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死に勝つ生き方

                           死に勝つ生き方

 

 今の人間はあまりにも物事を知らなさすぎるのです。知らないのに、知っている人の倍くらい知っているような顔をしているのです。

 自分の営みがあると考えていますが、これが数%の脳細胞の考えです。大半の脳細胞は眠っているのです。これでは現世的なことだけしか分からないのです。

 しかもだんだんと脳細胞は死滅していきますので、現世的なことを知る能力も低下しているのです。毎日低下しているのです。

 今から五十年ほど前までは、百四十億の脳細胞の二十%くらいは働いていると言われていましたが、最近では数%しか働いていないだろうと言われているのです。

 なぜそうなったのかと言いますと、今の人間は自分で料理を作らなくても、コンビニエンスストアーとかスーパーマーケットで何でも買えるのです。洗濯も全自動の洗濯機でできますし、クリーニングも店でしてくれるのです。

 洋食が増えて箸を使う子供が減ってきていると言われているのです。人間の指の働きは脳細胞に関係しているのです。昔のようにこよりを作ったり、縄を編んだり、草鞋を作ったりしなくなったからです。

 文明人は理屈は言いますけれど、脳細胞に関係がある理屈ではありません。知性に係わる理屈だけなのです。ですから、未開の人々の脳細胞の働きを研究すれば、文明人よりも多く働いているでしょう。自分で家を造ったり、衣服を作ったり、舟を造ったり、生活のすべての道具を自分で造りますので、文明人よりも多く脳細胞が働いているでしょう。

 文明現象はだんだん人間をばかにしているのです。文明人は死後の世界のことを敏感に感じません。霊魂に関することは、未開の人の方が正確に考えられるのです。

 死を乗り越えるためには、せめて脳細胞が五十%くらい働いている人でなければできません。これが問題です。しかし、できませんでしたでは済まない問題です。

 創世記には天地の創造のことが書いてあります。天地の創造が神の約束の絶対原理です。ですから、神の約束に関係がない人は、絶対にいないのです。例えバイキン一匹でも、神の約束に関係がないものはいないのです。

 天地万物を造ったのは神です。天地万物を造った神の絶対原理、絶対的な法則をキリストの法則と言います。これが地球計画です。太陽系の宇宙計画です。

 地球を中心にして存在している太陽系の計画が神の約束です。太陽系の中に住んでいて、太陽に関係がない人がいるでしょうか。太陽に関係がない人はいません。ということは、神の福音に関係がない人はいないのです。

 天地万物は皆神の福音に係わりを持っています。人間も神の福音に関係を持っていますから、神の福音の勉強をしなければならないのです。聖書の勉強は神の福音の勉強に基づいてしなければならないのです。

 太陽ができる前にちりがありました。聖書によれば人の元の姿はちりだったのです。皆様の元の姿は太陽ができる前よりも古いのです。

 その時ちりは光に当てられていた。もし当てられていなかったら、ちりに命がなかったはずです。皆様はこの世に出る前に、既に命を持っていたのです。命を持っていたというのは、命の光に当てられていたということです。

 その光はどんな光であったのか。太陽ではなかったのです。太陽ができる前の光です。「神は光あれと言われた。すると光があった」というのは太陽ができる前の光です(創世記1・3)。その光を皆様は知っているはずです。しかし、忘れているのです。

 皆様は記憶喪失症になっているのです。しかも非常に重症です。

 皆様は脳細胞の数%しか働いていない状態で分かったと考え、自分の権利があると考えている。これが善だ、これが悪だと考えている。そんな考えが神の前に通用すると思えるのでしょうか。

 数%の脳細胞しか働いていない。これで死ぬとどうなるのか。数%しか脳細胞が働いていない人には、絶対死は乗り越えられないのです。

 三島由紀夫は小説を書いていました。皆様より多少多く脳細胞が働いていたでしょう。文学的にだけ多く働いていたのかもしれませんけれど、社会人として、また、人間の本質としての脳髄の働きはそんなに多くなかったでしょう。

 川端康成もそうです。川端康成は女性のことを色々書いていますけれど、彼が考えていた女性は、二十%くらいの脳の働きで見ていました。神が造った女性ではない女を見ていたのです。

 川端康成は死んで黄泉(よみ)に行っています。黄泉に行く人間は、脳の働きが鈍い人なのです。とこしえの命を掴まえた人は、現世で生きていながら死後の世界が分かるのです。死ぬ時に人間の精神状態にどのような変化が起きるかということです。

