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​復活

                             復活

 

 人間の場から考えたら、必ず宗教になってしまいます。宇宙的に考えなければいけないのです。

 今の科学というものほど訳が分からないものはありません。科学は最も実証的に物事を考えるのを建前としているのに、今年が二○一六年であることを真面目に考えようとしないことが一番悪いのです。

 二○一六年であるというのは、歴史の事実です、二○一六年にならなければならないような必然性を歴史が持っているのです。

 新約聖書は天下公然と刊行された書物であって、聖書に反抗する民族も団体もないのです。聖書が公然たる事実になっているのに、科学はそれを信じていないのです。

 何という愚かなことをしているのかと言いたいのです。日本で最初にノーベル賞をもらった湯川秀樹さんが、学校では物質は存在しないと教えていながら、家庭では唯物論的な考えで生活していたのです。こういう矛盾に気が付いていなかった。これが学者の考え方です。

 ノーベル賞というのは何か。ノーベルがダイナマイトの発明で大儲けをしたので、その罪滅ぼしのような意味で創設したのが、ノーベル賞財団です。

 ノーベル賞はユダヤ人の道楽みたいなものです。ノーベル委員会が、二○一六年を認めるか認めないか、どちらかと言いたいのです。世界の文化人も学者も、これを見逃していることがいけないのです。

 イエス・キリストの復活は、歴史が認定しているのです。仮に全世界の一般の人間が認めなくても、歴史の主流を司る者たちは、二○一六年を認定しているのです。ユダヤ人であってもユダヤ人でなくても、世界の文明をリードしている人々は、一応認めているのです。

 とにかく、新約聖書を認めなければ、アメリカという国が成り立たないのです。新約聖書を認めなければ、イギリスもフランスも成り立たないのです。新約聖書を認めなければ、白人文明の根底がなくなってしまうのです。だから、新約聖書は一応白人文明において認められているのです。

 キリストを主体にした白人文明が、全世界の基本思想になっているのです。そうすると、世界中の人間は、イエスの復活を認めざるを得ないのです。そういう条件の下で生活しているのです。

 白人社会の文明思想はキリスト教を基礎にしなければ成立しないのです。良い悪いは別にして、歴史家の勝手な理屈ではなくて、事実、白人文明はキリスト教思想を踏まえて成立しているのです。

 白人文明がキリスト教の思想を踏まえているとすると、新約聖書が現代文明の基礎になっていることになるのです。新約聖書をはっきり認識していないとしても、漠然とした考え方において、新約聖書を中心にしなければ、キリスト教文明、西洋文明が成立しないのです。

 この意味で、キリスト教文明はキリストの復活を認めていることになるのです。復活を認めているとすると、イエスが復活したことによって、現在の人間が認めていた物質ではない、もう一つの物質が誕生したことを認めなければならないことになる。これが問題なのです。

 復活という事件があるまでは、人間が考えている物資という概念があらゆる物質の範疇に当てはまったのですが、復活という歴史的事実が発生して以後、復活までに人間が考えていた物理の他に、もう一つの物理が誕生したことになるのです。

 

 聖書に次のような記事があります。

 「さて、サウロは、なおも主の弟子たちに対する脅迫、殺害の息をはずませながら、大祭司の所に行って、ダマスコの諸会堂あての添書を求めた。それはこの道の者を見つけ次第、男女の別なく縛り上げて、エルサレムにひっぱって来るためであった。

 ところが、道を急いでダマスコの近くに来た時、突然、天から光がさして、彼をめぐり照らした」(使徒行伝9・1~4)。

 

 この事件が起きたのは、春から夏にかけてのことではないかと想像されるのです。中東地方は空気が非常に乾燥している所です。

 私はイスラエルへ二回、エジプトにも二回行きました。夏の暑さは想像以上でした。真夏にルクソール観光をしましたが、日陰で摂氏四十度、日向では五十度近くになっていたようです。日陰でも汗が滝のように流れ出ていました。

 晴天と言っても、日本の晴天と中東の晴天とでは全く違います。この状態で輝く真昼の太陽は強烈ですが、パウロは真昼の太陽よりもさらに輝く光に照らされたのです。

 原子爆弾や水素爆弾ならこのような光を発しますが、この時代には核兵器はありませんでした。パウロがこの光を見たことが、更心の原理になっているのです。

 パウロはこの光の中から声を聞いたのです。今まで聞こえなかった声を聞いたのです。今まで聞こえなかった声を聞き、今まで見られなかった光を見たのです。可視光線に属さない光を見た。不可視光線の光を見たのです。不可聴世界の声を聞いたのです。このことを聖書ははっきり書いているのです。

