top of page

​隠れた部屋

                             隠れた部屋

 

 イエスは次のように言っています。

 「あなたは祈る時、自分の部屋に入り、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れたことを見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう」(マタイによる福音書6・6)。

 

 第三の天のイエスの御名において祈るというのは、生かされているという事がらにおいて祈るのです。自分の肉を捨ててしまわないと、生かされているということがはっきり分かりません。

 キリスト教はお祈りごっこをしているのです。祈るということは、自分の部屋に入って父なる神に祈るのです。自分の部屋に入るということは、自分を捨てるということです。

 自分のリビング(living)というのは、生かされているという霊なることを指すのであって、インナチェンバー(inner chanber)という隠れた部屋です。

 自分が生かされているというその部屋に入って、父なる神に祈るのです。これが祈りの原則です。

 イスラエルに対する祈りというのは、父なる神に訴えて、彼らの不信仰、宗教観念の間違いを訂正してくださいという勝手な願いをするのです。

 大体、ユダヤ人のことは、神が聞かないのです。聞いてくれないのが原則です。神がユダヤ人を捨てたのです。もし神がユダヤ人を捨てていなかったら、ナチスドイツによって七百万人のユダヤ人が、ガス室で惨殺されるということが絶対になかったのです。この神の御心を変えて頂くために祈るのですから、特別にインナチェンバーで祈らなければだめです。隠れた部屋に入って、自分の戸を閉じて祈るのです。これができない者は、イスラエルについての祈りができないのです。

 まず隠れた部屋に入ってください。神に物申すという厳粛な祈りですから、隠れた所にいます父にお目にかかるのです。

 生かされているという不思議なことがあります。生きているという不思議なことが神です。生きていることの中に入っていない者は、死んでいるのです。これが隠れた部屋であって、天にいます私たちの神に祈るのは、これでなければいけないのです。

 自分がいないということは分かり切ったことです。人間は死ぬに決まっているのです。これを聖書では、「人間が一度死ぬことと、死んだ後に裁きを受けることが、人間に定まっている」と書いているのです(へブル人への手紙9・27)。

 人間は必ず死ぬものであり、死んだ後に火の池に行くのです。これは決まっているのです。これが人間です。こういうことは皆知っているのです。火の池に行くということは知りませんが、死ぬということは分かっているのです。

 人間の人格は宇宙人格(ペルソナ)の延長であって、これが人間に与えられているパーソナリティーです。ペルソナとパーソナリティーは同根です。

 ペルソナの本源がインナチェンバーにあるのです。私たちの隠れた部屋というのは、私たちの人格の本源のことです。

 女は先天的なコンプレックスがありまして、女だけで隠れた部屋に入ろうとしないのです。

 インナチェンバーが皆様の人格の基礎です。人格の基礎が父なる神です。隠れたる部屋にいます皆様の父はいるに決まっているのです。

 皆様の人格の根源が隠れた部屋です。男は二重人格です。男であるという部屋と、自分がいるという部屋と二重になっていますから、少々面倒です。女は一重だから入りやすいのです。

 人間は生きていても死ぬだけです。一度死ぬことと、死んでから地獄へ行くことは決まっているのです。自分を捨てない人は、死ぬことと、地獄へ行くことに同意しているのです。こういう人はイエスを勉強する必要がないのです。

 自分が生きているという行き先には、光明は全くありません。これを考えたら、自分が生きていることが無駄であることぐらいは分かるはずです。自分が生きていることが全く無意味です。

 人間は自分が救われなければならないと考えるのです。これが間違いの原因です。

 自分というのは二重になっていまして、インナチェンバーとしての自分と、世間並に生きている固有名詞の人間とがいるのです。隠れた部屋の人格としての自分と、世間並に生きている固有名詞の人間とがいるのです。

 世帯主であるとか、日本人であるとかいうのは、死んでしまうに決まっている自分です。これはこの世の人です。この世の人は死ぬに決まっています。生きていても何にもならないのです。