 どうしたら死を乗り越えられるのか。

 聖書の勉強は、皆様の将来の運命、皆様の脳細胞の働きに重大な関係があるのです。世界に対する見方、人間の命に対する見方が根本的に違ってしまうのです。

 そうして、現世に生きているままの状態で、現象世界の背後にある上が分かるのです。上とは何か。花と一緒にある上が見えないと、花の世界が分からないのです。

 花の世界が分からない人は、死んだ後の世界は分かりません。これが霊の世界です。これが分かるようになると、人間の脳細胞の働きが格段に変わってくるのです。

 命のことは分からないではすまされません。頭が悪いから分からないと言っても、それでは神の前に通用しないのです。

 皆様がこの世を去る時に、厳粛な検査があるのです。否応なしに受けなければならない検定があるのです。この検定に合格しない者は必ず地獄へ行くのです。絶対に地獄へ行くのです。

 そのためにはどうすればいいのか。皆様の脳細胞の働きを良くするためには、たった一つの条件しかありません。絶対に服従するという条件です。黙って従うことです。幼子になるという条件です。これさえすれば従っていけるのです。

 分からなくても従っていけるのです。分からなくても従っていけば皆様の脳細胞は働くようになるのです。分かっても従わない人の脳細胞は働きません。従いさえすれば後から分かるに決まっているのです。

 どんなに難しいことでも従いさえすれば、後から必ず分かるのです。ですから、誰でも地獄行きを突破することはできるのです。

 皆様は原罪の本質が分かっていないために、現在生きていながら地獄を楽しんでいるところがずいぶんあります。皆様はそういうことをしているのです。

 私たちが現世に生きている間に命を掴まえなければ、死んでしまうに決まっています。生きていることをできるだけ完全に理解することが、聖書を勉強することです。

 どういう生き方がいいのか。どういう生き方が悪いのか。

 皆様の職場における生活態度、家庭における生活態度は、その生き方によって命を勉強することになりますし、死を楽しんでいることにもなるのです。知らず知らずに死を楽しんでいるということがずいぶんあるのです。

 地球上で聖書に関係がない人は一人もありません。聖書を勉強していようがいまいが、すべての人のことを書いています。聖書を正しく勉強していない人は、地獄へ行くことになるのです。こういう人を聖書は不信仰の輩と書いているのです。

 生きているもの、生きものは皆魂だという人がありますが、魂というものと霊の違いが分からないのです。霊魂と一口に言いますけれど、魂は生きものです。「そこで人は生きた者となった」とありますが(創世記2・8)、これが魂です。

 魂が生ける者です。これがリビングです。リビングの他に霊があるのです。

 肉体的に生きているのが魂ですが、魂である私たちが、魂として生きている。しかしまた、肉体的に生きているのです。

 

 聖書に次のように書いています。

 「聖書に『最初の人アダムは生きたものとなった』と書いてあるとおりである。しかし、最後のアダムは命を与える霊となった。

 最初にあったものは、霊のものではなく肉のものであって、その後に霊のものが来るのである。第一の人は地から出て土に属し、第二の人は天から来る。この土に属する人に、土に属している人々は等しく、この天に属する人に、天に属している人は等しいのである。

 すなわち、わたしたちは土に属している形をとっているのと同様に、また天に属している形をとるであろう」(コリント人への第一の手紙15・45~49)。

 

 初めに生まれた人間は生ける魂であって、土の体を持っている。土の体を持っているけれど、第二の人は天からやってきた命を与える霊であったと言っている。私たちは土の体を持っているが、同時に第二の人としての命を与える霊としての本質を持たなければならないと言っているのです。

 イエスは第二の人でした。しかし、肉体を持っていたのでバプテスマを必要としたのです。肉体を持っている者は絶対に水のバプテスマがいるのです。

 水のバプテスマを受けた結果どうなったかと言いますと、第二の人になってしまったのです。水のバプテスマを受けた後のイエスは霊なる者になっていたのです。天から来た命を与える霊となったというのは、水から上がった後のイエスの状態を指しているのです。

 第一の人は土から出て土に属している。第二の人は天から来て天に属している。二通りの人間がいるのです。土に属しているという面と、天に属しているという面と、二通りの人間がいるのです。

