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悪魔は必ず自滅する

                          悪魔は必ず自滅する

 

 近世、現代の人間は本質的に救われなくなっているのです。近世文明というものが、偽キリストの世界になっています。偽キリストの世界に生きている人は、原則的に救われない人です。そういう状態から逃れて神の国に入るということは、難しいというより不可能に近いのです。

 神は人間を救わなければならない責任はありません。人間は悪魔の子としてこの世に生まれてきたのですから、この人間を救う責任は神にはありません。もし救われるとすれば、望外の喜びであって、ありうべかざることがあることになるのですから、有難いという程度のこととは違うのです。

 異邦人は天使が全く分からない人間です。天使が分からないというのは、霊的に物を見る資格がないということです。

 皆様は自尊心を持っています。自分という固有名詞の人間がいると考えている。これがもう救われない証拠です。これは悪魔の子です。

 

 イエスは言っています。

 「あなたがたは自分の父、すなわち悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。彼は初めから人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がないからである。彼が偽りを言う時、いつも自分の本音をはいているのです。彼は偽り者であり、偽りの父であるからだ」(ヨハネによる福音書8・44)。

 

 これが皆様の本性です。男は悪魔の子である上に、現代文明の洗礼を受けているのです。現代文明を誇っている。そういう傾向が見られるのです。

 女は基本的に男の面倒を見る状態に置かれているので、男ほど悪くないのです。これは人にもよりますけれど、現代教育を受けた文化人と言われる人々はだめです。世間並の女性はまだ取り得があると言えるでしょう。

 「人間は悪魔の子である」とヨハネは述べています。これは神から見れば明白な事実です。人間自身が承知しようが承知しまいが、悪魔の子です。現世に生きていることが悪魔の子です。

 「あなた方は自分の父、即ち悪魔から出てきた者である」。現在の人間は悪魔から出てきたのです。人間から出てきたのではないのです。人間ではなくて悪魔の子です。

 人間は前世で罪を犯したので、神の前に立つことができなくなった。

 罪を犯す前は神の子でした。神の子であることが私たちに分からない状態で、神の子だったのです。これは命というものの有難さ、重大さ、また、その大きさが分からない状態で生きていたのです。生きてはいたけれど、生きているという言葉が使えない状態でした。

 罪を犯しても仕方がない。むしろ、罪を犯さなければ神が分からない、哀れな状態だったのです。

 地のちりであった状態で、神の創世に参加させられていたのです。参加させられていたけれど、ちり自身は全然知らなかったのです。

 人間の意識は、経験する能力を与えられなければ、神の言葉の本来の価値も意義も分からないのです。

 経験することができないままの状態で、ただ神の前に置かれていた。神と一緒に、神の傍らに住まわせられていたというだけでは、神は分からないのです。

 そういう状態であったけれども、神の御心に従って、地のちりが天地の創造に参画していたように、地のちりであることが理解できた魂は、永遠に神の大経綸に参画するのです。そのために、人格が人間に与えられているのです。

 天地創造の以前に遡って考えると、神はまず人を造ったのです。その人をちりに帰らせた。地のちりの原点、原質、原態は人であった。

 神は人をちりに帰らせた。これは詩篇九十篇三節に書いています。人をちりに帰らせたのですが、その前はどういう状態であったのか、これが今の人間に分かっていないのです。

 イスラエルの人々に分かっていないのです。異邦人は神から見れば全くゴミみたいな、屑みたいな存在ですが、偉そうな顔をして生きている。自分の命があると思っている。悪魔面をしている人間を、神が相手にするはずがないのです。三文の値打ちもないというよりは、いること自体が邪魔になるのです。地球のゴミですからいること自体が邪魔になるのです。

 現在生きている人間は神から見れば全く地球のゴミです。いても益がないのです。神は人間が生きていることを認めたくないけれど、神を知るためには、死を味わなければならないのです。

