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​世に勝つ信仰

                          世に勝つ信仰

 

 ヨハネは次のように述べています。

 「世に勝つ者は誰か。イエスを神の子と信じる者ではないか。このイエス・キリストは、水と血を通って来られた方である。水によるだけではなく、水と血とによって来られたのである。その証をするものは、御霊(みたま)である。御霊は真理だからである。

 証をするものが三つある。御霊と水と血とである。そしてこの三つのものは一致する。

 私たちは人間の証を受け入れるが、しかし、神の証はさらにまさっている。神の証というのは、すなわち御子(みこ)について立てられた証である。

 神の子を信じる者は、自分の内にこの証を持っている。神を信じない者は、神を偽り者とする。神が御子について証をせられたその証を、信じていないからである」(ヨハネの第一の手紙5・5~10)。

 

 イエス・キリストは水によるだけでなく、水と血によって来られたとあるのです。水によるというのは万物全体ということです。イエス一人は万物全体です。だから、水をぶどう酒に変えることができたのです。水の上を歩くことができた。風や波に静まれと叱りつけて鎮めたのです。

 万物はイエスの言うとおりになったのです。イエスが万物だったからです。皆様と万物は同じものです。この信仰があれば、万物は皆様に従うでしょう。これが分かると、木や草、鳥や獣が兄弟分のような気がするのです。

 万物は水です。イエスが水を通って来たということは、万物の代表者であったと同時に、万物そのものでもあったということです。

 マインド(精神)とは何か。人間は肉体的には万物そのものであるし、万物を代表するマインドを持っているのです。

 聖書を信じて、水と血と御霊の証を神からもらうとはどういうことか。万軍のエホバという言葉がありますが、万物は本質的には水そのものです。

 イエスは「私の血を飲め」と言っていますが(ヨハネによる福音書6・52~56)、これはどんな血だったのでしょうか。

 生活における今という時間帯に、リビングというすばらしいものを与えられている。これをなぜ熱心に掘り下げようとしないのかということです。

 イザヤ書五十三章は血について書いているのです。血と水と御霊の証が分かったら、世々限りなく王となるのです。神の子を信じる者は、自分の内にこの証を持っていると、何でもないように言っています。これが分かれば自分が生きていないことが分かるのです。

 水と血と御霊の証は神の証です。神が御子をどのように証しているのか。私たちが考えている森羅万象は、太陽や月は別ですけれど、地球に存在する森羅万象はすべて水です。植物も動物も、すべて水です。

 イエスが水によってやってきた。肉体的には万物としてやってきた。人間にはマインドがありますから、万物の代理者としてやってきたのです。人間は万軍のエホバ全体を代表しているのです。皆様の頭はそれだけの能力があるのです。

 見たらどういうものかが分かるのです。鉱物か、動物か、植物かが分かるのです。専門的な知識がなくても、見たら大体どういうものかが分かるのです。

 これが現代文明に現われているのです。科学でも、化学でも、バイオテクノロジーでも自由にできるのです。自由にできるということは、そのような能力性が人間の脳細胞にインプットされているからです。インプットされているということは、人間の脳細胞の中に万物が入っているということです。

 万物を自由に宰領できるということは、神が人間に万物を委ねているということです。

 人間創造は、「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた」とあります(創世記2・7)。これは全く意味深長なことです。これは一人の人間が生きていることとは違います。ましてや、固有名詞の人間とは何の関係もないことです。

 地のちりである人間に形を与えた。それが万物の代理者になったのです。そして命の息を吹き入れた。これは神が本当のセックスを現わしたということです。女体としての人に射精したのです。

 神から見れば人間は皆女です。女は神の精子を受け取るべきものです。これによって神から生まれるのです。神が射精しなければ、人間は生まれないのです。地球全体を治めさせるために、神がこういう処置を取った。これがイエス・キリストとして現われているのです。

 私たちが呼吸しているということは、命の息を吹き込まれ続けているということです。これが今、今、今と呼吸が続いているのです。

 自分が生きていると思うことは、自分の霊魂に対する侮辱です。侮蔑五濁(ぶべつごじょく)そのものです。自分で自分に泥を塗っているのです。

 世々限りなく王となるというのは、神のヘルパーになることです。神と同等の知恵と力を持っていることを意味するのです。日本の総理大臣や、中国の国家主席、ロシアの大統領、アメリカの大統領のようなつまらない者とは違います。エホバの万軍を統括する権限と、知恵、力を持つ、神のヘルパーになるのです。

