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​キリスト紀元

                            キリスト紀元

 

 やがて現代文明は潰れてしまいます。現代の教育、政治、経済、法律、宗教、学問が全滅します。道徳も潰れます。そうすると、どうなるのか。今までの政治や経済、宗教、道徳、教育に頼れなくなるのです。何に頼るのか。人間が頼れるのは生きているということだけです。学問も政治も宗教もなくなってしまうからです。

 現代文明は人間が造った概念です。概念を鎧にしてその影に隠れて生きているのです。その鎧が取り払われると、真っ裸になってしまうのです。どうしたらいいのか分からなくなるのです。

 そうして、キリストの再臨が行われるのです。再臨という厳然とした事実があるのです。キリストの再臨は、新約聖書だけで三百十八回書いてあるのですが、人々はこれを信じようとしないのです。

 十字架をいくら信じても、復活をいくら信じても、再臨を信じなければだめです。復活したキリストがやがてこの地球上にやってくるのです。これが再臨です。

 これは歴史的事実です。歴史的事実ですから反対できないのです。新約聖書に三百十八回も書かれていますから、必ず実現します。これが実現すると、世界に驚くべき平和が到来します。天候も気候も一変します。地球全体がエデンの園になるのです。

 イエスは来るのです。クリスマスがもう一度起こるのです。これが世界の歴史を新しくするのです。今のクリスマスでさえも世界中がお祝いをしていますが、人間自身に本当の命を与える形において、イエスは来るのです。これは大変なことです。

 現在の政治も経済、法律も皆だめになります。イエス・キリストの復活という厳然たる事実が目の前にやってくるからです。

 ところが、ユダヤ人が悔い改めない限り、また、ユダヤ人を覆さないことにはイエスは来ないのです。これが大問題です。ユダヤ人の悔い改めとはどうすることか。

 

 イエスは次のように述べているのです。

 「私は言っておく、『主の御名(みな)によってきたる者に、祝福あれ』とお前たちがいう時までは、今後再び私に会うことはないであろう」(マタイによる福音書23・39)。

 

 ユダヤ人たちがこう言えば、イエスに会えるのです。もしそう言わなければ私は来ないと言っているのです。来てやらないと言っているのです。

 イエスは唯一無二の地球の主(あるじ)です。現在は唯一無二の地球の主が留守だから、人間は自分勝手なことが言えるし、勝手なことが行えるのです。景気が良いとか、不景気だとか、儲かったとか損したと言っていられるのですが、イエスが来たらすべての問題が解決するのです。政治も経済も、軍備も解決するのです。

 とこしえの命の実物、イエス・キリストの復活の命が、歴史の真ん中に降りてくるのです。キリスト教の人々はこれを信じていないのです。

 イエスは来るのです。今度は贖いのためではなくて、絶対的な権威を持って来るのです。前のイエスは槍で突き殺されたのです。今度来るイエスは栄光の王として来たるのです。イエスに反対したらその場で息が絶えてしまうでしょう。

 イエスがやって来て初めて、阿弥陀如来の実体が分かるのです。阿弥陀如来の本当の姿が目の前に現われるからです。これなのかということが分かるのです。

 親鸞もこれが分かっていたら、あれほど悩むことはなかったのです。あらゆる宗教が全部間違いだったことが、イエスがやって来て分かるのです。信じるも信じないもない。宗教はあほらしくて信じられなくなるのです。

 イエスは絶学の人です。絶学無為の閑道人という言葉が臨済・黄檗禅の証道歌にありますが、これはイエスのことです。禅宗でもそういう人がいなければならないことが分かっているのです。絶学無為とは、学ぶべきことを学び尽したということです。本当の学問の真骨頂がイエスの復活です。本当の学問の真骨頂の現物が現われるのです。これには理屈も、何もない。ただ平伏するだけです。今そうなれる人は救われるでしょう。そうなれない人はイエス・キリストの再臨の前に皆滅ぼされるのです。

 阿弥陀という言葉がキリストの復活を指しているのです。阿弥陀とは無限という意味ですが、阿弥陀さんは歴史的事実ではないのです。宗教の観念にすぎないのです。無限、無限といくら言ってもだめです。

 イエスの復活によって無限が実証されるのです。

 

 パウロは次のように言っています。

 「神はこのような無知の時代を、これまで見過ごしにされていたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めなければならないことを命じておられます。

 神は義を持って世界を裁くため、その日を定め、お選びになった方によって、それをなし遂げようとされている。すなわち、この方々を死人の中から甦らせ、その確証をすべての人に示されたのである」(使徒行伝17・30、31)。

 