 このような事実を現在の科学者はどう考えるのでしょうか。しかも、復活後のイエスが現われたのです。

 また、聖書には次のような記事があります。

 イエスが十字架に付けられた後に、ユダヤ人たちの襲撃を恐れて、マルコの二階に隠れるために集まっていた。しっかり鍵をかけた頑丈な部屋でしたが、そこへ復活したイエスが入ってきたのです。かなり厚い壁を素通りして入ってきたのです。

 これはどういうことでしょうか。イエスが出現するまでの時代に考えられていた肉体ではない、もう一つの肉体が現われたという事実を歴史的に記録しているのです。

 科学という言葉を使う以上、聖書にはっきり記されているイエス・キリストの復活の体を、科学の対象にしなければならない責任が科学者にはあるのです。

 今の医学では、イエス・キリストの復活までの肉体を対象にして考えている。これも必要なことですが、もう一つ死を破った人間が実在し、死を破った肉体があるという事実を考えなければならないのです。これは医学と言えるかどうか分かりませんが、医学以上のことかもしれません。物理科学の最高峰の問題です。

 イエスの復活の肉体は、科学の対象にならないという人がいるかもしれませんが、なぜならないかです。物理の最高になることをなぜ認めないかです。物理の最高にならないとするなら、なぜ歴史がこの実体を認めているのでしょうか。

 イエスの復活という問題は、学の対象として最も重大なテーマです。人間が死を破ったということは、自然科学の大問題です。

 今の歴史は死んでいく人間だけの歴史です。死を破った人間が忽然と現われたのです。死を破った人間の歴史も、当然、人文科学に加えなければならないのです。

 イエスの復活は、学問の最高の絶対と言わなければならないテーマですが、取り上げようとしない。これは歴史を正面から認めようとしないことになるのです。

 学理学説は人間が造った概念にすぎないのです。従って、私たちの生活の原理としなければならないような重大な意味を持っているものではありません。

 科学も同様です。現在の人々は、科学は最高の真理のように崇めていますが、単なる生活の知恵です。科学によって生活は豊かになりました。テレビ、冷蔵庫、洗濯機、パソコン、車、飛行機によって生活はとても豊かになりましたが、人間の魂は崩壊したのです。

 学問以上の本当の世界があるのです。不可視世界があるのです。不可聴世界があるのです。

 創世とは何か。世が始められたことがあれば、必然的に終世を前提にしなければならなのです。創世はスタート、終世はゴールです。これを現在文明は明確に認めようとしないのです。

 終世はいつ頃どのような状態で現われるのか。これについて検討しなければならない責任があるのです。そこですべての人は嫌でもどうでも、聖書を勉強しなければならないのです。学問的であろうが、宗教的であろうが、とにかく聖書を避けることはできないのです。

 現象的な物理世界は、実は存在しない世界です。人間は存在しない世界を存在するような概念を持っています。

 五官は存在しない世界を存在するもののように感じている。五官の実感はどこまで正しいのか。実感する世界と可視世界の関係はどうなっているのか。目に見える世界と目に見えない世界とがあるのです。

 「目に見える所は、現われているものから出たのではない」とあります(へブル人への手紙11・3)。現われていないものというのは不可視世界です。不可視世界はあるに決まっています。

 不可視世界の実体は何か。どこにどのようにあるのか。これが神の約束の大原則です。不可視世界が分からない者に、自然法の原理が分かるはずがないのです。自然法は不可視世界を踏まえて成り立っている。今の科学が不可視世界を確実に捉えて物理世界を尊重するならいいのです。

 今の科学は不可視世界があることを知っているのです。知っていながら検討しようとしない。なぜ検討しないかというと、見当する実力がないからです。だから、科学は実力がないとはっきりいうべきです。

 科学が生活ためというのなら分かります。現世人間の合理性を持っているけれど、人間存在の本質としては合理性を持っていないのです。

 現世に生きているということは、人間存在の目的ではありません。現世は人間が通過すべき段階であって、プロセスです。現世のために人間が生まれてきたのではないのです。

 現世に生きていても仕方がないのです。なぜなら、現世における肉体人間は過程的存在であって、実体的存在ではないからです。過程的存在の人間が事業で成功しても、大臣になっても、単なる過程にすぎないのです。

 そうすると、人間の目的は何であるのか。人間存在の実質は何であるのかを嫌でも勉強しなければならない責任があるのです。そこで、キリストの再臨ということが問題になるのです。

 この世が始められたから終わりがあるに決まっている。いつ頃にどういう形で終わるのか。

 私たちが生きている世は、どのように終わるのか。これが再臨の問題になるのです。私たちが生きているという事実の中に、終世的事実があることを勉強しなければならないのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

​死なない人間になりました(上巻)

​著者 梶原和義

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