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​偽善者

                              偽善者

 

 十八世紀の終わり頃からユダヤ王国ができつつあったのですが、第一次世界大戦後には、世界にユダヤ王国が実現しているのです。

 これを壊さなければならない時がきているのです。ユダヤ王国はもう出来上がっているから、これを壊さなければならないのです。

 こういうことが皆様に分かっていないのです。それは御霊を崇めていないからです。

 皆様の中に自分が生きている、自分が勉強しているという気持ちがどうしても抜けないのです。自分が生きているという事実はないのです。

 霊においては子供になり、知恵においては大人になるのです。イエスは霊においては子供になれとしきりに言っていますし、パウロは知恵においては大人になれと言っているのです。この両方が必要なのです。

 知恵において大人になっていないから霊において子供になれないのです。

 霊において子供になれば、私がいうことがどんどんと受け入れられるのです。そうしたら、知恵において大人になれるのです。

 女の人は女になっていない。男は女の勉強が足らないのです。女の人はもっと女になって頂きたいのです。

 イエスを生きるのです。自分に生きないのです。主にまで生きると聖書にありますが、イエスが主であるという事実にまで生きるのです。それに到達する状態で生きるのです。

 自分は生きていないのです。イエスそのものとして生きるのです。

 主にまで生きるというのは、主が生きていたその状態にまで生きるのです。イエスが生きていた生活の実感と同じ実感にまで生きるのです。

 まだ皆様は御霊によって生きているということが分かっていないのです。これが最大の欠点です。自分が生きているからです。

 自分が私の話を聞いているからだめなのです。自分が生きているという気持ちで聖書を勉強しているからいけないのです。これを何回言っても皆様に分からないのです。

 皆様の生活状態が根本から間違っているのです。頭で理屈が分かっても、ハートにおいて信じていないのです。マインドばかりで聞いているからです。

 神は神のヘルパーとして自覚できる人を選抜するために、神が十字架を実行し、皆様に聖書の勉強をさせているのです。

 聖書に書いてある言葉がなぜ生活の実感にならないかということを、なぜ考えようとしないかということです。聖書に書かれている言葉を真剣な気持ちで読んでいないので、そういうことになるのです。

 人間として生きているからいけないのです。人間の霊から離れていないのです。

 皆さんは自分が救われたいという気持ちを持っているのですが、その気持ちをやめようとしてもだめです。また、救われたつもりでいてもだめです。

 今ここにいる自分が何者かが分かっていないからです。ですから、自分が救われたいという気持ちを捨ててもだめです。なぜだめかというと、現在生きている自分の正体が分かっていないからです。だから、何回聖書の話を聞いてもだめです。

 皆様の信仰と聖書の信仰とは段が違うのです。段が違うということが困るのです。どうしたらいいかということを私は説明しますけれど、また、自分が聞いてしまうとだめなのです。

 皆様にはいくら話しても自分の気持ちで聞いているからだめです。自分が生きていると思っている。その自分が聞いているからです。

 今生きている自分に対して考え方を変えてしまわなかったらいけないのです。生きている自分、座っている自分、寝ている自分、見ている自分、聞いている自分に対して考え方が間違っているのです。だから何回聞いてもだめです。

 救われたいと思っている自分をやめなければいけないと、自分がそう思っているのです。これがだめなのです。今生きている自分の本質が分かっていないからです。

 

 パウロは、「もし私たちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか」と言っています(ガラテヤ人への手紙5・25)。

 

 神の御心に従って生きる可能性があることを、神が私たちに期待しているのです。「創世の目的」を聖書に従って理解して、宇宙にある命を自分の命として生きるのです。

 宇宙にある命を自分の命として見ることができた者だけを、生ける神の子として取り上げようとしているのです。これが分からない者は絶対に救われないのです。

 人間は生きていても仕方がないのです。なぜなら、人間は地獄へ行くためにこの世に生まれてきたからです。死ぬに決まっている条件で、この世へ生まれさせられたのですが、これからどうして逃れることができるのかということを考えなければいけないのです。

 皆様は自分から出るということができないのです。自分から出てしまわなければ、本当の素直という気持ちが湧いてこないのです。聖書をいくら勉強してもだめです。

 聖書を勉強している段階で、理屈を覚えなければいけないということは言えるのですが、理屈を覚えることが目的ではないのです。聖書を勉強するという前段としては、理論的なことも勉強しなければならないのです。