 文化論はこの世的には間違っていません。しかし、人格の本源から考えると間違っているのです。これをいくら勉強しても何にもなりません。ただ重荷になるだけです。

 自分の隠れた部屋はあるに決まっています。これが人格の本源で、そこに父がいるに決まっているのです。父がいる隠れた部屋を持っていながら、その部屋を基礎にして考えようとしない。世間並の人間として考えようとしているのです。世間並の人間も、隠れた部屋に関係があるように考えている。これが間違いです。

 形態的、世間並に生きている人間は、全く肉の自分であって、霊の自分とは何の関係もない。そんなものに聖書を信じさせる責任も義務もないのです。黙って固有名詞の自分を見切ってしまえばいいのです。これができない人は、父なる神にお目にかかることができないのです。

 女の人は人の妻になると精神的に死んでしまいます。母になることは、必ずしも死んでしまうとは言えないのですが、妻になるというのは、肉性を持つ女が現世で生きなければならないコースです。これを認識してしまうと、女は死んでしまうのです。

 どうしたらいいのか。恋愛をするのです。これ以外に方法はありません。恋愛において復活するしかないのです。

 夫婦という感覚が最も悪いのです。妻であること、母であることをやめなければいけない。男は自分の妻を女にしなければいけないのです。

 夫婦になったらしょうがないですから、これから出ればいいのです。社会的な習慣で生きているのは、インナチェンバーと関係がないのです。神の人格によって生きている者と関係がないのです。

 妻というのはこの世の人格です。性(さが)というのもこの世の人格です。この世の人格を認めてしまうと、自分と霊魂の区別がつかなくなるのです。妻であることが女の本質であるような気持ちになってしまうのです。そうすると、死んでしまうのです。

 現世に生きている男は地獄へ行くに決まっている人間です。必ず地獄へ行くのです。自分を捨てないで、自分の人格を自分で持っているということは、インナチェンバーという霊の人格ではなくて、死ぬに決まっている人格です。一度死ぬことと、死んだ後に地獄へ行くことは、もちろん聖書に書いていますが、聖書に書いていなくてもそうなるのです。

 こういうことは、聖書を勉強していない人でも知っているはずです。真面目に考えている人は、現世に生きている自分と付き合っていると、ひどい目にあうと思うはずです。

 一度死ぬことと、死んだ後に地獄へ行くことは、人間の運命の決定的なものです。ところが、これに対して世間の人間は平気な顔をしている。こんなばかなことがあるのかと言いたいのです。

 私は一度死ぬことに我慢がならないのです。ところが、人々は平気な顔をしている。世間の人間は何とばかかと言いたいのです。何と愚かな人間たちかと義憤を感じたのです。

 なぜ人間は死ぬのか。人間が生きている本当の目的は何か。私はこれを知りたいと真剣に考えたのです。

 死んでいくのは肉の人間であって、肉の人間は悪魔を信じている人間です。悪魔を信じている人間は必ず死んでいくのです。これは選ばれていない人間です。

 世界中の人間は皆悪魔を信じている。神を全く無視して、自分の力で自分が生きている、自分が一番偉いと考えるのは悪魔の思想です。悪魔を信じている人間は、死んでいくに決まっている人間を押し付けられているのです。

 昔ローマで犯罪者の背中に死体を縛りつけるという刑法がありました。これと同じことを今の人間がしているのです。

 固有名詞の自分は死人です。それを霊魂が背負っているのです。霊魂は本体です。死んでいるに決まっている人間は、背中に縛りつけられている死人です。こんなものは一時も早く捨てたらいいのに、それを自分だと思い込んでいるのです。これはとんでもない重荷です。

 「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしの元に来なさい」とイエスが言っています(マタイによる福音書11・28)。重荷というのは固有名詞の自分のことです。これは捨てたらいいのです。

