩摩羅什です。

 観音さんは人間ではないのです。観音さんが本当に現世に生きていたとしたら、どういう生き方をしたのかということです。これが新約聖書に出ているのです。分かりやすく言えば、こういうことになるのです。

 キリスト教ではこのように分かりやすく説明しないのです。キリスト教の人々は、本当のイエスを知らないのです。本当のイエスの復活を知らないのです。だから、宗教ではない聖書を勉強するという言い方をしなければならないことになるのです。

 宗教というものは困ったものです。キリスト教も仏教もお金儲けの商売ばかりをしているのです。大きな寺も建てますが、心に本当の命を与えないのです。

 般若とは何か。分解しますと、マクロ般若とミクロ般若になるのです。マクロ般若というのは、大宇宙とは何かということです。地球存在とは何かということです。倍率が違うのです。物の見方の倍率が違うのです。

 例えば、皆様の肉体を百倍にしてしまうと、皆様の頭は砂漠に材木を置いたように見えるのです。人間の体をたった百倍にしただけで、すべてのものが全く違って見えるのです。もし人間の体を一万倍にしたら、すべての物質は消えてしまうのです。

 人間の体を現在の百分の一に縮小にしますと、見ているものが全然違ったものになるのです。

 人間の常識で見ていると、人間がいるように見えるのです。ところが、倍率を変えて見ますと、人間はいなくなるのです。全くいないのです。これは科学的に証明できるのです。

 物理学では物質は存在しない。ただ物理運動があると言います。ところが、物理運動というのは、実はあるようでない、ないようであるのです。人間が現在の常識で見ているものと全然違ったものになるのです。

 人間がいるのではない。ただ神があるだけのことです。神とは何か。皆様は日本人の下智によって神を考えていますから、神が全く分からないのです。

 日本の神は皆、紙屑のようなものです。八百万の神々は皆、紙屑のようなものです。だから、紙屑のような神の見方をやめなければ、本当の神は分からないのです。

 日本という国の建国の精神が、シャーマニズムというものです。困ったものです。いわゆる八百万の神々が集まって日本という国を造ったのです。だから、上智が全然分からない国になったのです。

 もし皆様が死なない自分を本当に発見したいと思うのなら、また、命とは何かということを本当に知りたいと思うなら、日本人であることを精神的にやめてしまうという度胸がいるのです。マクロ般若によって考えられる人間になって頂きたいのです。

 ミクロ上智というものは、皆様の五官の働きをいうのです。これを考えるのが、ミクロ上智です。

 人間の幸福は何かと言いますと、良い家に住んで、おいしいものを食べるというくらいのことです。これに何の価値があるのかということです。おいしいものを食べるとはどういうことなのか。おいしいものとは何なのか。良い服を着たいとはどういうことか。良い家に住みたいと考えている。住み心地というものは、人間の魂にとってどういう係わりを持つものか。これを人間は全然考えていないのです。ただ良い家に住みたいと考えているのです。

 こういう考え方で幸せになりたいと考えている。こういうものが日本民族です。こういう状態から抜け出してもらいたいのです。

 人間をミクロ上智で見るか、マクロ上智で見るかによって、人間存在、万物存在が全然違ったものになってしまうのです。そうすると、死なない自分がいることが分かるのです。こういう物の考え方を般若というのです。

 命という言葉を現世に生きているという立場で使うのと、命の本質の立場から使うのとでは、全然違ってくるのです。

 人間が人間に話しをするということは難しいのです。人間が人間から学ぶということの難しさがあるのです。

 私たちは人間どうしの止むを得ない隘路、ネックを打開したいと思うのです。

 人間は既に救われているのではないかという意見があるのです。実は救われているのです。ところが、救いという言葉をどのように理解するかということです。

 実際、今の人間は救われているのです。キリスト紀元という問題があるのです。キリスト紀元というのは不思議な紀元でありまして、各民族、各国家はそれぞれの民族、国家に従って、紀元を持っているのです。年号を持っているのです。

 年号を持っていない民族もあるかもしれませんが、文明国と言われていて、歴史的な背景を持っている国は、大なり小なり紀元や年号を持っているのです。持っていない民族の方が珍しいのです。

