top of page

意表と意内

                            意表と意内

 

 パウロは次のように述べています。

 「なぜなら、神について知りうる事がらは、彼らには明らかであり、神がそれを彼らに明らかにされたのである。

 神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。従って、彼らには弁解の余地がない。

 なぜなら、彼らは神を知っていながら、神として崇めず、感謝もせず、却ってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである。

 彼らは自ら知者と称しながら、愚かになり、不朽の神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたのである」(ローマ人への手紙1・19~23)。

 

 不朽の神の力が目の前に展開している。人間はそれを神の不朽の力と見ないで、人間がいる、鳥がいる、獣がいると思っているのです。これを肉の思いというのです。

 皆様がローマ人への手紙の一章十九節から二十三節をしっかり自分の中にたたき込むと、初めて自分自身の意表(前世の意識)に生きることができるのです。意表を生きるのです。

 現象意識は顕在意識であって、肉の思いの中の一つです。肉の思いの表面ではありません。神は人間に意表と意内(現世の意識)の二つの意識を与えているのです。どちらを取るのかということです。

 自分がいると決して思ってはいけないのです。自分がいると思う人は、自らその人は地獄行きを志願していることになるのです。

 人間の意表と常識が全く違ったものになっている。自分の意識の中に隠れている部分と、正面に現われている意識とが一致していないのです。これが人間生活の矛盾の基本的な原理になっているのです。これをどのように克服するかということです。

 これが克服できた人はとこしえの命が持てるのです。できない人は、気の毒ですが、火の池の厄介になるのです。

 火の池はどういう所かと言いますと、聖書に「悲しみ歯がみする」とあります。人間の霊魂がこの世を去ると、しばらく黄泉(よみ)にいます。黄泉があるのは、地球が物理的に存在している間、人間が生理的に存在する間です。

 被造物が現在の状態で存在している間は、火の池はありません。現世は性質が中途半端なものです。現世はあると言えるものはない。幻という状態であるのです。

 ノアの洪水以後のこの世は、虹の契約に基づいてあるのであって、現象世界は幻覚の世界です。異邦人の感覚では気の毒ですが、ノアの洪水の認識が全くありません。

 ノアの洪水の事件を考古学的に勉強している人がいますが、ノアの洪水は考古学の対象になるものではないのです。

 ノアの洪水が起きたアララテ山の頂上で、以前にノアの方舟の木片が見つかったという報道がありました。その木片がノアの方舟の木片であるかどうかを証明することはできるかもしれません。炭素の量を測定すれば年代も証明できるでしょう。方舟を見つけてもノアの洪水の事件を認識したことにはならないのです。

 現在の世の中はあやふやなものであって、洪水以後の人間社会は動物と同一視されているのです。生き物と人間は同じ生物の範囲になっているのです。

 人間は動物と同じ範囲だとは思っていませんけれど、神から見ると、人間と動物は同次元のものと見ているのです。

 

 洪水の後に神はノアに次のように言っているのです。

 「私はあなたがた及びあなたがたの後の子孫と契約を立てる。またあなたがたと共にいるすべての生き物、あなたがたと共にいる鳥、地のすべての獣、すなわち、すべて方舟から出たものは、地のすべての獣にいたるまで、私はそれと契約を立てよう。

 これは私と、あなたがた及びあなたがたと共にいるすべての生き物との間に代々限りなく、私が立てる契約のしるしである。すなわち、私は雲の中に虹を置く。これが私と地の間の契約のしるしとなる」(創世記9・8、12、13)。

 人間と生き物全体をひっくるめて契約を与えると言っているのです。これが虹の契約です。エバーラスティングコビナント(everlasting covenant)が、日本人には全然分からないのです。

 ユダヤ人はこれをひた隠しにしているのです。ユダヤ人はこれを知っていますが、これを表面に出すと彼ら自身のトリックが暴露するのです。ユダヤ主義の根底を直隠しにするために、洪水の後の虹の契約を厳密に隠しておかなければならない。そうしないと、ユダヤ主義の根源が成立しないのです。

 ユダヤ主義は現在の物理世界は存在する。肉体人間は存在することを前提にしているのです。ところが、現在の目に見える世界は存在しているとは言えないものです。現象しているというべきものなのです。