 黒を黒として見る能力がなければ白が分からないのです。

 白とはどういうことか。白を知るためには黒を知らなければならないという事情がありますが、現代文明はそういう神の事情を全く知ろうとしていないのです。

 人間は聖書が分からなくても、自分自身の存在を冷静に内省すれば、分からないものでもないのです。

 現在の人間の本質は、地のちりです。地のちりの原態が人です。

 「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった」とあります(ヨハネによる福音書1・1)。

 言は被造物ではありません。言は生まれたのです。万物の一番先に生まれたのが言です。

 神の全能の性格から考えますと、全能者が何かを造ろうとすれば、造ったものが完全に役立つことを考えて造っているに決まっているのです。言を造った時に、言の受け皿が共に造られたに決まっているのです。言だけ造っても受け皿がなかったらしょうがないのです。

 人間の場合でも、何かの料理を作る場合には道具を用いなければならないのです。まず料理を作るための道具が造られて、その道具を用いて料理を造るのです。

 神が初めに言を生んだ時に、言が生まれなければならないような状態、条件が考えられたに決まっています。言が造られた時に、その言を聞いて理解することによって、宇宙構造に参画することを決定したに決まっているのです。

 神が神となることが、宇宙構造の目的です。宇宙存在の目的です。

 神が神となることなしに、宇宙が存在することは無意味です。そこで、神が神となるために必要な条件を整えるために、神が言を生んだのです。

 言を生んだとすれば、生まれた言の受け皿となる機能性が同時に生まれたに決まっているのです。もし受け皿が生まれていないとすれば、それを受け止めるものがいない訳です。

 もちろん神はそれを受け取ることはできますが、神を神とするために必要なものは、神以外のものです。神以外の存在、人格が神を神とするのです。それに該当するものが、神の受け皿として一緒に生まれたに決まっているのです。

 この受け皿に置かれたものがちりに帰らせられる前の人間でした。

 神は、神でないものがその本性を露呈するのを待っていて、その本性にしたいことをさせるのです。

 宇宙にある膿を出せるだけ出して、膿、バイキンができるだけ跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)する条件を与えている。その膿ができるだけ膨張して、その力が完全になくなったことを自覚するように仕向けているのです。

 自分たちがただの毒素でしかない、ただの無でしかないことを完全に悟って、自分たちの存在の虚無性を、自ら自滅することを神がねらっているのです。

 悪魔が自分自身の自滅を承知させられて、初めて、神が神となることができるのです。

 神に反する毒素がまだ働いている状態では、神が神となることを自ら潔しとしないのです。

 これを仏教哲学で言いますと、大無量寿経の阿弥陀如来の四十八の願があります。これは他力本願の思想の中で有名な哲学ですが、この中に、今私がお話ししたようなことが綿々と述べられています。

 聖書にはそういうことは書いていませんが、人間が自分自身の直感に基づいて、神の御心を拝察しますと、阿弥陀如来の四十八の願のようなものになってくるのです。それが良心の表面、理性の表面に浮かび上がってくるのです。これが人格です。一切の衆生が成仏するのでなかったら、神の御心が完成しないのです。

 受け皿である人間が何を受け取るか。どのように感じるか。これを被造物の中心構造に据えているのです。これが万物の初穂としての存在です。人の子という存在です。

 神は人を造ったのですが、造った人間を救おうとしていないのです。人間自身に勝手に考えさせているのです。神に反対したければ反対すればいい。賛成したければ賛成したらいいのです。

 全く客観的な条件で人間は生かされています。純粋に客観的な条件で、自由に判断できるような場に置かれている人間が、何を考えるか、悪魔に味方するのか、神に味方するのか、やりたいようにやらせているのです。

 悪魔に味方したい者はしたらいいのです。悪魔は火の池に行く者です。火の池は裁かれるという意味で、重要なポイントです。

 新天と新地があるのです。新地が火の池を意味するのです。これは現在の地球が毀れた後の来るべき世界をいうのです。

 来るべき世界は、神の裁きが土台になって現われているのです。現在の世界は、神が極めて公平な状態になっているのです。悪魔に見方しやすいようにできているのです。

 悪魔に十分に言わせておいて、膿や毒素をできるだけ出させておいて、悪魔自身が自分に失望して、自分が全く間違っていたことを自覚する時に、悪魔は自ら火の池に行かざるを得なくなってくるのです。