 現在では白人国家はキリスト紀元にほとんど統一されていますが、同じドイツ人とイタリア人では年号が違うはずです。

 それぞれの国の成り立ち、民族の成り立ち、時代のあり方が、その国の暦年算定に非常に大きい役割をしているのです。

 ところが、キリスト紀元は現在では世界中に共通する唯一の基準になっているのです。日本の大新聞は、二〇一六年と堂々と書いています。

 二〇一六年と書いて、かっこをして平成二十八年と書いているのです。キリスト紀元の二〇一六年は世界全体に通用している暦年算定方式になっているのです。

 なぜこういうことになっているのかということです。人間の歴史がキリスト紀元という考え方で統一されているという歴史的必然性は何であろうかということです。

 現代の文明は白人社会が中心になっています。文明の形式が白人文明になっているのです。従って、白人の見方が世界的に広がっているのです。

 白人の物の見方はキリスト教的な世界観であるから、その見方が暦年の基準になっていて、別に不思議ではないと言われるかもしれません。

 これは常識的な見方です。こういうことは常識としては言えるでしょう。そういうことが言えるとしても、キリスト教的な暦年算定の見方が、世界に共通する基準にならなければならないというのはどういうことなのか。

 また、白人文明の基礎にキリスト紀元がならねばならないとはどういうことなのか。政治、経済の仕組み、法律、運輸、交通システム、情報通信システムは、ほとんど白人社会の慣習です。

 資本主義社会構造を考え出したのは、ユダヤ人によるのです。ユダヤ民族というのは、アメリカ、ヨーロッパ、ロシア、南米などの国々に散らばっているのです。

 自分はアメリカ人だと言っても、ユダヤ人が多くいるのです。文明構造はほとんどユダヤ人による考案です。

 共産主義というのもユダヤ人が考え出したシステムです。ユダヤ人の思想はどこから来ているのかと言いますと、旧約聖書から来ているのです。新約聖書で、イエスはキリストではないと反対しているユダヤ人が、イエスの言行を書いているのです。

 とにかく、新約聖書でも旧約聖書でもユダヤ思想は聖書から出ているのです。聖書の神は日本の神とは全然違うのです。

 聖書の神と他の神とでは、生命観、存在感が全然違うのです。とにかく、キリスト紀元が世界の通念になっているという事実があるのです。

 日本では年代はその時の天皇による特性を持っています。日本の場合には天皇が変わるたびに年号が変わるのですが、年号というのはその国の文化文明の基本に非常に大きい関係を持っているのです。

 キリスト紀元というのは何を意味しているのか。イエスが死を破ったのです。復活した。ここからキリスト紀元が始まっているのです。

 イエスが歴史的に復活したという事実がキリスト紀元の根元になっているのです。これが神の約束的事実です。

 日本人は神の約束について全く縁がない国民です。世界的な史的観察をほとんどしていないのです。キリスト紀元くらいのことは知っていますけれど、キリスト紀元が何であるのか。イエスの復活とはどういうことなのかということが、全く分からないのです。

 大体、人間が死を破るということは有り得ないのです。人間が死を破ることができるはずがないのです。

 人間は死なねばならないに決まっているのです。ところが、死ななくてもいいという実例を歴史的にはっきり現わした人物が出てきたのです。これがイエス・キリストです。これが新しい紀元の土台になっているのです。

 キリスト紀元という問題は、人間が死ななくてもよい、死を破ったという事実を踏まえて成り立っているということを、まずご承知頂きたいのです。

 キリスト紀元を正確に、綿密に理解して頂ければ、皆様自身が死ななくてもいいものであることが分かるはずです。

 イエスが死を破った、復活したことについて、一体科学的にどういうことを意味するのか、哲学的にどういうことを意味するのか、人間の歴史、地球存在との関係について、どのように取り扱えばいいのかということを、キリスト教では正確に、綿密に説明することができないのです。

 キリスト教の人々は、イエスが復活したことは知っていますが、復活が私たちの現実の命と、具体的にどのような係わりがあるのかということを説明することができないのです。復活の実体をはっきり捉えていないのです。

 そこで、私は宗教ではないイエス・キリストの復活ということを言わなければならないのです。

 実は人間が死を破るということは、人間歴史の中の一番大きい問題です。人間は六千年の間、何をしていたのか。何もしていなかったのです。ただ死んでいっただけです。

 社会組織、国家構造を造りました。政治経済を続けてきました。古代社会、中世社会、近代社会というように、社会形態は変わりましたが、ただ人間が生きていて、死んだというだけのことです。

 何のために人間は生きてきたのか。命の実体を捉えていたのか。そういうことが全く分からずに、ただ人間社会を営んでいたのです。そうして、皆死んでしまったのです。六千年間の間、生まれて死んだ、生まれて死んだのです。恐らく、七百億人くらいの人が生まれて死んだと思われるのです。

 人間は全員死んでしまったのです。釈尊も死にました。孔子も死んでしまった。マホメットも死んでしまったのです。死んだ人間には墓がありますが、イエスには墓がないのです。全くないのです。

