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​死なない命の勉強会

​ 我死に勝てり(上)

​   梶原和義

                            女性に学ぶ

 

 聖書に次のようにあります。

 「キリストの言葉をあなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互いに教え、また、訓戒し、詩と賛美と霊の歌とによって、感謝して心から神を誉めたたえなさい。

 そして、あなたのすることはすべて、言葉とわざによることを問わず、いっさい主イエスの名によってなし、彼によって父なる神に感謝しなさい」(コロサイ人への手紙3・16、17)。

 人間が生きているとすべてが言葉になっているのです。人間は人格的に、また、理性的に生きていますが、すること成すことがすべて言葉になっているのです。

 言葉はロゴスの場合と、レーマの場合とがありますが、原則的に言えばロゴスです。

 事がらはすべて宇宙的な事がらを意味するものであって、良い事をしても悪い事をしても、また、肉の思いで生きていても、霊の思いで生きていても、すべて事がらです。その事がらは肉の事がらになるか、霊の事がらになるかどちらかです。人間の事がらはすべて言葉が実を結んで事がらになるのです。

 人間は理性が人格的に生きているのです。理性の本質がロゴスから出てきているのです。ロゴスから出てきている人間の発想が人格的に行動している。人格的に動いているから、ロゴス的になるに決まっているのです。

 人間の行動は良い意味でも悪い意味でも、ロゴス的になるに決まっているのです。ロゴス的というのは記憶的という意味です。神に賛成する記憶か、反対する記憶になるか、どちらかです。

 従って、皆様の命が今日、神的に価値があるものであったか、無価値であったかということです。そのどちらかになっていたに決まっているのです。

 人間存在は自分が存在しているのではないのです。ロゴス的な人格が人間という形で存在しているのです。これが人間です。

 自分自身はイエスと同質のものであるという自覚を持たずに行動すれば、固有名詞の人間の行動になるのです。イエスの行動にはならないのです。

 イエスの行動にならない者を神は一切認めません。なぜかと言いますと、裁きの中心人格がイエスだからです。イエスは救い主ですが、同時に、裁き主をも意味するのです。

 だから、イエスと同じ感覚で行動した場合、イエスとして受け止められるのです。これは非常にレベルが低いものであったとしても、幼稚な感覚であっても、自分はイエスだという思いで行動した場合は、イエス自身の行動として受け取られるのです。そうでない場合は、どんな学識があっても、どんなに地位や名誉があっても、一切否定されるのです。

 キリストの言葉を豊かに心にとめて、キリストの言葉に基づいて行動していないということになれば、すべてキリストに敵する結果になるのです。

 日本人はキリストが何であるか分からないのです。キリストは太陽系宇宙における絶対的な審判者です。また、救い主であり、裁き主でもあるのです。

 救うと言っても、裁くと言っても、キリストという言葉の他には何も無いのです。救うこともキリストですし、裁くこともキリストです。キリストということを理解しなくては、善も悪も分からないのです。

 キリストに添うことが善です。キリストに反することが悪です。だから、キリストの言葉を豊かに心に置くことを実行したら、自分自身の構造になるのです。

 人間という人格者がこの世に来ているということ自体が、イエスがキリストとせられたことの大眼目です。これが新約聖書の結論になるのです。

 皆様が生きていることの本質がそのままイエスを意味するのです。皆様の客観的な存在がイエスです。主観的には固有名詞の人間です。

 主観的に自分を見るか、客観的に自分を見るかということだけです。客観的に冷静に自分を見ることができれば、固有名詞の自分から出ることは簡単にできるのです。

 イエスを信じるというのは当たり前のことです。信じても信じなくても、皆様が客観的に生きている姿がイエスです。これを自覚したらいいということになるのです。

 パウロは、「あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神の内に隠されている」と言っています(コロサイ人への手紙3・3)。このことを良く知って頂きたいのです。

