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                       見える世界と見えない世界

 

 皆様が現在生きている状態を仏教的に言いますと、生死(しょうじ)ということになるのです。

 曹洞宗の開祖道元の著作「正法眼蔵」の中に、「生を明らめ死を明らむるは、仏家一大事の因縁なり。生死の中に仏あれば生死なし」という言葉があります。

 人間が現在生きているということは、生死(しょうじ)しているのです。ただ生きているだけでなくて、生きていることの裏には死んでいくということが張り付いているのです。

 死ということを考えなければ、命の説明ができなくなるのです。紙の表の説明をしようと思えば、裏があると言わなければならないのです。紙の裏のことを詳しく言おうと思えば、どうしても表を言わなければならないのです。

 道元禅師によれば、生死ということが人間が生きている意味です。人間が生きているのは生死していることなのです。

 「生死の中に仏あれば生死なし」と言っていますが、人間が生活していることの中に本当の悟りがあれば、人間の生活の厭わしさというものは消えてしまうものだと言っているのです。

 生活の中に悟りがあれば、生活の厭わしさは消えてしまうと言っているのです。死ぬということの嫌らしさはなくなってしまうというのです。

 死ぬという言葉が嫌な方は、むしろ進んで生死という言葉を用いて頂きたいのです。

 人間は生死しているのです。生きているのではありません。生があると同時に死があるのです。私たちはこういう状態で生きているのです。

 ところが、現代文明は生だけを考えている。死ぬということを全く考えようとしていないのです。昔の日本人は人間が生きていることが生死であると考えたのです。

 生活していることの中に、自ずから死んでいくことが含まれていることを当たり前のように考えていたのです。現代人はそれを考えようとしないのです。これが白人文明の非常に悪い点です。

 現代の学校教育というのは、生きていることだけしか教えないのです。死んでいくということを全く教えないのです。これは人生の真の姿を歪めているのです。人生の本当の姿を曲げているのです。

 中学校も高校、大学も、死ぬということを全く教えないのです。これが人間の本質を歪めているのです。これが文部科学省の方針なのです。

 知らない間に、人間の本質がだんだん歪められているということを、よく考えて頂きたいのです。

 皆様の本質は歪められているのです。現代人であるということにおいて、現代の日本人であるということにおいて、正しい人生観が奪われてしまっているのです。

 生死を考えなくなっているのです。今の日本人は生活のことしか考えません。これは人間の堕落です。大変な間違いです。根本から間違っているのです。

 人間は死ぬものです。はっきり言いますと、死ぬために生きているのです。人間は死ぬのです。生の問題よりも、死の問題を考えなければならないのです。死の問題を真面目に考えると、死ななくなるのです。

 だから、死を考えなければならないのです。死がなくなるために、死を考えるのです。イエスはこれを実行したのです。イエスは死ぬ必要がなくなるために、死を真正面からとことん考えたのです。これが聖書の本当の読み方です。

 実は、釈尊もこれをしているのです。釈尊は空ということを言いました。現実に生きている人間が空であることを考えますと、死がなくなってしまうのです。

 人間が空であれば、死ぬ必要はなくなってしまうのです。釈尊もイエスも、死の問題を真正面から考えたのです。現代教育はこれをしていません。生活のことしか教えないのです。

 生活は生命ではないのです。現代文明には本当の生命という考え方はないのです。生活しか分からないのです。経済のことしか分からないのです。生命の事が全く分からないのです。

 現在の人生観の根本概念が間違っているのです。白人の真似をしているために、日本本来の正義という考え方はなくなってしまったのです。私は本来、日本人が持っていた命についての考え方を強調したいのです。

 日本人は本来、生と死を一つにして考えていたのです。私はそれを強調しているのです。実は、生と死は同じものです。生の内に死がある。死の内に生がある。これが日本人の命に対する正しい考え方なのです。皆様にはこういう考えに基づいて、命を真面目に考えて頂きたいのです。