 現象していることと、存在していることとは違います。神は人間と生物を一つに見ているのです。現在ではユダヤ人も学理的には人間と生物を一つに見ているのです。皮肉なことに、学問的には神の見方と一致しているのです。

 肉体的に生きている人間は、生物的な存在と全然変わりません。生物には意表(前世の意識)はありませんが、人間はあるのです。

 生物には前世がありませんが、人間には前世があるのです。これは大変な違いです。ここに人間存在の深い意味があるのです。

 現実の人間は生活することを第一義にしています。生活とは人間が生きている状態を上品に言っているのです。生存とは言っていません。生活費という言葉はありますが、生存費はないのです。言葉でごまかしているのです。今の人間は生存しているだけで生活していないのです。

 生活というのは生に生きることをいうのです。生命の本質を生きるというなら、生に生きなければならない。例えば、イエスのような生き方をいうのなら、生活になるのです。

 今の人間はただ肉体的に生きている。肉の人間の状態を継続することを生活と言っていますが、これは生活と言えるものではない。ただ肉の生活を継続しているだけなのです。

 人間は理性を持っていますから、内容的には生活と言える状態にありますが、それを全く認識していないのです。これは正確に言えば、理性によって生きているというのではなくて、知性によって生きているのです。

 理性というのは意表のことです。本当の理性は人間の意識の表です。ところが、人間の常識、知識はすべて意識の内側のことです。肉の思いに属することで、これが意識の内側です。意裡になるのです。

 意識の表は人間の命の面、霊なる面を指すのです。これは前世的な段階における人間の意識構造の根底を指すのです。これが理性です。

 神の言葉に基づいて人間の理性は構成されています。これが前世における人間の状態です。これを今の人間は持っているのですが、全く忘れているのです。

 現在、人間の五官は意表で生きています。食べていること、見ていること、触れている感覚は意表です。説明できないのです。これで人間は生きているのです。

 愛する者どうしが抱擁する。これが意表です。意表を実行しているのです。わくわくする、どきどきするのはどういう感覚か。前世を現世で体験するからわくわくどきどきするのです。

 人間の五官は前世に基づいて働いている。このような意表的生命を、人間は現実に行っているのです。

 なぜどきどきするのか。一体何に感激しているのか。心臓が働いている原点は意表です。第六感が意表です。これが分からないのです。実はこれが本当の命です。

 現在人間は五官に基づいて生きているのですが、生活している方は五官に基づいていない。利害得失に基づいて生存している。これが生活です。

 五官は善悪利害ではありません。どきどきする方で生きているのです。前世での経験で五官が働いている。これを生きているというのです。

 仕事をしているのは、現世の善悪利害の社会生活に基づいているのです。これが生活です。生活している原理と、生きている原理が全然違っているのです。これを一つにしたらいいのです。

 人間は生きるために生活しているのです。生きるために仕事をしているのであって、仕事をするために生きているのではありません。皆様の心臓が動いているのは、仕事をするためではありません。心臓が動いているために仕事をしているのです。

 米の飯とお天道さんはついて回ると言います。米の飯とお天道さんが生活の原理になっているのです。

 現在の人間は生存するために生きているのです。これが文明構造の基本原理です。文明という言葉自体が生存を意味するのです。生活を意味しません。

 文明は直接的には生存を意味します。間接的には生活も意味しますが、生存概念は全部火の池に放り込まれる概念です。

 今の全世界の人間は、こぞって地獄行きのために生きている。そういう生活状態になっています。これをおかしいと思わないのかと言いたいのです。

 文明主義というのは、人間全体を火の池へ送り込むための主義です。こういうことを始めたのは、近世のユダヤ人です。ユダヤ人の誤ったメシヤ思想によるのです。

 ユダヤ人はメシヤを迎えるために生きているというでしょう。メシヤというのは人間の命の主、命の根源、命の完成を意味するのです。そのようなメシヤを迎えるために生活一辺倒になる。これは命を迎えるために、命を無視することになるのです。

 ユダヤ人がソロモン王の再来、現世の王のようなものをメシヤと考えているなら、これはユダヤ人の見解の狭さを示しているのです。

 メシヤという言葉を人間の生活の実体、または当体を基準にして考えている。これは神の約束の根本的な考え違いからきているのです。

 神の約束は地球を完成することです。神の御座を完成することです。神が神となることです。神が神となる時に、人間の命が本質を持つことができるのです。

 神を神とすると人間の命が命となるのです。生命の実体を完成することなくして神の完成はあり得ないのです。これがメシヤの本当の認識です。

 ところが、ユダヤ人はメシヤが現世で王となり、人間の生活を楽にすることが目的であると言います。そうすると、神の国を実現する必要がないのです。この世の国だけでいいのです。