 皆様が信じても信じなくても、皆様の命はキリストと共に神の内に隠れているのです。だから、キリストが分からない人は自分の命の大原則が全然分かっていない人です。

 日本人はほとんど全部の人がだめです。日本人の先輩にはキリシタン大名と言われる人がいました。高山右近、大友義鎮、大村純忠、有馬晴信、小西行長、黒田考高、蒲生氏郷、筒井定次などです。

 細川ガラシャも有名なキリシタンでした。明智光秀の娘で美貌の誉れが高く、聡明な人であったようです。

 しかし、彼らはまともにキリストを信じていなかったのです。彼らはキリシタンバテレンを信じていたのです。キリシタンバテレンとキリストとは違うのです。もし彼らが本当にキリストを信じていたのなら、生きることがキリストと共に神の内に隠れているということが分かっていたはずです。

 彼らはイエス・キリストとキリシタンバテレンとを間違えていたのです。ばかなものを信じていたのです。細川ガラシャも本当のキリストを信じていたになら、関ヶ原の合戦で非業の死をとげることはなかったのです。

 全く日本人は困った民族です。キリストを信じないで、宗教観念によってバテレンを信じたために、日本に非常な害悪を及ぼしたのです。こういう人々が皆様の大先輩です。

 皆様はこういう人々の足跡を踏まないで、もっと冷静に、冷徹に、聖書を見て頂きたいのです。自分という人間の考え方を突き放して見て下さい。

 イエスはどう生きていたのか。カルマを圧倒するため、カルマに勝つために、一応カルマの下にあるような状態を取らされたのです。まずカルマの中へ入り込まなければ、カルマを否定することはできません。

 イエスは肉体を持ってこの世に生まれるという、カルマの状態を甘んじて受けたのです。カルマの状態を受けることによって、カルマに勝ったのです。

 イエスは肉体を持って生まれたので、カルマの状態にあったのです。しかし、イエスは信仰によって歩んでいたのです。

 肉の思いで肉体的に生きていることがカルマです。これが死です。肉体的に生きていても、肉の思いによって生きなければ、カルマに勝てるのです。これが信仰によって歩むということです。

 信仰によって勝ちを得るのです。イエスはこれを実行したのです。イエスは悪魔が主であるこの世に出てきて、悪魔を完全にやっつけたのです。

 イエスはカルマの世界へ出てきて、カルマを乗り越えてしまったのです。私たちもこれをしたらいいのです。イエスの言葉をはっきり認識して、イエス・キリストの命をそのまま知ることです。

 現在、皆様が生きているのは、客観的にはイエスが生きていたのと同じなのです。皆様がこれをどのように受け取っているのかということが問題です。これを受け取って生きていけば、イエスと同じことになるのです。

 肉体的に生きていても、肉において生きなければいいのです。そうしたら、肉に勝つことはできるのです。

 パウロは言っています。「あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちはキリストと共に神の内に隠れている」。これをよく勉強したらいいのです。

 キリストの言葉を豊かに心に貯えて、すること成すことにおいてキリストを崇めるのです。義と聖とによって造られた新しい人を着るのです。そうして、キリストを賛美するような生活をして頂きたいのです。

 思想の勉強はいくらしてもだめです。聖書の勉強はしなければだめですが、聖書の勉強ばかりをしていてもだめです。キリスト教はここが間違っているのです。

 キリスト教が聖書の勉強をしていながら、なぜ宗教になってしまうのかと言いますと、聖書に対する見方が間違っているからです。

 内村鑑三氏は思想的に理論的に見ていたのです。この人が書いた本を読んでみますと、十円切手になるような値打ちがあることは書いています。しかし、百円切手の値打ちはありません。

 内村鑑三氏の聖書の理屈は、どこまでも思想的であって、信仰的ではないのです。だから、水から生まれるということが分からなかったのです。新しく生まれるということが分かっていなかった。新しく生まれて新しい命を持つことを、内村鑑三氏は経験していなかったのです。

