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死ぬ原因

                             死ぬ原因

 

 般若心経に諸法空相という言葉があります。諸法の中に空相という面と実相という面と二つがあるのです。大乗における三法印は、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静ですが、諸法無我が諸法空相の実体のようなものになるのです。

 諸法を空相として捉える場合と、諸法を実相として捉える場合によって、意見が根本的に違ってくるのです。しかし、これは両方共実体です。

 二律背反という言葉があります。テーゼとアンチテーゼがあることは誰でも知っています。人間は二律背反という理屈を知っていながら、無意識にどちらかの理屈に立とうとしているのです。

 現在、現象的に存在するものを実体と考えますと、諸法実相になります。諸法空相になりますと、現象的に存在するものは実体ではないとなるのです。老子の思想で言いますと、無が働いているのです。無の働きによって万物は生成されているのです。従って、万物の本体は無です。

 有として現われているものは滅するものである。有為の働きと無為の働きと二つあるのです。無から有が生まれているのです。万物はすべて無から生まれているというのが老子の哲学です。

 無が働かないと有が働かないという考え方です。存在の実体は無であるという考え方です。これが無為の哲学です。

 有とは何かと言いますと、滅する相です。有になれば滅んでいく形である。消えていくための相です。無は生まれるための相です。生まれる面と消える面と、二つの働きがあるのです。

 有も無も、二律背反という意味でどちらも本当です。どちらも本当ですが、どちらも嘘です。なぜ嘘かと言いますと、無がなぜ働くのかということが分かっていないからです。分かっているのでしたらいいのです。なぜ無が働くのか、無が働けば有になるのはなぜかということですが、この説明を老子はしていないのです。

 無が働くから有があると言っています。これは間違いありません。しかし、無の働きの実体が老子によって説明されていないのです。ここに老子哲学の基本的な欠陥があるのです。

 働くということは命を意味するのです。無の状態が有に変化します。なぜ変化するのかと言いますと、命があるから変化するのです。

 命とは何かということを、結局老子は説明していないのです。私たちは命の勉強をしようとしているのです。老子が勉強しようとしないことを、私たちは勉強しているのです。

 老子の哲学で言いますと、有の働きというのは物を無くする働きです。無は生みだす働きを言うのです。有は滅する働きを言うのです。

 これは皆様の肉体を見れば分かるのです。皆様はこの世に生まれて来たのです。これは無為です。無の働きによって人間存在が発生したのです。

 この世に生まれたということは、無為の原理によって発生したのです。無が働いたので肉体を持っているのです。肉体を持っている人間はどうなるのかと言いますと、死ぬに決まっているのです。

 有の働きは滅です。無の働きは生です。生まれるのです。こうなるに決まっているのです。

 例えば、目の前に花があるとします。花が咲く前は無でした。咲いている状態は有です。この花はしぼんでいきます。無から生じた花が元の無に帰るのです。無と有との関係は生と滅の関係でありまして、無を主張することは生を主張することになるのです。生まれることを主張することになるのです。

 有を主張することは無を主張することになるのです。今皆様が肉体的に存在している自分を認めると、死んでいくことになるのです。これが死の原因です。

 有の哲学は死を認めている哲学です。例えば、カントの哲学は有を認めています。資本主義の哲学、共産主義哲学は、皆有を認めているのです。有を認めている哲学は生きていることを認めざるを得ないのです。そうして、死んでいくことを認めざるを得ない哲学です。

 自分がこの世に生きていることを根本的に確認することになりますと、死んでいく自分を確認したことになるのです。

 皆様は死んでいく自分を確認しているのです。現象世界というものはやがて滅びていくのです。生あるものは必ず死する、形あるものは必ず壊れるのです。

 有の働きは滅する働きになってしまうのです。私たちが肉体的に存在する命を認めるとしますと、死んでいくことを認めたことになるのです。

 般若心経の般若波羅蜜多というのは、現在肉体的に生きているけれど、これは空という状態で生きているのだから、これは肉体を必ずしも肯定する訳ではないのです。

 般若心経は、人間が肉体的に生きていることを否定していません。涅槃というあり方で、肉体的に生きていることをクリアーしようとしているのです。

 クリアーという言い方は、陸上競技のやり方を採用しているのです。高跳びで二メートルのバーをクリアーすることによって、死を乗り越えることができるのです。

 般若心経の般若波羅蜜多というのは、クリアーすることを主張しているのです。だから、現象的に存在する社会が絶対的に存在するということ、唯物論的に、即物論的に物象の世界を認めてしまいますと、死を認めることになるのです。