 ユダヤ人のメシヤ思想は、現世における経綸経営しか考えていないのです。現世における経綸経営というのは肉であって、神は現存する地球を育てるために地球を造ったのではないのです。万物を完成するために、まず未完成の地球を造ったのです。

 未完成の地球が現存するということは、未完成の地球がアウフヘーベンされて、完成した地球を実現することが目的です。

 地球は弁証法的に存在しているのであって、現存する地球がそのまま完全な地球であるという論理は、歴史的にも、論理的にも、哲学的にも成立しない理屈です。

 現存するということ自体がテーゼであって、これに対してアンチテーゼがなければならないのです。イエスの復活がアンチテーゼになっているのです。

 イエスの復活という事実と、現世における人間の命とを突き合わせるとジンテーゼが実現する。これが神の国の実現です。

 神の国を実現することを前提として、約束という言葉が使えるのです。約束は未来における完成を意味する言葉であって、現実的な存在が完成であれば、約束する必要がないのです。未来のない約束はないのです。

 ユダヤ人はどこまでも自分の自我意識を強調するために、あえて宇宙的な論理を否定しているのです。自我意識を守るために、あえて宇宙的な論理の根源を無視しているのです。これがユダヤ人のメシヤ思想です。

 現世の地球において、理想的な王が現われたとしても、地球そのものは永続するものではないのです。やがて石油がなくなり、鉄もなくなるでしょう。色々な鉱物資源が枯渇する時がくるのです。

 そうすると、地球存在の物質状態が変化することになるのです。そうして、恐るべき現象が地球に起きるでしょう。空気と地球の関係、太陽と地球との関係のバランスが崩れてしまうのです。

 それほど人間は地球を荒らしてしまったのです。無限に砂漠が拡大しているのです。地球全体が砂漠になる危険性があるのです。人間はそういう愚かなことをしているのです。

 石油がなくなる。石炭がなくなる。鉄がなくなる。地球を構成する重要な物質がどんどんなくなると、地質が激変するのです。それが空気に影響するのです。また、水にも影響するでしょう。その結果、地球そのものが滅びることになるのです。

 これは非常に大ざっぱで、正確さを欠いた言い方になるかもしれませんが、地球を食い荒らしてしまえば、食い荒らされた地球が人間に敵討ちを始めるでしょう。食い荒らされた地球が人間を食い荒らすのです。自然をばかにすると大変なことになるのです。

 今のユダヤ文明は大自然をばかにしているのです。食い荒らすだけ荒らして、自分たちが生きている間は大丈夫だろうと考えるのです。

 自分たちが生きている間、何とかなればいいのです。五百年後、千年後の地球がどうなるのか。そんなことは知らないというのです。無責任な政治、無責任な経済、無責任な学問が横行跋扈している。これがユダヤ主義です。

 ユダヤ人は神が万物を造ったと言います。工場で製品を造るように、神が万物を造ったと言います。これは大間違いです。創造の原理は神の言葉が万物の原理になっているのです。神が言われたので万物ができたと創世記の一章に書いているのです。

 神の言葉が万物になっているのであって、万物それ自身の存在が、神の存在を明白に証明しているのです。これが約束の原理です。

 地球が地球であること自体が、御霊の働きを証明しているのです。「御霊出る時、百物皆造る」と詩篇百四篇三十節に書いていますが、神の御霊の働きと百物の命が一つであることを、はっきり書いているのです。これをユダヤ人は知らないのです。

 現在の文明は人間が生きることを理想のように考えていますけれど、人間が生きることがなぜ理想に思えるのでしょうか。現世で楽しむことが目的ではない。生きていることの中から、永遠の理想を引き出すことが目的ですから、生きなければならないのです。

 命を保つために生きているのであって、生活するために命があるのではないのです。

 生きるということのために生活があるとすれば、生活とは命そのものを尊ぶこと、命そのものを確認することを目標にしなければならないのです。

 ところがおかしいことに、現代文明は生活することだけしか考えない。命を見つけること、命を尊ぶ方向に進もうとしないのです。

 生活そのものが目的であるとすると、何のために生活があるのかという問いかけに答えられないことになるのです。目的なしの生活があることが、現在の世界の文明に、言葉では言えない大きな不安があることを示しているのです。

