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ア.プリオリ

                            ア・プリオリ

 

 皆様は行をする必要はありません。素直になればいいのです。しかし、大人の皆様が素直になるということは、行をするよりも難しいことかもしれません。

 ある日蓮宗の行は、寒中に何杯もの水をかぶるのです。天台宗の千日回峰という荒行もあるのです。行をするとはどういうことか。バラモン教はやたらに行をするのです。片手を上にあげて一年も二年もそのままでいるという行をします。

 行というのは何かと言いますと、五蘊皆空を概念だけではなかなか実行できないので、断食をしたり、行をしたりして、無念無想になるのです。体を痛めつけることによって、自分自身の情念を解脱するのです。

 行をすることによって茫然自失の境に追い込むことを、バラモン教などではしているのです。茫然自失している時には無念無想になっているのですが、行が終わってしまうと、また、元の妄念に返ってしまうのです。これは何回してもだめです。

 釈尊はバラモンの行をやめて菩薩樹の下に座り込みました。そこで悟ったのです。

 行をしている時には、五蘊から解放されたような気持ちになっていますけれど、行をやめると、また、元の木阿弥になってしまう。

 禅宗の座禅もこれによく似ているのです。禅堂で座っていますと悟ったような気になるのです。家に帰ると分からなくなる。これはいけないと思って、また、禅堂へ行く。そして、分かったような気持ちになる。こういうことを何回も繰り返しているのです。

 大人の感覚、特に男の大人の感覚は妄念の塊です。皆様はこれから逃れられない運命になっているのです。これから逃れることができなければ、本当の命を捉えることはできません。

 日本人はとにかく困った妄念の持ち主です。皆様は分かった分かったと言いますけれど、それが頼りないのです。分かったというのは、概念的に分かったということです。

 日本人は性根の底から腐っているのです。なぜ腐っているのかと言いますと、その原因は八百万の神々です。これがいけないのです。

 神と言いますと、日本人には衣冠束帯の髭をはやしたおじいさんが現われるのです。こういう神を頭の中に描いているのです。こういうシャーマニズムの概念が、日本人にはっきり染み込んでいるのです。こういう概念がありますから、皆様は魂の本質がなかなか分からないのです。

 日本人は生まれつきシャーマニズムの虜になっているのです。人間が肉の思いを持ったままで霊を知ろうとすると、シャーマニズム的になってしまうのです。八百万の神々を信じていなくても、日蓮宗とか真宗で一生懸命になっている人は、シャーマニズムになってしまうのです。

 お題目を唱えて太鼓を叩き続けていますと、意識がぼうっとしてしまうのです。行をしているのと同じような感覚になるのです。断食をしたり、水をかぶったりしているように、お題目を唱え続けていると、行的訓練になるのです。

 行的訓練は肉体人間にはある程度の効果はありますけれど、肉体人間には限界があるのです。人間が肉体的に生きているという思惑が、根本から間違っているのです。

 命というのは肉体的に生きていることを意味しないのです。霊的に生きていることを意味するのです。ここが難しいのです。

 死から脱出するとはどうすることかと言いますと、自分自身から脱出することを意味するのです。般若心経の本当の良さはここにあるのです。

 般若心経の冒頭に観自在とあります。これは自分が悟ったということを意味しないのです。般若心経以外の経典には、すべて如是我聞という文句がついていますけれど、般若心経には如是我聞がありません。

 般若心経の前に摩訶という字がついている宗派があります。真言宗では摩訶をつけませんが、真言宗や密教以外は大体、摩訶という字をつけています。

 摩訶というのは非常に大きいこと、非常にすばらしいこと、いわゆる摩訶不思議なこと、人間の常識では捉えられない範囲の問題のことを摩訶と言っているのです。

 皆様が宗教ではない般若心経に本当に取り組んで頂くことになりますと、観自在という意味が皆様の生活マナーにならなければいけないのです。

 宗教ならただ唱えていたらいいのです。ところが、宗教ではない般若心経になりますと、観自在菩薩という意味が、本当に皆様の自覚心情にならないといけないのです。

 宗教で般若心経を唱えても何にもなりません。色即是空、空即是色といくら言ってもだめです。色即是空が分かっても、空即是色がさっぱり分からないからです。

 空であるべきものが、なぜ色になっているのかという根本原理の説明が仏教では不可能だからです。空がなぜ色になって現われているのか。これを知るためには、思い切って人間の考え方を解脱するという度胸をすえて頂きたいのです。