 悪魔が火の池に行かざるを得なくなった時に、神は自ら、私は神であると静かに言うのです。そういう人格が神です。

 神が神となること、神自らが神にならなければ、被造物全体が救われないのです。神が完全な神となる時に初めて、被造物が造られた目的をはっきり果たすことができるのです。

 その時、人間が人間であるということの本当の意味が分かってくるのです。動物は動物であることの意味が本当に分かってくるのです。

 現在、動植物という被造物は、植物が植物でなければならないことが分からないのです。動物が動物でなければならないことが分からないのです。

 山の中にいる猪が、戦々恐々として餌を食べに人里にやってくる。猪がやってくると、狐が出てこられなくなるのです。これが動物の悲哀です。これは全部人間の責任です。

 動物が戦々恐々としている。これを聖書は、「野の生き物は狡猾である」と言っています。

 狡猾というのは自分の存在を委縮して戦々恐々としている。そうしてできるだけ上手に立ち回って、自分の安全性を確保して、食べるだけ食べ、生きるだけ生きたいと考えることです。

 野の生き物にそういう狡猾さを与えたのは人間です。人間の根性で野の生き物を名付けた。そこで、馬や犬が戦々恐々とした性格を持つようになったのです。人間の名付け方が現在の動物の哀れさになっているのです。こういうことは皆人間の責任です。

 人間は実は一人しかいないのです。一人の人間が本当のことが分かれば、皆救われるのです。自分一人が完成することが、全人類が完成することですから、一人が完成すればいいのです。

 自分の完成は、全人類の完成を意味するのです。自分が不完全であることは、人類が不完全なのです。

 人間が前世において神が分からなかった。神が分からなかったことが不完全な感覚ですが、不完全な感覚のままで動物に名前を付けたのです。それが今の動物になっている。この動物が狡猾なのです。

 その中で最も狡猾なものがヘビでした。人間が動物に名前を与えたということが、既にヘビの性格に相通じるものがあったのです。

 人間の本性は、元来神に造られた被造物でしたが、神に造られた被造物であるということを考えないで、自分がいると考えた時に罪を犯したのです。

 私たちは今からでも遅くない。本当に自分を完成させたいと思うなら、自分がいるという考えをやめて、被造物であるということを考えて頂きたいのです。

 そうすると、神に対する正当な位置でのスタートラインにつくことができるのです。神に対面できるようなスタートラインに立つことができるのです。

 他人のことをあれこれいう必要はありません。他人をある場合には良い人にするが、ある場合には悪人にしてしまうのです。他人の長所を見ずに短所ばかりを見るのです。人を批判すると、悪い人ばかりを造ることになるのです。批判したければ自分を批判したらいいのです。

 神が天地を造ったということは、そこにすばらしい神の構想があるのです。神が神となることを目的としているのです。これが万物が造られた目的です。

 万物は時間、空間を現象する形で造られている。時間、空間を現象する形で造られてはいますが、本来現象するような形で現われるべきものではないのです。これは現われる必要がないものです。従って、現在目の前に現われている現象体は、実は現象体として現われる必要がないものばかりなのです。

 大体、地球が現象体として現われることが間違っているのです。不完全な時間、空間を通して、現象体として現われなければならなかったのは、理由があるのです。

 神が天使の働きを是認したということは、物理的な次元を認めなければならない理由があったからです。これは「闇が淵のおもてにある」ということから推論できるのです(創世記1・2)。

 天使長であった者が、己の思想に基づいて、淵のおもてという肉なるあり方を肯定した。はっきり肉の思いを創造して、霊なる神の思いに反するものを自分自身の内に想定した。こういう事実が、神の前にわだかまり始めたのです。

 ルシファーが天使長に任命された。彼は神の山で輝く存在でしたが、この彼が淵を想定したのです。それに執着し続けたことによって、たちまち地に落とされて闇になったのです。彼は自分の間違いを悟ることができないままに、淵のおもてに執着したのです。これが天地創造の始まりです。

 闇が淵のおもてに執着したことが、どうして、時間、空間が現象的に現われなければならなくなったのか。これを世界で説明した人がいないのです。聖書には書いていますが、それを人に話せるような読み方をしていなかったのです。