 人間の文明は何のためにあるのか。誰も教えてくれません。ここに現代政治、現代経済の非常に深い心配の原因があるのです。

 何のために政治を行うのか。何のために学問を敷衍するのか。目的が分からないのです。人間生活に目的を持っていない。そこで、夜の思想が出現するのです。夜の思想は真っ暗な思想です。行き先不明です。現実だけを楽しもうという思想です。

 夜は人間に肉の楽しみを与える時間です。肉の楽しみにふけることによって、行き先真っ暗であることをごまかそうとするのです。これが夜の思想です。

 夜の思想が大流行しているのです。夜の思想が暗いので、むやみやたらにロボットを造ってみたり、未来の生活構造を造ったりしているのです。それを希望にするしかないのです。

 人間の未来の生活は明るいと、戯言のようなことを言うのです。生活様式の進化でごまかしているのです。

 生活様式の進化が人間の命の本質に何のプラスがあるのかです。それは生存の目的にはなりますが、生活の目的にはならないのです。

 人間が生きていることについて深く考えようとしない。ただ生存することだけに、今の文明は頭を使っているのです。今の政治経済は何をしているのか。生存することだけです。命の本質について開眼することを全然考えていないのです。正法眼、つまり、正しいことに目を開くということが全然考えられていないのです。こういうことですから、文明という言葉が果たして使えるかどうかです。

 シビリゼーション(civilization)という言葉を日本語に訳したのですが、これが必ずしも文明という言い方にならないのです。これは文化的とか、文物主義になるでしょう。文化とか文物というものが、生存主義を基準にしているのです。

 生存主義における生存文化はあるでしょう。しかし、命を考える意味での文化は今の文明にはありません。生存を考えるための文化はあります。そういう愚劣低劣な文明です。

 これをユダヤ人は文明と言い張っていますが、ユダヤ人自身が本当の文明ではないことを知っているのです。知っているけれども、そう言わなければならないのは、彼ら自身の精神的な行き詰まりがあるからです。

 ユダヤ人は生活するために生きているという強引な理屈を展開して、自分自身のメシヤに対する感覚をわざと無視しているのです。人間の意表が存在することを、ユダヤ人は敢えて踏み潰しているのです。

 人間には思いのほかという事実があるのです。目未だ見ず、耳未だ聞かず、人の心未だ思わざる所が、神と人との係わりの原理です。

 人の心に思い浮かばなかったことが意表です。人間は心に思い浮かびもしなかったことに基づいて生きているのです。

 人の心に思い浮かびもしなかったことを目標にしている。これが恋愛です。家族の団欒は、人の心に思い浮かびもしなかったことを楽しもうとしているのです。

 理想主義の国家経営とか、文明の最終の豪華な光景を頭に置く時に、プラトンのイデアの世界のようなものを空想せざるを得ないのです。

 これが人間の感覚であって、仏教の仏国浄土というのも、キリスト教の王国も皆同じです。こういうことを現代の文明は考えていないのです。

 文明は理想を持っていない。現実主義、生存主義が文明の基礎になっている。そこで生きるという事実がなくなっているのです。生存しているという事実ばかりになっているのです。

 生存していることは生きているということを意味しないのです。生存していることは、やがて死んでいく人間の状態を無意識に承認してしまっているのです。死ぬに決まっている人間の肉の思いを表看板にしているのです。肉の思いを看板にして、堂々と開き直っているのです。

 神なんかあるもんかと言っているのです。神は天にいる。地には物質を造ったと考えるのです。

 神は万物になっているのです。これが創造の原理です。神の言葉が万物になっているのが、天地創造の原理です。これをユダヤ人は信じていないのです。

 約束の本義を弁えようとしないままで、彼らは約束の民という王座をしめている。全世界の指導民族という王座をしめて、その座を譲ろうとしないのです。

 自分たちの民族の肉的な思想によって全世界を指導することが、異邦人のためであると考えているのです。唯物主義の極端な生存主義を人間に押し付けることが、ユダヤ民族の救いであると考えている。こういう愚かな断定を、私たちが呑まなければならない理由はどこにあるのかと言いたいのです。