 土に属している者が天に属している者になると、土そのものが天に変わってしまうのです。

 土に属している人間は、肉なる者の頭です。「終わりの時に私の霊をすべての人に注ごう」というヨエルの預言があります(使徒行伝2・17)。すべての人にという日本語訳を英語では、すべての肉all fleshとなっています。原語も肉となっています。日本語訳が間違っているかと言いますと、間違っていないのです。

 すべての肉を人間が代表しているのです。これが肉です。人間が神に属する者になると、肉全体(すべての生きもの)が神に属するものになるのです。このことを皆様が実行したら、その功績によって皆様は世々限りなく王となるのです。勲になるのです。

 皆様が土に属している間は獣です。天に属する者になりますと、土に属している皆様が信仰によって天に属することになるのです。

 皆様の肉体には万物の要素が全部入っているのです。純金もダイヤモンドもサファイヤも鉄も、また、動物全体の要素が全部入っているのです。

 土に属するというのは肉に属するという意味とは違います。土は万物の母であって、すべて土から出ているのです。鉱物、動物、植物、地球全体の物質的な要素は、全部人間の肉体の中に結集されているのです。これをナチュラルというのです。

 セックスも肉であるのか霊であるのかを心得なければいけないのです。性も食も同じことです。人間の営み、衣食住は皆そうです。営みが肉であるか霊であるかです。

 やり方が肉でもそれに対する認識が違ってくれば、肉が肉でなくなってしまうのです。

 アブラハムは九十九歳の時にイサクを産んだのです。先妻が亡くなって後妻をもらって子供を産んだ。アブラハムは何をしていたのかと思われますが、性の本質が分からないから困るのです。日本人は意識が下等ですから、本当の性を知らないのです。教養が低いのです。ですから、日本人が死んで地獄行きから逃れられるというのは大変なことです。

 天から出て天に属するものは霊なるものです。これは土に属するものではありません。天に属するものです。皆様が天に属するものになりさえすれば、地獄行きから逃れられることになるのです。

 まず黄泉(よみ)から逃れることが必要です。肉を肉のままで生きていれば黄泉に行くに決まっています。人間は肉のことしか考えていません。セックスと言えば抱いてもらうことだと思っている。これはナチュラルではないのです。パウロは女が自然の用を代えて不自然の用にしたと言っていますが、そうなってしまうのです。

 神が人間にナチュラルを与えたのは、自然全体を救うという計画です。人間が救われると、自然全体が救われるのです。

 まず肉である自分を霊に変身しなければいけない。どうして変身するかです。これはそれほど難しいことではありません。皆様の存在を冷静に、平明に、綿密に見ていけば分かるのです。

 霊とは何か。肉の上です。肉の上とは何か。これを考えなければいけないのです。

 皆様は肉体的に生きているその感覚、気持ちを自分だと思っています。女性は肉体的に生きている自分を自分だと思いやすいのですが、どうして肉体的な自分を自分だと思うかです。

 皆様の中には四つの生き物がいます。人間存在は宇宙の縮図であって、神の御座も、四つの生き物も、海も、七つの灯火も全部入っているのです。ヨハネの黙示録の四章に書いてあることは、天の光景ですが、人間存在の光景でもあるのです。

 人間は自分一人を治めれば、万物を治めることになるのです。自分の肉を治めることができれば、その人は地につける者ではなくて、天につける者に変身することができるのです。

 七つの霊というのは少々難しいことですが、四つの生き物が一番分かりやすいのです。

 皆様の中に記憶力、推理力、判断力、直感力があることが、四つの生き物が働いている証拠です。記憶、推理、判断、直感は自分自身の機能ではありません。私たちに植えられた神の言葉が働いているのです。

 神の言葉がそのまま四つの生き物ではありませんが、神の言葉の働きが変化すると、四つの生き物になって働くのです。これが霊なる自分です。これが肉の人間の上です。

 肉の人間の上が四つの生き物です。四つの生き物がなければ人間は生活できません。直感、推理、判断、感受性がなければ、人間は生活できないのです。直感、推理、判断、感受性がなかったらどうして生活できるのでしょうか。

 人間が生きている状態が霊です。状態は何かということを綿密に見ていけば、四つの生き物くらいは簡単に分かるのです。そうしたら、肉の自分が霊の自分に変身しすることができるのです。

