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イエスのくびき

                          イエスのくびき

 

 人間が必ず死ぬということ、これを考えることが一つの急所です。信仰を高揚するための一つの急所です。これは神が最も喜んでくださる急所です。

 神は人間を死ぬように造ったのです。これを弁えることは、神に非常に愛される急所ですから、これを真面目に考えて頂きたいのです。

 イエスは、「心の清い人たちは、さいわいである」と言っています(マタイによる福音書5・8)。これはハートにおいて無邪気なものと訳したらいいのです。ハートというのは気持ちです。無邪気になると、矢も楯もたまらないほど、おやじが恋しくなるのです。これをアバ父よというのです。

 アバ父というのはおとっつあんという意味です。アバ父という感覚を与えられる人は非常に少ないのです。

 おやじにむしゃぶりつくのです。幼児が父親にむしゃぶりつくように、神にむしゃぶりつくのです。母親である御霊は、後からどんどん押してくれるのです。

 男は女の純粋な気持ちを学んで、女は男にむしゃぶりつくという修行をしなければいけないのです。ところが、こういう女性になかなか巡り合わないのです。

 男が女に惚れる場合が多いけれど、これではいけないのです。なまぐさい場合が多いのです。

 女が男に惚れると、道成寺の清姫のような惚れ方をするのです。これは紀州に伝わる伝説で、思いを寄せた僧、安珍に裏切られた少女、清姫が激怒のあまりに蛇身に変化し、赤い火を吐く恐ろしい大蛇になり、安珍を追い続けた。そうして、道成寺で鐘ごと安珍を焼き殺すという物語です。

 こういう惚れ方が本当です。男が女に惚れるのはラスト(lust)であって、新約聖書では情欲と訳しているのです。しかし、ラストというのは情欲ではないのです。

 なりふりかまわずにむしゃぶりつくというのが女の本心です。そういう女性に巡り会うというのは、なかなか難しいことです。

 そういう気持ちになれる男に巡り会える女の人も、幸いな人です。これは女の中の女と言えるでしょう。そういう幸福に巡り合える男は、男の中の男です。

 神がアダムにエバを与えたのは、それを知らせるためです。恋というすばらしい感覚が、アバ父という子たる霊に変化していくのです。

 むしゃぶりつくような相手がいなくてもいいのです。女にそういう情熱があることを信じればいいのです。これはラストとは違うのです。

 ラストというのは戦争を好むような気持ちをいうのです。戦争をして勝つような気持ち、勝ちたいと思って戦争をするような気持ち、征服欲みたいなものがラストです。

 そういう気持ちが人間の情欲に変化しているのです。これが男性の性欲です。

 ところが、女性はそういう形で男性に征服してもらいたいという願いを持っているのです。

 本来の女性が男性を慕うというのは、人間の魂の中心を傾けるような感覚で慕うのです。これが本当の惚れ方ですが、こういう惚れ方は女性特有のものであって、男が神に惚れる惚れ方を、女性を通して男に教えているのです。

 人間が死ぬと思えることは、今死なない方へ引っぱられているからそう思えるのです。もし人間が本当に死ぬのでしたら、死ぬということを本気で思えないのです。

 人間は救われるということよりも、死ぬということを考えたらいいのです。簡単明瞭です。死ぬということを一生懸命に考えたらいいのです。そうしたら、分かるのです。

 女が本当に男に惚れると、自分のことは一切考えません。そろばん勘定をはじいて惚れるというのは、本当に惚れることとは違います。

 人間が神に本当に惚れると、自分のことは考えないのです。神のことばかりを考えるのです。自分のことを考えている人間は、まともな信仰ではないのです。

 心の清いというのを英訳ではpure in heartとなっています。ピュアーというのは素直、純真、純一という意味です。つまり無邪気なのです。色々考えていたら信仰になりません。

 考えていたら惚れられません。惚れるということが、神によりかかる第一原理です。惚れなかったら神は分かりません。惚れたら神に行けるのです。

 女に生まれたというのは、惚れるために生まれたのです。人間に生まれたというのは、信じるために生まれたのです。すべてのことを無邪気な、素直な、素朴な感覚で経験したらいいのです。

 神は人間の心に、非常に端的に神の恵みを悟らせるために、花を咲かせているのです。

 人間が毎日生きているということは、花が咲いていることと同じことです。花が咲いているということが、霊の世界を一番分かりやすい形で示しているのです。花が咲いているという世界へ、人間が入って行けばいいのです。

 人間が現在生かされていることは、花が咲いているのと同じことです。自分が生かされているという事実に気が付けば、花が咲いているという世界へ入ることは何でもないのです。