 現象を求めることは死を認めることになるのです。死を認めるくらいなら、般若心経や聖書の勉強をする必要がないことになるのです。

 私の話は初めはよく分かったが、だんだん勉強している間に分からなくなると言われます。なぜそうなるのかということです。

 皆様には無為ということと、有為ということについて理解をして頂きたいのです。皆様は霊的に考えることと、肉的に考えることとを、行きつ戻りつしているのです。行きつ戻りつをいつまでも続けていることは良くないのです。

 無為、無によってすべてが生まれてくる言いますと、これに賛成されます。現実社会がなければならないと言いますと、また、これに賛成されるのです。

 有という面と無という面の両方を勉強しなければならないのです。有という面も無という面のどちらも理屈があるのです。

 そこで、命の勉強をするためには、霊なる面と肉なる面と両方勉強する必要があるのです。私の話を聞いてだんだん分からなくなったとしますと、霊なる面と肉なる面とを混線されているからです。

 肉なる面の常識を持ったままで、霊なることを考えようとしているから分からないのです。

 人間は本当のことを知らないのです。本当のことを言いますと、人々は聞こうとしないのです。病気が治る、お金が儲かるという話をすれば、たちまち人が集まるでしょう。

 私は皆様に本当の命があることをお話ししたいのですが、このことを皆様は聞こうとしないのです。私たちの考えは、今までの文明とは全く違った新しい文明の台頭を提案しているのです。壮大なスケールの問題をお話ししているのです。

 自分一人が分かるとか分からないという小さな観点ではなく、全人類の運命に関する問題なのです。そういう大きい見方をして頂きたいのです。

 私は現世と来世との関係について、詳しくお話ししたいのですが、皆様にそれを本当に知りたいという熱心さがあるかどうかです。

 そういうことを勉強したいという根気を持って頂きたいのです。分かったようで分からなくなるというのは、私の話が皆様の気持ちの根底まで届いていないからです。

 老子は無から有を生ずると言っています。これは非常に明確な思想ですが、非常に不完全な思想です。正しいけれども完全ではないのです。

 老子は無とは何であるかという説明をしていません。無の本体は何であるか。無からどうして有が生まれてきたのか。生まれるのはどういう力がどのように働いているのか。これが老子の哲学には示されていないのです。命が分かっていないからこういうことになるのです。

 エネルギーとは一体何であるか。これは老子がいう無為と大きな関係がありますが、このことをお話ししたいのですが、今の皆様の精神状態ではご理解頂けないでしょう。そこで、般若波羅蜜多を申し上げているのです。

 般若波羅蜜多ということは、向こう岸へ渡るという知恵のことです。実は、人間は般若波羅蜜多のためにこの世に生まれてきたのです。この世に生まれてきた自分自身を解脱するのです。これをしなければ、本当の命を見つけることができないのです。

 秦の始皇帝は現世の自分の命を何とか伸ばしたいと考えていた。そうして、不老不死の薬を求めて世界中に人を遣わしたという話があるようです。

 現世に肉体的に生きているままの命を永遠に永らえようとすることは、物理法則に反するのです。生あるものは必ず死ぬ。形あるものは必ず壊れるという原理を無視することはできません。

 皆様が本当の命を本当に掴まえたいと考えるのでしたら、現在の命をクリアーすることを考えて頂きたいのです。生きているままで永遠の生命を掴まえるためには、生きているままの状態でいいのです。

 心臓が止まってしまえば万事休すです。心臓が止まるまでに、現在まで生きてきた命を乗り越えて頂きたいのです。

 これが般若波羅蜜多です。これは私の意見ではありません。般若心経の意見です。

 エネルギーの本質は何であるか。この本質を掴まえたら、死という問題と生という問題との実体が究明できるのです。ところが、皆様の究明態度がしっかりしていないのです。

 命の問題は生活の問題よりも大きいのです。このことをまずご承知頂きたいのです。このことがご理解頂けたら、私と皆様との基本的な見解が一致するのです。基本的な見解が一致しないと、どうしても意見が合わないのです。そこで分かったような分からないような状態を行ったり戻ったりすることになるのです。これは残念なことだと思います。