 最初から聖書の奥義を話しても、何のことか分からないからです。聖書の根本を勉強する前には、原理的なこと、理論的なことを勉強しなければならないのです。

 それはあくまでも前段階のことであって、人間の考え方、常識、人間の知識が間違っているということを悟るために必要なのです。

 ただ生きていることだけでいいのです。良くても悪くても自分の気持ちを持っていたらだめです。

 人間は雲の動きや、風の流れ、空模様を見て天気の状態を判断できるのです。これが判断できるのなら、なぜ魂のことを判断できないのかとイエスが言っているのです(ルカによる福音書1・54~59)。

 空模様を見ることができるのなら、自分の肉の思いが間違っていることが分からないのは、皆偽善者になるのです。だから、人間は地獄へ行くことになるのです。

 何が正しいか。人が生かされていることが正しいことなのです。人が客観的に生かされていることは、正しいことに決まっているのです。それが空の模様を見ているのです。

 人間は空の模様を見る状態で生きているのです。空を見る状態でなければ生きていけないのです。

 人間が空模様を見ることができるということは、天の義を見ているのです。空模様は神の処置であって、神の処置を弁えることができるということは、その人の直感性が神の義に生きていることを示しているのです。これがなければ空模様が分かるはずがないのです。

 明日雨が降るだろうということを人間は予想できるのです。明日雨が降るということが、神の処置なのです。これを人間は弁えることができるのです。これを弁えることができる者は、自分自身の間違いを判断できるのです。ところが、自分の間違いが分からない。だからイエスは偽善者だと怒っているのです。

 イエスから見たら皆様も偽善者になるのです。人間が肉の思いで生きていて、自分の善悪利害の考えだけでは、本当の判断が正確にできるはずがないのです。

 ところが、天候というのは人間の利害には関係がないのです。人間自身の思いで得か損かを考えるのは肉の思いですが、空模様を判断することができるということができるのです。これは肉の思いで判断しているのではないのです。

 人間は空模様を当たり前のように判断できるのです。空模様が判断できる人間が、なぜ自分自身の個人的な利害得失にこだわるのかと言いたいのです。

 皆様の間違いがここにあるのです。自分自身の良し悪し、自分の立場にこだわっているのです。

 自分の利害得失は神の処置に関係がないのです。自分で勝手にそう思っているだけです。ところが、空模様の判断は的確にできるのです。

 空模様を判断するという能力に従って、生活の根本を考えたらいいのです。ところが、自分の利害得失によって生活しているのです。これを偽善者とイエスは叱っているのです。

 人間はエデンの園で、善悪を知る木の実を食べて死んだのです。死んだけれども、現世で人間に五官を与えて生かしているのです。

 五官を与えているということは、神が生かしているのです。肉の思いは死んでいる面です。五官を与えられているのは、神に生かされている面です。

 死んでいる面と、神に生かされている面とがあるのです。五官を与えられていることによって、天候を見る力が与えられているのです。自分の利害得失によって生きているのは、死んでいる方の自分です。

 現在、五官によって見ることができる力を与えられていながら、利害得失に捉われている。これが偽善者だとイエスは叱っているのです。

 だから、皆様は今死んだら地獄へ行くことになるのです。

 皆様は御霊によって生かされていると言いながら、自分で生きているのです。これがいけないのです。御霊によって生かされているのなら、御霊によって生きなさいとパウロが言っているのです。

 神の国に生きるとはどうすることか。与えられている五官のままで生きるのです。そうすると、全然違った世界に生きていることが分かるのです。これが神の国です。

 ところが、神の国へ入ろうとしない。自分の考え方にこだわっているからです。神の国の入口まで行って入ろうとしないのです。

 空の模様を見ることができる自分を自分だと思ったらいいのです。これができると初めて、生きていることのすばらしさが分かるのです。

 空の模様を見ることができるということは、いつでも経験しているのです。ところが、その自分に生きようとしない。だから、人間は全部地獄へ行くのです。

 人間はなぜ地獄へ行くのかと言えば、空の模様を見ることができるからです。簡単なことです。般若心経でさえも五蘊皆空と言っているのです。人間の考えは皆間違っていると言っているのです。

 自分が生かされているという原点に立てば、何が正しいかはすぐに分かるのです。神は人間を生かしているのです。善悪の木の実を食べたら必ず死ぬと言っていながら、人間を生かしているのです。これはどういうことなのか。この説明が普通の現世の人間には絶対にできないのです。あらゆる宗教家にもできないのです。私たちにはできるのです。