 ローマ人への手紙の第一章について私が言いたいことは、人間は地球に生まれる前に、とこしえからとこしえに到るまで、神を住み処にしていたということです。エホバが人間の霊魂の前世です。

 時間が流れていること、空間が存在していることを、私たちは今経験していますが、時間や空間が物理的に現われる前の状態を、神の前世という言葉が使えるのです。

 人間に前世があるように、神の前世があるのです。これを世の基いを置かぬ前というのです。世界が始まる前です。世界が始まる前という状態で神があったのです。

 その神が今世界として現われている。物理的現象として現われている。前世の神と現世の神があるのです。私たちの霊魂にも、前世の魂と現世の魂とがあるのです。これが人間の命の本質です。ここに人間の意表の原理があるのです。

 福音は目未だ見ず、耳未だ聞かずであるとありますが、生まれる前に見ていたのです。聞いていたのです。現世の人間から見れば、目未だ見ず、耳未だ聞かずですけれど、霊魂は神の福音の原質を知っているのです。

 神の約束の本当のあり方を人間の霊魂は知っているのです。人間は知らないが霊魂は知っているのです。これを神から改めて与えられたのです。

 神の国は現世の人間が見れば、人の心未だ思わざることですが、前世の人から見れば、当然経験していて、そうあるべきはずの完全な状態です。これが神の国です。

 現世にはあるべきはずのものがありません。命がないし、知恵がない。本当の栄光がない。本当の安心立命がどこにもないのです。こういうものを文明主義という名によって、人類に押し付けているのです。

 人間は造られたものによって、神が神であることが分かっているはずです。人間は世々神を住み処にしていたのです。人間の理性の本性に従って被造物を見れば、そこに神がいることがはっきり分かるのです。これをパウロは言っているのです。

 「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである」(ローマ人への手紙の1・20)。

 

 神の永遠の力とは、物質が永続的に存在するように見えるのです。永続するような形を持っているのです。永続するような形を持っていなければ、創造とは言えないのです。

 創造とは何か。闇が淵の表に座り込んだことを、神が逆手に取ったのです。淵の表に座り込んでいる天使長がいる以上、淵の表を現わすことをしなければ悪魔が協力しないのです。天使長が協力しなければ成立しないのです。

 天使長に協力させるために、神は敢えて淵の表を呑んだのです。これが永遠の力になって現われているのです。だから、同じようなものが継続的にあるように見えるのです。

 人間の肉性で直感すれば、物質が永続するようにしか見えないのです。人間の目は肉の目です。肉の目はそのまま悪魔自身の目です。物質を見て実体的に存在すると思って悪魔が満足しているのです。

 悪魔が満足するように、デカルトが満足したのです。物質が永続するというデカルトの心理状態が、ヘビの言葉を呑んだ人間の心理状態です。

 物質は永続していない。永続していないのが物質の状態です。ところが、永続しているようにしか見えないように、神が設計、創造しているのです。神の設計が悪魔と人間に永続しているように見えるのです。これが神の永遠の力(everlasting power)です。これが第一創造の原理です。

 第一創造は天使長と言われる悪魔に満足させること、そして、悪魔を自滅させるために造られたのです。悪魔が満足したことによって自滅するように、神が仕掛けているのです。これが第一創造の原理です。

 悪魔は闇ですから、人間の言葉は聞こえません。私が悪魔の根性をぼろくそに言っても、悪魔には全く聞こえないのです。

 「暗きはそれを悟らざりき」とあります(ヨハネによる福音書1・5)。英訳では、the darkness apprehended it notとなっています。直訳すれば、闇はそれを全く理解しなかったとなります。今私たちは聖霊によっていろいろな知恵を与えられて、悪魔をぼろくそに言っていますけれど、安心して悪魔をぼろくそに言えるのです。なぜなら悪魔は人の言葉を聞きわける能力を持っていないのです。ただ自分の意識を人間に強制しているのです。人間の言葉を理解することはできません。そこで悪魔が負けるのです。

 現代の専門学は悪魔の意識を人間に押しつけているのです。聖書を学んでいる私たちの発言、発想を悪魔は予知できないし、察知することができないのです。だから、安心して悪魔の悪口が言えるのです。