 日本人が信じている神は、紙屑みたいな神です。こんなものは人間の精神状態を堕落させるだけです。日本の八百万の神々は、真面目な人生観を追求している人にとっては、非常に迷惑な、厄介な思想です。

 シャーマニズムは現象主義であって、現象利益ばかりを考えているのです。日本人は現世で生きているだけで、命が全く分からない民族です。八百万の神々という概念が間違っていたのです。日本という国がシャーマニズムによって成立しているのです。これがいけないのです。

 こういう思想を徹底的に叩き直すという勇気を持って頂きたいのです。

 死から脱出するということは、容易なことではありません。こういうことを今の世界で打ち出しているのは、多分私だけでしょう。こんなことを発言することは恐ろしくて誰もできないでしょう。ですから、よほど本気になって頂かないとできないことなのです。

 皆様の日本人としての考えが、根本的に間違っていると申し上げたいのです。

 今の日本人は錯覚の塊になっているのです。自分がいると考え込んでいるのです。自分がいるというのは無茶苦茶な考えです。自分で生まれてきたのではないし、自分が生まれたいと思ったのでもない。従って、自分が生まれたという事実はどこにもないのです。

 ところが、自分が生まれた、自分が生きていると考えているのです。このような根本的な錯覚がありますので、五蘊皆空が分からなければ、この錯覚から出ることはできません。

 般若心経の五蘊皆空というのは、観自在菩薩が言っているのです。観自在菩薩は普通の人間ではないのです。自分自身を解脱した人間です。言葉を変えて言えば、観世音菩薩になるのです。

 自在というのはドイツ観念論ではア・プリオリと言っています。ア・プリオリが人間の性格の根源であるというのです。

 すべて存在はア・プリオリからきているのです。これは正しい考え方であると思います。ところが、ア・プリオリとは何であるかが分からないのです。

 ア・プリオリとは、先天性のこと、先在性のことです。心理機能の面から考えますと、先天的という言葉を使います。

 人間が砂糖を甘いと感じるのはなぜだろうか。塩を辛いと感じるのはなぜか。砂糖が甘いというのは、生まれたての赤ん坊でもそう感じるのです。皆様ももちろんそう感じているのです。そうすると、万人に共通する心理機能、生理機能があることを示しているのです。万人に共通する心理機能、生理機能の根源が、どこから来ているのかということです。

 生まれる前に経験しているのです。だから、先天的というのです。人間は砂糖の味を生まれる前に経験していたのです。赤ちゃんはおっぱいの味を生まれる前に経験しているのです。だから、生まれてすぐにお母さんのおっぱいを吸うのです。強い力で吸っておいしそうに飲んでいるのです。

 そのように、皆様の意識の根本が自在です。生まれる前におのずからあったものです。おのずからあったというのは、自分が造り出したものではないのです。

 皆様の五官の働きの根源は、おのずからあったものです。おのずからというのは、生まれる前にあったのです。おのずからの命を、皆様は現世に持ち越しているのです。

 おのずからあった命が、現在の命として経験しているのです。

 皆様は日本人の悪い癖の虜になっていますので、ア・プリオリが分からないのです。現世の人間だと思っている人間がほとんどです。

 ドイツ観念論を勉強している人はいます。デカルト、カント、ショーベンハウエルを勉強していても、先天的という意識を持っている人はほとんどいません。

 般若心経を哲学的に、教学的にいくら勉強しても、五蘊皆空という理屈は分かりますけれど、五蘊皆空という言葉の真意が、自分自身の霊魂のマナーとして定着しないのです。そこで、般若心経が宗教になってしまうのです。

 毎日、毎日、般若心経を五回も十回も唱えている人でも、五蘊皆空が自分の生活の実感になっていなければ、結局、心経読みの心経知らずになってしまうのです。これは日本人の非常に悪い宗教観念です。これを蹴飛ばさなければ皆様はものにならないのです。