 イエスは洗礼を受けて自ら上がった時に、背中にあるものを捨てたのです。皆様もこれをしたらいいのです。ところが、なかなか捨てられない。レメクの恫喝にかかっているからです。自分を捨てたらひどい目にあわされるぞ、カインのための復習は七倍であるが、レメクのための復習は七十七倍ひどいことになるぞと、脅かされているのです。皆様はレメクに恫喝されているのです。

 自分の思いを捨てたらいいのです。自分の思いが古き人です。自分の思いを捨ててしまえば、古き人は見えなくなってしまうのです。

 古き人はエデンの園で担がされた死人です。へびの言葉を受け入れたことによって死人を背中に縛りつけられたのです。肉体人間というのは死人です。エデンの園でくくり付けられた死人が肉体人間です。こんなものはどうでもいい。死んだら死んだでいいのです。

 肉体人間はエデンの園でへびにくくり付けられた死骸です。これを背中にくくり付けられたから、しょうがないから現世に追放されたのです。

 不生不滅、不垢不浄、不増不減という言葉が般若心経にありますが、この言葉がそのまま人間の実体を意味しているのです。人間は増えもせず、減りもせずです。

 ところが、人々は言うでしょう。二〇一六年現在地球上に七十三億の人間がいますが、西暦一九○○年の人口は二十億人、西暦二○○○年頃には六十億でした。だんだん人口増加しているのではないかというのが、死骸の思想、ユダヤ教の思想です。

 神から見れば人間は一人しかいないのです。しかも、人間は皆死んでいるのです。死骸が五十億あろうが、百億あろうが意味がないのです。

 パウロは、「一人の人が死んだので、すべての人は皆死んだ」と言っているのです。パウロは「イエスの死を身に負うている」と言っています。イエスとパウロは同じ人間だったのです。

 固有名詞の人間はいないのです。イエスの名が自分の本体だということが、御霊によって教えられるまでの人は、アダムでした。教えられた後はイエスです。アダムであった人がイエスになったのです。

 全人類も同じです。一人の人の目が開いたら、すべての人の目が開くのです。これをキリスト意識というのです。これが分かる者だけがキリストの妻になれるのです。これが分からない人は一切なれません。

 人間の数がだんだん多くなっていることしか考えられない人は、現象を信じているのです。人数はありません。人間存在は質だけがある。量はないのです。数があるのとは違います。

 数があるのではありません。神は一列縦隊の一番前だけを見ているのです。二番目も三番目も見ていないのです。

 量とか数という考えはユダヤ教の宗教観念です。肉は益なしとイエスは言っています。益なしと言われると、益がある場合もあるだろうと思うのです。これが間違っているのです。

 益なしとは実体がどこにもないという意味です。「肉は益なし」。肉の実体はどこにもないとイエスが言っているのです。だから、自分という人間はどこにもいないと言っているのです。

 自分の思いを捨てるというのは、瞬間瞬間捨てるのです。自分と別れてしまうのです。明日のことを考える必要はない。今捨てたらいいだけのことです。

 今ここで考えるべきことは、イエスが主であるということです。もう勝負は決まっているのです。私の人生はもう終わってしまったのです。これを考えるとのんびりできるのです。

 「汝ら恐れるな。我すでに世に勝てり」とイエスは言っています。「心を騒がすな。我におれ」と言っています。イエスが勝ったことが、私が勝ったことです。イエスは復活しているのですから、私も復活しているのです。事終りぬです。勝負は決まっているのです。自分を捨てたらいいだけのことです。

 人間の数を信じる必要はありません。七十三億人の一人だと思う必要はありません。人間は一人しかいないのです。

 イエスが復活したというのは、人間は皆復活したということです。これを信じない人は、勝手に信じないだけのことです。

 自分の生活とか、自分の健康は、神に任せておいたらいいのです。第三の天のイエスを信じるなら、現世におけることは一切神が責任を持ってくださるのです。

 人間は死んでしまうに決まっている。死んだ後に地獄に行くに決まっている。なぜこういう者を自分だと思わなければならないのか。この自分を信じなければ、自分の古き人の責任がなくなってしまうのです。レメクの恫喝を信じなければいいのです。