 イエスは洗礼を受けた時に、肉の自分から抜け出して霊なる自分になってしまったのです。これは難しいことではありませんが、毎日しないといけないのです。

 直感は霊です。だから、セックスも肉(自分の思い)に従って見ず、直感に従って見れば、霊の喜びが当然分かるのです。肉と思っているから肉になるのです。

 肉の妄念が肉を生じている。これを大乗起信論では無明と言っています。肉体人間である自分を認識していると、無明煩悩の虜になるのです。これが原罪です。原罪に従って肉の自分を自分だと思っている場合は、その人は肉の肉になっているのです。

 ところが、ひるがえって四つの生き物で生きている。こういう観点から自分の生き方を考えていますと、愛、正義仁道は、霊になるのです。推理、判断、記憶、直感という霊的な四つの生き物に基づいて人間が生きているという事がらを考える場合は、ヒューマニズムという考え方も霊になるのです。

 肉において見るか、霊において見るかによって、恋愛、家庭のこと、職場のことも見方が変わってしまいます。こんなことは誰でもできるのです。

 女は困ったことに、骨の骨が肉の肉になっているのです。骨の骨はすばらしいものです。男よりもすばらしいのです。骨はただの骨ですが、女は骨の骨です。ところが、肉の肉になってしまったのです。

 女性の美しさとは何か。女性のボディーの美しさは、キリストの言葉です。女性の魅力は福音の魅力と同じことです。だから、福音の手掛かりとして女性を考えると、初めて男が救われるのです。これを考えない男はだめです。

 女性の見方は死ぬか生きるかの関所になるのです。とにかく女性の見方は難しいのです。今まで人間歴史六千年の間、女性の本当の見方を書いた人はいないようです。聖書には書いていますが、わざとはっきり書かなかったのです。骨の骨、肉の肉についてはっきり書いた本はどこにもないのです。

 絵になるものは皆美しいのです。それは神の良き訪れを告げる足だから美しいのです。女性の美しさはすべて良き訪れを告げるものの足です。

 聖書はすべて男を基準にして書いています。女を基準にして書いていないのです。男から見た女のボディーは、はっきり絵になるのです。

 女は骨の骨だからすばらしいのですが、逆転すると、肉の肉になってしまいます。これがローマ人への手紙の一章に書いているのです。

 女は自分のセックスを不自然の喜びに用いるようになったと書いているのです。肉体感覚のセックスをセックスだと思うようになってしまった。セックスに対する考え方が、全然間違っているのです。

 もちろんこれは男に責任がありますが、セックスのことは女がリーダーシップを取っているのですから、女がどのように男に求めるか。男をどのように誘い、どのように水を向けるかによって、男のあり方が変わってくるのです。

 上を見る訓練をすれば、土に属する人間存在が、天に属するものに切り替えられる可能性は十分にあるのです。

 難しく考えなくてもいいのです。自分の思いを捨てて、与えられている客観条件を平明に、冷静に、綿密に見ていけばいいのです。平明とは、素直に見ていくことです。冷静にとは、自分の思いを主張せずに客観的に見ることです。綿密にとは、味わっていること、仕事をしていることについて、クールに観察することです。

 これをしていれば天に属する者になれるに決まっているのです。ならなければならないのです。土に属するままで生きていたら、死んで必ず地獄へ放り込まれるのです。これを毎日実行するのです。時々すればいいのではないのです。

 大体、太陽系宇宙があるのは何かということです。学者は大宇宙に太陽のような星が何億もあると言っています。人間の考えで推理してそのように思えるというのであって、太陽と全く同じ恒星はあるはずがないのです。

 太陽と地球の関係は、直径百五十億光年と言われている大宇宙の中で、たった一例しかないに決まっています。これは神の教会の目玉が、こういう形になって現われているのです。こういうことを勉強すると、キリストの福音がどういうものかが自ら分かるようになっているのです。しかし、これはよほど知識が高い人でないと分からないことです。

 人々が歩いている姿を見ますと、皆それ相応の服を着ています。これは肉ではありません。それぞれの場に適応するような服を着ていまして、これは霊です。肉ではありません。洋服の色、デザインを考えて着るということが、霊を意味するのです。人間の衣食住はすべてデザインや機能性、効果、効率を考えて造られていて、すべて霊なるものです。

 人々が神社へ参ることが霊です。肉の感情で行きますが、本物の神であってもなくても、神に祈るという気持ちが霊になっているのです。これは異邦人の霊ですが、異邦人が拝んでいる諸々の神も、全くエホバに関係がない訳ではないのです。その神は全能の神の一能か二能を現わしているのです。全能者ではないだけのことです。