 イエスは、「悔い改めて福音を信じよ」と言っています。パウロは「心を替えて新しくせよ」と言っています(ローマ人への手紙12・2)。この箇所を英訳ではby the removing of your mindになっています。精神を新しくしなさいとなっているのです。精神を全く入れ替えるのです。ちょっと修正するのとは違います。修正するだけではだめです。全く入れ直してしまうのです。

 精神を入れ直すとはどうすることか。これがキリスト教では分からないのです。だから、精神を入れ直すということが実行できないのです。

 心を更えて新にするというのは、方向転換することではないのです。右に向いているものを左に向けるのとは違うのです。

 心そのものを入れ替えてしまうのです。今の心をやめてしまって、別の心を持ってくるのです。これは意識の問題になるのです。私はこれを経験しましたので分かるのです。これがキリスト教との違いです。内村鑑三氏との違いです。

 私は水から生まれたのです。霊から生まれたのです。水から生まれて霊から生まれるという新しい命を経験すると、初めて意識の転換ができるのです。これを実行して頂きたいのです。

 精神を更えてと言っていますが、これでもだめです。精神構造の根底を引っ繰り返してしまうのです。だから、意識の問題になるのです。

 例えば、善と思っていたものが、悪と意識するようになるのです。意識の転換を皆様がしなければ、キリストを掴まえることはできません。新しい命を掴まえることはできません。

 聖書を三十年勉強しても、四十年勉強しても、この世に生まれた自分が勉強していたのでは、結局宗教になるだけです。

 水から新しく生まれるのです。霊から新しく生まれるのです。そうして、神の国へ入ってしまうのです。これを実行しなければいけないのです。

 思想の勉強はいくらしてもだめです。イエスの精神状態はどのようであったのかということの実体を掴まえないで、聖書の解釈ばかりしている。これは理屈の勉強です。これではだめです。

 皆様が飲んだり食べたりしている現実生活の実体が意識です。聖書の思想を勉強しながら、これに合わせてキリストの言葉に一致するように自分の意識を変えていくのです。

 心を更えて新にするとはこういうことなのです。嫌だと思っていた意識を好きだと思うのです。分からないと思っていた意識を分かったというように変えるのです。そうすると、分かってくるのです。

 神と人間の霊魂の関係はなかなか分からないものですが、これを分かったという思いにするのです。そうすると、分かってくるのです。神と人との関係はこういうものです。

 森羅万象は神自身が造ったものです。神自身のあり方に基づいて造ったものです。私たちは牛肉と豚肉の違いが分かります。神が造った豚肉と、神が造った牛肉とを食べ分けられるのです。

 これと同じように、皆様は神そのものを食べないと神が分かりません。神というのは食べ物です。こういう言い方ができるのは私たちだけです。

 キリスト教ではこういう大胆不敵なことは言いません。私は神を食べているのです。神の御霊を食べているのです。そうすると、神の味が分かります。

 神というのはただ心で信じているだけではだめです。心で信じるというのは精神構造で受け止めるのですが、人間の精神構造というのは、現世に生まれてからの働きになるのです。

 ところが、人間の人格構造の中心をなすものは、生まれる前の本質です。皆様の五官の本性は生まれる前の本性です。これが食べることです。見ることです。

 

 聖書に、「神を見た者はまだ一人もいない。ただ父のふところにいる一人子なる神だけが、神を現わしたものである」とあります(ヨハネによる福音書1・18)。

 

 私たちは五官によって食べたり見たりしています。このように生まれる前の感覚で神を食べるのです。これを信じるというのです。本当の信じ方とはこういうものです。

 現世の信じ方ではだめです。現世の信じ方というのは、現世での人間の精神構造の範囲で言っているのです。これは哲学や心理学の範囲の問題になるのです。

 私が言っているのは哲学や心理学の範囲の問題ではありません。生まれる前の人間の生命学の問題です。生まれる前の感覚で神をしっかりと食べてしまうのです。

 「悔い改めて福音を信ぜよ」というのは、命をかけて神を掴まえなさいということです。これは難しいことではありません。

 これをするために、神は女を掴まえることを許しているのです。男の場合には、女を掴まえる感覚が神を掴まえる感覚とよく似ているのです。掴まえられる女は災難かもしれません。