 目が見えること、耳が聞こえることが、花が咲いているのと同じことです。これが分かればその世界へ入っているのです。

 花が咲いている。自然に実を結んでいくのです。ところが、人間が生きていても実を結ばない。むだ花、あだ花ばかりです。御霊の実を結ばないのです。

 自分が生きていることに驚くのです。驚くことが実を結ぶ初歩になるのです。驚くということは御霊に感動することです。自分が生かされているということに驚くと、生かされているということが、花になって咲くのです。自分が生かされているという花が咲くのです。

 自分が生きている状態が、神が咲かせている花だと気が付いた時に、自分自身が花になっているのです。花になると実が結べるのです。花にならなかったら死んでしまうのです。実を結ばずに死んでしまうのですから、地獄へ送られるのです。むだ花になってしまうのです。

 かぼちゃ畑にさも似たり、あれもむだ花、これもむだ花となるのです。かぼちゃば畑の花は十個に一つくらいはかぼちゃになりますが、人間の場合はほとんどむだ花になるのです

 人間は衣食住のあり方において、神の子の栄光をそのまま生きることを許されているのです。神が人間の格好をしてこの地上で生活をするとしたら、今の人間がしているような生活態度をとるに決まっているのです。

 人間の衣食住のあり方は、神が肉体をとったのと同じ状態におかれているのです。人間が現世で生きているのは、神の子としての待遇を与えられているのです。これに気付かない人は、神の待遇を与えられていながら神を信じていなかったので、地獄へ放り込まれることになるのです。

 

 イエスは次のように言っています。

 「すべって重荷を負うて苦労している者は、私の元に来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。

 私は柔和で心のへりくだった者であるから、私のくびきを負うて、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。私のくびきは負いやすく、私の荷は軽いからである」(マタイによる福音書11・28~30)。

 

 すべて重荷を負うものは私の元に来なさいとあります。これは私の所へ来なさいとか、私の弟子になりなさいということではありません。

 私の元に来なさいという訳は間違っているのです。我に来たとはどういうことか。イエスそのものになれというのとは違っているのです。イエスそのものはイエス一人しかいないのですから、我に来たれというのはイエスという存在に来なさいと言っているのです。

 イエスの存在になら行くことができるのです。イエスの存在は神の御子としての存在ですから、これにはなれるのです。イエスと同じ存在になれるのです。同じ存在になったからと言って、イエスそのものになった訳ではないのです。

 私に来なさいという私とは、イエスという人間が生きていた状態です。その状態の中へ入って行くのです。

 二十九節を英訳で見ると、「おまえたちは私のくびきを負いなさい。そして、私に学びなさい」と言っているのです。先にくびきを負いなさいと言っているのです。

 イエスのくびきを負うとはどういうことか。キリスト教はこういうことを分からないままに鵜呑みにしているのです。イエスのくびきを負うとはどういうことかを全然教えていないのです。

 くびきは民族によって違います。日本のくびきは簡単なものですが、イスラエルのくびきは二頭を並んで動かすのです。

 くびきはどこまでもイエスのくびきであって、イエス以外の人間のくびきは存在しないのです。人間にはイエスのくびきがあるだけなのです。

 イエス以外の人間は全部罪人であって、人間は自分の肉性を負っているのです。そして肉の思いで生きているのです。原罪動物として生きているから、くびきにはなれないのです。自分自身が原罪動物ですから、原罪動物が原罪動物の生き方をするのは、当たり前です。これはくびきとは言えないのです。

 イエスは罪人ではなかったのです。言が肉となっただけです。罪人の形をとってこの地上に下った。性根から罪人とは違うのです。だから、罪の下に売られてはいないのです。

 イエス以外の普通の人間は、罪の下に売られている。これが肉体の人間の定めです。だから、一度死ぬに決まっている。死んでから地獄へ行くに決まっているのです。

 ところが有難いことに、イエスのくびきは言が肉となっただけですから、罪、死に関係がないのです。

 皆様が固有名詞の自分をやめてしまったら、イエスのくびきになるのです。固有名詞の自分であることをやめてしまうのです。自分自身の利害得失を一切捨ててしまうのです。これをパウロが言っているのです。

 皆様はキリストと共に甦ったのだから、古い人間は全然いないと言っているのです。罪人である人間はいないのです。私たちは原罪に関係がないのです。十字架によって死んだのですから、自分の名義の人生はなくなっているのです。