 天使長というものは、現在の宇宙を構成する上から見て、非常に重大な意味を持っているポストです。現象世界が、時間と空間によって組立てられているということは、天使の支配に委ねられていることを意味するのですが、その長である者が淵のおもてに執着することになりますと、その執念は現象世界というイマジネーションを醸成することになるのです。

 あることを想定しますと、その長の想定に従って、天使が働かなければならないことになるのです。現在の世代は明々白々に、時間、空間の世代です。

 

 聖書に次のように述べています。

 「人間が何者だから、これを御心に留められるのだろうか。人の子が何者だから、これをかえりみられるのだろうか。あなたは、しばらくの間、彼を御使いたちよりも低い者となし、栄光と誉れを冠として彼に与え、万物をその足の下に服従させて下さった」(へブル人への手紙2・6~8)。

 

 悪魔はイエスを十字架に付けたことによって、悪魔の立場がなくなったのです。イエスは肉にて殺された。全世界の代表であるキリストを、肉にて殺したのです。その結果、霊にて生かされたのです。

 霊にて生かされ、肉にて殺された結果、全世界の肉の原理が否定されたのです。イエスを十字架に付けて一番損をしたのは悪魔です。

 イエスを十字架に付けよと言ったのは悪魔です。悪魔が言ったとおりにイエスを十字架に付けた。その結果、イエスの肉は死んでしまったが、霊が生きたのです。

 イエスの肉は天下万物の肉を代表しているのです。これがキリストです。キリストは地球全体を代表する人格です。地球全体を代表する人格の肉を消したことは、地球全体の肉が消えたことになるのです。

 イエス・キリストを十字架に付けたことによって、色即是空がそのまま実現したのです。今は色即是空の時代です。これが般若心経に出ているのです。

 般若心経は聖書を論理的に説明しているのです。五蘊皆空、色即是空、究竟涅槃、空、空、空と言っているのです。

 現在の世界は全部空です。般若心経は十字架という言葉を使っていませんが、十字架の結果をそのまま東洋的な空という言い方で現わしているのです。般若心経は十字架を説明しているのです。

 十字架で悪魔は大失敗しました。ところが、現在のユダヤ人が十字架を受け取っていないのです。異邦人がいくら十字架を信じてもだめです。神の約束を与えたのは、ユダヤ人に対してですから、ユダヤ人が十字架を認めていないのは、神の処置を認めていないことになるのです。そこで、悪魔はまだ頑張る余地があると考えている。これが現在の状態です。

 ユダヤ人以外の人が、十字架を認めようとしていますが、ユダヤ人が認めていないために、十字架の栄光が地球に現われていないのです。

 そのために私は祈っているのです。イスラエルを回復してください。イスラエルに悔い改めをさせてくださいと祈っているのです。

 私はこれでいけないということが分かったのです。ユダヤ人が悔い改めなければ、十字架の原理が実現しない。イエス・キリストの十字架をユダヤ人が認めること、ユダヤ人が悔い改めることが、一番重大なことです。

 イスラエルの指導者であるモーセが、イスラエルをエジプトから引き出して、約束の地まで連れてくる使命を与えられたのですが、イスラエルの人々は、モーセをあたかもメシアのように受け取ってしまった。モーセはあくまでモーセであって、メシアであるイエスではなかったのです。

 イエスという固有名詞は、人間の命の本質を指しているのです。モーセという固有名詞は、イスラエルの民をエジプトから引き出すものです。

 モーセは民をエジプトから引き出すことはしたけれども、肉の状態から霊の状態へ引き出すことはしなかったのです。

 イエスは肉の人間を霊の人間に変えてしまった。私はイエスの真似をしているのです。イエスという固有名詞とモーセという固有名詞とは全然違うのです。

 現在、ユダヤ人が固有名詞どおりになっているのです。これはモーセ自身に、創世記の現実という根本的なテーマが、神の御霊による認識として印象されていなかったからです。

 モーセは自分が生きていると思っていた。自分という固有名詞の人間が生きていると思っていた。そして、現実的な肉の現象世界があると思っていた。この二つの誤りを犯していたのです。