 旧約聖書の創世記をみますと、「初めに神は天と地とを創造された」と書いています。ところが、何のために天地を造ったのかということを一言も説明していません。

 初めに神は天と地を創造されたということは、はっきり書いています。ところが、何のために造ったのか、これが書いていないのです。キリスト教ではこれが分からないのです。

 キリスト教という宗教は聖書を正しく読むことができない宗教です。日本のキリスト教の人々は聖書を信じていますが、それは白人社会から渡ってきた聖書の見方を信じているだけのことです。本当の聖書が全然分かっていないのです。

 その証拠に、初めに天地を造ったと書いていますけれど、何のために神が天地を造ったのかということが、キリスト教の人々には分からないのです。

 神が目的なしに、天地や人類を造るはずがないのです。ところが、天地創造の神の大目的が全然分からないままで、聖書を読んで、キリスト教を信じているのです。こういうばかげたものがキリスト教なのです。

 人間は何のために生きているのでしょうか。何のために皆様の命があるのでしょうか。これが分かっていないのです。何のために人間が造られたのでしょうか。救われて天国へ行くと言いますが、何のために天国へ行くのでしょうか。

 このように、宗教は目的論的なものが全く分かっていないのです。これは命が分からないままで、宗教のお題目として神を信じているから、こういうことになるのです。

 イエス・キリストによって罪が贖われて天国へ行くという、全くばかなことを信じているのです。この言い方は間違っていませんが、目的論が全然分からないままの状態で、聖書の言葉を鵜呑みにしているのです。

 キリスト教の人々は、死んだら天国へ行くというお題目を鵜呑みにしているのです。だから、聖書六十六巻がばかみたいなものになっているのです。

 初めに、神は天と地とを造られたと書いてあるけれど、この意味が全然分かっていないのです。神は何のために天と地とを造ったのか、分かっていないのです。

 皆様は何のために生きているのでしょうか。これをよくお考え頂きたいのです。

 神とは何かということを簡単に申しますと、現在の地球が地球であることが神です。皆様が人間であること、皆様の命が命であること、万物が万物であること、空気が空気であることが神です。

 これは反対も賛成もないのです。ただ悟るか悟らないかということです。神が神でなければ、皆様が生きているはずがないのです。

 皆様の命の本質が神です。神を信じないという方は、自分の命が分からない方です。神が分かれば、命が分かるのです。

 神を信じるか信じないかということは、自分の命を知るか知らないかであって、地球が地球であるということの本質を弁えるということが、神を信じるということの目的であり、結論なのです。

 例えば、目の前に花が咲いているとします。なぜ花が咲いているのでしょうか。これが神なのです。花が咲くという状態、花が咲くというコンディションが神です。花が咲くというコンディションの状態を、神の御霊の働きというのです。

 人間の目が見えるというのはコンディションです。皆様の心臓が動いているということは、コンディションです。神というコンディションが、花にもあるし、また、皆様の心臓にもあるのです。これが地球が自転、公転しているコンディションです。これを神の御霊というのです。

 神は信じるとか信じないとかいうものではありません。これに気がつくか気がつかないかというだけのことなのです。それに気がつけば、死ななくなるのです。神というのはこういうものなのです。

 日本人は神について根本から誤解しているのです。キリスト教の人たちは、神ということを全く知らないのです。完全に間違えているのです。キリスト教ほど神を間違えている宗教はないのです。まだ日本の偶像教の方がましかもしれません。

 キリスト教は全く神を間違えているのです。とんでもない間違いをしているのです。キリスト教神学は白人が造ったものです。白人は物事が分からない人間です。生活のことは分かりますが、霊が分からないのです。肉体的に生きていることは分かります。ところが、「ある」ということが分かっていないのです。

 白人は本当の「ある」ということが分かっていないのです。「ありてある」ということの本質が、欧米人には分かっていないのです。

 だから、キリスト教の神は全くの嘘です。キリスト教がいうイエス・キリストも大嘘です。大間違いです。聖書の読み方が根本から間違っているのです。創世記の第一章一節から間違っているのです。