 レメクの恫喝というのは、神の痛烈な皮肉を書いていますが、これは創世記の記事です。創世記の二章、三章は物語です。四章の半分は物語で、半分は現実です。

 アベルはいましたが、カインは悪魔が化けたものです。悪魔が人間として現われている状態を、カインとかレメクとか言っているのです。

 悪魔が人間として現われている状態を四章に書いているのです。殺されたアベルは本当です。皆様の霊なる人はアベルと同じ状態になるでしょう。現世ではカインに殺されますが、殺されてもかまわない。復活しているからです。

 アベルになることを少しも嫌がる必要はない。もしこの世を去ることになったら、それこそハレルヤと言えばいいのです。苦しまなくてもいいから楽です。

 冷静に考えると、自分を捨てることほど結構なことはありません。なぜ自分を捨てようとしないかです。

 今の大人は死んでいく人間を自分だと思っている。それを信じて現世で生きている。なぜそんなばかなことをしているのかと言いたいのです。生きていることの実体を掴まえたらいいのです。生きていることの実体を掴まえないで、死んでいく自分を掴まえている。こんなばかなことがあるのかと言いたいのです。私はへブル人への手紙の九章二十七節に腹が立つのです。

 聖書には死んでいくのが決まっているのが人間だと書いています。こんなものが人間であるはずがありません。生きているという事実がありながら、死んでいくのがなぜ人間だと思うのか。生きているという事実と、死んでいくというのは二つのことであって、一つのことではないのです。生きている人間がなぜ死んでいかなければならないのか。どこか根本的に間違っているのではないか。私はこの疑問を徹底的に解いてやろうと思ったのです。

 生きている人間と、死んでいく人間とは違います。霊の人と肉の人とは全然人格が違います。霊の人はインナチェンバーを持っている。肉の人は持っていないのです。死んでいく人間は隠れた部屋を持っていないのです。隠れた部屋を持っている人はその中に入ったらいいのです。そうしたら、死ななくなるのです。

 トーラーがタルムードになってしまった原因はどこにあるのかというと、肉体人間が自分の感覚を信じたからです。肉体人間は外観的な人間であって、本質ではありません。本質をよく見る必要があります。そのためには、第一創造の原理と第二創造の原理をよく知る必要があるのです。

 現在の物理次元の創造は第一創造です。これは神が試作品として造ったもので、やがて消えてしまうものです。第二創造は、物質的な地球が消滅した後にできる、永遠に消えない完成された地球です。霊理次元の地球です。

 第二創造が見えている人は、第一創造を問題にしていません。第二創造が頭で分かっていても実感がない人は、第一創造のことがどうしても引っかかるのです。これがいけないのです。

 女の人は現世で女であることに引っかかっている。このコンプレックスを捨てなければいけないのです。千年王国に入ったら分かるでしょう。千年王国は必ず実現します。ユダヤ人が悔い改めて、イエスをキリストとして受け入れたら、千年間の絶対平和、完全平和が実現します。これが千年王国です。

 その時には、今までの異邦人の歴史が現世にあったこと、キリスト教の人々がキリストを宗教として信じていたことのばかばかしさがよく分かるでしょう。

 人間の命は死なないものであるに決まっています。それを死ぬものだと考えていた。へブル人への手紙の九章二十七節は、現世の肉の人間に向かって言っているのです。

 人間は死なないに決まっています。キリストの復活によって、命が死なないものであることが実証されたのです。これが西暦紀元です。人間が死なないものであることが決定したのです。

 イエスが生まれたことによって、死なない命、死なない人格が現われたのです。

 イエスだけが人間です。これ以外の人間はすべて悪魔の子です。自我意識と現象意識を持っている人間は悪魔の子です。だから、死ぬのです。死ぬことが嫌ならイエスを受け入れたらいいのです。簡単なことです。