 そういう神にお願いをせざるを得ない気持ちが霊です。神社の山道の両側に多くの店が並んで商売をしていますが、商売をして儲けるという考え方、品物を売るという考え方が全部事がら、霊です。肉ではありません。

 神社へ参る多くの人々の雑踏が霊です。人間が生きているのは全部霊です。これを全部肉だと思っているのが間違いです。上(機能)を見たら霊です。下(現象)を見たら肉です。

 上を見るとどうなるのか。服を着て歩いていることが上だとする、また、店が並んでいることが上だとすると、本当の上とは何かです。

 

 聖書は次のように書いています。

 「あなたがたはキリストと共に甦らされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右に座しておられるのである。

 あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない」(コロサイ人への手紙3・1、2)。

 

 本当の上とは何かというと、キリストが神の右に座しておられることです。実は、人間が今いる所がキリスト王国になっているのです。これは全く仰天すべきことですが、事実です。

 物事の出自とは出所という意味です。例えば、何かの話をしますと、その出自はどこかということです。その話はどこから出たかです。

 人間の場合でも、知識の場合でも、学問の場合でも、すべて出自があります。出自が万事万物の原理になるのです。これが分かると人間の立ち居振る舞いがすべて霊だということが分かるのです。

 この考えができれば、「あなたがたはキリストと共に甦らされたのだから、上のものを求めなさい」という意味が分かります。もう死んでいる人間とは違いますから、あなた方が生きているという出自を見てみなさいというのです。これが上です。

 キリスト紀元というのは、死なない人間ばかりが生きている世界です。あなた方はキリストと共に甦ったのです。

 皆様は既に死なない人間ですから、下を見ないで上を見よと言っているのです。ところが、人間は死ななければならないと勝手に思っている。上を見ないからです。下ばかり見ているからろくでもないことばかりを考えるのです。

 私たちが生きていること自体が、もう既に死なない状態になっているのです。新約時代は霊の時代であって、死ぬべき人間が生きていない時代です。

 神が天地を造って私たちを生かしているという事がらが霊です。心臓が動いていることが神です。従って、難しいことはないのです。

 心臓が動いていることが神だということが上です。この上を見たらいいのです。上が第三天です。第三天はここにあるのです。

 これが分かると死なない自分がよく分かるのです。自分でがたがた考える必要がないのです。自分の考えを神に任すのです。これが霊を渡すことです。神に基づいて考えたら、霊を渡しているのです。これをしたらいいのです。

 父と子と御霊が原理と原則と原動力であって、この三つのものがなかったら世界が成り立たないのです。これは分かり切ったことです。

 私たちが生きている世界が、父、御子、御霊の世界です。父、御子、御霊が会社になっている。また、家庭になっているのです。すべて、父、御子、御霊があるだけです。

 これを仏教では遍照金剛とか、因縁所生と言っていますが、全部抽象論です。父、御子、御霊というのは非常に精密です。父、御子、御霊でない世界は一つもありません。立とうが座ろうがすべて父、御子、御霊の世界にいる。これをリビングというのです。私たちはザ・リビングを経験しているのです。これがリビングソールです。

 私たちは今、父、御子、御霊の世界に生きています。肉体も精神もすべて、父、御子、御霊によってできています。生きている世界も、私たち自身の存在も、そうです。

 私たちの目が見える。耳が聞こえる。手が動くことが生きていることです。生きていることの右にキリストがいますから、このキリストを信じることによって、私たちが生きているということがキリストの考えどおりになるのです。

 皆様はキリストのボディーとして、地球に生きているのです。これが分かったら恐いことは何一つないのです。

 皆様はキリストの体です。皆様の頭はキリストです。これを信じて生きるのです。そうすると、厄払いをしなくてもいいのです。キリストの体ですから、厄の方が逃げていくのです。

 キリストと共に甦ったのですから、上だけしかありません。下は関係ないのです。これを皆様が生活でこなせるようになったら、死ぬことがなくなってしまうのです。

 甦った人間に死があるのでしょうか。上だけ見ていけば死ぬことがなくなるのです。

 生きていることが甦りです。これが私たちの命ですから、死は関係ないのです。

 下を見るのは、自分自身で死の中へ入って行くことです。下を見たら死んでいるのです。肉の思いは死であるというのは当たり前のことです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

​死なない人間になりました(上巻)

​著者 梶原和義

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