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孤独から逃れる唯一の方法

                        孤独から逃れる唯一の方法

 

 イエスは、「イスラエルよ、聞け。主なる私たちの神は、ただ一人の主である」と言っています(マルコによる福音書12・29)。

 

 主はただ一人、the Lord is oneとなっていますが、ワンというのは一人でなくて一つです。これは何でもないようなことのようですが、大変重要な問題です。

 

 これと同じことをパウロも言っています。

 「からだは一つ、御霊も一つである。あなたがたが召されたのは、一つの望みをめざして召されたのと同様である。

 主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます、すべてのものの父なる神は一つである」(エペソ人への手紙4・4~6)。

 

 主は一つであるということは、主という言葉が一つを意味するのです。主の他に何もないのです。では何もないのなら、初めから主という言葉を多く使わずに、すべてという言葉を使ったらいいのではないかという言い方をする人がいますが、三次元の現象世界においては、被造物と造化の主との別があるのです。だから主という言葉を使わなければならないのです。

 現象世界においては、造り主と、造られたものとの別があるのです。これは造られたものの形において、己自身を現わしているという意味です。

 神の創造というのは、すべて神自身の自己顕現です。

 創造というのは、神が万物を造ったのではなくて、神が万物を造ったという形で、自己を顕現しているのです。

 「世もなく、我もなく、主のみいます」というのが、宇宙の実体です。万物が造られようが、造られまいが、ただあるのは主です。

 このことを悪魔が見落としていたのです。今の皆様も、悪魔と同じような見落としをしているのです。

 自分と神が別なのではなくて、生かされていることが神です。これがone Lordです。one faithと言っています。ワンフェイスというのは、人間の信仰はそのまま神の信仰ではなければならないということです。

 神を信じるのではない。神の思想がそのまま自分のものとなるのです。これがワンフェイスです。

 イエスは「神を信じなさい」と言っています。これは英訳ではHave faith in God.となっています(マルコによる福音書11・22)。これを直訳すると神の信仰を持てとなります。

 神の信仰を持つことになりますと、神が自己存在であることになるのです。

 人間が現在生きている姿、形は、神が形をとった状態になるのです。人間は自分が生きていることが神であることを知っています。無意識に知っているのです。

 人間は毎日服装を変えています。髪の形や、靴を変えたり、男の人はネクタイを変えたりします。贅沢な生き方をしているのです。

 犬や猫はそんなことはできません。牛や馬も服装を変えることはできません。一生同じ姿をしているのです。

 人間は行き先によって服装を変えています。季節、季節に応じた服装をしています。実はこれは神の生き方をしているのです。人間は神が生きている生き方をそのまま真似しているのです。

 もし神が肉体を持ったなら、人間と同じ生き方をするのです。例えば、大自然を見てください。山の姿は毎日衣替えをしているのです。朝は朝の姿、昼は昼の姿、夜は夜の姿をしています。毎日変わっています。これが神の姿です。

 空の雲は絶えず変わっています。一瞬も留まっていないのです。留まっているようですが、実際は相当なスピードで動いているのです。雲の姿はとても変化にとんだものです。これが神の衣替えです。

 女の人は毎朝化粧をします。行く先で、仕事の内容によって服を変えています。これは知らず知らずに神の衣替えをしているのです。

 食事の仕方も人間と動物とは全然違います。朝は朝の食事、昼は昼の食事、夜は夜の食事をします。毎日、毎日三度の食事の献立を変えて食事をしているのです。これは贅沢な生活です。本当に贅沢な生き方をしているのです。

 人間の衣食住は贅沢なものです。夏は冷房をかけますし、冬は暖房をします。これはすべて神が生きている姿を現わしているのです。皆様の生活はそのまま神の生活状態を現わしているのです。

 人間は大自然に現われている四季折々の変化、神の衣替えを個人でしているのです。そうしていながら神が分からない。現実に神を生きていながら、神が分からないのです。

 人間は神を現実に生活していながら分からない。だから、地獄へ行って、さんざんとっちめられて、うんと苦しめられるのは当たり前です。

 中国、北宋の文学者、蘇軾(そしょく)の「春夜詩」に、「春宵(しゅんしょう)一刻値千金」という一節があります。春の夜は非常に趣が深く、その一刻は千金にも変えがたい貴重な時だというのです。