 イエス・キリストの復活を信じない人は、全員滅ぼされるのです。本当の命というのは、イエス・キリストを信じるしかないからです。

 義を持って世界を裁く日というのは、イエス・キリストの再臨のことです。キリストが復活したことが神の義です。キリストの復活が歴史の真ん中にやってくると、それに対抗できなくなるのです。これが義を持って世界を裁く日です。全世界の人間が復活によって断固として裁かれるのです。それが定められたのです。

 それが実行されるのが再臨の実体です。イエスが復活したという確証が西暦紀元です。イエスが復活したことによって、人間は死ななくなったのです。人間が死ななくなったしるしに西暦紀元があるのです。

 イエスが誕生したことによって、死なない命、永遠の命が地球に現われた。これは人間がすべて死なない命を持っていることの証明になるのです。

 ところが、まだ人間は死ななければならないと思い込んでいる。キリスト紀元が始まったという事実によって、仏国浄土は始まったのです。ですから、阿弥陀さんはいらないのです。極楽浄土が現われたからです。極楽浄土はもう地上に来ているのです。それにまだ死ななければならないと思っている。なぜそんなばかなことを思うのでしょうか。

 イエスが復活したということは、歴史的に確証されているのです。万人に保証を与えたのです。イエスが甦ったということが、人間が死ななくなったという保証です。キリスト紀元が始まったことによって、極楽浄土が地球に実現しているのです。もう人間は死ななくなっているのです。ところが、まだ人間は死ななければならないと思っている。

 キリスト以前には、キリスト紀元がなかったのです。キリスト紀元がなかったというのは、人間は死ななければならない状態だったのです。キリスト紀元ができたということは、神が人間の命に対して保証を与えたのです。これがキリスト紀元です。暦年算定の基礎にキリスト紀元が設定されたということは、神がこれを認めたということです。

 神が認めた以上、人間は死ぬはずがないのです。キリスト紀元というのはそういう強い意味があるのです。

 西方極楽浄土と言いますが、これは西方ではない。もう地球上に現われているのです。ところが、人間はそれを信じない。心を開いて神の保証を受け取ればいいのです。受け取らなければいけないのです。例えば、百万円の小切手がポケットの中にあるとしても、その裏に署名捺印して銀行の窓口に提出しなければ現金になりません。死なない命、永遠の生命の値打ちは百万円どころではありません。一兆円よりもっと価値があるのです。それを神がただで与えようとしているのに、なぜ受け取らないのでしょうか。それを受け取らなければ自分のものにはならないのです。神の保証を受け取らないからもらえないだけのことです。

 ところが、私のいうことは分からないと多くの人が言われます。分かるとか分からないとかいうことではない。受け取ったらいいのです。おのずからの人間がおのずから現われて、人間は死なないことを神が保証したのです。イエスを復活させたということは、人間は死ぬべきものではないということを神が保証したのです。

 イエスは十字架に付けられたことによって遺言した。この遺言を受け取ることができる者は誰か。イエスは自分の肉を十字架に付けたのです。イエスの肉が十字架に付けられたことを信じる者は、遺言が実現するのです。信じない者は実現しないのです。イエスの十字架によって肉の命がなくなったのです。しかし、肉の命がまだあると思っている人には、イエスの命が受け取れないのです。これが遺言の条件です。

 この遺言(New Testoment)を自分のものとするためには、キリストと共に十字架に付けられたことを認める以外にはないのです。これは辛いことかというと辛くないのです。自分がいるから辛いのです。

 例えば、病気になったとします。これは訓練のために与えられたのであって、病気という事実はないのです。どういう訓練かというと、キリストが十字架に付けられたことを、本人に知らせようという神の愛によって、病気になっているのです。神は病気を与えているのです。これを有難く頂戴すれば、その時、自分の肉はキリストと共に十字架についているということが認識できるはずです。

 この世において人間には、悩みとか苦しみは一つもないのです。キリスト紀元があるのに、なぜ人間は苦労しなければならないのでしょうか。ましてや、なぜ人間が死ななければならないと思うのでしょうか。

 地球上から死がなくなっているのです。これが復活によって人間に与えた神の保証です。神の保証を信じなくて何を信じるのでしょうか。神の保証は生命保険会社よりもっと確かなものです。生命保険会社は倒産することがあるかもしれません。神は絶対に倒産しないのです。神の保証は絶対に間違いない。ただ信じたらいいのです。信じたら直ちに与えてくれるのです。

 皆様はもう死なない人間になっているのです。これを受け止めさえすればいいのです。神の保証、天の保証を受け止めるのです。そうすると、事実になるのです。この保証は肉体が火葬場で焼かれても全然変わらないのです。魂に死なない命が与えられた保証ですから、肉体の生死には関係がないのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

​死なない人間になりました(上巻)

​著者 梶原和義

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