 本当の命がありながら、皆様は手を伸ばして取ろうとしていないのです。まず手を伸ばす姿勢をとって頂きたいのです。

 こういう勉強会に三十回や五十回出たくらいではだめです。自分の人生をかけて、一生勉強する気持ちでとことんして頂きたい。そうしたらその忍耐力を見て、神は本当のことを教えるのです。

 エネルギーの本質は精神的なものです。無の働きということについても、無がどうして働くのか。無というのが精神の淵源です。

 一体精神とは何かということです。これが現在の人間には全く分かっていないのです。私は未だ人間が踏み込んだことがない世界のことをお話ししているのです。こういうことを神の御霊によって教えられているのです。

 私が皆様にお話ししたいのは神の約束です。地球には自然法がありますが、これが無の働きの原理です。無がどうして働くのか。老子が言おうとして言えなかった所を、皆様にお話ししたいのです。釈尊が言おうとして言えなかったことを、お話ししたいと思います。

 イエスが言ったことを、現代的な感覚で翻訳してお話ししたいのです。ところが、普通の精神状態では、私が言うことがお分かり頂けないでしょう。そこで、どうしても般若心経の世界観に学ばなければならないのです。

 まず究竟涅槃を学んで頂きたいのです。究竟涅槃を理解することなしには、私が言うことの真意を受け取って頂くことはできないでしょう。

 今までの皆様の経験を棚上げする度胸がなかったら、イエスが死を破った実体を捉えることはできません。

 死は破ることができるのです。イエスは死を破ったのです。これはイエスの復活によって歴史的に証明されているのです。

 イエスはどうして復活したのか。どうして死を破ったかということを、皆様に具体的にお話ししたいのです。

 普通の日本人の考え方ではだめです。日本人は命を知ろうとしないからです。本当の命を知ろうとする人は日本にはめったにいません。その意味で皆様は日本人離れをしているのですが、ついでにもう少し人間離れをして頂きたいのです。

 浮世離れをするくらいの度胸がなければ、本当の命、永遠の命を掴まえることはできません。

 エネルギーの実体は精神です。精神の実体は何かと言いますと、一つのウィル(will)に行き当たります。宇宙に偉大なウィルがあります。また、皆様一人ひとりにもウィルがあります。皆様の中にあるウィルというのは小さすぎるのです。個々の意見、個々の立場、自分の利害得失しか考えない、非常に小さいウィルがあるのです。

 このスケールが小さいウィルを大きいスケールのウィルの所へ連れていけば、その人は死ななくなるのです。小さいウィルも大きいウィルも同じウィルですから、人間のウィルを神のウィルの所へ持っていけば、死ななくなるのです。

 釈尊が空と言いました。ここに注目して頂きたいのです。釈尊が空だと言ったのは、現在生きている人間の考えは五蘊であるということです。五蘊皆空であると言っているのです。

 現在生きている人間の常識、知識が空であると言っているのです。空であるという意味は、間違っているということとは違うのです。

 現在の人間から見れば、この世があることが大切なことです。この世があるということの本当の意味が分かることが大切なことです。

 例えば、地球がなぜ存在するのかということです。この事がらの本当の意味が分かれば現世は大切なものです。

 現在の文明はすばらしいものです。ところが、全世界の人間は、地球があるということの意味が分からない。従って、現在の人間が造っている文明は、盲目の人間が造った盲滅法の出来事になるのです。

 盲千人、目明き千人と言いますが、霊魂の問題になりますと、盲千人だけであって目明きは一人もいません。

 地球がなければ文明があるはずがないのです。また、人間が生まれてくるはずがないのです。地球があるから人間が生まれてきたのです。こんな簡単なことが今の人間に分からないのです。従って、人間完成は地球完成と切っても切れない関係にあるのです。

 人間は万物の長でありまして、万物の最終段階に被造物として生まれたのです。人間は森羅万象を一つひとつ認識することができます。認識することができるということは、人間自身の心の中に森羅万象を動かすことができる力が内在していることを意味していることになるのです。