 毎日、毎日違った料理を食べて、時には一杯飲んで陶然となっている。

 名月を鑑賞したり、桜の花を愛でることができるのは人間だけです。名月を鑑賞して、お酒を飲んで春の宵を楽しんでいる。それで神が分からないのは何事かと言いたいのです。

 人間はこんな贅沢な生活をしているのに、神を信じないとは何事かと言いたいのです。現に一天万乗の神と同じ生活をしているのです。

 神だけを一天万乗というのです。今の人間に一天万乗はないのです。神だけが一天万乗です。この一天万乗の生活形態を私たちもしているのです。そうしていながら、それが分からないのです。

 人間の衣食住は贅沢以上のものです。贅沢というのはこんなものではありません。人間の生活は贅沢以上です。これで神が分からないのは、何事かと言いたいのです。

 現在神の生活をしていながら神が分からないのです。神を生きていながら分からないのです。

 自分が生きている姿を見ると、本当に有難いと思えるのです。自分で自分を崇めないといけないのです。生きている姿が、そのまま神の御子です。これが頭で分かるのではなくて、心で実感できるようになると、ようやくその人は罪と関係がなくなるのです。原罪に勝つことができるのです。

 自分が生きている姿がそのまま信仰になりますと、初めて原罪の方で尻尾を巻くのです。そうして、罪に勝つ力が与えられる。これが死に勝つ力です。

 罪に勝つ力とは何か。自分は生きていない、神が生きているということが分かると、初めて罪に勝つ力が与えられるのです。

 これを仏教的に言いますと、究竟涅槃になるのです。

 有余涅槃というのは、体がありながら涅槃の境に入っている状態です。人間の体は罪の元です。罪の因です。罪の元がありながら罪に勝つのです。これが有余涅槃です。

 本当は勝てるはずがないのです。ところが、肉体がありながら罪に勝てるのです。これを聖書は「霊に従いて歩む」と言っています。仏教では有余涅槃と大げさな言葉を使いますが、これは霊に従いて歩むことです。

 霊に従いて歩むと、自分が生きている姿がそのまま主のように地上にいることが分かるのです。live unto the Lordです。主にまで生きる。主のために生きると訳しています。

 主のように生きている。主にまで生きている。自分が生きているのではないことが自然に分かってくるのです。これが究竟涅槃です。

 もう一つ、無余涅槃というのがあります。これは体がなくなってしまうということです。死んでしまうことです。人間の体は果です。人間の体がありますと、罪という原因が働いて、その結果が人間に働くのです。これが泥棒とか、姦淫、憎しみ、妬みになるのです。

 死んでしまうとこれがなくなってしまいます。因もなく、果もなくなるのです。これが誠の涅槃です。これを無余涅槃と言います。

 因もなく果もない。これを誠の解脱であると禅で言います。因の法則、果の法則を越えてしまうからです。これが誠の解脱であると言っています。けれど仏法には本当の解脱はありません。なぜなら、the Lord is oneがないからです。ワンロードがないからです。

 仏教では因もなく果もない。あるのは何か。仏があると言います。仏とは何か。その本体は何かというと、もう分からないのです。

 仏というのは形容詞です。名詞ではありません。名詞にも通用しますが本来形容詞です。悟ること、悟ったことを仏と言います。正しい悟りのことを仏と言いますから、形容詞と受け取るべきです。名詞でもありますけれど、形容詞でもあるのです。

 仏の正体は何かと問うても分からない。これが異邦人の悲しさです。

 仏法には決め手がありません。仏教はもちろんだめです。仏法でさえもなお決め手がない。ところが、聖書にはワンロードがあります。ワンフェイスがあります。

 主は一つ、信仰は一つです。自分が神を信じているのではない。神の信仰が自分の信仰です。神と自分が一つの状態ですから、そう言えるのです。これがワンロードです。

 主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ、本当の聖書の学び方は一つです。私たちは因果の法則を乗り越えるのです。因も越える。果も越える。そして、自分の孤独から解放されるのです。