 万物を統括し、それを自由に組み替えることができるのです。神が許せば水を酒に変えることができるという驚嘆すべき能力を、人間は保障されているのです。人間の中に万物があるからです。

 私たちが真剣に肉の自分を脱ぎ捨てて、本当に生ける神の子として、イエスが主であると信じることは、驚くべきことです。

 イエスの肉を食べるだけでも、今お話ししたことになるのですから、イエスの血を飲んだらどうなるのでしょうか。

 万物の長としてマインドを持つ人間は、ただの水とは違います。万物全体を統括してそれを治める能力があるものです。これは天使長です。天使長であり、祭司長でもある。そういう素質を人間は持っているのです。

 生まれながらの人間の能力、人間の命を真っ直ぐに伸ばしたら、水と血と御霊の域に達するのです。

 人間にはそういう能力が与えられているのです。これが百四十億の脳細胞です。また、二十四の位です(ヨハネの黙示録4・4)。肉の十二と霊の十二、肉的な完全と霊的な完全の両方の位を与えられている。肉と霊の両方を支配することができる。これが二十四の位です。長老です。聖書の秘密はこれほど森厳なものです。

 万物はありますが、人間はいないのです。ましてや、自分が生きているというばかなことはないのです。万物が集約した状態が今いるだけです。人間はいないのです。いたところで仕方がない。死んで火の池へ行くだけのことです。

 私たち自身が万物であるという自覚を持つことにより、初めて私たち自身の御霊を崇めるという時間が、輝く時間になってくるのです。真理の言葉を保って光のように輝くのです。

 人が肉体的に生きているということが、水によってきているのです。これを知らない者は、そういう尊い能力を保障されていながら、それを無視して生きているのです。自分が生きていると考えて、自分の欲望と自分の自尊心に従って生きていたからです。これは恐ろしい罪悪です。

 神はイエスしか見ていません。イエスは水と血と御霊によってきたのです。これだけが人の子であると神が証したのです。このレベルに達しない者は、皆火の池に放り込まれることになるのです。

 百四十億の脳細胞を持っているということが、イエスと同じであることを意味しているのです。

 花を見たら美しいことが分かる。マグロの刺身を食べればおいしいことが分かる。人間の生活経験はイエスと同じことをしているのです。

 魚の大きさ、野菜の大きさ、花、鳥の大きさは、すべて人間を標準にして造られています。小鳥は小鳥のように、犬や猫は今の犬や猫のように、天地万物は皆人間を基準にしてできています。味や香りも、人間に合うようにできているのです。これが人間が水の親分であることを示しています。親分に合うようにできているのです。

 ミカンの大きさ、リンゴの大きさも、人間が食べるのに都合の良い大きさにできているのです。もしミカンやリンゴが象のように大きかったら簡単に食べられないのです。

 金でも銅でも鉄でも、人間が使いこなせるようにできているのです。電気も上手に利用しているのです。

 万物の頂点に人間が立っている。人間は万物をどのように利用しているのか。万物によって人間はどれだけ恩恵を受けているのか。これを見ても、人間は万物の霊長であり、万物は人間の配下に属していることが分かるのです。

 万物全体が水です。すべて肉体的、生物学的に存在しているのは一言で言えば水になるのです。その水を通してキリストが現われた。救い主が現われた。そこで、水全体が救われるのです。動物、植物、鉱物、すべてが救われるのです。救われないのは人間だけです。ばかみたいなことです。

 「水の中に大空を張って、空の上の水と空の下の水とを分けた」とあります(創世記1・6、7)。上の水はただのガス体にすぎませんが、空の下の水は森羅万象となった。神の知恵と力が驚くべき状態で現われたのです。

 世の初めの前に隠れた神のあらゆる栄光、あらゆる命の働きが、万物として現われているのです。これが水です。創世記一章の初めから、五日目、六日目に到るまでの創造物が、天と地も全部ひっくるめて水という一語に現わされているのです。