 死を克服するということ、死から脱出するということは、世間の宗教のようななまぬるい頭だけの勉強では絶対にだめです。

 放っておいたら皆様は死ぬに決まっています。私は皆様に死んで頂きたくないのです。だから、こういう話をしているのです。

 死ぬということは敗北することです。悪魔に敗北することです。死にたくないのに死ぬというのは、敗北主義の人生観です。死ななければならないという考えは、絶対に捨てて頂きたいのです。

 何としても死を破りたい。死から脱出したいという勇猛心を持って頂きたいのです。

 般若心経の観自在菩薩という言葉は、初めからこのことを教えているのです。観自在菩薩というのは、人間が自分自身の理性の働きをまともに考えるようになったというだけのことです。

 人間の理性の働きがまともになると、観自在菩薩になるのです。ア・プリオリの原理が分かるのです。生まれる前の自分の意識の根底に、何があるかがはっきり分かるのです。そうすると、生まれた後の自分を解脱することができるのです。

 死にたくないけれども死ななければならないというばかばかしい考え方、この雑念を捨ててしまえば、人間は死ななくなるのです。死ぬか生きるかということは心の持ちよう一つです。

 イエスは死を破った。どうして死を破ったのかと言いますと、彼はこの世に生まれてはきましたが、この世に生きてはいなかったのです。これをしたらいいのです。何でもないことです。できるのです。私はこれを実行していますが、とても気持ちがいいものです。

 私はこの世に生きているという格好はしています。この世に生きているという形はしていますけれど、私の精神状態はこの世に生きていないのです。これは何でもないことです。

 ア・プリオリの自分に気が付けばいいのです。生まれる前の命は死なない命です。この世に生まれてきた後の命、後天的な命は死ぬ命です。後天的な自分の命を解脱してしまえば、死なない命に帰ることができるのです。論理的に言えば簡単なことです。ただこれを実行することが難しいのです。

 日本人の間違った世界観、人生観を捨ててしまえば、皆様は死ななくなるのです。死なない自分がはっきり分かります。

 今お話ししているのは結論ですから、この結論に到達するためには素直になって頂きたいのです。皆様は大人でありすぎていけないのです。理屈を考えすぎるからいけないのです。

 ア・プリオリという先天性がなかったら、現在皆様が生きている後天性がある道理がないのです。原因がなければ結果があるはずがないのです。

 この世に生まれてきたという結果が、今生活として現われているのです。皆様がこの世に生まれてきたという結果が現われるためには、原因がなければならないのです。

 その原因とは何か。天と言ってもいいし、上と言ってもいいのです。霊と言ってもいいのですが、霊という言葉を使いますと、すぐにシャーマニズムになってしまうのです。これが悪いのです。

 例えば、青森県の恐山の霊です。霊を愚劣な感覚で解釈するとシャーマニズムになってしまうのです。

 皆様は自分がいると考えていますが、皆様が勝手にそう思っているのです。自分はどこにもいないのです。仏教では無我と言いますが、これは人空のことを言っているのです。人空、法空と仏教で言いますが、これはただの概念です。人間は空であるという概念を言っています。

 人間は空ですし、生きていることも空です。人空は生空と我空の二つに分かれるのです。自分がいるということが空です。

 皆様は自分がいると考えていますが、もし皆様が生まれた直後に、チンパンジーにさらわれたと仮定します。チンパンジーに育てられて成長しますが、大人になっても自分という観念は全然持たないのです。

 以前に「ジャングルブック」という映画がありましたが、猿に育てられた青年のことを描いていたのです。この青年には自我意識がなかったのです。

 動物には我という概念がありません。動物の社会で育った青年には我という概念がなかったのです。皆様が我という概念を持ったのは、親が悪かったのです。兄弟が悪かったのです。親戚が悪い。世の中全体が悪いのです。

 人間はすべてこの世において我が生きているのです。我がいるという観念に捉われてしまっているのです。そういう社会の中で皆様が大きくなったために、自分はいないにもかかわらず、自分という意識を持たされてしまっているのです。これが後天性です。