 モーセが紅海の水を割って、二百五十万人のイスラエルをエジプト軍から逃れさせたのです。砂漠にある岩を叩いて水を出したのです。イエスは水をぶどう酒にし、五千人の人々を五つのパンと二匹の魚で食べさせたのです。これは万物を動かす力が人間の中にあることを示しているのです。

 このような人間のあり方を神の子と言うのであって、世間並に商売をしている者は人間ではないのです。こんな者は人間ではないのです。本当の人の子ではありません。

 本当の人の子というのは、万物の長として自分自身の完成を考えるような人柄のことを指すのです。皆様は万物の長として、自分を完成しなければならない責任を自覚して頂きたいのです。

 皆様自身が完成することは、地球を完成させるための基礎になるのです。こういうことは老子も言っていないのです。私たちは老子や孔子の思想よりもはるかに偉大なもの、深いものを勉強しているのです。だから、今までの皆様の勉強で分かったとか分からないとか言うのは間違っているのです。

 死の原因は何かと言いますと、この世に生まれてきたことです。もしこの世に生まれてこなければ、死ぬことはないのです。死はないのです。

 皆様はこの世に生まれてきたということの意味が、よく分かればいいのです。この世に生まれてきたという意味がよく分かれば、死ななくなるのです。この世に生まれてきていながら、この世に生きている意味が分からないままで、ただ生活に追いまくられている。こういう無責任な生き方をしていることが間違っているのです。

 人間文明は底抜けのバケツです。こんなものを信じていることが間違っているのです。何のために生まれてきたのか、何のために生きているのか。命とは何であるのか。こういうことが分からない人間が、現在世界中で七十三億人もいるのです。人間歴史六千年の間、このことを真剣に考えないで、だらだらとこの地球上に生きていたのです。この醜態を皆様は何とお考えになるのでしょうか。

 日本から新しい文明の指導原理が生まれなければならないのです。新しい聖書の見方、新しい仏典の見方、新しい命の見方が日本から生まれなければいけないのです。皆様はそのための先兵になって頂きたいのです。

 ただ自分一人が分かるとか分からないとかいう小さな所に視点を置かないで頂きたいのです。

 人間はこの世に生まれてきたから死ぬのです。この世に生まれてきたのは何なのか。この世に生まれてきたことが業(ごう)です。

 業の実体とは何か。皆様はこの世に生まれてきました。現在生きています。このことが業です。これを悟るのでなかったら、本当のことが分かるはずがないのです。

 業に生きているままの状態で、業を背負ったままの気持ちで生きている人間が、とこしえの命を勉強しようと思うことが間違っているのです。無理です。

 まず死ぬべき自分を死ぬべきものとして認定することです。これが死を乗り越える第一の条件です。こんな状態では必ず死ぬということをしっかり考えて頂きたいのです。そうしたら、死を乗り越える姿勢ができるのです。

 皆様は今の状態のままで、何とかごまかして永遠の命を掴もうと考えていますが、これはできないのです。

 業をよく心得て頂きたいのです。業には二種類あるのです。自我意識と現象意識の二つの業があるのです。

 自我意識は業(ごう)です。自我意識があるために皆様はこの世から逃れられないのです。自分が生きているという考えです。これがあるためにどうしても自分から逃れられないのです。

 自分はいないのです。これは簡単なことです。皆様の本当の生命は何であるかと言いますと、鼻から息を出し入れしているだけのことです。心臓が動いているだけです。これが素っ裸になった皆様の姿です。

 鼻から息を出し入れしていることが人間の姿です。息とは何であるか。これがエネルギーの原点になるのです。

 息は一つの働きです。老子が言うような無の働きの一つです。無が皆様の息として働いているのです。息がどこから来たかということを、まず勉強する必要があるのです。そうすると、自我意識というばかな観念が消えてしまうのです。

 皆様の心臓は皆様が動かしているのではありません。皆様の鼻の息は皆様自身が勝手にしているのではありません。皆様が息を吸って出しているのではありません。

 皆様の息は皆様のものではないのです。これは宇宙の原点であるもの、生命の起源であるもので、これを仮に神と言ってもいいと思います。仮に神と名付けるとして、神が生命の原点になるのです。