 イエス・キリストは有名すぎるほど有名ですが、墓がないのです。釈尊は死んだので、骨を納めている仏舎利が各地にあるのです。釈尊の骨の何十倍もの骨を納めた仏舎利が世界各地にあるのです。

 イエスの骨は何処にもありません。イエスは本当に復活したのか。復活しなかったのか。もしイエスが本当に復活したとしたら、人間の本質が全く違ったものになっているはずです。

 これは学問の対象として、最も大きく取り上げなければならないテーマです。人間がもし学問を学ぶとしたら、まず第一に取り上げなければならない問題は、イエス・キリストの復活です。

 ところが、これを全くしていない。これは学の怠慢と言わなければならないのです。

 学問とは何かと大学教授に問えば、人間を幸せにするものだと言うでしょう。人間の幸せとは何か。人間の本当の幸せは死ななくなることです。

 これは生への執着ではありません。生への執着とは全然違うのです。今生きている自分とは違った命を発見するのです。

 現在、生きている人間は迷妄と、執着と快楽しかありません。これ以外に人間の命はありません。

 これ以外に何かあるでしょうか。文明を進歩させるとか、社会を改造するとか言いますが、何のために社会を改造するのでしょうか。ただ迷いと快楽があるだけです。

 レーニンは「人間の幸福は欲望の満足である」と堂々と言っています。これが唯物史観の考え方です。

 社会を改造するとか、革命を断行すると言っても、人間自身の欲望を満足させるだけなのです。レーニンは人間の幸福は欲望の満足であると言うけれど、欲望は満足させるとだんだん太っていくのです。そうして、欲望がますます太るのです。

 欲望を満足させると、さらに、新しい欲望を求めることになるでしょう。これは皆さんが経験していることですから、分かるでしょう。一つの欲望を満足させると、また、次の欲望を満足させたくなるのです。

 欲望は満足させるたびに太っていくのです。結局、人間は欲望の奴隷になってしまうのです。

 こういう命は死ぬべき人間の命です。ところが、死なない命があることを、イエスがはっきり証明したのです。これは人間が勉強しなければならない一番大きいことです。経済や政治の問題よりも、法律や宗教の問題よりも大きい問題です。死なない命を掴まえることが一番大きい問題です。

 人間の命は死ななければならないのか。死ななくても良いものなのか。これに対して、はっきりした断定をくだすことが学の最も大きい責任です。これを現在の学問はしていないのです。

 私はある大学教授に「イエスの復活をなぜ学の対象にしないのか」と言ったのです。「これは重大な問題かもしれないが、ただの一例ですから取り上げることは難しい」という答えでした。

 ただの一例だから勉強しなければならないのです。ここにもある、あちらにもあるということなら、別に勉強しなくても自然に分かるのです。ただの一例であるからこそ、学の対象として勉強しなければならないのです。

 イエスはどうして死を破ったのか。彼はどうして死を破ることができたのか。死を破った後に、イエスはどのようになったのかということです。

 一体、人間の命は何であるのか。これを勉強するということが、本当の学と言えるのではないでしょうか。私が宗教ではないというのは、こういうことになるのです。

 本当に信頼できるもの、本当に信用できるものは死んでいく人間の頭からは出てこないのです。

 死んでいく人間の言うことは、皆何処か間違っているのです。信用できることは、イエスの復活しかないということです。私をこれを言っているのです。

 イエスが死を破ったという事実以外に信用できるものがあるのでしょうか。釈尊が言った一切空も信用できるものです。

 一切空は本当に信用できるものです。人間が考えていることは皆空だと言ったのです。これは事実です。人間の頭で考えていることは全部空です。これが五蘊皆空です。これは本当です。

 これは単なる学説ではありません。人間の意見でもありません。実体です。

 イエスが死を破って復活した。これも実体です。これは人間の意思ではありません。私の考えでもないのです。

 宗教ではない復活は事実です。イエス・キリストの復活は事実です。宗教ではない命の問題です。これを私たちは勉強しなければならないです。

 これを勉強することが、人間が生まれてきた一番大きい責任です。私はこう考えているのです。これに反対の方は私と一緒に勉強する必要はないのです。

 死を破ることが、この世に生まれてきた人間としての最大の責任です。できれば、私は皆様と一緒にイエスはどうして死を破ったのかということを勉強したいと思っています。イエスが死を破ったのなら、私たちにも破れるに決まっています。絶対に破れるに決まっています。