 我という人格は後天性であって、先天性のものではありません。後天性の人間の人格は空です。このことを達磨はやかましく言っているのです。釈尊も言っているのです。

 観自在菩薩というのは釈尊が悟りを開いた状態を言っているのであって、釈尊という人間が観自在になったのです。人間が悟っただけのことです。

 自分がいないことが分かったのです。花は自分を持っていません。花は無我です。自分がいないから無心に咲いているのです。

 花を四方八方から見ても、皆様にああうるさいとは言いません。けろっとしているのです。これが無我です。花には無我の状態が現われているのでありまして、人間の理性は本来無我です。無我であるのに自分がいると思っているのです。自分が得をした、損をしたと思っているのです。

 こういう根本的な考え違いをしているのです。皆様はこの根本的な考え違いを修正するために、この世に生まれたのです。根本的な錯覚を解脱して、本当に生まれる前の自分自身を自覚することができると、死ななくなるのです。

 イエスがこれを見事にして見せたのです。見事に行って見せたのです。釈尊は人間が空であるということを悟ったのです。しかし生まれる前の実体については、どうもはっきりしていない所があるのです。

 天地創造の原理については、イエスと釈尊は全然違うのです。問題は、天地がなぜ存在するのかということです。人間がなぜ存在するかです。

 天地が存在するということが、人間が存在するということと同じ原理ですが、仏典には天地創造の原理が何であるのか、森羅万象がなぜあるかということの説明はできません。これは聖書を勉強しないと分からないのです。

 日本人は困ったことに、聖書に対して先天的に嫌悪感を持っているのです。豊臣秀吉や徳川家康のばかげた鎖国政策のために、日本人は未だにキリシタンバテレンと言って、聖書を敬遠する気持ちを捨てることができないのです。

 日本人の島国根性は本当に困ったものです。全世界を見渡して、全人類の歴史を両足に踏まえて見ることができないのです。

 こういう日本人的な世界観を解脱して頂きたいのです。生まれる前の人間とはどういうものなのか。地球は自身で存在しているのではありません。誰かが造ったに決まっているのです。これから地球はどうなるのか。生あるものは必ず死する、形あるものは必ず壊れると仏典では言っていますけれど、地球が滅亡してからどうなるのかを、日本人は勉強しようとしないのです。

 日本人は人生観的には無知蒙昧の民です。皆様はこういう日本人から解脱して、死を克服しよう、死を解脱しようと考えている。これは日本人として特異な現象と言えるのです。

 この世に人間が生まれてきたことが業(ごう)です。また、生きていることが業です。

 業というのはサンスクリットのカルマットが転じてカルマンとなり、転じてカルマと言われているものです。業とは、そうなるべくしてそうなったという意味ですが、なるべくしてなったという以上は、なるべくしてという事訳の説明がいるのです。

 人間から考えますと、自分が生きているということ、また、この世の中があることは非常に大切な問題になるのです。ところが、地球存在から考えますと、人間がいてもいなくても地球は地球です。人間がいることが地球にとって何かの足しになるかと言いますと、何の足しにもならないのです。

 人間は地球を食い潰しているだけです。石油をどんどん採掘して燃料にしたり、鉱石を掘り出して、色々な製品を造ったりしています。そういうことをしてもいいでしょう。人間の文明社会がしていることは、何をしているのでしょうか。

 人間の営みがどういう目的を持っているのか。この説明が今の人間にできないのです。人間社会が存在することの説明が人間にはできないのです。ただ生活が便利になればいいとか、世界に平和が実現したらいいとかいうことを考えている。

 一体、世界に平和が実現して何になるのでしょうか。戦争があったら困りますが、戦争がなくなって平和になるかというと、平和にはならないのです。人を憎んだり、妬んだりする気持ちはなくならないのです。詐欺、窃盗、強盗、殺人は依然として続くのです。

 全世界に平和が実現したとしても、人間自身が生きていることが、人間自身にとって何の利益があるのかということです。

 皆様は三十年、五十年この世に生きてきました。長い人は七十年、八十年と生きてきたのですが、それが皆様自身にとって何の利益になっているのでしょうか。何の利益にもなっていないのです。