 現在肉体的に生きている人間は孤独です。人間は本当にかわいそうなものです。

 孤と独は違います。孤とは幼きにして親なきを言います。独とは老にして子なきを言います。

 親がないことは孤児です。子供がいないのは一人ぼっちです。かわいそうに人間は皆そうなっているのです。

 子供を産んでもだめです。子供が一人前になると勝手なことを言うのです。そして離れていくのです。

 年をとると皆一人ぼっちになる。独になるのです。だから、独にならないように、若いうちから神を掴まえておくのです。神を掴まえておくと、孤でもないし、独でもない。父を知り、父と交わるのです。これが孤独から逃れる唯一の方法です。

 子供のうちから親がないのを、みなしごと言います。幼きにして親なきを孤と言います。老にして子なきが独です。これが生きている悲しみです。

 いくら子供を産んでも本当の自分の子ではないのです。だから、離れていくのは当たり前です。

 この世に生きていていくらお金を儲けても、そんなお金はどこかへ散っていきます。お金を残して一人寂しく死んでいかなければならない。これが独です。

 子供のうちにみなしごという人はそんなにいませんけれど、年をとって一人ぼっちになるというのは、多いのです。誰でも皆そうなるのです。これが独です。

 独から逃れようと思ったら、若い時に神を掴まえておくことです。若い時に油断していると、油断がどっと押し寄せてきて、年をとってから神を知ろうとしてもできないのです。

 年をとって神が分かったら特別の恵みです。どんな困難を乗り越えても、どんな艱難を突破しても、無理に頼んでも、誠の神を掴まえなければならないのですが、それほどの熱心さを持っている年寄りはめったにいないのです。

 孤独ということが実は地獄の第一条件です。地獄に入る第一の条件は孤独です。孤独な人は皆地獄へ行くのです。

 自分の気持ちを本当に分かってくれる人は誰もいません。主人でも奥さんでも分かってくれません。子供でも分かってくれません。

 主人があってもなきが如し、子供があってもなきが如しです。兄弟も親戚も自分の気持ちを分かってくれません。これが孤独です。

 この孤独から逃れようと思ったら、神を知るしか方法がありません。誠の神、命なる神を掴まえる以外に、孤独から逃れる道は絶対にありません。

 孤独が地獄です。地獄へ行ったら皆一人です。独房に入れられるのです。一人ひとり入っている牢獄は皆違うのです。だから、他人と顔を合わすことは絶対にないのです。人と話すことは絶対にできません。

 地獄へ行ったら、人間の姿、形が全部変わってしまいます。誰が誰か分からなくなるのです。

 永遠の生命を持っている者の立場から言えば、あの人だ、この人だということがすぐに分かるのです。

 今、第三の天にいますキリストの立場から見れば、あの人の霊の状態はこうだ、この人の霊の状態はこうだということがすぐに分かるのです。

 霊の状態がそのまま形になって現われるのです。犬みたいなことを思っている人は、犬になって現われる。サソリのようなことを思っていたら、サソリになって現われるのです。

 神の救いを受けて新天新地にいる人は、ゲジゲジを見たらどこの人だとすぐに分かるのです。

 今、人々は神の救いをバカにしています。死んだら恐ろしいのです。本当に恐ろしいのです。

 人間が孤独から逃れるためには、せいぜい若い時に本当の親を見つけることです。そうすると、みなしごにならないのです。

 年をとったら今度は自分の子を造るのです。現世で自分の子を造る。魂の子を造る。そうすると、現世においても孤独でなくなるのです。

 霊的にはもちろん神がいますから、孤独ではありません。生きていながら父なる神を知り、生きていながら魂の救いを人々に与えるのです。自分の魂が子供を産むことになるのです。そうすると、本当の子供ができるのです。こういう人間になるのです。

 まず神と和らぐのです。そうして神の和らぎを人々に伝えるのです。この二つのことをすれば、現世にいても孤独から逃れることができるのです。

 人々に命を与えるのです。人の魂に本当の命を与えるのです。

 そのために、神を知らなければいけないのです。神を知ることは、すべての知識の元であり、すべての富の根元です。

 神さえ分かれば、健康も、財産も、名誉も、何もかも保証されるのです。神が分かればすべてのものは与えられるのです。

 「御子に添えて万物を賜わざらんや」とあります。不足なものはなくなるのです。

​(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

​死なない人間になりました(上巻)

​著者 梶原和義

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