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向こう岸へ渡る

                           向こう岸へ渡る

 

 人間の考えには表面的な考えと、底に沈んでいる考えと二通りあります。思想するというのは、じっと思うことです。自分が現在生きていることに基づいて、人間の生活形態について色々思うことが思想です。

 思念というのは、自分が生きていると思っていること、自分は肉体的に生きているのだから、肉体的に生きている感覚が、生きているという感覚だと思うことです。例えば、赤いものを赤いと思うこと、辛いものを辛いと思うことが思念です。思想と思念とは違うのです。

 思念は人間の生命の底にこびりついています。思想は生活的に考えることです。思想的にいくら分かったと思っても、思念的には分かったことにはならないのです。

 皆様は死にたくないと思っていながら、死ぬに決まっている命を、自分の命だと思っています。絶対に死にたくないと思いながら、絶対に死ぬ命にしがみついている。この矛盾をどうお考えになるかです。

 死ぬに決まっている命にしがみついている。これはどういうことでしょうか。皆様の現在の命は、間違いなく死ぬに決まっているのです。それをなぜ自分の命だとお考えになるのでしょうか。

 死にたいと思う人は仕方がありませんが、本当に死にたいと思う人は、めったにいません。心から死にたいと思う人はほとんどいないでしょう。難問題に行き当って絶対に解決できないと思う。行き掛りの成り行きで、死んでやるという人はいますが、心から死にたいと考える人はまずいないのです。苦しみや悩みから逃避したい、難問題から逃避したいから自殺をするのであって、命が嫌だから死ぬ人はいないのです。

 人間は死ぬに決まっていることを、すべての人は知っています。しかし死にたくないのです。ところが、百人が百人共、千人が千人共、死ぬに決まっている命を自分の命だと思い込んでいる。これはどういうことでしょうか。

 死ななければならないことをすべての人が知っています。また、死にたくないと思うことも、すべての人が知っています。このような矛盾が思想と思念の違いからできてくるのです。

 この問題を解決するためには、般若心経と聖書をよく勉強する必要があるのです。

 般若心経の一番最初には、観自在という言葉を使っています。観自在も観世音も同じです。観自在と訳しても観世音と訳してもどちらでもいいのです。

 世音はこの世に現われている音、いわゆるこの世の中の状態です。景気が良いとか悪いとか、政治が良いとか悪いとかいうことを読んでいくのです。これが観世音です。いわゆる世の音を見ることができるようになりますと、人間は生まれる前の自分が少しずつ分かってくるのです。 人間は死ぬに決まっている命を自分の命だと思っています。なぜこんな気持ちを持っているのか。なぜこんなばかなことを思っているのかということが分かってくると、生まれる前の自分の思想に近づくことができるのです。これを観自在というのです。

 観自在というのは初めからあったということです。自とは初め、在とはあるということです。初めからあるというのは、生まれる前からあったということです。生まれる前からあった命の状態に近づくことができることを、観自在と言っています。

 彼岸へ渡るということは、現在こちらの岸で生きている状態から、向こう岸へ渡ってしまうことです。般若波羅蜜多するのです。

 こちら側の岸の人から見れば、向こう岸へ渡った人は、何とばかな所へ行ってしまったのかと思えるのです。ところが、向こう岸へ渡ってしまうと、死ぬに決まっている世界にいる人はお気の毒だなあと思えるのです。これは岸の違いです。

 本当に自分の命のあり方を転換するという勇気が持てる人は、向こう岸へ渡れるのです。こちら岸とは何か。人間の主観的存在がこちら岸です。これは死んでしまう人間です。向こう岸とは何か。人間の客観的存在が向こう岸です。

 向こう岸は死なない世界です。実はこちら岸と向こう岸は、一人の人間の中に同居しているのです。

 般若波羅蜜多とは、こちら岸を捨てて向こう岸へ渡ってしまうことです。こちら岸は肉体人間、固有名詞の人間です。向こう岸は心理機能、生理機能によってただ生かされている人で、これがイエスです。固有名詞の人間を捨てて、イエスを自分とすれば、向こう岸へ渡れるのです。

 仏教では向こう岸に渡れと盛んに言いますが、向こう岸に渡る方法がはっきり示されていません。また、向こう岸に渡った人もいないのです。

 イエスは十字架によって、すべての人のこちら岸を消してしまった。そうして、向こう岸の人格を示したのです。イエスが復活したことによって、すべての人は向こう岸の人格になっている。神の処置によって間違いなくそうなっていますから、これを黙って受け取ればいいのです。

 般若心経は、自分の命を根本的に転換してみようというくらいの大胆さ、勇敢さがある人には分かります。しかし、こちらの岸にじっとしがみついている人から考えますと、現世の常識を信じ込んでいますから、般若波羅蜜多とか色即是空ということは、考えるだけ無駄ということになるのです。これは考え方の違いです。

 現在の人間が持っている常識は、生きている間は役に立ちます。しかし、常識的に生きているのは命の目的を持っていないのです。政治家も目的を持っていません。政治は本来まつりごとでありまして、まつりごとの本当の意味は、魂の本質を究明するという意味が大変強いのです。日常生活において、自分自身のあり方を究明しようという気持ちが、まつりごとです。

 本来、日本の政治は原則的にそういうニュアンスを持っていたのです。皆様の生活を自分の魂という拠点から見ていくのです。そうすると、だんだん分かってくるのです。

 現在の日本人は、命のこと、霊魂のことを真面目に考える人がほとんどいなくなっています。生活のことは一生懸命になっている。これは文明そのもののあり方が、そういう人間を造ってしまったからです。

 人間の本質を考えないで、人間は死ぬのが当たり前だということが、文明の原則になっています。人間文明は皆様の命について全く考えていません。生活のことしか考えていないのです。これは本当の文明と言えるものではありません。

 人間存在に関する本質的な考え方が、今までの常識ではない別の角度からの考えがあるべきではないかということを考えて頂きたいのです。

 死にたくないというのが、潜在意識として皆様の腹の底に張りついているのです。死んではならない、死んだらひどいことになるという気持ちがあるのです。これが魂の気持ちです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

​死なない人間になりました(上巻)

​著者 梶原和義

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