 むしろ損害になっているのです。皆様がこの世に生きてきたことが業です。嘘を言ったり、ごまかしたり、焼きもちをやいたり、恨んだり、憎んだりしてきたのです。その結果、皆様の霊魂はめちゃくちゃになっているのです。

 霊魂はア・プリオリのものであって、天から地上に下ってきたものなのです。おのずからの本性を持っているのが人間の魂です。おのずからの本性は死なないものです。人間の霊魂の本性は非常に尊いものであって、観世音菩薩のような、観自在菩薩のようなものなのです。

 ところが、この世に生まれてきたために、死なねばならないことになったのです。死なないはずの魂が、この世に生まれたことによって、死なねばならなくなったのです。これだけを考えても、この世に生まれたことが業であることが分かるのです。

 もし皆様がこの世に生まれなかったら、死ぬことがなかったのです。その代わりに皆様の魂は何の悟りも持つことができなかったのです。

 本当に魂の目が開かれるためには、一度この世に生まれてこなければならない必然性があったのです。そのような理由によって、一度この世に生まれてきて、旅をしなければならなかったのです。かわいい子には旅をさせよという意味で、この世の旅をしなければならなかったのです。

 そこで、この世に生まれてきたのです。天が皆様の魂をこの世へ送り出したのです。天というのは何であるのか。命というものは何であるのか。天命とは何であるのかを悟らせるために、皆様をこの世に送ったのです。

 この世に人間の魂が遣わされたというのはこういうことなのです。皆様はこの世に遣わされたのであって、自分が生まれたくて生まれたのではないのです。

 生まれたくて生まれたのではありませんから、自分の考えで生活していても良いというのではないのです。天によって生まれたのですから、天によって生活しなけれなならないのです。

 自分が生きていると思うから、利害得失に捉われて考えるようになっていますけれど、自分の利益を考えたところで何になるかと言いたいのです。結局何にもならないのです。

 人間がこの世に生まれてきたことが業ですから、皆様が現在生きているその生活意識、生活マナーが根本から間違っているのです。

 自分が生きているということが嘘です。これを我蘊と言います。色蘊と我蘊という間違いをしているのです。色蘊は現象意識です。目に見える現象が実体だと考えているのです。

 花は咲いています。何のために咲いているのかと言いますと、地球が造られる前の本当の命が、花として咲いているのです。

 地球があるということが結果です。地球が造られる前に、地球が造られるべき原因があったのです。この宇宙には地球のような高度な生命がいる惑星は、地球以外には全くありません。地球以外の惑星に宇宙人がいるという妄想を流しているユダヤ人がいますが、これはユダヤ人の陰謀です。UFOとか宇宙人がいると言って、聖書を無価値、無効にしてしまおうという謀略を、ユダヤ人がマスコミによって世界中に流しているのです。

 ユダヤ人問題というのは非常に大きい問題でありまして、今の日本人はその本質をよく知らないのです。

 現在の日本人の考えが狭いのです。現世に生きている間のことしか知らないのです。地球ができてからだけのことしか知らないのです。地球ができる前のことを考えようとしていないのです。

 本当の空に立って考えようとしていません。だから、命とは何であるのか、文明は何のためにあるのか、説明ができないのです。

 人間は何も分かっていないのです。セックスのことも分からないのです。夫婦生活をしていながら、セックスが何であるか分かっていないのです。色ごととは何かということが分からないのです。

 人間にとってセックスは非常に重大な厳粛な問題です。この意味が人間には全然分かっていないのです。だから、人間は何も分かっていないのです。五十年、六十年この世で生活をして何をしていたのかということを冷静に考えて頂きたいのです。何もしていない。ただ食べて寝て子供を産んだだけです。それだけです。

 だから、人間は死んだら地獄へ行くに決まっているのです。人間としてこの世に生まれてきて、衣食住を自由に選べる権威を与えられているのです。そのための自由意志を与えられているのです。だから、衣食住について自由に選択できる高等な自由意志を与えられているのです。神と同じような権威を人間は持っているのです。