 イエスの中に入ったらいいのです。イエスは私に来なさいと言っていますから、イエスの中に入ったらいいのです。

 イエスの誕生によって、新しい人間の歴史が始まった。これが紀元元年です。復活以後の人間は、一度死ぬことが通用しないのです。西暦紀元を受け入れている人間は、へブル人への手紙の九章二十七節は通用しなくなっているのです。

 ユダヤ人は古き人、死ぬべき人間を今でも信じていますから、へブル人への手紙の九章二十七節は、今でも通用しているのです。

 現世に生きている人間、固有名詞を信じることをやめてしまえば死なないのです。

 現世の道徳、習慣、常識を捨てさえすれば、死なないのです。現世での善悪利害を捨ててしまうのです。現世に生きている自分が全く幻であることを信じるのです。従って、幻の自分に道徳も習慣も必要ありません。権利も義務もないのです。

 現世に生きている人間はいないのです。自分の霊が自分の本体であって、これが人格の本体です。隠れた部屋が自分の人格の本体です。

 人格の本体を存在的に言えば神の御名です。人間的に言えばイエスの御名です。エホバとイエスがあるだけで、自分はどこにもいないのです。

 

 これをイエスは次のように言っています。

 「永遠の命とは、唯一の、誠の神でいますあなたと、あなたがつかわされたイエス・キリストを知ることです」(ヨハネによる福音書17・3)。

 

 肉は益にもならないし、害にもならないのです。肉は益なしです。肉は実在しないのです。肉はあるように見えるだけで実在していないのです。

 イエスは洗礼を受けた時に、これを経験していたのです。ところが、荒野の試みを受けた時に、イエスの肉がイエスと共にあったとあります。この時イエスは肉体があるような気がしたので、悪魔に試みられたのです。

 人間の前頭葉は不思議なもので、前に向かって働いているのです。前に向かって開いているのです。これが骨の骨の実体です。この前頭葉、即ち額に神の印が押されるのです。そうすると、人間が変わってしまうのです。

 今ここにいることが神と一緒にいることですから、今ここにいる時だけに自分を捨てたらいいのです。後のことはどうでもいいのです。今までの人間的な気持ちが起きてきたら捨てたらいいのです。

 他人に対して反感を持つとか、他人を裁くとか、自分が不幸であるように感じるとか、そういう気持ちが起きたら捨てるのです。そうしたら勝手に救われるのです。

 

 聖書に次のようにあります。

 「すなわち、聖書のある個所で、七日目のことについて、『神は、七日目にすべてのわざをやめて休まれた』と言われており、またここで、『彼らをわたしの安息に、入らせることはしない』と言われている。

 そこでその安息に入る機会が、人々になお残されているのであり、しかも、初めに福音を伝えられた人々は、不従順のゆえに、入ることをしなかったのであるから、神は、あらためて、ある日を『きょう』として定め、長く時がたってから、先に引用したとおり、

 『きょう、御声を聞いたなら、

 あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない』

 とダビデをとおして言われたのである」(へブル人への手紙4・4~7)。

 

 四節に、「神は七日目にすべての業をやめて休まれた」とあります。創世に関する業を休まれたのです。この世を造る業を休まれたのです。世代を造る創世という業を休まれたのです。

 七日目の初めに、神は地のちりであったものに形を与えて、鼻から命の息を吹き込んだのです。人間が命の息を吹き込まれた時が、七日目でした。このことをユダヤ人もキリスト教も全然知りません。