 「神の霊が水のおもてを覆っていた」(同1・2)。これは恐るべき言葉です。水を水としてはっきり認識するために、ナザレのイエスがやってきたのです。

 イエスは神の期待どおりに水を認識した。水の頂点に立ったのです。しかも水の頂点に立ったイエスは、十字架に付けられて死んでしまった。肉なる水は全部死んでしまい、霊なる水が現われた。これが新約時代です。

 私たちは何でも知ろうと思えば知ることができるように、百四十億の脳細胞が与えられているのです。霊的に七十億、肉的に七十億、肉的な完全性と霊的な完全性が、人間の脳細胞にインプットされているのです。

 これをどのように使うのか。今、今、今という時に、リビングしている事実を掴まえたらいいのです。リビングの中へ入っていくのです。そうすると、オール・リビングのマナーが全部ホーリーになるのです。

 男が家庭の大将になって威張っているのは困ったものです。原罪の結果こうなっているのですが、男は威張ったらいけないのです。はいつくばって女性を拝めというのではありませんが、男は女を尊敬しなければいけないのです。

 男だけが悪いのではない。女も悪いのです。法華経にもそういうことを述べている所があるのです。しかし、聖書ほど詳しく述べていません。

 「水によるだけでなく、水と血とによってこられた」とわざわざ書いているのです。血とは何か。「私の肉を食べなさい」とイエスが言っていますが(ヨハネによる福音書6・53)、これは水のことです。私の血を飲みなさい(同)とありますが、これは何か。肉を食べるというのは、よく噛んで噛んで味わうのです。飲むというのは黙って飲むのです。

 血は生物の命です。生物はその命においてどういう苦しみを味わっているのか。獣は獣のように、牛は牛のように苦しみを味わっている。それは人間が生き物に付けた名前が間違っていたからです。

 鳥がいる、獣がいる、地に這う生きものがいると人間は勝手に考えて名付けてしまった。そのために、彼らが苦しんで生きているのです。

 人間はいないのです。生物がいるだけです。鉱物も動物も植物も、全部水に入るのです。人間は鉱物、動物、植物を自由に扱っている。人間の中に鉱物も、動物も、植物もいるからです。

 「血は生物の命である」とレビ記に書いています。生物の生態を現わしているのです。人間が血を通してきたというのは、生物の生態をそのまま意識的に経験しているということです。

 生物はこの世で色々な不安や不自由の中に置かれています。戦々恐々として生きているのです。キツネがどのように生きているのか。サルがどのように生きているのか。いつも恐怖と苦しみ、悩みの中に置かれているのです。

 いつ殺されるか分からないのです。動物には死ぬという意識はありませんが、死ぬという生理現象はあるのです。それに対して生物はいつも恐怖にさらされているのです。

 それは地球全体の有形的な存在が淵になっているからです。淵のおもてに闇ががんばっているからです。

 闇が淵のおもてにあるために、生物全体がいつでも不安と苦しみ、恐怖の中に置かれているのです。闇が淵のおもてになかったら、生物は不安の中にいるはずがないのです。

 大体、自分の命の見通しがつくはずです。ところが、淵のおもてにあるばかりに、見通しがつかない条件で生かされているのです。見通しがつかない現実を押し付けられているのです。

 人間生活も同様です。人間生活の中に色々な矛盾、不安があるのです。病気になる不安、地震、台風が発生する不安、家族内の矛盾が渦を巻いていますが、そういうものを黙って呑み込むことが血を飲むことです。

 イエスは人々の中傷をいちいち咎めたでしょうか。裏切られて腹を立てたでしょうか。彼は悲しみの人で、病を知っていたのです。病を知っていたというのは、英訳では病気と仲が良かったという意味です。これが血です。

 生物の生存状態はいつでも闇に脅かされているのです。気に入らない条件をいつでも押し付けられているのです。納得できないことでも受け入れていかなければならないのです。

 犬や猫が生きている状態を見たら分かります。皆様は生物の状態がどれほどみじめであるかが分かるでしょう。野の獣がどれほどみじめかです。

 人間は生物全体を代表して血によって来たと言っている。生物の生態を自分自身の艱難として味わうのです。

 「彼は悲しみの人で、病を知っていた」(イザヤ書53・3)。これは短い言葉ですけれど、イエスの血がどういうものであったのかが出ているのです。

 水のことが分かり、血のことが分かってくると、人間は傲慢になりようがないのです。自分がいるのではない。万物を代表する形で人間がいるのです。万物の生き方を私たちも経験するためにいるのです。