 イエスの弟子であるのなら、イエスと同じ能力がなければいけないのです。量的にはできないかもしれないのですが、質的にはイエスと同じでなければいけないのです。

 イエスの弟子であると思いながら、自分の家族があるとか、自分の命があるとかを考えている。これを偽善者というのです。

 人間は死ぬ命と死なない命とを、自分の都合によって使い分けているのです。自分の肉の思いで人を憎んだり、人を恨んだりしているのです。ところが、砂糖は甘いと感じているのです。死なない命を感じながら、死ぬ命に生きているのです。

 自分の肉の思いで人を恨んだり憎んだりするのなら、砂糖をなめても甘いと思ったらいけないのです。五官の働きだけで生きたらいいのです。そうしたら、死なない自分になってしまうのです。これを神の国に生きるというのです。

 善悪の木の実を食べていながら、なお五官を与えられて生かされている。死にたくない、死にたくないと言いながら人間は死んでいくのです。一体これはどういうことかと言いたいのです。

 神の処置と、人間の思いとが食い違っているのです。イエスの偽善者よという言葉は、創世記の二章、三章が分からないと理解できないのです。

 偽善者というイエスの言葉を説明できる哲学者も神学者も、世界中にいないのです。

 雲の流れを見ることができる人間が、なぜ死ななければならないのか。赤い花を見たら赤く見えるでしょう。五官の感覚だけで生きたらいいのです。これを霊において生きるというのです。

 五官を与えられている人間が、肉の思いで人を憎んだり、恨んだりすることが間違っているのです。人間の妄念は皆間違っているのです。自分の個人的な感情とか、個人的な利害得失で生きている。これがいけないのです。

 五官がなければしょうがないのです。犬を見てください。人間ほど正確な五官は与えられていないのです。人間にはすばらしい五官が与えられているのです。

 例えば、ワインを見分けるソムリエがいます。ワインの産地や銘柄を当てる人です。食べ物の味でも、おいしいかおいしくないかを言い当てるアドバイザーは、驚くほどの微妙な味を味わい分けることができるのです。

 犬にはこういう高等な五官を与えられていません。だから、犬は嘘を言いません。罪を犯さないのです。皆さんは嘘をいうのです。罪を犯すのです。

 人間に五官を与えられていることの本質、霊の流れを見ることの本性を持っていながら、自分の肉の思いを捨てることができないのは、正に偽善者です。

 「生かすものは霊である」とあります。人間は霊によって生かされているのですから、霊に従って生きるのは当たり前です。

 また、霊の思いは命であり平安であるとありますから、霊の思いで生きるのは当たり前です。霊の思いで生きるというのは、五官の感覚と同じ生き方をするのです。これは偽善者ではないのです。

 一般のユダヤ人の中に、ひょっとしたら偽善者であることに気が付いている人がいるかもしれないのです。パリサイ人はだめです。偽善者であることを商売にしているからです。こういう人は絶対に分からないでしょう。

 大学教授とか、宗教家も分からないでしょう。この世の指導者には絶対に分からないのです。皆さんのような凡人なら分かるでしょう。

 イエスがなぜ偽善者と言ったのか。さっぱり分からないのです。

 空の模様を見分けることができながら、今の時代が罪と欲の時代であって、肉の時代だということが見分けることができないのです。そういう人は地獄へ行くしかないのです。

 人間がなぜ地獄へ行くことになるかを、イエスは非常に的確に述べているのです。

 

 イエスは、「人を生かすものは霊であって、肉は何の役にも立たない。私があなたがたに話した言葉は霊であり、また命である」と言っています(ヨハネによる福音書6・63)。

 

 人間の行いは霊ですが、思いが間違っているのです。自分が生きているのではない。霊が生きているのです。

 イエスは「肉は益なし」と言っていますが、これを私たちが弁えるか弁えないかということが、人間全体が弁えることができるかどうかの非常に大きい問題になってくるのです。私たちがこれを理解しなければ、人類はこれを受け取ることができなくなるのです。こういう自覚を持たなければいけないのです。私がそういう実感を持たなければ皆様に説明することができないのです。

 私が理解できなければ皆様に理解できない。皆様が理解できなければ、全世界の人間に理解できないのです。皆さんは全世界の人間に代わって聖書を理解しなければならない責任があるのです。