 女が男の犠牲になっているのです。男は女を犠牲にしているのですから、これを参考にして神を食べるのです。

 未だかつて知らない経験をするのです。人間はこの世に生まれてから色々なことをしています。良いことも悪いこともしてきましたが、これが全部役に立つのです。現世でしたことを総動員して神を掴まえるのです。自分自身の人生経験の底の底にあるものを掴まえるのです。こういう大胆不敵な考え方をして頂きたいのです。

 エバはへびに言われて善悪を知る木の実を見た所、見るにうるわしく、食べるによく、賢くなるに好ましいと思えたのです(創世記3・1~6)。賢くなるに好ましいと思われたということが大変悪いのです。

 賢くなろうとエバが考えたことが、エバにとって決定的な間違いの原因になったのです。エバは善悪を知る木の実を食べるなという訓戒を受けていなかったのです。食べてはいけないと言われたのは、アダムです。エバはこのことをアダムから聞いてはいたでしょう。しかし、食べたら必ず死ぬということを神から言われていなかったのです。これがへびのつけ所だったのです。

 エバが神から食べるなと言われていなかったという弱点を、へびがついたのです。そこで、エバは簡単に騙されたのです。エバはへびに騙されたのです。エバは神から掟を与えられていなかったので、善悪の木の実に対する警戒心が弱かったのです。これをへびがついたのです。

 エバは騙されて食べたのです。自分で好んで食べたのではないのです。これを見てアダムも食べたのです。そして、死んでしまったのです。

 こういう点から考えて、女は罪を犯したとは言えないのです。罪を犯したと言えるのは男です。

 女性は魂の自覚が無いのです。女性には魂が無いのです。なぜかと言いますと、アダムは神から命の息を吹き込まれた。これは魂を与えられたということです。女は神から直接に命の息を吹き込まれてはいない。だから、女は魂を持っていないことになるのです。

 女の人はこの世の命は持っていますけれど、魂は持っていないのです。

 男は魂を持っています。魂が男性自身です。ところが、それが死んでいるのです。女は魂を持っていないけれど、魂が生き返るべき優しさを持っているのです。

 男は魂は死んでいるけれども生き返らなければならないという精神状態だけは持っているのです。これが難しい所です。

 そこで、男と女が一つにならなければいけないのです。これがなかなか難しいのです。これはキリスト教ではとても分からない所です。

 回教も、仏教もヒンズー教も、ユダヤ教もあらゆる宗教は、男と女の問題について説明することはできません。全世界に二十億人の人がキリスト教を信じていますけれど、男と女の本質について分かっている人は一人もいないのです。

 太陽系宇宙はどういうものかと言いますと、その実質は空間ではないのです。空間でもないし、宇宙でもないのです。一つの世代です。

 太陽系宇宙は神の国を実現するための世代であって、太陽系宇宙そのものが固定的に存在するものではないのです。太陽系宇宙それ自体が言(ことば)です。

 森羅万象は言です。電気も言の働きです。ところが、人間は言の働きの意味が全然分からないのです。物質がなぜあるのかということは、電気の働きが物質になっているという概念的な説明はできますが、本質的な説明はできません。

 現在の人間の学問は底が浅い薄っぺらなものです。現在の学問程度のものでは太陽系宇宙の実体は分からないのです。

 電気はなぜあるのか。電気がなぜ電気であるのか。電気の本質はどこから出ているのか。電気の本体は何であるのか。電気の扱いはできますが、電気の本質の説明はできません。電気は言です。神の言とも言えるようなロゴス性を持っているのです。

 イエスは電気が分かっていました。彼自身の本質が言であったので、イエスが十字架につけられるということが、言に大きな欠陥が生じるのではないかというような恐れを感じたのでしょう。