 イエスが生きていた状態を正確に、精密に点検すれば、イエスが死を破ったように、私たちにも死が破れるに決まっているのです。

 キリスト紀元に生きている人間は全部救われているのです。既に救われているのです。自分の意思や自分の考え方を持っていたらだめです。

 釈尊が言った五蘊皆空を正確に受け止めることができたら、イエスの復活をはっきり受け止めることができるのです。

 本当に信じられることは、人間が空であるということと、イエスが甦ったことの二つだけです。本当に命をかけて信用ができるものはこの二つのみです。

 イエスの他に本当に信頼できる人はいないのです。今までのどんな篤厚家、妙好人でも、死なない命、死なない自分を見い出してはいなかったのです。だから、皆死んでしまったのです。

 日蓮も親鸞も、道元も弘法大師、最澄、一休、空也も皆死んでしまったのです。彼らは現世的には偉大な人物だったかもしれませんが、皆死んでしまったのです。だから、人間歴史は空しいものなのです。

 人間の歴史は空しいのです。そこで、キリスト紀元をしっかり勉強しますと、人間歴史に対する新しい見方が生まれてくるのです。これがいわゆる般若、即ち上智になるのです。

 究竟涅槃ということが、イエスを受け止めるために非常に重大な意味を持っているのです。イエスの復活を受け止める前に、涅槃を承知する必要があるのです。

 そこで、私は涅槃と復活をお話ししているのです。これが宗教ではないという理由です。もしかすると、私が言うことだけが本当の宗教であるかもしれないのです。

 人間が現在の状態をそのまま認めてしまうと、上智が分からなくなるのです。下智になってしまうのです。キリスト教では自分が救われるという言葉を使いますが、人間の状態が良くなることではないのです。そういうことも含んでいることもありますが、含まれていない場合もあるのです。

 人間の命は自分のものではないという所から出発しなければならないのです。

 私たちは自分で生まれたいと思った訳ではありません。命は自分自身のものではないのです。自分の所有物ではないのです。もし自分の所有物であるなら、死にたくないと思ったら死ななくても良い方法を自分で考えられるはずです。

 ところが、それができないのです。できないから、命は自分のものではないことはすぐに分かるのです。自分の顔の形を自由に変えることはできませんし、自分の身長を自由に伸ばしたり、縮めたりすることはできないのです。体は自分のものではない証拠です。

 人間は自分の命ではないのに、自分が生きているという意識を持つことができるのです。人間は生命意識を持つことができるのです。

 人間はどういう訳で生命意識を持つことができるのだろうか。自分で生まれたいと思って生まれた訳ではないのに、人間は生命意識を持っている。命という言葉を使うこともできるし、また、自分が生きているという認識を持つこともできる。これはどういうことなのか。

 人間は自我意識を持っていますが、自我は英語ではエゴです。エゴ(ego)と私(I)は違います。エゴは自我です。アイは私です。

 エゴはエゴイズムです。自我主義であって、自我を中心としている意識です。我利主義ではないのです。自我主義です。

 自我という意識がどうして人間に起こったのか。「自我が人間を不幸にしている。しかし、自我がどうして人間にあるのか説明できない」とハイデッガーは言っています。

 ヨーロッパの哲学界の大御所と言われたハイデッガーでも自我が分からなかったのです。しかし、自我というものが人間の中に牢固としてあるのです。

 大体、自我が宇宙にあるのがおかしいのです。どうして、自我が宇宙に存在するのか。これはとても大きいテーマになるのです。 

 理屈を言う不思議な人間が、どうして出てきたのか。これを何処から考えたらいいのか。実は人間存在は釈尊がいうように空なるものです。空なる人間がどうして地球にいるのか。

 人間文明は万嶽連山のように連なる大連峰みたいなものです。これは豪壮な歴史の殿堂です。人間文明というすばらしい大山脈があるように見えるだけであって、実は空っぽです。釈尊がいうように一切空なのです。

 人間は何のために生きていたのか。また、何のために生きているのか。人間自身が分からないのです。

 文明とは何か。人間生活を豊かにすると言います。人間の生活を豊かにして何の足しになるのかということです。ただ人間は死んで行くだけです。お金がないよりはあったほうがいいのではないかという程度のものであって、実はあやふやなものです。

 人間に生きるように仕向けているものがあるのです。生きるように仕向けている無形の力があるのです。皆様の心臓が動いているのは、宇宙のエネルギーによるのです。地球が自転公転しているエネルギーが、皆様の心臓を動かしているのです。

 皆様がどう考えても、自分の心臓を自分で動かしているのではないのです。宇宙のエネルギーが動かしているのです。

 皆様は生きるべく仕向けられているのです。人間を生きるように仕向けている力があるのです。この力はパワー(power)ではありません。英語ではマイティ(mighty)という力です。