 モーセはホレブの山において、燃える柴を見せられたのです。その時の態度を聖書で見ますと、固有名詞のモーセと、現象世界を実体とする肉の思いがあったのです。そこで、燃える柴を見ていながら、燃える柴を見せた神の心が分からなかったのです。

 自我意識と現象意識を捨ててください。その時初めて、皆様の心に神の国がやってくるのです。

 今皆様が見ている現象世界は、天使の長が肉の思いを持ったので、天使が肉の世界を現わしたのです。

 肉の世界の原形は、淵のおもてに固執した。淵のおもてに執念を持ったことが、現象世界の根底です。こういう思いを天使長が持ったことによって、天使たちが長の考えどおりの世界を現わしたのです。これが現象世界です。

 今の人間は、ヘビの言葉に従うことによって、天使長の思いと同じ思いを持たされているのです。人間は肉の思いを持っています。肉の思いを持っている人間が、現象世界を見ているから、現象世界が実体に見えてしまうのです。真実に見えてしまうのです。

 思いが世界を造るのです。イメージがイマジネーションを造ってしまうのです。人間はこれに引っかかっているのです。このことをよく考えて頂きたいのです。

 肉の思いが私たちの主人公になっている。肉の思いは悪魔からきたものです。悪魔からきたその肉の思いを、私たちは持ってしまった。これが今の皆様の脳波です。この脳波を変えなければ、現象世界が空にならないのです。

 この脳波をどうして変えるのかという問題を、「霊の思いは命なり、平安なり」と言っています。この原理を徹底的に追求して、肉の思いを霊の思いに切り替えるのです。

 そのために、イエスが死を味わったように、現世で矛盾と闘って、罪と闘って、血を流すという壮烈な生き方をしなければいけないのです。

 そこで、男は女の人に学ばなければいけないのです。男は女の人に尊敬の念を持つのです。現在の家庭的な悪さをはっきり裏切るのです。社会的な悪さを裏切るのです。これは死を味わうことです。これが日々十字架を負うことです。「日々十字架を負うて私に従ってきなさい」と、イエスが言っているのはこのことです。

 イエスは生ける神の子でしたが、肉の人間としてこの世に来た。これが死を味わったことです。

 パウロは、「おまえたちは罪と闘って血を流したことがない」と言っています。罪と闘って血を流すことを潔しとしない人、死を味わうことをしないままで、自分の肉を自分で殺そうとしないままで、のうのうと生きていたのでは、今の脳波は変わらないのです。

 人間が現在生きているのは、悪魔の子として生きているのです。現在の命は嘘の命です。肉の思いが嘘です。一度嘘を経験しなければ誠が見えないのです。

 今肉の人間は嘘を誠にして生きているのです。人間にとっての誠が実は嘘です。嘘か誠か、誠か嘘か、訳が分からないのが人間です。

 人間にとっての誠が嘘であることが分かる時に、初めて皆様は本当の誠を発見することができるのです。

 自分はいない。現象世界はない。神の御名、イエスの御名が救いだということがはっきり分かるのです。

 嘘が誠になる時に人間は滅びるのです。嘘が誠になって、今肉の思いで生きているのです。

 今生きているという人間の誠が、実は神にとっての嘘です。これを神は皆様に悟らせるために、皆様に神が聖霊を与えた。聖霊を与えられたその心で見る時に、今まで肉の思いで見ていたこの誠が、実は嘘であることが分かるのです。

 人格性を持っている者は、本来から言えば天使の上にある者です。人間は神の栄光と誉を持っている。天使は栄光と誉を持っていません。当然、物理次元の上に人格がなければならないのです。

 ところが、現在の人間は物理次元の下に置かれている。物理に勝つことができないのです。これは人間自身が死を味わうためです。

 死を味わうことによって、自分自身が生きているのではない。自分自身の人格や能力は神のものであるということを、正当に認識する時に死が消えてしまうのです。

 死を味わうというのは、矛盾撞着を押し付けられているということです。矛盾撞着を押し付けられて、これに服従する時に、人間の肉性は死んでしまいます。人間の肉性が死んでしまって、死を味わうことになるのです。

 