 人間が前世で造られた時に、既に神が安息していたのです。これが分かった人は、エデンの園で生まれた時の感覚が、インナチェンバーになっているのです。

 安息日の一番最初に、神は地のちりであるものに形を与えて、命の息を吹き込んだのです。

 この時人ははっきりと神を意識したのです。命の息を吹き込んだということが、インナチェンバー(隠れた部屋)が造られたということです。

 ところが、アダムはインナチェンバーが造られた状態をそのまま持っていながら、インナチェンバーの中に全然入らなかったのです。

 安息日の一番最初に人が造られた。創人ということは創世とは全然違うのです。創世は六日目のことで、創人は七日目の安息になされたのです。

 人間は安息のために造られたのです。安息を理解して、安息を守るために造られた。神と一緒に安息するために造られたのです。これがインナチェンバーです。

 ところが、アダムは自分が造られて命の息を吹き込まれたことを全然考えていなかった。これを直感的に感じているのが骨の骨です。女性自身です。これを神の御霊は愛しているのです。愛して愛してやまないのです。愛しすぎるぐらいに愛している。「ねたむほどに愛している」のです(ヤコブの手紙4・5)。

 創世記の一章二十六節、二十七節は、人間創造に関する神の御心を書いています。二章では人間はいつ造られたか。どうして造られたのかを書いているのです。

 人間が造られたのはどういうことか。神が人の鼻から命の息を吹き込んだということが、インナチェンバーです。女は命の息を吹き込まれていない。男は吹き込まれている。インナチェンバーを吹き込まれているから、男は冷静に考えれば分かるはずです。

 女は命の息を吹き込まれていない。ところが、実は女自身のあり方がインナチェンバーになっているのです。これを女性は悟らなければならないのです。これが女性の性器の秘密です。

 男のインナチェンバーと女のインナチェンバー、これが愛の本源です。これが分かれば肉はなくなってしまいます。これが永遠の命の根底になるのです。ところが、これが骨の骨でもあるが、肉の肉になるのです。それをへびは知っていた。そこで、エバの中に入り込んだのです。だから、未だに女はへびの言葉を信じているのです。

 これは六千年の人間歴史の秘密です。

 エデンの園はどこから始まっているのか。インナチェンバーから始まっているのです。これを悪魔が狙って、見事にエバを陥落させてしまったのです。インナチェンバーが隠し所になったのです。

 そこで、神が怒った。神は怒るはずです。インナチェンバーをやられたからです。悪魔はあっぱれなことをしたのです。

 ヘビは女にどのように入り込んだのか。男に対してはどのように入り込んだのかをよく考えて頂きたいのです。

 インマヌエルということがインナチェンバーの実体であるし、セックスの奥義です。これが分かると、肉がすべて霊になってしまうのです。

 

 これを聖書は次のように書いています。

 「見よ、私は戸の外に立って、たたいている。誰でも私の声を聞いて戸をあけるなら、私はその中に入って彼と食を共にし、彼もまた私と食を共にするであろう」(ヨハネの黙示録3・20)。

 

 これがインナチェンバーです。これが創世紀の二章の人間創造に結び付いているのです。人間歴史の一番最後がラオデキヤの状態です。これが創世紀の二章に帰るのです。携挙(けいきょ)によって私たちはキリストと一緒に食事をすることになるのです。

 私たちは自分を捨てた後にどうするのかと言いますと、新天新地の準備をしなければいけないのです。携挙の準備ではありません。携挙されるに決まっているのですから、新天新地へ入るための下ごしらえの習慣を造っておかなければならないのです。

 私たちの毎日の生活が、そのまま新天新地の生活の原理にならなければいけないのです。携挙されるかどうかはどうでもいいのです。第三の天のキリストが皆様の命ですから、新天新地が実現して神と一緒に住む時に、どのようにするかということを、毎日の生活で勉強しなければならないのです。

 人間が造られた時、神は既に安息に入っていたのです。創世記の一章と二章とを比べてみると、人間創造に関する限り二章の方が正確です。緻密です。

 一章の方は人間創造に関する概念を述べている。人間創造の実体は二章に出ているのです。インナチェンバーは二章に関係しているのです。

 アダムは命の息を吹き込まれたという事実を経験していながら、その事実に目を付けようとしなかった。インナチェンバーに入ろうとしなかったのです。これが躓く原因になったのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

​死なない人間になりました(上巻)

​著者 梶原和義

bottom of page