 イエスの言葉の一つひとつを正当に、正確にはっきり掴まえなければ、全世界の人間の事実として証明されないのです。私たちは全世界の人間に対して、そういう責任を自覚しなければいけないのです。

 分かっても分からなくてもいいと考えてはいけない。全世界の人間のために理解しなければいけないのです。こういう責任を自覚して頂きたいのです。

 人間の命のあり方が論理そのものですから、論理的に分かるということは、命の実感になるに決まっているのです。理論的に分かったことを実行しているかどうかが問題なのです。

 実行の仕方は人によって様々です。どのような格好でどのように実行できなければならないというのではないのですが、生活の実感として捉えられていないのならだめなのです。

 まず私たちが理解できなければ、すべての人間が理解できないのです。私たちは神の門の入口に立たされているのです。門を開いて自分が入ると同時に、人々を入れなければならないのです。

 キリスト教の牧師は神の国の門の前に頑張っていて、自分も入らないし、人々も入れないのです。これが宗教です。私たちは門を開いて自分が入ると同時に、人々も入れなければならないのです。私たちにはその責任があるのです。

 論理というのは生活の実感そのものです。理屈は理論であって論理ではないのです。

 生活における実感の段階を論理と言うのです。理論は単なる理屈であって、実感が伴っていないのです。人間生活は命が論理的に構成されているのです。聖書の言葉をそのまま論理として受け入れなければいけないのです。

 イエスが言っている言葉は論理です。神が天地を造ったことが論理であって、論理がそのまま神の言葉になっているのです。

 肉があるかないかということは、神が天地を造った段階から考えなければならないのです。その論理が生活の実感でなければならないのです。

 「肉は益なし」という言葉は興味津々たる言葉であって、イエスは肉を否定しているのではないのです。益なしと言っているのです。

 肉はないと言っているのではないのです。生かすものは霊であるという言葉に対して、肉は益なしと言っているのです。生かすものは霊であるという言い方と、肉は益なしという言葉とを、どのようにかみ合わせて理解するのか。これを生活で証明されるような感覚で受け止められなければならないのです。

 皆様がこれを正確に受け止めなかったら、全世界の人間の運命に係わるのです。全世界の人間の代表者として、イエスの言葉をどう受け取るかを考えなければいけないのです。

 イエスはいつでも全人類を代表して生きていた。万物を代表して生きていたのです。皆様が分かるか分からないかは、万物が救われるか救われないに係わるのです。その責任を自覚しなければいけないのです。

 その責任を自覚して実行したら、御霊はそれに応じてくださるのです。そういう自覚がない者を御霊は応援してくれないのです。

 自覚がある者、責任がはっきりしている者を、御霊は助けてくださるのです。

 御霊に生きるのです。御霊を生きるのです。人間を相手にせずに御霊を相手にするのです。パウロは、「キリストが私の内において生きている」と言っています。パウロはキリストにおいて生きていたのです。

 生きている自分自身は、イエスの死を自分の身に負っていると言っているのです。パウロの人生はイエスと自分との係わりによっていたのです。

 神が分かれば分かるほど、精神的に楽になるのです。神を分かろうとしていないから、いつも精神的に窮屈なのです。思い煩いがあるとか、苦しみがある。不安不満、情緒不安定の状態は、神が分からないから起きるのです。

 神が分かれば情緒が安定するに決まっているのです。これは実に有難いことなのです。

 神を知るのです。神を知ることが唯一無二の楽しみにならなければいけないのです。「エホバを知ることは楽しみ深からん」とダビデは言っています。エホバを知ることの楽しさを自分で実感するのです。これを実感しないから精神的に行き詰まりがあるのです。

 聖書を教えられるということは教える人になるためです。一人歩きができるまでは子守りがいるのです。キリストの十字架と復活が自分のものになるまでは、掟という子守りがいるのです。

 十字架と復活が自分のものになれば、掟はいらないのです。ところが、皆様はいつまでも子守りがいるのです。

 第一のことを教えられたら、それを基礎にして第二のことを自分で分からなければならないのです。第二が分かったらそれを踏まえて第三のことが分かるのです。

 掟を与えられていながら福音を知ることができないというのは、よほどばかな人間です。イスラエルは大ばかです。

 掟を与えられていたら、掟の難しさが分かるに決まっているのです。掟の難しさが分かれば、自分はとてもだめだということが分からなければならないのです。こういうことを考えるのがユダヤ人であるのです。