 パウロは、「死と闘って血を流す」と言っています。また、「あなたがたは、罪と取り組んで戦う時、まだ血を流すほどの抵抗をしたことがない」と言っています(へブル人への手紙1・4)。

 

 イエスは罪と闘って血を流したのです。これは十字架を意味するのではない。日常生活におけることを言っているのです。

 皆様の日常生活において、残念無念と思うことがあるでしょう。これは自分自身の心の血を流していることです。

 男が男面をしている。これは心に血を流すことを拒んでいるのです。自分が主人だと考えて、奥さんに偉そうな言葉使いをしているのは、血を流しているのではないのです。自分の原罪をそのまま突き出して威張っているのです。

 旦那面、男面がいけない。血を流していない。血を味わっていない姿です。

 現在の社会組織では、男が女の上に立っています。これが罪の社会の光景です。この状態を甘んじている人は罪に生きているのです。人間自身が悪魔の子として、悪魔の感覚をそのまま生活の原理としているのです。

 「おまえたちは悪魔の子である」とイエスが言っているのは、これを言っているのです。男が男面をすることが悪魔の証です。

 現在のこの世のしきたりを認めるということが、悪魔の子になることです。だから私は、男性にへりくだれと言っているのです。

 自分が男だと思って、偉そうに女の上に立つ資格があると思うことは、悪魔に同調しているのです。悪魔に同調することをやめなければ、私たちは天使の上に立つことはできないのです。

 イエスが血を流したということは、人生の矛盾を呑んだことです。矛盾を呑むということは、矛盾があるから仕方がないから、それを呑むという意味に考えると、間違っているのです。

 人性には矛盾があるのは当たり前という考え方がいけないのです。当たり前ということはない。そういう状態が現われるには、現われるだけの理由があるのです。原理、目的があるはずです。

 その目的を発見しようとしないで、ただ矛盾があるのは当たり前だと考えてはいけないのです。その故由を明らかにして、理性的に服従するのです。論理的に事がらの意味を承知して、自分を捨てるのです。呑むのではなくて捨てるのです。これが死を味わうことです。

 イエスはこれを実行したのです。イエスは矛盾を呑んだのではない。人間としてのプライドを捨ててしまったのです。自分自身を精神的に死なしめたのです。これが死を味わうということです。これをすると霊の喜びが湧いてきます。

 矛盾を呑んでも喜びは湧いてきます。仕方がないというあきらめもありますが、喜びは少ないのです。そういう不徹底なものではだめです。

 罪と闘って血を流すというのは、原罪に負けることです。自分は罪人であるという認識をはっきり持つことによって、自分のプライド、自分の言い分を捨ててしまうのです。潔く捨ててしまうのです。栄光と誉を持った人間を、天使の下に置いた神の処置を、自ら受け入れるのです。天使の下になるのです。自分が生きているというプライドを捨ててしまうのです。

 呑むのではなくて、現世における命のあり方を捨ててしまうのです。人間のプライドは人間の命です。人間の命であるプライドを捨てることは、死を味わうことになるのです。

 イエスはこれを実行しました。これがイエスの日常生活でした。

 

 イザヤはイエスについて次のように述べています。

 「彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、

われわれの慕うべき美しさもない。

彼は侮られて人に捨てられ、

悲しみの人で、病を知っていた。

また顔をおおって忌み嫌われる者のように、

彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。

まことに彼はわれわれの病を負い、

われわれの悲しみをになった。

しかるに、われわれは思った。

彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。

しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、

われわれの不義のために砕かれたのだ。

彼はしいたげられ、苦しめられたけれども、

口を開かなかった。

ほふり場にひかれてい行く小羊のように、

口を開かなかった」(イザヤ書53・2~7)。

 

 イエスは悲しみの人であって、病を知っていた。イエスはいつでも悲しみの人であった。うなだれて生きていた。決して頭を上げようとしなかった。これが生ける神の子の面目だったのです。

 生ける神の子キリストというと、いかにも威勢がいいように聞こえますが、実はうなだれていたのです。神の処置にうなだれた。天使に負けたのではありません。神がこのように仕向けたことに対して、イエスはうなだれたのです。