 今日の概念で言えば、科学の原理そのものがイエスの実体であったのです。これが十字架につけられるとしたら、宇宙構造がどのようになるのかについて、責任を自覚しなければならないのは当然です。このことについてイエスは神に述べたのです。この疑問を神に問いかけたのです。

 これが、「わが父よ、もしできることでしたら、どうか、この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の思いのままではなく、御心のままになさって下さい」という言葉になって現われたのです(マタイによる福音書26・39)。

 これには今の私たちにはとても伺いしれない深い問題があるのです。とても触れることができないものがあるのです。これは太陽系宇宙に係わる大問題です。

 例えば、時間とは何であるのか。空間とは何であるのか。今の人間には説明ができないのです。現在の科学では時間があることの証明ができないのです。空間があることの証明もできません。

 空間の測定はできます。時間の測定もできます。しかし、時間の本質は何であるのか、空間の本質は何かの説明はできないのです。

 イエスはこの説明ができたのです。時間、空間は神の言です。

 三位一体の一人であるイエスが、父なる神と重要な問答をしなければならないことになったのです。イエスがこの世を去るとしたら、その宇宙は一体どうなるのかについて、自分が去った後に、時間、空間がどうなるのかついて、神に問いかけたのは当然のことです。

 それに対して、神は答えなかったのです。する必要がなかったからでしょう。イエス自身が復活したら分かるのですから、神から見れば答える必要はなかったのです。イエスから見たら、答えてもらいたいと思ったのです。そこで、イエスは泣いて祈ったのです。これがゲッセマネの祈りという悲痛な祈りだったのです。イエスは跪いて祈ったのですが、ここへ再臨のイエスが立つのです。これが私たちが祈っているイスラエルの回復の祈りと重大な関係があるのです。

 今ゲッセマネをユダヤ人やアラブ人が占領していますが、ユダヤ人やアラブ人が悔い改めるために、熱烈な祈りをしなければならないのです。世界中でこの祈りをしているのは私たちだけです。皆様もこれをして下さい。

 キリストが再臨しますと、世界の歴史が一変してしまいます。これを目的にして私たちは聖書の勉強をしているのです。

 これは宗教の話ではありません。世界歴史が一変するという雄大な高大な思想です。イエス・キリストが持っていた同じ目的で聖書の勉強をしているのです。

 ユダヤ人は文明という仰々しいものによって人間を徹底的に洗脳してしまったのです。学校教育という名前で洗脳したのです。その結果、皆様の情操が完全に働かなくなったのです。皆様が主知主義の勉強ばかりしたために、情操が円満に働かなくなってしまったのです。

 情操的に非常に大きい欠陥を持つようになったのです。情操的な直感感情がなくなったのです。だから、神の地球計画という雄大な思想を考えることができなくなったのです。

 現在の政治、経済という小さなことしか分からなくなったのです。人間の質が非常に悪くなったということを、よく理解して頂きたいのです。

 人間の頭が良くなったのとは違います。学問は情報ばかりです。政治、経済、法律は生活情報ばかりです。生命的真理は一つもありません。人間の頭が固められてしまったのです。

 皆様の情操がだんだん枯渇してしまったのです。これが教育の大欠点です。恐ろしい欠陥を造っているのです。欠陥人間ばかりにしてしまった。そういう文明の基本的な欠陥を認識して頂きたいのです。

 せめて私たちだけでも、本当のことを考えなければいけないと思うのです。

 男と女の関係が間違っている。全く間違っているのです。女の人は罪人ではありません。だから、神に帰らなければならないという直感性は分かっているのです。しかし、論理性が分からない。神に帰るにはどのような段取り、どのような段階を経て帰ればいいのかが全く分からない。