 肉体人間として生かされていますから、罪人の形はとっていますが、実は罪人とは違うのです。だから、肉は一切ないのです。責任を負わなくてもいいのです。これが有難いのです。だからパウロは、霊によって生きる私たちは、罰せられないと言っているのです。

 固有名詞の自分はいないのです。イエスが十字架にかかったことによって、罪人である人は一切いないのです。

 イエスの肉が十字架に付けられた時に、肉なるものは全部死んでしまったのです。今の人間は、イエスが甦った時に全部甦ったのです。皆様はもう死なないのです。人が一度死ぬことと、死んで裁きを受けることはないのです。

 皆様がイエスのくびきを負わないなら死にますが、負うなら死なないのです。死に関係がないのです。従って、皆様自身の得も損もない。焼きもちをやくこともないし、威張ることもないのです。

 新約の時代は旧約の時代とは全然違います。肉体人間はいないのです。肉体的に生きているが、これは言が肉となったのであって、肉体人間とは違います。肉の形をとっているだけです。

 従って、今まで五十年生きてきた、六十年生きてきたという自分に、きっぱり別れて頂きたい。すぱっと別れて頂きたいのです。奥さんと離婚せずに、自分ときっぱり別れるのです。そうすると、気楽になるのです。

 イエスのくびきを負うと、魂が休憩するのです。肉体を持っている自分はいないのですから、自分の生活について、自分の健康について、自分の救いについて一切責任を持たなくてもいいのです。

 「生きていて私を信じる者は、いつまでも死なない」とイエスが言っているのです(ヨハネによる福音書11・26)。イエスのくびきを負う者は、死なないと言っているのです。

 今の地球上に罪人は一人もいません。原罪動物はいないのです。それをいると思っているのが原罪です。固有名詞の人間がいると思っているのが原罪です。固有名詞の自分がいると思っている人は、必ず暗くなるのです。自分の利害得失を考えるからです。あの人は得だ、自分は損だと考えるのです。利害は一切考えてはいけない。考える必要がないからです。

 イエスを十字架に付けた時に、人間が全部イエスと共に死んでしまったのです。「あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたの命は、キリストと共に神のうちに隠れているのである」とパウロは言っています(コロサイ人への手紙3・3)。あんまり簡単に言いすぎて分からないのです。

 「あなたがたはキリストと共に甦らされた」のです。(同3・1)。キリストと共に甦ったのですから、自分のことを一切煩う必要はないのです。だから、死なない人間として生きるのです。死ぬ人間をやめるのです。

 イエスのくびきを負ってください。これは結構なくびきです。自分のくびきを負っていたら必ず死ぬからです。

 日本流のくびきは一頭用のくびきです。私は日本人だから、日本流のくびきを負うと言ってはいけないのです。ユダヤ流のくびきを負わなければいけないのです。

 人間はイエスが死んだ時に、一緒に死んだのです。イエスが生きた時に、一緒に生きたのです。イエスのくびきを負えば、彼と一緒に死んで彼と一緒に生きられるのです。イエスと一緒に行動するのです。ただくびきを負うか負わないかだけなのです。

 キリスト紀元は神の御心によってできた紀元であって、キリスト紀元ができたと同時に、イエスと共にすべての人が行動するように、神が命令したのです。だから、キリスト紀元になっているのです。

 キリスト紀元が始まった以上、死ぬ人間、死なねばならない人間は一人もいないのです。

 ところが、イエスのくびきを負わないから、「一度死に、死んだ後に裁かれる」となっているのです(へブル人への手紙9・27)。これはユダヤ人に対して言われているのです。ユダヤ人はキリストを殺したために神から捨てられたので、一度死んで裁きを受けなければならないのです。ユダヤ人にはこういう運命があるのです。

 有難いことに異邦人は死ななくてもよくなったのです。異邦人が死ななくなったのは、ユダヤ人が臍を曲げてくれたからです。

 だから、イスラエル回復のために祈らなければならないのです。イスラエルにご恩返しをするのです。今度はユダヤ人が救われる番です。絶対彼らは救われなければいけない。そうすると、神の約束が成就するのです。

 異邦人が救われた。ユダヤ人も救われた。そこで、神の国が成就するのです。それども、反抗する人間はしょうがないのです。

 死ななくてもよい方法は色々ありますが、イエスのくびきを負うという方法が一番良いようです。イエスの死を身に負えと言われても、なかなか受け取れないのです。イエスのくびきを負うというのが、一番分かりやすいのです。

 イエスは肉体を持っていました。しかし、肉に従って生きたのではない。肉に対して責任を持たなくてもいいのです。肉の自分が生きていると思わなくてもいい。ただイスラエルの回復だけを祈ったらいいのです。そうしたら、必ず救われるのです。