 彼は悩みを知っていた。病を知っていた。悲しみの人だったのです。これが十字架にかかる前のイエスでした。

 神は皆様にこれを要求しているのです。もし男性が自分の奥さんにうなだれることができると、女性は本当の女性になれるのです。男性が威張り返っている間は、女性は本当の女性になれません。

 女性が本当の女性になるかならないかは、男性がうなだれて暮らすかどうかです。男性が自分のプライドを捨てて、死を味わって、イエスのような態度を取るなら、その奥さんはすばらしい女性になるでしょう。愛の喜びをしみじみと感じるようになるでしょう。

 天地の創造のことですが、現世では時間、空間が表面に現われていますが、来るべき世界では、天使に世界を委ねていないのです。来るべき世界では、人に委ねようとしているのです。

 しかし、来るべき世界では天使が消えるのではない。新天新地にも天使はいますけれど、現象体として現われない形でいるのです。

 新天新地には、時間、空間はありません。天使が現象体として現われる必要がありませんから、時間、空間はないのです。

 新天新地の中心は人格です。パーソナリティーです。これが中心になる。これを信仰と言います。神の恵みがあふれるのです。

 人格が信仰に働くと新天の中心になります。新地というのは、人間の罪が永遠に燃やされるのです。神の恵みと神の裁きがはっきり分かれるのです。

 今の世の中では、神の恵みと裁きがごちゃごちゃになっています。何が良いか悪いか分からなくなっている。この時に、霊と肉をはっきり仕分けることができた者だけが、新天に入れるのです。やりそこなった人は、全部火の池へ投げ込まれるのです。

 時間、空間が現在では中心になっています。今の世界は天使の支配に委ねられているからです。

 天使長が淵のおもてに執着を持ち、その執念が現象世界というイマジネーションを創出することになったのです。

 時間、空間は、本来的には現象的に現われるべきものではないのです。しかし、天使長が淵のおもてに執着したことによって、彼のイマジネーションがそのまま天使の働きとして顕現することになったのです。天使長がそういうイマジネーションを持ったから、天使自身が全部従わねばならないことになったのです。これが創造の原理です。

 天使は肉ではありません。天使長が肉を造り出したのです。創造者は神です。神は霊であるけれど、その造り主の御旨が一つひとつ肉に翻訳されたのです。神の霊なる御心が一つひとつ肉なるものに変えられていった。これが創造です。天使長が霊なるものを肉に翻訳したのです。

 神の御旨が霊であっても、天使長が肉である場合には、光を現象的にしてしまうのです。命を現象的にしてしまったのです。これが天使長の仕業です。

 神の御旨が霊なるものであっても、これを顕現する者の思いによって、肉なるものに変えられてしまうのです。これを人間がしているのです。

 生きているということが霊であっても、自分の思いが肉であれば、その命は皆肉となってしまうのです。存在することの原理と、それを現われた形で受け止める思想とでは、一つにすることができないのです。

 ここに思いというものの不思議な世界があるのです。思いによって現われが変わってしまうのです。

 肉の思いは死である。霊の思いは命であり、平安である。思いを変えると、現象が変わってしまう。これを聖霊による清めというのです。

 創世記では、万物が現象的に現われたことを神が見て、良しとしたと書いています。ところが、心の中ではどう思っていたのか微妙です。

 神は悪魔の言うとおりに造らせた。それを良しとしたのは、悪魔を自滅させるために良しとしたという意味です。

 悪魔は淵のおもてという理想を持っていた。悪魔の理想がそのまま現象世界になっているのです。現象世界を造った責任者は悪魔です。

 現象世界はやがて行き詰ってしまいます。現象世界は完全に行き詰ってしまうのです。その時、悪魔はしまったと思うでしょう。現象世界を造ったことが、完全に失敗であったことを自認せざるを得ないのです。そこで、悪魔は自分で切腹せざるを得なくなるのです。

 悪魔はイエスを十字架に付けた。その結果、肉が死んでしまった。肉が死んでしまった結果、悪魔の立場がなくなったのです。そこで、悪魔は自滅せざるを得ないのです。

 神が悪魔に現象世界を造ることを許したのは、このためです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

​死なない人間になりました(上巻)

​著者 梶原和義

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