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​あとがき

                            あとがき

 

 命を正しく見ることはそれほど難しいことではありません。皆様方自身の命についての見方が間違っていることを確認すれば、おのずから死なない命、本当の命、宇宙生命を捉えることができるのです。

 現在、皆様は毎日、太陽のエネルギーを色々な形で経験しています。天気が良い時には、太陽エネルギーが自分の体によく感じられるくらいに分かります。

 太陽光線の実体は何であるのか。これが死なない命を現わしているのです。地球という物理的存在は、太陽光線という死なない命をそのまま受け取っている。太陽という永遠の男性のようなエネルギーを地球に放出しているのです。永遠の男性である太陽が、永遠の女性である地球を抱き込んでいるのです。

 ご存知のように、地球はどんどん物を産み出す力を持っています。産み出す力は女性的なものです。永遠の女性というべき地球が、永遠の男性というべき太陽に抱かれている。これが太陽系宇宙の実体です。これさえ分かれば死ななくなるのです。

 ところが、現代文明は人間が生活することしか考えていない。これはユダヤ人のとんでもない間違いからきているのです。ユダヤ人の文明思想が現代文明の根幹を形成しているからです。いきなりこういうことを言っても何のことかお分かりにならないかもしれませんが、ユダヤ人の問題については、少しずつお話ししていきたいと思います。

 ユダヤ人問題はとても大きな問題ですから、短い時間でお話しするのは無理ですので、私が書いた本をお読み頂ければご理解頂けると思います。ユダヤ人問題については、今まで十八冊の本を書きましたので、お時間がありましたらぜひお読み頂きたいと思います。

 現在、皆様は常識的に生きています。常識的に生きているということは、必ず死ななければならない命に、しがみついていることになるのです。

 常識は死んでいった人間が残した考えです。千年前、五百年前の人間が残していった常識が、現在地球上に生きている人間の常識になっている。常識は死んでいった人間、死んでいくに決まっている人間の物の考え方なのです。

 皆様も常識に従って自分の命を見ていますと、皆様の命は必ず死にます。死ぬに決まっているのです。

 死という文字、死という言葉をいくら嫌っても、常識的に生きているということが、死ななければならない命を、自分の命だと思い込んでいることになるのです。これが般若心経でいう五蘊です。

 人間は死ななければならない命を自分の命だと思い込んでいる。なぜそんなばかなことをしているのでしょうか。死んでいった人の残した考えを、皆様が踏襲しなければならないという義務がどこにあるのでしょうか。これを率直に考えて頂きたいのです。

 これは理屈ではありません。死ぬに決まっていることが分かっていながら、その命を自分の命だと思い込んでいることが、間違っているのです。これをよく考えて頂きたいのです。

 現在皆様は太陽光線というすばらしい命のシンボルを見ています。太陽エネルギーは死なない命の象徴になっています。死なない命の象徴を、現在皆様は宇宙エネルギーとして毎日経験しています。

 ところが、死んでしまうに決まっている命を自分の命だと思い込まされている。文明というとんでもない考え違い、ユダヤ思想のとんでもない考え違いによって、皆様は死ななければならない命を押し付けられているのです。人間は何とばかなことをしているのかと言いたいのです。

 般若心経の般若波羅蜜多は、その愚かな考えを真っ向から叩き割っている思想です。

 般若波羅蜜多というのは彼岸へ渡る上智でありまして、これを用いて死なない命にくら替えしてしまうことを提唱しているのです。

 ところが、般若心経は彼岸へ渡れと言っていますが、彼岸そのものの説明はしていません。死なない命の実体を説明していません。現在の人間の考え方を色々な角度から説明しているのでありまして、彼岸そのものの実体を説明しているのではありません。だから、般若心経だけでは、本当の彼岸を掴まえることができないのです。