 世界中の人間にこのことが分かっていないのです。

 この世に肉体を持って生きている人間の歴史は、全部神のアニメーションです。神の漫画です。神は滅んでいく人間を漫画にして描いているのです。

 人間の歴史は千一夜物語のようなもので、こんな歴史があっても何の足しにもならないのです。ただ地獄へ行くだけです。

 ただ一つイエスのくびきを負うことに意味があるのです。イエスのくびきを負い、自分が生きるのをやめるのです。くびきというのは自分の運命です。イエスのくびきを負うというのは、イエスの運命を自分の運命とすることです。だから現世では悲しみの人になったらいいのです。

 イエスは「私は柔和で心のへりくだった者である」と言っています。英語のlowly in heartをへりくだった者と訳しています。これは肉体的にこの地上に生きている状態を卑しく見るのです。自分自身を卑しく見て生きるのです。だから、人に蔑まれて当たり前です。人に誤解されて当たり前、損をして当たり前と思うのです。

 自分がうまいことをしようと思って、自分を認めてもらおうとか、自分が楽になろうとか、自分が嬉しいような条件を与えられようと思ったらいけないのです。

 そう思ったら、イエスのくびきから知らない間に出ているのです。くびきを外しているのです。牛はくびきを自分では外せないのですが、人間は勝手に外すのです。これがいけないのです。

 くびきは自分で外したらだめです。イエスと運命を共にするのです。イエスの運命がそのまま自分の運命であることを黙って認めるのです。

 だから、この世においてイエスが人々に裏切られたように、人々に裏切られるのは当たり前です。冷淡に扱われるのは当たり前です。この世で苦労するのは当たり前です。

 イエスは悲しみの人で、病を知っていたとあります(イザヤ書53・3)。病を知っていたというのは、病弱な人だったとは違うのです。病というのは英文では非常に気の毒な状態という意味です。悲しい気の毒な状態となっているのです。それと仲が良かったのです。

 人から誤解されたり、裏切られたり、寂しい暮らしをしたり、自分のことは誰も分かってくれないという気持ちになったのです。当時、ナザレのイエスの気持ちが分かった人は、ほとんどいなかったのです。

 今でこそ私たちがイエスのくびきを負わして頂きたいと思うのですけれど、イエスが在世当時は、イエスの気持ちが分かった人がいたのでしょうか。ペテロやヨハネでも分からなかったのです。

 イエスが昇天してから、聖霊によって初めてイエスの気持ちが分かったのです。従って、イエスはこの地上では全く一人ぼっちだったのです。これが悲しいこと、寂しいことに仲が良かったということです。ただ天の父と交わっていたのです。

 今の人間はキリストのボディーとして、第三の天から派遣されているのです。従って、現在の皆様はイエスのくびきを負って、イエスと運命を共にする共同体です。これが天のエルサレムです。

 天のエルサレムの一人であることが自覚できれば、自分の頭はキリストであり、自分がキリストのボディーであることが分かるはずです。

 キリストのボディーとして生きるのです。そうしたら、絶対に死なないのです。イエスが復活してしまったのですから、殺そうとしても殺せないのです。死のうと思っても死ねないのです。これが分かって初めて、我らは常に勝利と言えるのです。

 イエスのくびきを負うと、この世では卑しい者であると自覚できるのです。これがへりくだりです。心が素直で、柔和で、自分自身が卑しい者であると思っていると、思い煩いはなくなるのです。思い煩いようがないのです。

 心が高ぶっているから思い煩いがあるのです。私は幸福になる資格があると思っているから寂しくなるのです。

 この世では幸福になる資格がある人間は一人もいません。このことを自覚すると初めて、永遠の幸福が分かってくるのです。

 イエスのくびきを負おうと決心すると、すばらしい世界が見えてくるのです。

 自分の気持ちを分かってもらおうとするから、苦しいのです。それよりもまずイエスの気持ちが分かったらいいのです。自分の気持ちを人々に分かってもらえなくてもいいのです。自分がキリストの気持ちが分かったらいいのです。このように運命を変えるのです。自分の運命を自分で変えるのです。

 心から自分が肉体的に生きている状態を卑しく思うのです。そうすると、楽になるのです。魂の休息を発見することができるからです。

 分かっても分からなくても、黙ってイエスのくびきを負うのです。そうしたら、霊魂の本当の休息を発見することができるのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

​死なない人間になりました(上巻)

​著者 梶原和義

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