 私が宗教ではないとわざわざ言わなければならないのは、キリスト教ではないということを言っているのです。キリスト教ではない聖書と言わなければならないのです。キリスト教ではない聖書という言い方は、日本人は未だかつて聞いたことがないでしょう。

 日本人は聖書はキリスト教だと思っているのです。これが間違っているのです。キリスト教を信じている人ほど、キリストが分かっていないのです。神が分かっていないのです。

 宗教はどこまでも真理を歪めているのです。恐ろしいものです。泥棒よりも悪いのです。泥棒はお金を盗む程度のことですが、キリスト教は人間の霊魂を盗むのです。ひどいものです。

 日本中のキリスト教、世界中のキリスト教が間違っているのです。これは全くひどいものです。

 本当のキリストというものは、キリスト教が考えているものではないのです。キリスト教ではないキリストとは何のことか分からないでしょう。従って、創世記の第一章一節から、読み直さなければならないことになるのです。

 神についての考えが、土台から間違っているのです。皆様方自身が生きていること、皆様の肉体があることが神です。心臓が動いていること、目が見えることが神です。これに気がつけばいいのです。

 神を信じるから間違ってしまうのです。自分自身が生きている命が神であること、命そのものが神であることを掴まえればいいのです。

 命が神であるという言葉を鵜呑みにしただけではだめです。なぜ命が神であるのかということを、はっきり具体的に認識する必要があるのです。

 命の他に神はありません。地球は生きているのです。太陽は生きているのです。これが神です。万物は生きているのです。これが神です。

 神は地球と共に、万物と共に、人間と共に、宇宙と共にあるのです。これを共にいる神というのです。神が共にいる(with living God)ことが人です。だから、キリスト教は間違っているのです。全く間違っているのです。

 キリスト教を信じると、間違いなく地獄へ行くのです。日本中のキリスト教は間違っています。世界中のキリスト教が間違っているのです。宗教はこれほど神を間違えているということを、よくご承知頂きたいのです。

 新約聖書に「肉の思いは死である」という言葉があります(ローマ人への手紙8・6)。肉の思いとは何かと言いますと、肉体的に生きている自分を認めることです。

 肉体的に生きている自分を認めている常識に従って考えることを、肉の思いというのです。この思いが死につながっていくのです。

 肉体的に生きているのは自分だと思い込んでしまうと肉体が死んでしまうように、自分の霊魂も死んでしまうと言っているのです。

 また、「霊の思いは死である」と言っています。人間は肉体的に生きていますけれど、肉体が固定的に存在しているのではないのです。

 皆様の肉体は絶えず新陳代謝しているのです。毎日、毎日、体は新陳代謝しているのです。人間の肉体細胞は絶えず入れ替わっているのです。

 肉の思いというのは、肉体を固定した感覚で受け取っているのですが、これが間違っているのです。

 人間は新陳代謝されるような状態で、神の御霊に生かされているのです。人間の肉体が生きているのではありません。神の御霊に生かされているのです。これを認めることを霊の思いというのです。

 肉体的に生きている自分がいるという常識を捨てて、神の御霊によって生かされていると思うことが、霊の思いです。人間の健康状態が新陳代謝によって保たれているということを信じることは、神の御霊によって生かされているということを信じることになるのです。

 肉の思いというのは、人間が肉体的に生きているという常識を指すのです。人間の常識が間違っているのです。常識的な感覚で自分の命を見ていると、必ず死ぬのです。

 人間の目が見えること、耳が聞こえること、心臓が動いていることは、神の御霊によって生かされているのです。神の御霊によって生かされている自分を認識したら、死なない方向へ進んでいくことができるのです。

 肉体的に生きている自分を自分だと思い込んでいる人間の常識が、人間の中にしっかり入り込んでいるのです。この気持ちはなかなかなくなりません。肉の思いは人間の常識の根底になっていますから、この肉の思いを脱ぎ捨てて、生きているという霊の状態を見るのです。肉体の状態ではなくて、生命の状態を見るのです。命のあり方で人間を見るのです。そうすると、死なない命を見つけることができるのです。