 これが万物の贖い主です。万物を贖うためには、万物の苦労の正体を人間がよく理解しなければいけないのです。万物の目から涙を拭ってやるのが人間の仕事です。だから、人間は涙を流す値打ちがあるのです。

 生物そのものが淵ですから、その上に悪魔が座っているのです。生物の血はいつでも悪魔的な権力によって、いつでも押さえ付けられているのです。危険を呑まなければならない状態を押し付けられているのです。

 生がいつでも死によって裏付けられている。いつでも死に脅かされているのです。だから絶対安全な生はないのです。

 生物の生態は死に脅かされている状態ばかりです。それを万物に代わって味わうことができるのは人間だけです。万物自身はそれが分からないのです。

 鳥の生態、獣の生態を見ることによって、人間は彼らが受けている闇からの脅かしをよく理解して、万物と一緒になって彼らの苦痛を呑んでやるのです。

 これは口で言うことは簡単ですが、実行することはなかなか難しいのです。寒かったり暑かったり、食べ物があったりなかったり、そういう時がいつでもあるのです。人間だけはいつでも暖房したり冷房したりできますし、食べ物も、和食、洋食、中華、シーフード、イタリアンと好きなものを好きなだけ食べられるのですが、動物にはこういうことはあり得ないのです。

 血の中には色々な矛盾撞着が渦巻いているのです。呪いと恨み、悲しみと苦しみに満ちている。これが血の正体です。これを人間が経験するのは当たり前です。これを黙って呑むことが血に生きている状態です。

 山上の垂訓でも(マタイによる福音書第五章から第七章)、イエスが血をどのように知っていたかが分かるのです。

 イエス・キリストは水と血によって来たりたもうと簡単に書いていますが、神が生物を造らなければならない苦しみがあるのです。その苦しみが、万物の苦しみとして現われているのです。

 長い間の血の苦しみと悩みが、地球にだけあるのです。これが集約的に現われるのが火の池です。このことを理解していない人間は、皆火の池へ放り込まれるのです。

 地球に生きていた時に何をしていたのか。それが目前で見せつけられるのが火の池です。

 霊の神が持つ矛盾が、肉の人間に現われているのです。神の矛盾とは神のカルマです。この苦しみを普通のこととして受け取る時に、神の命の一部を贖うことができる。イエスはこれを実行したのです。

 矛盾とは行き違いということです。撞着とはそうなるものが反対になってしまうことです。こうなればこうなると考えても、反対になってしまうのです。良かれと思ってしたことが、悪くなってしまう。期待はずれになる。これが血の状態です。

 私たちが水によってきたことと、血によって生きていることの二つを、神のカルマ、宇宙のカルマとして人間に経験させようとしているのです。これを黙って経験すると、宇宙のカルマに勝つことができるのです。

 山上の垂訓を実行すると、宇宙のカルマに勝つことになる。イエスの言葉を本当に実行すると救われるという意味は、こういうことになるのです。

 聖書は生々しい、血がしたたるような事実を述べているのです。観念でも概念でもない。信じるも信じないもない。人間が生きている実体を、そのまま述べているのです。

 人間がいることが万物がいることになるのですが、なぜそうなるのか。人間は万物を自由に扱っているのです。植物でも動物でも、鉱物でも、自由に扱っている。これは人間と万物が一つであることを示しているのです。一つだから万物を自由に扱えるのです。

 人間はいないのです。これをよく知って頂きたい。人間がいると思うから、誤解されたとか損をしたと考えるのです。

 万物があるのであって、人間はいないのです。万物の代理者としての人間がいるだけです。これが分かったら自尊心はなくなるのです。

 イエスは地球上でどのような矛盾を呑まされたのか。イエスは生ける神の子であることをマリアから教えられて、キリストとしての責任を負って育てられた。しかし、イエスはキリストとしてあるまじき侮辱を受けたのです。全世界の王としてあるまじき侮辱を受けたのです。