 神を信じるとか信じないとか、仏を信じるとか、信じないと言っているのです。人間は実に高等な動物です。こういう高等動物がなぜ地球に現われたかです。

 人間がこの世に生きていることがカルマであって、自分を知らずに生きているのです。だから、今の状態で人間が生きていることが、罪を犯していることになるのです。自分の命の本体を知らないでただ食事をしている。これは罪を犯していることになるのです。

 皆様は生まれたくて生まれたのではありません。とにかく生まれてきたのです。これに対して、冷静に、謙遜に、自分の命をじっくり考えてみようという気持ちになって頂きたいのです。自尊心とか、自分の経験とかいうものは三文の価値もありません。これをよく考えて頂きたいのです。

 人間が生きているということは大したことなのです。マグロの刺身を食べればマグロの味がします。マグロの味というのは大した味です。これは地球ができる前の本当の命の味が、マグロに染み込んでいるのです。

 皆様は天然現象を自分の衣食の糧にしているのです。天然自然を食べていることは、おのずからの命を食べているのです。おのずからの命というのは死なない命です。

 天然現象の命、おのずからの命は、地球ができる前の永遠の宇宙の大生命です。これが皆様の食物になっているのです。一杯の水でも天地悠遠のいにしえから、全く死なない命が現われているのです。空気になって現われている。皆様はその空気を吸って生きているのです。

 だから、人間はどうしても永遠の生命を悟らなければならないようにできているのですが、それを知ろうという熱心な人はめったにいないのです。

 全世界の人間が全部死んでいくのは当たり前だと考えているのです。

 観自在菩薩は生まれる前の命について眼が開かれた人格です。観自在菩薩から見れば、人間が考えていることは全部空です。

 業(ごう)とは何か。自分が生きているという考えと、現象世界があるという考え方が業です。自我意識と現象意識の二つの業があるのです。

 自我意識と現象意識がなぜあるのかということを勉強していきますと、この正体が分かってきます。この正体が分かりますと、今までとは違う世界が見えてくるのです。

 花が咲いているのではなくて命が咲いているのです。命が花という形になって現われているのです。花を本当の花として見るという心構えができますと、命が見えてくるのです。

 そういう勉強をして頂くために第一に必要なことは、今まで皆様が持っていた常識を解脱して頂きたいのです。

 皆様の常識が皆様を地獄へ引っぱっていくのです。自我意識が自分を殺すのです。自我という意識が最も恐るべき自分の敵です。

 私の話を本当に分かって頂くためには、皆様は今までの自分の考えにこだわらないで頂きたい。なるべく二歳、三歳に帰ったような、淡々たる心境でお聞き頂きたいのです。

 原罪とは何か。キリスト教の神学で原罪と言いますが、キリスト教ではこの正体がよく分からないようです。

 人間の業は原罪が人間の責任に化けて人間を押さえ込んでいるのです。人間が果たさなければならい責任という形で、人間にのしかかっているのです。

 人間がこの世に生まれたということが、業の下に生まれたことになるのです。原罪の下に生まれたことになるのです。

 原罪の下に生まれたということは考え方によりますと、非常に迷惑なことのようですけれど、実は人間に業があるからこそ業を果たすことができるのです。

 もし人間に業がなかったら、業を果たすことはできません。業を果たすことができないと、人間が永遠の生命の実物を捉えることができなくなるのです。

 人間は万物の霊でありまして、空の鳥、海の魚、家畜と地に這うもの、獣、つまり森羅万象を治めることが万物の霊長たるゆえんです。

 皆様が新しい命を発見しますと、永遠に死なない命が分かります。永遠に死なない人間は何をするのかということです。

 人間が造っている文明は人間が知らない状態ですが、すばらしい意義があるのです。人間が家を建てると、おのずから人間の理性の中にある先天性が現われるのです。

 窓の作り方、照明の仕方、部屋の大きさ、配置などがすばらしく宇宙の理に適っているのです。これは人間自身の中にある天然自然の命の永遠性、宇宙の大生命のすばらしさが現われているのです。人間の魂の奥底にある天然がそのまま現われているのです。

