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​はじめに

                            はじめに

 

 「死なない人間になりました」。こんなことを言ったら、何を戯言を言っているのかと言って大笑いされるでしょう。人類にとって一番嫌なこと、一番恐いことは死ぬということです。いつガンになって死ぬかもしれない。脳溢血、脳梗塞におそわれていつ死ぬかもしれない。東海地震、東南海地震、南海地震という大災害が発生して都市が壊滅するかもしれない。

 人間は自然災害の恐怖、様々な病気の恐怖、経済や社会の混乱の恐怖、人間関係の誤解、矛盾によって戦々恐々として生きていかなければならないのです。

 これは現在の地球と人間が不完全なものであることを示しているのです。これを般若心経は空と言っているのです。

 ところが、聖書は不完全な地球、不完全な人間はない、絶対に滅びない、完全無欠な永遠の世界があることを提示しているのです。これが「神の国」です。仏典はこれを「彼岸」と言っています。

 現在の人間は必ず死んでしまう人間です。これとは別に絶対に死なない人間が現われた。これがイエス・キリストです。彼は「神の国」に生きていた。その証拠に十字架に付けられて殺されましたけれども、復活したのです。これはイエスが死なない命で生きていた証拠です。

 しかも、死なない命を万民が受け取る方法を、イエスははっきりと示したのです。これが新約聖書の記録です。

 日曜日とはどういう日か。これを学校の先生も、大学教授も、学者、評論家も誰も知らないのですが、日曜日はイエス・キリストが死を破って復活した記念日です。日曜日が制定された理由をとことん追求していけば、死を破った命、永遠の生命があることがありありと分かるのです。しかも、その命が全世界の人間に与えられていることが分かるのです。

 西暦紀元とは何か。今年は二○一六年ですが、これはイエス・キリストが誕生してから二○一六年経過したということです。

 イエス・キリストが誕生して歴史が全く新しくなった。イエスが生まれるまでは、人間は皆絶対死ぬものとして運命づけられていたが、イエスが死なない命、永遠の生命を持って地球に現われた。そこで、人類の運命が激変したのです。

 人間は絶対に死ぬべきものと考えられていたが、それとは別に、絶対に死なない命が人間歴史に登場した。そこで、世界全体の歴史が全く新しくなって、西暦紀元が誕生したのです。

 死なない人間になるということは、空理空論ではない。空想の話ではない。歴史的事実です。日曜日と、西暦紀元の意味をとことん追求していけば、誰でも死なない人間になれるのです。

 死にたくない、死にたくないと思われるなら、日曜日と西暦紀元の意味を徹底的に調べたらいいのです。そうしたら、死なない人間になる方法が発見できるのです。

 人間が現在生きているという気持ちははかないものです。死ぬに決まっていることが分かっていながら、それをどうすることもできない。死にたくないという気持ちを持っていながら、死にたくないという畢生の望みを捉えることができないもどかしさがあります。これは、実は命を間違えて考えているからです。

 命には死ぬに決まっている命と、死なない命と二つあるのです。死ぬに決まっている命は、肉体的に生きていることを自分の命だと考えていることです。肉の思いは死であるという言葉がありますように、肉体的に生きている命を自分の命だと考えていますと、死ななければならない命を受け止めていることになります。

 もう一つの命は、肉体的な命ではなくて、命の本質が何かを考えることです。肉体的に生きているのは、一つの状態です。コンディションですが、状態的な命ではなくて、本質的な命を見ようと考えたらいいのです。そうすると、死なない命が分かるのです。

 命の本質は何かと言うと、魂ということなのです。聖書に、生ける魂、リビング・ソールという言葉があります。リビングしているソールなのです。生きている魂を自覚するようになれば、死なない命が分かってきます。

 魂と人間は別なのです。これがややこしいのです。人間と魂は同じものだと宗教家は言います。そのようにごまかすのです。これがけしからんのです。

 固有名詞の人間は世間に通用する人間です。これを自分だと思っていると必ず死にます。絶対に死にます。

 イエスは固有名詞の自分、人間としての自分を、自分だと思わなかったのです。彼は自分の母親に向かって、「女よ、おまえと私と何の関係があるのか」と言っているのです。これはイエスがナザレ村の大工であることを忘れていたのです。イエスはこういう男です。

 魂が自分であることが分かると、人間としての自分が自分でないことが分かるのです。

 魂とは何かと言いますと、神の子なのです。イエスは、「私は生ける神の子である」と言っています。リビング・ゴッドの子であると言っています。生きている神の子がリビング・ソールなのです。リビングという点では、神も人間も同じなのです。人間が鼻から息を出し入れしていることが、リビングなのです。目が見えることがリビングなのです。これに気付くことです。この本質が分かると死なない自分が分かるのです。

 魂というのは生活機能の精髄、エッセンスなのです。霊魂が分かりますと、情緒ががらっと変わってくるのです。例えば、花を見てもただ美しいというだけでなく、美しいということが魂の命に重大な関係があることが分かるのです。

 なぜかと言いますと、人間の脳は五%しか働いていないからです。あとの九十五%は眠っているのです。だから、今の人間は生きている格好をしているけれど、本質的には死んでいるのです。脳の九十五%が眠っているからです。

 聖書に、「眠れる者よ、起きなさい」という言葉があります。「今は眠るよりさむべき時である」という言葉もあります。死人のうちから出できたれと言っています。この通りになっているのです。人間の脳細胞は眠っています。この頭で物事が良いか悪いか判断できるはずがないのです。

 人の命の本質が魂なのです。目が見えること、視覚意識の根源が魂の情緒なのです。魂の情緒が見ているのです。花が美しいということと、永遠の命とは非常に大きい関係があるのです。

 美しいとはどういうことかが分かりますと、死なない命が見えてくるのです。これがイエスの見ていた見方なのです。イエスがどのように見ていたかを勉強すれば分かってくるのです。

 例えば、マグロの刺身を食べるとします。マグロの味は魚屋がつけた味とは違います。花の美しさは花屋が造ったのではないのです。そうすると、誰が造ったのか。天地の公義が造ったのです。自然法の原理が造ったのです。

 味とか、香りとか、美しさが分かってきますと、魂が初めて目を覚ますのです。人間は五十年、六十年生きていて、美しいとは何かということを魂の角度から見たことはないのです。

 一番重要な美は女性の美しさです。これが分かっている人はめったにいないのです。女性の美しさはどんな花よりも、どんな景色よりも美しいのです。これが分かると魂がはっきり目を覚ますのです。今までの享楽主義的な見方、自分の家庭でのふるまいが間違いであったことが分かってくるのです。その時に本当の人生が分かってくるのです。

 人間は現在、命を経験しているのです。ただ経験の仕方が悪いから死んでしまうのです。これをよく考えて魂の勉強を真面目にするのです。魂の勉強をすることがこの世に生まれてきた目的なのです。

 商売をすることが目的ではない。給料をもらうことが目的ではない。魂の勉強をすることが目的なのです。そのために、五官という機能が与えられているのです。

 今までの命は死んでいる人間の命です。生きている人間の命を経験しなければならないのです。これが死なない命を得る方法です。

​(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

​死なない人間になりました(上巻)

​著者 梶原和義

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