 掟が難しいことを知っていながら、タルムードでごまかしているのです。タルムードは掟の解釈を人間的にすることによって、婉曲な形で掟を神に突っ返しているのです。これがタルムードです。これはけしからん概念です。聖書の甚だしい曲解です。

 「わが前に何ものをも神とするな」ということを、このように解釈したらいいのではないか、あのように解釈したらいいのではないかということを書いたのです。これがタルムードです。けしからんことをしているのです。掟を与えた神に、掟を突っ返しているのです。これがユダヤ教です。ユダヤ教が文明になって世界に広がっているのです。

 歴史は神が人間に与えた読み物です。歴史の興亡を見ていくと、神が分かるようにできているのです。ところが、文明を造ったために、歴史の盛衰興亡の真意が分からなくなったのです。

 トインビーは文明と歴史を混線して考えていたのです。歴史を文明という言葉にすり替えてしまったのです。歴史は歴史、文明は文明です。違うのです。彼は歴史を文明にすり替えてしまったのです。そこで土台である歴史が見えなくなってしまったのです。

 建築物を建てることによって、土台を覆ってしまったのです。そこで歴史の実体が見えなくなってしまったのです。

 民族興亡の歴史を冷静に見ていくと、神の導き、神の御心が分かるようにできているのです。それをユダヤ人が見えなくしてしまったのです。これが学問です。学理学説です。ノーベル賞です。

 ユダヤ人の学理学説で、歴史全体を覆ってしまったのです。人間主義、宗教主義、民主主義、経済主義、組合主義によって歴史を覆てしまったために、見えなくなってしまったのです。歴史を冷静に判断することができなくなったのです。

 皆様には生きているという霊、生かされているという霊があるのです。これが歴史です。その上に文明という建物を立ててしまったのです。

 生かされているということの上に、自分自身という文明を立てたのです。その結果、生かされているということが分からなくなったのです。

 生かされている魂という土台の上に、自分が生きているという建物を建て上げたのです。そのために魂が見えなくなったのです。これがユダヤ人の仕事です。とてもばかなことをしているのです。

 人間が生きていることが霊です。霊なる土台です。その上に自分がいるという建物を建てたのです。人間が生かされていることが見えなくなったのです。そこで、「人を生かすものは霊であって、肉は何の役にも立たない」を詳解しなければならないのです(ヨハネによる福音書6・63)。

 生かすものは霊です。肉は益なしです。生かすものは霊ですから、肉は益なしというのはどういうことか。何のために肉はあるのかということです。

 神は不用なものを造るはずがないのです。ところが、イエスは肉は益なしと言っているのです。これはどういうことか。

 全能者が益がないものを造るはずがないのです。イエスは益なしという言い方で、肉の説明をしているのです。ところが、こういう言い方だけでは分からないのです。御霊によらないと、イエスの言葉の内容が分からないのです。文句は分かりますが、文句の意味が分からないのです。

 肉は益なしと言うならどうして肉を神が造ったのか。イエスはユダヤ人に向かって偽善者と言っているのです。聖書の勉強をしている者はユダヤ人扱いをされますから、皆様も偽善者になるのです。

 日本人は偽善者でさえもないのです。獣です。獣は偽善者ではないのです。異邦人は初めから地獄へ行くために生きているから、偽善者でさえもないのです。

 日本人は地獄が恐ろしくないのです。地獄へ行くために生きているからです。平気で地獄なんかあるもんかと言っている地獄が一向に恐ろしくないのです。獣だからです。

 皆様は地獄へ行くのが恐ろしいと考える。地獄へ行くことだけは勘弁してくださいというのです。

 幕末までの日本人は地獄が恐かったのです。地獄へやるぞと言われると、無性に恐かったのです。

 今の人間は地獄へ行くぞと言われても一向に恐くないようです。

 「肉は益なし」という言葉の中に、どういう秘密が隠されているかということです。益という言葉は何を意味するかということです。あるかないか訳が分からない言葉のようですが、もし肉が実在しなかったら、肉という言葉があるはずがないのです。

 人間にとっては肉は実在しているのです。だから、イエスは肉は益なしとわざわざ言っているのです。それでは、肉の実体はどこにあるかです。

 肉というのはなければならないものですが、益がないのです。それではなぜ肉がなければならないかということです。

 言葉が肉となったというのはイエスのことです。これはなければならないのです。ところが、肉の思いで肉を見ていると、益がないどころか、非常に有害なものになってくるのです。