 悪魔の本性を知って、悪魔の弱点を叩けばいいのです。悪魔は自分の意識に自惚れすぎているのです。今の文明に服従している人間は、文明意識に溺れきっているいるために、自分自身が反省することができなくなっているのです。

 現在の人間の霊魂は拘束されているのです。束縛されているのです。ですから、反省できない人間になっているのです。特に専門学に従事している人間、教育に従事している人間は、自分自身の霊魂の状態が硬化しているのです。錆鉄のようになっているのです。だから、現代の文化文明の形式は、完全に悪魔の手の内に握られているのです。

 物質が永続していることは人間にはよく分かっています。家が継続して、これからも何十年あるでしょう。家が何十年もあるということは、物が永続していることの証明になるのです。だから、物はある、神はないと思うのです。

 神の創造というのは、全知全能の神の力が物質に化けているのであって、物質のあり方がそのまま神の栄光を現わしているのです。

 物が永続しているのは、神の永続する力が働いているからです。これがエバーラスティングパワー(everlasting power)です。神の永続する力が物質に働いているから、物質が永続しているように見えるのです。

 一方物理運動を考えると、物質は存在していないはずです。瞬間、瞬間の原子運動があるだけです。瞬間的な原子運動はありますけれど、物質が存在することはあり得ないのです。

 神の力は黙って物質を永続させているのです。有無を言わさずに物質を永続させているのです。この状態が現象世界になって現われているのです。この現象世界に悪魔が満足しているのです。

 人間は永続する力だけを見ているのです。実は物質を見ていないのです。物質が存在するというのは、御座の力、御座から出続けている電気の働きです(ヨハネの黙示録4・5)。この働きがそのまま物質の永続になっているのです。

 父なる神の御座から出る電気と、それを永続している形で持ち続けている御霊とが、正反対の働きになっているのです。正反対の働きが三位一体の神の中にあるのです。これを人間の本性は知っているのです。

 三位一体の神がそういう矛盾した働きに見えることを、人間は生まれる前に経験していたのです。それを今の人間が理性的に承知しているのです。

 瞬間、瞬間に働く神の全能力と、永続する全能力と、二つのものが矛盾した格好で現われている。このことを人間の霊魂は知っているはずです。

 ちりであった人間が神の元に住んでいた。ちりであった時に、神の御心に従って神と一緒に万物を造っていた。だから、人間は神の永続する力がはっきり分かっているのです。また、瞬間、瞬間に働く御霊の作用も知っているのです。

 電気の働きを知っている人間は、その正反対の現象もまた知っているのです。

 人間が神を知っているという意味で、これが人間の意表になっているのです。こういうことを神は人間が生まれる前に経験させていたのです。

 皆様方は自分の意表という面をよく見ると、神の秘密が皆分かるのです。神の神たることが皆様の意表の中に隠れているのです。

 実際、現在物質は永続しているように見えますけれど、これは悪魔を廃嫡(はいちゃく)するための神の手段なのです。淵を一時的に形成することによって、悪魔を自滅させる神の最高方針が隠れているのです。

 現存する地球は自滅するためにあるのです。地球は消えてしまうためにあるのです。地球が消えてしまう時に、悪魔自身が没落してしまうような仕掛けができているのです。そのような途方もない時限爆弾が、地球に仕掛けられているのです。

 被造物の気持ちをよく考えて、自分の肉体を神の器であると考えるべきです。

 これが分かっていれば、人間の霊魂が神の内に住んでいること、人間の霊魂が天地創造の昔から、神の内に住んでいることが分かるのです。そうして、現在展開している万物と一緒に、人間の霊魂があること、神の絶対的な創造の力と人間が生きている力が一つであることが分かるのです。

 生きていることは意表(前世の思い)です。これが霊の思いです。生活しているのは意内(現世の思い)です。これが肉の思いです。思いの内で生活しているが、意識の表で生きているのです。

 思いの中の生活と、思いの表の命と、二つのことを人間は経験しているのです。

 悪魔を自由にひねることができる力が、人間には備えられているのです。神と同じ考え方、神と同じ素質の力を人間は与えられているのです。自分の霊のことを考えればいいのです。

 「霊の思いは命である」とパウロが言っているように、霊の思いは意表です。これに気が付けば、私たちの命は死ぬものではないことがよく分かるのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

​死なない人間になりました(上巻)

​著者 梶原和義

bottom of page