 

 イエスについてイザヤは次のように述べています。

 「彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、

 われわれの慕うべき美しさもない。

 彼は侮られて人に捨てられ、

 悲しみの人で、病を知っていた。

 また顔をおおって忌み嫌われる者のように、

 彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。

 まことに彼はわれわれの病を負い、

 われわれの悲しみをになった。

 しかるに、われわれは思った。

 彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと、

 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられた。

 われわれは不義のために砕かれたのだ。

 彼はみずから懲らしめをうけて、

 われわれに平安を与え、

 その打たれた傷によって、

 われわれは癒されたのだ。

 われわれはみな羊のように迷って、

 おのおの自分の道に向かって行った。

 主はわれわれすべての者の不義を、

 彼の上におかれた。

 彼は虐げられ、苦しめられたけれども、

 口を開かなかった。

 ほふり場にひかれていく小羊のように、

 また毛を切る者の前に黙っている羊のように、

 口を開かなかった」(イザヤ書53・2~7)。

 

 イエスは色々な侮辱を与えられてついに十字架で殺されることになってしまった。これはそのまま万物の血を経験したのです。

 イエスは自分という人間がいると思っていなかった。神と一緒に万物があるのであって、自分も神と一緒に生きている。だから、自分と万物は一つだと考えていたのです。ところが、彼の回りには矛盾が渦を巻いていたのです。これを皆呑まされたのです。

 これが水と血によってきたイエスです。これを証するものは御霊であるとあります。人間の考えでは分からないのです。

 イエスが生きていた生態の内容を教えたのは御霊です。御霊によって教えられると、矛盾の内容がすべて分かるのです。そうして自分の矛盾が皆消えてしまうのです。そうなるのが当たり前です。

 

 イエスは次のように言っています。

 「私は天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。私が与えるパンは、世の命のために与える私の肉である」。

 そこで、ユダヤ人らが互いに論じて言った、「この人はどうして自分の肉を私たちに与えて食べさせることができようか」。

 イエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、またその血を飲まなければ、あなたがたに命はない」(ヨハネによる福音書6・51~53)。

 

 イエスの肉を食べること、血を飲むことが命になるのです。私たちは信じるか信じないかに係わらず、水によってきたのです。これは人間として生まれたのではなくて、万物として生まれたのです。私たちの生きざまはそのまま万物としての生きざまを現わしているのです。

 イエスの肉は万物そのものであって、イエスという個人がいたのではない。認識する機能を持っていただけです。

 人間の肉体には森羅万象の要素が全部入っている。あらゆる鉱物、植物、動物の要素が集約されている。これは創造の段階から考えても、そうなるのです。

 そこで、私たちが勝つことは、万物に代表して勝つのです。私たちに与えられている矛盾、撞着を呑むことは簡単にできることではありませんが、私たちがそれを呑むということは、万物全体の中にある矛盾を呑むことになる。これはメシアの役をしているのです。人間は誰でも大なり小なりメシアでなければいけないのです。

 万物に代わって生きる。万物の矛盾を呑んでいく。これはキリストであることを意味するのです。キリスト意識を持つことが、万物の代理者であることを意味するのです。イエスはこれを命と言っているのです。

 イエスは私の肉を食べ、私の血を飲まなければ命はないと言っていますが、命とは実はキリスト意識のことです。キリスト意識がなければ、命は分からないのです。

 キリストが人間社会に現われて、宇宙のカルマの負い方を彼自身が実行してみせたのです。

 人間のカルマというのは宇宙のカルマを負わされているのであって、宇宙のカルマに気が付かなければ、自分の矛盾を呑むことはできないのです。宇宙のカルマに気が付くと、自分の矛盾を呑むことができる。自分の矛盾を呑むことができると、キリストのボディーになれるのです。

 大なり小なり、キリスト意識が働かなければ命にはならないのです。キリスト意識が作用することを命というのです。命はとこしえの命であって、キリストを信じない者には命が分からないのです。水も分からないし、血も分からない。ただ自分が生きていると思っているのですから、そういう人は必ず地獄へ行くことになるのです。