 肉の思いで肉を見ると実体に見えるのです。肉そのものが誠になってしまうのです。肉が誠という概念に座ってしまうのです。そうして、誠というものの位置がなくなってしまうのです。

 人間は肉の思いによって肉を見ると、肉が存在することになるのです。これが悪いのです。肉の思いで肉を見ると、肉が存在という位置に座ってしまうのです。これが神になるのです。神の位置に肉が座ってしまうために、神が全然見えなくなるのです。この状態を獣というのです。動物状態だからです。

 盲目にしてしまうのです。神が見えなくなってしまうのです。肉が実在するような感覚を持たされてしまうのです。肉が実在するということは、肉を神にしてしまうことです。

 肉がなければこういう間違いを人間はしないはずです。神がなぜ肉を造ったのでしょうか。肉は益なしどころではない。大変な害になるのです。なぜ神はこんなものを造ったのでしょうか。

 般若心経は色即是空、空即是色と言っていますけれど、色即是空と言いながら、なぜ空即是色になっているかということです。なぜ空が色になっているかです。

 色が空であることは、よくよく考えてみれば分かるのです。日本人でも何となく分かるのです。冒頭に、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」と述べている平家物語も、色即是空のことを言っているのです。

 一体肉はなぜあるのか。人間の心を迷わす余計なものが、なぜあるのかということです。なぜ神が肉を許しているのか。こういうことが分かっていないと、何回聖書の勉強をしてもだめです。

 色即是空だから肉はないのです。ないはずの肉があるように見えるのはなぜか。

 肉は一体何を現わしているのかです。人間は肉が実存する、実存すると思っているのです。

 皆様は神の実体の中へどんどん入っていかなければいけないのです。その中へ、自分自身の存在そのものをかけて入り込んでしまうのです。そういう訓練をするのです。女の人はそれができるのです。男はそれがなかなかできないのです。

 女の人は訳の分からないものでも黙って呑める特長を持っているのです。女性はそれができるのです。

 神を知ることが一番いいのです。神が分かると、すべての人間の中にある暗黒が消えるのです。この世に生きている人間はどこかに黒さを持っているのです。訳の分からない面が人間にあるのです。

 フロイドはこれをしきりに言っていました。「人間存在の中には訳が分からない暗黒がある」と言っていました。これがセックスに関係があると言っていました。この思想は幼稚な思想ですから、皆様はこんな思想ではいけないのです。

 人間の思いの中になぜ暗黒があるのか。人間の中に分からない部分、人間の思想の中に不明な部分があるのです。これが死です。

 人間の思いの中に正体不明のものがあるのです。これが死です。皆様は死を抱いているのです。これがなくならなければいけないのです。

 

 「神は光であって回転の影もない」(ヤコブの手紙1・17)。「神は光の中にいますように、私たちも光の中を歩くならば、私たちは互いに交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪から私たちを清めるのである」(ヨハネの第一の手紙1・7)。

 

 光の内を歩まなければいけないのです。そういう人になって頂きたい。そうなれるのです。霊を渡したらいいのです。霊を渡したら神が受け取ってくれるのです。そうしたら、光になってしまうのです。

 すべての知恵と知識の一切はキリストの内に隠されているのです(コロサイ人への手紙2・3)。全知全能者の神の知識と知恵はキリストの中にあるのです。皆様はこのキリストを夫とする人間だから、分からないことがあってはいけないのです。

 これが分からない、あれが分からないとみっともないことを言ってはいけないのです。皆様はヨハネの黙示録の七章二節に掲載されている人物ですから、どんな質問でも答えられなければいけないのです。

 「我は全能の神なり」とありますから、この神に教えてもらっていますから、どんな質問でも答えられるはずです。

 神のネーム(実体)が分かりますと、すべての暗黒に光を与えることができるのです。これが信仰です。だから、答えられないことがあってはいけないのです。

 神が分かると、万物に所を与えることができるのです。また、人間の疑問にも所を与えなければいけないのです。

 皆様は世界の人間を神の立場によって指導しなければならないのです。だから、分からないことがあったら何でも神に聞いたらいいのです。

 万物に所を与えるとは万物を生かすことです。これがすべての万物を治めるということです。神はすべての生き物を治めさせるために人間を造ったのです(創世記1・26)。皆様は万物を治めることができる力を持たなければいけないのです。