 これは自動車にも、飛行機にも、船にも現われているのです。人間が造るものすべてに、天然自然のすばらしさが現われているのです。それを造っていながら、人間は何をしているのか知らないのです。

 ただ肉体的に現世に生きていて、仕事をしていると思っているのです。神が人間を通して、自由自在に人間を使っているのです。

 一方において人間に業を与えている。人間がこの世に生まれたことが業として、人間に原罪を負わせているのです。人間の業の正体を人間が看破して、これを解脱することができたら、人間は本来あるべき姿に帰ることができるのです。

 これはすばらしいことです。これをイエスが実行してみせたのです。水をぶどう酒に変えたり、水の上を歩いたり、風と波に静まれと命令しているのです。これは人間が持っている力が現われているのです。

 イエスは我を持っていなかった。自我意識を持っていなかった。自分自身を神の子と考えたのです。これは何でもないことです。皆様の五官は神の子であるしるしです。

 自我意識を捨てて、神の子のしるしである五官を純真素朴に用いることになりますと、イエスと同じ生き方ができるのです。これをイエスを信じるというのです。イエスが主であるという考え方は、こういう考え方になるのです。

 五官だけで生きるのです。自我意識で生きないで五官だけで生きるのです。ところが、皆様は五官で生きないで、自我意識で生きているのです。これが間違っているのです。

 皆様の中には私の話を聞いても分からないという人がいるでしょう。その人は自我意識によって聞いているから分からないのです。皆様が今まで三十年生きていた、五十年生きていたと考えることが間違っているのです。

 三十年、五十年生きていたという事実はありません。色即是空です。五蘊皆空です。色即是空という点からだけ申し上げても、現象世界は実際に存在していないのです。

 これは理論物理学の常識です。物質が存在しないということは、中学生でも勉強していることです。物理運動はあるけれど、物質は存在していないのです。このことは科学的に証明されているのです。

 もし物質が本当に存在しているのなら、原子爆弾は製造されないはずです。原子爆弾ができるということが、物質が存在しないことを証明しているのです。

 こんなことはちょっと勉強したら分かります。分かりますけれど信じられないのです。

 この世に生まれてきたことが業ですが、業は果たすためにあるのです。果たさない者は死んでから地獄へ行くことになるのです。地獄とはどういうものか、天国とはどういうものかは別の機会にはっきり申し上げます。

 神に対して日本人は根本的に大変な間違いをしているのです。神が人間を造ったとしても、その神を造ったのは誰かというのは日本式の考えなのです。

 神は造ったものでもないし、生まれたものでもないのです。ただあるのです。あるということがあるのです。神がないとしても宇宙はあるのです。

 エネルギーがあるのです。あるというのは英語でBe動詞です。am, are, isがあるということです。これが神です。これがキリスト教では全然分かっていません。

 キリスト教はキリスト教の神を拝んでいるのです。ところが、聖書ではイズ(is)が神であるとはっきり書いています。

 Be動詞があるからこそ宇宙があるのです。これを現わしたのがイズです。これが神の本体です。あるということが神です。理屈を抜きにしてあるものはあるのです。あると思わなくてもあるものはあるのです。

 例えば、悪魔があるとしますと、そのことが神なのです。これがキリスト教の神学では分からないのです。あるということが神ですから、悪魔があることが神です。

 悪魔が存在することを神が認めているのです。神が認めなければ悪魔がある道理がないのです。人間があることもそのとおりです。

 

 パウロは述べています。

 「神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることを、必ず信じるはずだからである」(へブル人への手紙11・6)。

 

 神がいますことを必ず信じるとありますけれど、英文ではmust believe that he isとなっています。これを直訳したら、神がイズであることを信じなければならないとなるのです。

 神に近づきたいと思う者、真理に近づきたいと思う者は、神がイズであることを信じなければならないというのです。この根本原則がキリスト教では分かっていないのです。

 命に近づきたい者は、神がイズであることを信じなければならないのです。

 イズとはどういうものか。私たちの実際生活でどのように受け止めればいいかです。このことを勉強しなければいけないのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

​死なない人間になりました(上巻)

​著者 梶原和義

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