 オールマイティー(all mighty)という言葉があります。神がアブラハムに「私は全能の神である」と言っています(創世記17・1)。

 マイティとは何か。パワーなら分かりやすいのですが、マイティは分かりにくいのです。

 マイティとは威勢、威力です。天皇の御陵威というものがマイティです。人間の心臓が動いているのは、マイティの作用です。

 マイティの作用とは何か。皆様にマイティの作用が分かるとしたら、仕向けている人格が分かるのです。

 人間は人格的に生かされているのです。花も生かされていますが、人格的に生かされているとは言えないのです。人間は人格的に生きているとはっきり言えるのです。利害得失を考え、善悪を批判することができるのです。

 人間を人格的に生かしているもの、そのように仕向けているものがあるのです。

 人間は自分で生まれたいと思って生まれてきたのではありません。自分で生まれてきたのではないとすると、私たちが今生きているのは、その原因がなければならないのです。

 般若心経では色即是空、空即是色と言っています。色即是空は大体分かりますが、空即是色が分からないのです。空なるものがどうして色になるのか。

 色即是空は分かります。花が咲いて、やがて枯れていきます。これが色即是空です。しかし、どうして花が花になっているのか。このことが仏教では説明ができないのです。

 釈尊は空即是色が分からなかったのです。空は分かったのです。人間の状態、万物の状態が空であることは分かったけれど、人間存在の根源を捉えないままで、生老病死を考えたのです。

 釈尊は生老病死が空であることが分かったのです。これは正しい悟りです。今の人間が生きていることは空です。死ぬということも空です。生きていることが空ですから、死ぬことは空に決まっています。

 人間が空だと言っても、今人間が生きている状態があるのです。この説明ができないのです。生まれたことが空であり、死ぬことが空であっても、今現在生きているという事実があるのです。釈尊はこの説明ができなかったのです。

 そこで、生きるように仕向けている力を考えなければならないのです。私たちが生きるように仕向けている力を認識するとしたら、仕向けているものに向かって、仕合わせていけばいいのです。これが人間の幸せです。

 私たちを生かすように仕向けている人格に対して、私たちは仕合わせたらいいのです。仕合わせたら人間は本当の幸福が分かるのです。

 天の心で生きるのです。天の心を自分の心にして、天と一緒に生きるとしたら、死なないことになるのです。肉体は滅びていきます。肉体は消耗品ですから滅びますが、これは死ぬことではないのです。

 死ぬというのは生理的な問題ではなくて、心理的な問題です。死ぬか生きるかということは、心理的な問題です。

 人間が心理的に仕合わせることができたら、皆様の命の本質が仕合わせになるのです。

 仕合わせと幸いとは意味が違います。幸いというのは偶然的なことをいうのです。例えば、バスに乗りたいと思ってバス停に行ったら、すぐにバスが来た。これを幸いと言います。宝くじを買ったら、百万円が当たった。これを幸いというのです。

 ところが、仕合わせというのは、永遠につながる問題になるのです。そこで、皆様が仕合わせになりたいと思うなら、皆様に生きるべく仕向けているものに仕合わせたらいいのです。

 これは難行苦行とは違います。滝に打たれる必要もないし、火の上を歩く必要もないのです。宗教で滝に打たれる行をしている人がいます。なぜそういうことをするのかと言いますと、行をすることによって、自分の常識を空じることができるからです。

 断食をしたり、年中念仏を唱えていると、自分の妄念が消えてしまうのです。自我的な意識がうすくなっていくのです。ある場合には漂霊現象が起きるのです。顕在意識を弱くする効果があるのです。これは良い場合と悪い場合がありますが、とにかくそういう効果があるのです。

 釈尊は七年間、死ぬほど厳しい行をしたのですが、分からなかったのです。これをしていると今までなかったような妄想が起きて来るのです。こういうものを悟りだと考え違いをしてしまう場合があるのです。これは一種のシャーマニズムに通じるようなものです。これは良い場合になる時と悪い場合になる時とがあるのです。

 問題は死とは何かということです。死とは生理的な問題ではなくて、心理的な問題です。このことをよく考えて頂きたいのです。これが般若心経の五蘊皆空に非常に大きい関係を持っているのです。

 人間の常識では、肉体の死が人間の死だと考えているのです。そうではないのです。肉体が死ぬと考えているその心が、もう死んでいるのです。

 死ぬか生きるかという問題は、肉体ではなくて精神の問題です。精神のあり方を本質的に転換することができるとしたら、私たちは死なない命を発見することは十分にできるのです。

​(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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