 肉はなぜ必要か。肉がなければ霊を現わすことができないのです。肉を現わさなければ、霊を現わすことができないのです。肉がなければ霊の説明ができないのです。

 肉は霊を説明するためになければならないのです。肉は益がない。益はないが、肉を裏返すと霊になるのです。だから、「生かすものは霊である」とイエスが言っているのです。

 生かすものは霊であるという言葉の反語が、肉は益なしになるのです。

 霊を現わすために肉があるのです。肉がなければ霊が現わせないのです。霊とは何かと言いますと、存在です。

 肉が存在するということが霊です。肉は実体ではない。実体ではないものが存在しているのです。これが霊です。存在していることが霊です。存在は霊ですが、また、神の御名です。

 人間には肉によって存在を教えなければ、教えようがないのです。肉を用いなければ存在が証明できないのです。

 存在は霊の実体です。これは父なる神の御名になるのです。父なる神の御名を現わすためには、存在しかないのです。存在以外のどんなものでも、父なる神の御名の証明ができないのです。

 存在を示すためには肉しかないのです。ところが、肉は益なしです。イエスは肉は益なしという言い方で、肉は存在を現わしていると言いたいのです。御名を現わしているのです。

 目に見える形の存在が肉です。隠れた状態、目に見えない存在が霊です。存在はただ隠れているだけです。隠れているものが現われているのです。

 家は隠れた神の栄光が家になっているのです。家は神の栄光です。神の栄光がなかったら、木、鉄はないのです。

 神の霊の実体が神の栄光です。神の御名の栄光が存在になって現われているのです。これをただ上っ面の格好だけで見ているから肉になるのです。実は存在です。神の栄光です。神の御名です。そういうものが肉になって現われているのです。

 肉はなければならないのです。これを信じる者は皆地獄へ行くことになるのです。そこで、創世記の一章二節をしっかり見ていかなければならないのです。

 「地は形なく、むなしく、闇が淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてを覆っていた」とあります。

 闇が淵のおもてにあったから、神の霊が水のおもてを動かしたのです。闇が淵のおもてになかったら、神の霊は水のおもてを動かさなかったのです。

 神の霊が水のおもてを動かしたというのは、闇が淵のおもてにあることを現わしているのです。闇が淵のおもてにあるということを現わすために、水のおもてを動かしたのです。これが現象です。

 そこで、肉は現在の宇宙でどういう位置を占めているかです。現在の人間の意識では、神の御名の代わりをしているのです。

 存在という言葉を肉が占めてしまっているのです。だから、肉を信じている人は皆死んでしまうのです。肉という神を信じているからです。今の人間にとって肉が神になっているのです。

 そこで肉をひっくり返すと、誠の神が見えてくるのです。肉の思いは死である。霊の思いは命である。肉を否定して霊を見たらいいのです。

 今私が述べたことは原則ですから、これを生活で活用して頂きたいのです。例えば、人に誤解されたり、騙されたりしたことがあるとします。このように思うのは肉の思いです。これをひっくり返すのです。そうすると、霊になるのです。これを黙って呑んだら恵みになるのです。マイナスがプラスに変わってしまうのです。

 ダビデはこういう生き方をしていたのです。だから、「エホバを思うことは楽しみ深からん」と言っているのです。

 肉をどんどん呑んでしまうのです。肉がなければ霊を現わすことができないのです。今の宇宙は闇が淵のおもてにあることが絶対ですから、肉を用いて霊を現わすしか方法がないのです。

 闇が淵のおもてにあることが宇宙の絶対条件です。闇が淵のおもてにある以上、神の霊が水のおもてを動かさなければならないことになっているのです。水のおもてを動かしたら、肉が現われるに決まっているのです。だから、肉があるように思えるのです。

 神の霊が水のおもてを動かしているという、この簡単な言葉の中に驚くべき深い意味があるのです。水のおもてが勝手に動いているのではありません。神の霊が水のおもてを動かしているのです。

 水のおもてが勝手に動いているのではないのです。水のおもてが動いているということが現象になっているのです。現象の実体は神の霊です。これが肉になって見えるのです。肉の実体は霊です。これは創世記の一章二節に書いてあるのです。