 そこで、キリスト教ではない聖書、本当の神の言葉である聖書が必要になってくるのです。

 キリスト教も仏教も、宗教はすべて人間が造った観念です。人間の頭で考え出した神や仏を拝んでいるのです。人間が人間の観念を拝んでいることになるのです。

 宗教はすべて人間の観念です。自分の頭で描いた神様、仏様を拝んで満足しているのです。

 これは命の実体を認識していることにはなりません。いくら宗教の神様、仏様を拝んでも、人間は必ず死んでいきます。死んでから極楽へ行く、死んでから天国へ行くというのはとんでもない詭弁を弄しているのです。イエスは、「生きていて、私を信じる者は、いつまでも死なない」と言っています(ヨハネによる福音書11・26)。また、「生きているうちに、水と霊とから新しく生まれて神の国に入れ」と言っています(同3・3、5)。神はイエスの十字架によって、人類の死を全部消してしまった。だから、聖書を正しく理解すれば、人間は死なないのです。死ぬはずがないのです。これがキリスト紀元(西暦)に生きている人間の正しいあり方です。

 ところが、キリスト教は死んだら天国へ行けると言っている。死をはっきり肯定、容認しているのです。これは聖書の見解に真っ向から反する嘘、偽りをでっちあげて、人類を死に引きずり込む恐るべき悪魔の集団です。私がキリスト教が間違っていると、口を極めて罵っているのはこの理由からです。

 死んでからというのは実にインチキです。これは詭弁そのものです。死んでしまえば天国へ行けるかどうか分からない。だから、死んでしまえばそれまでという理屈で逃げてしまえるのです。

 現世には寺も教会もあります。宗教の理屈は現世では通用します。しかし、皆様がこの世を去ってしまいますと、寺も教会もない所へ行くのです。寺も教会もない所で、宗教観念が通用すると思われるのでしょうか。

 寺があればこその仏教です。教会があればこそのキリスト教です。それがない所へ行くに決まっているのです。そういう所で、この世が終わってから何かの足しになると思って、後生安楽の宗教を信じているのですが、死んでからでは宗教は何の役にも立ちません。ここにとんでもない宗教のインチキ性があるのです。

 現代文明が悪いのです。その根幹をなしているユダヤ思想が悪いのです。

 ユダヤ人が世界の政治、経済を牛耳っているからけしからんという本がたくさん出ていますが、経済的なことくらいはしれています。金持ちが金を持っているのは当たり前です。

 ユダヤ人が悪いのではありません。政治力が悪いのではない。もっと悪いのは宗教力です。現代文明はユダヤ教を基礎にして成り立っている。これが人間生活に関する世界観を造っているのです。これを信じている人間は必ず死にます。

 文明が皆様の常識を造っています。死んだ人間、現在生きていても必ず死ぬ人間、こういう人間が考えている常識学問が、命の役に立つはずがないのです。

 これは単純なことです。ちょっと皆様が頭を切り替える勇気があれば、死なない命を捉えることは十分にできるのです。イエスがそれを実行しました。私たちにもそれができるに決まっているのです。

 彼岸へ渡るというのは、死なない世界へ行くことです。死なない世界へ行くことが、人生の一番大きな問題です。そのためには、自我意識を捨てることを真剣に考えなければいけないのです。

 宗教も文明も、皆様の命については一切責任を持ってくれません。ですから、自分自身が責任を持たなければならないのです。

 文明は私たちが生活するための方法であって、生活のために用いるのはいいのです。電車やバスに乗る、電話をかけるというのは当たり前です。しかし、文明にかぶれてしまって、自分の精神まで文明に売り渡すようなことは、絶対にしてはならないのです。それは肝心の皆様の命をどぶに捨てるようものです。

 文明は靴やスリッパのように足に履くものです。頭にかぶってしまうとひどい目にあうのです。

 般若心経は人間を空だと言っています。これは人生の公義です。公義という言葉は日本の国語辞典には載っていませんが、天地宇宙の真理です。

 般若心経は五蘊皆空と言っています。人間の常識に従っていれば死ぬに決まっています。だから、常識をやめればいいのです。公義に従って、悪いことは悪いとはっきり言い切るだけの勇気があれば、皆様の精神を転換することは決して難しくないのです。

 仏教とかキリスト教に捉われないで頂きたい。東洋人とか西洋人という区別もありません。全世界を一眼したような、命の真髄を勉強しようという気持ちが、皆様の中に芽生えさえすれば、皆様が死ぬベき命から脱出することは十分にできるのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

​死なない人間になりました(上巻)

​著者 梶原和義

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