 仏教で空と言っているのは、肉体的に生きている自分を空じてしまえということです。これが色即是空です。

 般若心経は肉体的に生きている人間は空であることを盛んに言っているのですが、これはなかなか受け取れないのです。般若心経が好きな人でも、空が分かっている人はめったにいないのです。人間の執念はこれほどしつこいものなのです。

 人間が肉体的に生きているという執念は、非常に強いものです。これを解脱して頂きたいのです。そうすれば、死なない命を見つけることは、必ずできるのです。しかし、これはある程度勉強しないとできませんから、一緒に勉強会で学んで頂きたいと思うのです。

 肉体が人間の実体だという考えは間違っているのです。人間は機能的に生きているのです。呼吸機能が働いているから息をしているのです。肉体が実体ではないのです。機能が実体です。

 呼吸機能がある。消化機能がある。だから、心臓や胃腸が正常に働いているのです。生理機能が働いているから、人間は生きているのです。人間の肉体が生きているのではないのです。

 皆様は自分の肉体があると思っているでしょう。ところが、肉体はないのです。日本という国があると思っているでしょう。これは嘘です。

 皆様の肉体は端的に言いますと、宇宙現象です。地球現象です。地球現象は宇宙現象であって、物理現象として現われているだけです。

 皆様の精神が地球現象の上に乗っているだけです。皆様一人ひとりの肉体は、地球現象の一部です。自分の肉体ではないのです。

 富士山も地球現象の一部です。私の肉体も地球現象の一部、山も川も地球現象の一部です。地球現象の一部が、人間として生きているのです。地球現象の上に、霊魂がちょっと乗っているだけなのです。

 人間の肉体は初めからないのです。ところが、オギャーと生まれた赤ん坊がだんだん大きくなるものだから、肉体があるものだと思い込まされるのです。これが物理現象と人間の精神状態との相関関係です。

 人間の霊魂、即ち、精神構造が地球現象の上に乗っているのです。これをよく考えたら分かりますが、人間の肉体は初めからないのです。だから、自分自身の精神構造をコントロールしてしまえば、死がなくなってしまうのです。

 人間の実体は精神構造です。精神構造をコントロールすれば、死ぬということがなくなってしまうのです。これをイエスが証明したのです。

 皆様の肉体と精神構造は別のものです。だから、皆様の心臓が止まっても、霊魂には関係がないのです。心臓が止まって精神構造が働けば、永遠の命はずっと働くのです。

 人間の精神構造と肉体構造は原理的に言いまして、別々のものです。精神というのは、世の初めからあるのです。この宇宙にビッグバーンが発生する前からあるのです。肉体は地球ができてから発生したのです。

 神は在りて有るのです。在りてというのは目に見えても見えなくても在るのです。有は目に見える状態であるのです。

 地球はかつて目に見えない状態であったのです。これが在りてです。創世記は地球が造られる状態を書いているのです。地球が造られたというのは、地球が造られる前に地球が造られなければならない原理があったのです。これが有るものになったのです。目に見える状態になったのです。こういうことを創世記が書いているのです。

 皆様の肉体も同様です。皆様は生まれる前から在ったのです。そうして、生まれて有る状態になったのです。霊的に、魂的に、目に見えない状態であった皆様が、見に見える状態として生まれてきたのです。これが現在の皆様です。

 聖書は裏表のことを、在りて有ると言っているのです。

 目に見えない霊なる状態があったのですが、それが目に見える肉なる状態として現われているのです。この両方のことを聖書は教えているのです。

 皆様は生まれる前にいたのです。生まれる前にいて、それが生まれてきたのです。生まれる前にいなければ、この世に生まれるはずがないのです。

 生まれる前に魂が実在していたのです。この魂が肉体を持って人間として現われているのです。肉体を持った人間が死んでしまっても、魂は残っているのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

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