 人間は水であり血でなければならない。これを公にはっきり証明したのはイエスです。

 私は宗教の教義を述べているのではありません。人間の存在と生態の実体をそのまま述べているのです。イエスの肉とイエスの血は、御霊によらなければ分からないのです。御霊を崇めることによってその実体を理解することができるし、その実体を理解すれば世に勝つことになるのです。

 「世に勝つ者は誰か。イエスを神の子と信じる者ではないか」とあります。イエスを神の子と信じる者、神の子を持つ者は、水と血と御霊の証を持っているのです。水と血と御霊の証を持てば、世に勝つに決まっているのです。世に勝つためには自分に勝たなければならないのです。

 世は我と同じ意味です。我に勝てば世に勝てる。我に負けたら世に負けるのです。

 この世に生きていれば、必ず苦しみや悩みがあるに決まっています。分からない、理屈に合わないということがあっても、呑んだらいいのです。人間がこの世に生まれてきたことがカルマであって、カルマの実体が何であるかというと、水というカルマと血というカルマの二つがあるのです。これを呑んでいけばカルマに勝てるのです。

 自分に勝つことが世に勝つことになるのです。

 小羊の御名は贖い主の御名であって血になるのです。イエスは病を知っていた。病と仲が良かったとあります。イエスは非常に壮健であって、あまり病気をしなかったようです。イザヤがいう病というのは、人間自身の悩みをいうのです。生きている時の矛盾です。

 水と血の信仰が少しでも私たちに現われてくると、神が許せば奇跡ができるようになるかもしれません。できなくてもいいのです。私たちの中に水と血の奥義が定着すれば、非常に大きい人間になれるのです。つまらないことに腹を立てなくなるでしょう。

 

 イエスは、「私の肉を食べ、私の血を飲む者には、永遠の命があり、私はその人を終わりの日に甦らせるであろう」と言っています(ヨハネによる福音書6・54)。

 

 終わりの日に甦らせるというのが携挙(けいきょ)です。私たちがこの世にいるのは、水と血の世界を経験しているのです。今は水と血を通して、神が私たちをより分けているのです。水をどう理解しているのか。血をどう理解しているのか。それを神が選別しているのです。

 私たちの存在が万物としての存在であって、自分としての存在ではないことを、毎日理解しなければいけないのです。今、今という時に理解しなければいけないのです。

 今ここで命の帯を締めるのです。これが肉を食べる感覚です。血を飲むというのは、あらゆる矛盾、あらゆる撞着を呑んでいくのです。苦しみや悲しみは呑むしかしょうがない。食べるというのは理解すること、食べてこれを十分にこなすことです。自分自身の存在が万物としての存在であることを、現実を通してこなすのです。これが食べることです。

 飲むというのは黙って呑むのです。矛盾を呑むのです。悲しみや苦しみを呑むのです。苦しみや悲しみは解決しようとしてもできません。呑むしかないのです。血を呑めと言っているのはこういう意味です。血は生態ですから呑まなければならないものです。

 血と水を呑む者は終わりの日に甦らせられる。その人は現世をわが世としていなかったからです。現世をわが世としていない者は、これができるのです。現世をわが世としている者は、これができないのです。

 この世を経験として考える者はこれができるのです。そうすると、来世があるに決まっているのです。これがとこしえの命です。

 今の命がなければとこしえの命は掴まえられない。命を今生きるか、後に生きるかです。これは質的にも量的にも全然違います。全く違います。

 水と血と御霊の証を持ちたいと思う者は、必ず与えられるのです。

 神の子を信じる者は、必ず与えられるのです。神の子を信じるというのは、イエスが神の子であると同時に、自分がイエスと同じ者であることを信じるのです。

 人の子というのは人間ではない人間のことです。自分の意見や自分の立場を放棄した者です。自分の意見や立場を放棄すると、人の子になるのです。その人は水と血の証を与えられるのです。人の子は神の子です。

 余裕綽々たる人生を経験して頂きたいのです。これが山上の垂訓の底に流れている世に勝つ信仰です。自分に勝つ信仰です。死に勝つ信仰です。死に勝てば世に勝つのです。

​(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

​死なない人間になりました(上巻)

​著者 梶原和義

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