 神は永遠の生命そのものです。無尽蔵の命そのものです。無尽蔵の命が人格を持ったものを神と言っているのです。

 無尽蔵の命が人格を持っている。人格とは何かと言いますと、その根本原理がウィルです。意志です。命にはウィルがあるのです。命のウィルを発見したら初めて、そのウィルがエネルギーになって現われていることが分かるのです。

 そこで、まず皆様は自分が生きているという考えを棚に上げる勉強をして頂きたいのです。私の話を聞いている時には分かったような気がするが、家に帰ったら分からなくなるという人がいますが、分からなくなるというのは自分の気持ちです。これが自我意識の迷いだということが分かりますと、これに引っかけられなくなるようにして頂きたいのです。

 本当の福音を受け入れるということは、日本人にとっては大変難しいことになるのです。日本人は中国の思想とか、インドの思想には親近感を持っていますけれど、聖書については全く拒否反応を持っているのです。聖書には初めから拒否反応を持っているのです。

 戦国時代から江戸時代初期にかけて、高山右近、大友義鎮、大村純忠、有馬晴信、小西行長、黒田孝高、蒲生氏郷、筒井定次といった錚々たる大名がキリスト教に入信し洗礼を受けました。いわゆるキリシタン大名と言われる人々です。

 これらの人々が信じたのはヨーロッパにあったキリスト教であって、本当の福音ではなかったのです。本当のキリストは未だかつて日本に紹介されたことがないのです。ですから、日本人はキリスト教ではない聖書、キリスト教ではない神、キリスト教のキリストではない本当のキリストが分からないのです。

 キリストとは何かと言いますと、神の地球計画です。何のために人間は遣わされたのか。人間は万物の長です。万物の長として自らを完成することが、人間がこの世に生まれてきた目的です。

 私たちは現世に生きるために生まれてきたのではないのです。生ける神の子として、永遠の命を経験して森羅万象を治めるために生まれてきたのです。

 人間が成長する可能性は無限です。人間の霊魂は無限に成長する可能性を与えられているのです。宗教で考えている幸福とか、死んだら天国へ行くというそんな小さなものではないのです。

 万物を治めるということは、永遠に関する見通しをつけるという大きな問題でありまして、やがて地球は消えていくのです。従って、人間社会もなくなるのです。それでも皆様の命は永遠無窮に進展しなければならないのです。進展向上しなければならないのです。

 従って、今までの皆様の常識で考えることをやめて頂きたいのです。これが業を断ち切ってしまう方法です。自分の立場で考えることをやめて頂きたいのです。自分の経験で考えることをやめて頂きたいのです。

 神の約束というのがありますが、これが自然法の原理です。自然法はどうしてあるのか。ウリの蔓にはナスはならないのです。桜の木に菊は咲かないのです。

 「バラの木に バラの花咲く 何の不思議もなけれど」という北原白秋の歌があります。バラの木にバラの花が咲くというのが自然法の正体でありまして、ウリの蔓にナスはなってはいけないのです。バラの木にはバラの花が咲かねばならないのです。

 自然法の原理が神のウィルでありまして、神のウィルが地球が存在する原点になっているのです。

 なぜ地球が存在するのか。宇宙に死が発生したからです。神は宇宙から死を取り除いてしまうために遠大な計画を立てたのです。これが神の地球計画の根本です。これに基づいて人間が生まれてきたのです。

 人間の存在は驚くべき高遠無双のものでありまして、皆様が悟りを開くとか開かないとか、死なない命を持つとか持たないとかいう、そんな小さなものではないのです。

 皆様は神のヘルパーとして宇宙を治めるべき人なのです。皆様には桜を見れば桜と認識できるのです。バラを見ればバラと認識できるのです。森羅万象を認識できるのです。これは皆様の意識の中に森羅万象が存在している証拠です。