 魂がないからそのような論理を見つけることができないのです。優しさはあるけれど、道程が分からない。

 男は頭はあるけれど、文明によって死んでしまっているのです。神に帰るということは、男は現在の状態ではほとんど不可能になっているのです。

 悔い改めるのです。死んでしまうという気持ちで女の本質をじっと見極めるのです。女の優しさ、美しさというものが、何であるのかということをじっと考えるのです。

 セックスの欲望という愚かな考えを持たないで、女の本質をじっと勉強するのです。これから始めるのが一番正確なやり方です。

 女は直感的に神に帰らなければならないことが分かっているのです。今の男の考えが根本的に間違っていることを、女は分かっているのです。しかし、どうしたらいいのか女自身に分からないのです。男が間違っていることだけは分かっているのです。

 そこで、男は女が持っている素朴さの価値をよくよく勉強すると、素朴になれるのです。これが文明の害毒から逃れる唯一の方法です。文明は恐ろしい害毒を持っているのです。これが白人主義です。

 白人主義の恐ろしい害毒から逃れる方法は、素朴になるしかないのです。

 女の素朴さを見る感覚で奥さんからじっくり学んで、その気持ちで聖書を勉強するように考えるのです。

 夫婦の方は夫婦が揃って勉強しなければ、聖書の本当の勉強はできません。

 ユダヤ人は大体、女を問題にしていません。女を問題にしないというのは、女は魂を持っていないので、女に教えるということがあまり必要ではないと考えているのです。女を学ぶことは必要ですが、ユダヤ教は女を学ぶことの知恵がまだ開かれていないのです。聖書を円満に読んでいないからです。聖書を完全に消化していないので、女の本質が全然分からないのです。

 女の優しさ、美しさは男の骨の骨になるためだということが分かっていないのです。女の命は女自身ものではないのです。男の骨の骨です。

 男が目を覚まさなければ、女を消化することはできません。女を欲望の対象と考えることは、根本から間違っているのです。

 女の人格を学ぶのです。骨である女を学ぶのです。そうすると、男自身に欠けているもの、男が持っていない重大なポイントが分かってくるのです。神に帰ることができるのです。

 ユダヤ人は男ばかりを教えています。モーセの掟は男に対するものです。女は男の持ち物としてしか考えていないのです。個人の持ち物と考えていた。家の財産の一つのように考えているのです。これがユダヤ教の非常に悪い点です。

 旧約聖書では女を重視していません。私が考えているのは新約聖書における女のことを言っているのです。新約聖書における女の値打ちが骨の骨です。

 しかし、新約聖書では女が骨の骨であるとはっきり言っている箇所がありません。創世記の初めにはあります。

 女が持っている本質が神に帰るべきすばらしい本性を持っているという考えは、旧約聖書には出ていません。新約聖書において、男がイエス・キリストと共に十字架につけられたということがはっきり分かって、初めて女の優しさを受け止めることができるのです。

 男の根性を持っている人間は、女の優しさを骨の骨として受け止めるということは、とてもできません。従って、奥さんと一緒に聖書の勉強を十分にするということは、旧約的な信仰ではできないのです。

 ユダヤ人は女を相手にしていない。この習慣がパウロにあったのです。パウロはユダヤ人ですから、女を相手にするなということを彼の手紙の中で書いているのです。これはあまり取り上げないほうがいいでしょう。

 異邦人の立場から聖書を読んでいくとしたら、私はキリストと共に十字架につけられた。肉にある私たちはイエスと一緒に死んでしまったということを大前提として勉強して頂きたいと思います。女を軽蔑するという考えは持ってはならないということを強く言いたいと思います。

 私はキリストと共に十字架につけられた。もはや私は生きていない。キリストが私において生きていると感覚を持って頂きたいと思います。

 「女は男の栄光だ」と書いています(コリント人への第一の手紙11・7)。キリストは神の栄光である。キリストの栄光は男である。男の栄光は女であると書いているのです。女は一番すばらしいものになるのです。こういうこともパウロは書いているのです。だから、パウロは女を軽蔑していたのではないのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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