 現象がなぜあるのかという説明は、創世記の一章二節でできるのです。

 人間に裁き、地獄が分からないのは、獣の状態だから分からないのです。人間がなぜ獣になっているかと言いますと、獣だから分からないのです。神が分かれば獣でなく人間になれるのです。

 簡単です。神さえ分かればいいのです。神が分からないのは、あらゆる意味での盲目です。行き先が不明です。行き当たりばったりで一寸先は闇です。

 こういう状態から逃れるためには、どうしても肉は益なしということをはっきり確認する必要があるのです。

 「神の霊が水のおもてを覆っている」というこの短い言葉で、現象世界が説明できるのです。神の霊があって肉を証しているのです。

 肉がなければ神の霊を証することができないのです。神の霊は何であるかと言いますと、宇宙のエネルギーの根本です。これが大文字のスピリット(Spirit)です。

 宇宙エネルギーの根本は神の力、神の御霊です。神の力、神の御霊は、水のおもてによって証明されているのです。「神の御霊が働く時に、万物が皆造られる」とあるのです(詩篇104・30)。

 肉はあらずもがなものではないのです。なければならないのです。なければならないものですが、肉を肯定してしてしまうと地獄へ行くのです。

 神はわざと肉を造り出して、肉を人間が否認するかどうか、また、一人ひとりの霊魂が肉を否認するかどうかを見ているのです。肉を否定した者だけが、神の霊に属する者になるのです。肉を否認することができなかった者は、神の霊に属する者と認定できないのです。

 般若心経で色即是空とはっきり言っているのは、世界文化において、神、キリストという文字を一切用いないで、肉は益なしと言っているのです。肉は益なしとはっきり言い切っているのは般若心経だけです。

 ユダヤ文明の真ん中へ、般若心経で切り込んでいくのです。般若心経で切り込んでいくと、ユダヤ人は気持ちを許すのです。油断するのです。油断したら般若心経で切り裂いたらいいのです。

 これが涅槃という奥義です。涅槃という思想は、世界最高の文化概念です。ユダヤ人と言えどもこれには喧嘩ができないのです。

 聖書を持ち出したら、異邦人のおまえたちには聖書を解釈する資格がないというに決まっているのです。般若波羅蜜多なら、おまえたちに解釈する資格がないとは言えないのです。

 今のユダヤ人こそ般若心経を読む資格がないのです。般若波羅蜜多が世界文化の中心になるべきなのです。これをまず教えなければ、旧約聖書の世界についていくら話してもだめです。般若波羅蜜多で押しまくっていかなければいけないのです。

 今の学理学説が茶番狂言であることをユダヤ人は知っているのです。物質は存在しないと言っているのです。法則はありますが、物質はないのです。

 物理運動はあります。運動があるのであって、物理というのは第二義的な言い方ですが、第一義的にいうと物理は消えるのです。第一義的にいうと光になるのです。光は物ではないのです。働きです。働きとは何かというと、その実体の説明のしようがないのです。これが御霊です。

 なぜ働きがあるのか。命があるからです。働きが御霊を証明しているのです。これが御座から出ている稲妻と、もろもろの声と、雷鳴です。

 光が物質のようになっているのです。この光については今の人間の頭では分からないのです。

 光を霊として見ると、光の正体が分かってくるのです。肉として見ると、どうしても説明ができないのです。そこで、肉をやめて霊の世界に入らなければならないという必然性が起きるのです。

 肉の世界を乗り越えて霊の世界へ入ると、初めて肉全体が分かるのです。肉の世界を乗り越えて霊の世界へ入らなければ、肉の説明ができないのです。現在肉があるということの説明がどうしてもできないのです。

 肉を根本的に説明しようと思えば、肉をクリアーして肉の向こう側に出なければいけないのです。山の彼方にあるものを見なければいけないのです。

 山の彼方とは何か。山のこちら側は人間世界です。山の彼方は霊の世界です。これを掴まえることが科学の目的だと湯川秀樹氏が言っていましたが、ついにそれを掴まえることができずに死んでしまったのです。

 人間が考えられる思想形態が山です。この山の向こうにあるものを掴まえるのが、科学の目的だと湯川氏は言っていたのです。これは本当の科学者の意見です。本当の科学者だからこういうことが言えたのです。

 ユダヤ人がいくら学理学説を振り回しても、創世記の一章一節、二節には抵抗できないのです。

 神の霊が水のおもてを覆っている。これだけで聖書が全部説明できるのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

​死なない人間になりました(上巻)

​著者 梶原和義

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