 人間は自分の中にないものを外に見ることはできません。自分の中にあるものを外に見ているのです。自分の中に森羅万象が存在するから、それを外に見ているのです。

 般若心経に五蘊という言葉があります。色受想行識という五つの迷いがありまして、その初めが色蘊です。

 色蘊というのは目で見たものがあると思うことです。人間の肉体があると考えるのです。地球があると考えるのです。目に見える物質があると考えるのです。これが色蘊です。

 般若心経では無眼界乃至無意識界という言い方をしています。目で見ている世界は一切ない。これが色蘊です。また、意識している世界もない。これが受想行識です。

 色蘊が中心になりまして、人間の意識活動や生活の感覚が発生しています。こういうものが一切空だと言っているのです。

 空だというのは無いという意味ではありません。在るのですが、常識で分からない状態であるという意味です。老子の無という言い方で在るというのです。

 老子の哲学は非常に優れた哲学ですが、全世界の歴史の流れを説明することはできません。人間が何のために地球上に現われたのかということを、老子は説明していないのです。

 老子、孔子、荘子は非常に勝れた思想を説きましたが、命については全然説明していません。

 釈尊も同様です。現世に生きている人間は空だと言いましたけれど、命の説明はできなかったのです。釈尊は明けの明星を見たのです。この時にすばらしい大発見をしました。

 釈尊が明けの明星を見たことが、新約聖書が成立するための非常に大きいポイントになっているのです。

 釈尊が明けの明星を見て悟ったということです。これが新約聖書、キリスト紀元が地球上に発生するための非常に大きい原因になっているのです。このことを世界中の学者、宗教家の誰一人気が付いていないのです。

 これは世界の秘密です。釈尊が見た明けの明星は何だったのか。これとイエス・キリストとの関係はどういうものだったのか。こういうことを勉強しなければ、世界歴史の実体は分からないのです。

 日本人は世界歴史の流れに基づいて見ようという大きい見識を持っていないのです。島国根性だけで考えているのです。こういうことではとても神の地球計画を忖度(そんたく)することはできません。

 釈尊が見た明けの明星という大スケールは、宇宙の夜明けを見たのです。宇宙的なスケールで地球の夜明けを見たのです。

 エネルギーの本質は地球だけのものではありません。命は地球だけのものではありません。生命現象は地球だけのものです。火星にも金星にも生命現象はありませんけれど、地球全体に命が満ちているというのは、宇宙全体の生命力が地球に集中されているのです。

 これが創世の大原則です。これが分からなければ人間の命はとても分かりません。このような神の大スケールを前提にして、釈尊の思想ができているということをご承知して頂きたいのです。

 皆様は六十年、七十年と、この世に生きていて何か分かったのでしょうか。それによって未来の希望が見えるのでしょうか。今のままで皆様が死んでしまいますと、希望どころか絶望があるだけです。

 こういう哀れな状態を悟って頂きたいのです。希望は一つもないのです。絶望だけがあるのです。

 現実の世界は一切空ですが、地球が存在することは大切な意味があるのです。とても大切な意味があるのです。

 この大切な意味を悟るためには、謡曲の幸若舞の敦盛の一節をご承知頂きたいのです。

 

  「人間五十年

  化天のうちをくらぶれば

  夢幻の如くなり

  ひとたび生を享け

  滅せぬもののあるべきか」

 

 これは織田信長が好んだ舞の文句です。皆様の何十年間の人生は、本当の命を知るための前提条件であったにすぎないのです。準備期間であったにすぎないのです。

 神はこの日本から驚くべき真理を全世界に発揚する計画のようです。今の日本は何を考えても自由な国です。何を言おうと、どんな勉強をしようと自由です。

 ですから、あらゆる思想、宗教、哲学に捉われないで考えることができるのです。今まで人間が考えられなかった真理を世界に生み出させるのは、日本人以外にはありません。こういうことを神は日本でさせようとしているのです。

 万物があると考えること、自分が生きていると考えることが人間の業です。この業を克服するためには、どうしても般若波羅蜜多を行じて頂きたいのです。

 般若波羅蜜多を悟るためにこの世に生まれてきたのです。皆様の過去の人生がそれを証明しているのです。皆様の何十年間の人生は何にもならなかったのです。

 人間はこの世に生きるために生まれたのではありません。本当の命を見つけるためです。彼岸へ渡るための知識を学ぶために、この世に生まれてきたのです。

 ですから、自分の思想や自分の執念や執着を持たないで頂きたい。今まで考えなかった新しい人生観、世界観を考えて頂きたいのです。

​(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

 

​死なない人間になりました(上巻)

​著者 梶原和義

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