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相続人

                             相続人

 

 パウロは次のように言っています。

 「御霊(みたま)自ら、私たちの霊と共に、私たちが神の子であることを証してくださる。もし子であれば相続人でもある。神の相続人である。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために、苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである」(ローマ人への手紙8・16、17)。

 

 ここに御霊という言葉がありますが、御霊というのは宇宙エネルギーの本質を指しているのです。宇宙エネルギーの本質は二通りに分けられるのです。物理的に現われているエネルギーと、心理的に現われているエネルギーとがあるのです。このエネルギーは物理機能的なものと、心理機能的なものとに分けて説明すると分かりやすいのです。

 今から三千年から五千年前の人間は、真剣に生活していましたから、物理機能というものと心理機能というものとは、一つのものであると認識していたでしょう。肉体的に生きているということは物理的なことです。生理的なことですが、物理的、生理的な事がらが、実はそのまま心理的なことなのです。人間が生理的に生きているその事がら、機能が魂というべきものだということを、古代の人は直感的に知っていたようです。だから、生きているという事がらを通して、生活のあり方を見たのです。そして、生活のあり方を通して、そのまま神を見ることができたのです。

 地球の歴史が始まって以来、今日ほど人間の質が下落したことはありません。文明というものは、人間存在の本質に反するアイデアでできているのです。人間の無明煩悩という愚かさと、欲望との感覚が集まって、そこから湧いて出たアイデアが近代文明の思想になっているのです。

 現代の人間は皆欲望の奴隷になっています。自尊心の奴隷であったり、基本的人権というばかばかしい空概念の奴隷であったり、自我意識の塊であったりしている。こういう感覚が現代人の基本的な意識になっているのです。こういう意識の人間が考え出すことは、すべて間違っているに決まっているのです。

 自然科学という考え方は、人間の考え方を非常に毒する結果になっています。人間の魂そのものを破壊してしまうような思想になっているのです。人間の本性や本質を破壊する考え方が、近代文明の思想です。学校教育というものはこのような考え方によって成り立っていると考えて頂きたいのです。

 学校教育というのは、現世で働く人間のためにだけに造られているのです。現世において働くという物理的に存在する人間のためにだけ、学校教育があるのです。ところが、生理的に存在する人間は、人間の肉の半面だけのことです。肉的な半面だけを過大に評価して、子供のうちからさんざん教えているのです。生理的に存在する肉体人間の概念を、子供のうちから詰め込み、ねじ込み、叩き込んでいるのです。教育という美名において、人間の情緒を破壊する行為が堂々と行われているのです。人間の魂を徹底的に破壊している。これが現代文明の正体です。

 このような文明構造の中に生きていますと、人間はばかにしかならないのです。利口になりようがないのです。本当の賢さというものを身に付けることは、絶対に不可能です。現世の生活、または現世の人間の欲望的な理屈に習熟すればするほど、本来の人間的な価値を失っていくことになるのです。

 本来の人間的な価値が実は誠の賢さです。それを失っていくのです。そうして、現世的な欲望社会、利益主義の概念によって固められた人間の世の中のことばかりを、頭に詰め込まれるようになるために、ばかにしかならない、愚かな状態にしかならないように、強制されているのです。政治の名において、教育の名において、国家経営という名によって、世界平和という名によって、基本的人権の確立という名によって、そういうもろもろの美名によって、全世界が皆愚かでばかな集団になっているのです。

 そういう思想をばらまいた元凶は、ユダヤ人です。ユダヤ人は世界中で一番知恵が働く民族です。悪知恵が働くから、良い知恵が働く可能性を持っているのです。

 日本人は悪知恵も働きませんし、良い知恵も働かないのです。ちっぽけな考えはありますが、根本的な物の考え方はできないのです。人の真似をして、それを改良することは上手ですが、大きな発見、発明はできないのです。外国で発明された機械の改良は上手ですが、根本的な発明は下手です。

 例えば、電車を改良して、新幹線という超高速列車を造るのは上手です。ところが、電車そのものを発明したかというとしていないのです。日本人は小手先の器用さはあります。そこで、私たちは日本人の特性を生かして、キリスト教を造り直すのです。イギリスで発明された蒸気機関車を、日本で上手に改良して新幹線を造り出したように、キリスト教を造り直したらいいのです。

 日本人はアウフヘーベンすることは上手ですが、テーゼそのものを見つけることは下手です。これは人真似がうまいということです。私たちはこの特性を生かして、全世界の宗教、全世界の文明を全く新しいものに造り変えるべきです。日本人ならそれができますし、神は私たちにそれを期待しているのです。

 現在の人間は現世に生きている生理機能的な人間を、人間だと思っているのです。この感覚を肉の思いというのです。肉の思いとは肉体人間を人間とする思いのことです。肉体人間の思いというのは、全面的に死んでいく人間の思想です。欲望の奴隷になり下がっている人間の思想です。

 自然科学という概念が、そういう人間の思想をしきりに煽り立てているのです。自然科学という概念は、自然というものと、人生というものを対立的に見ているのです。人間と対立して自然を置いているのです。自然と人間は対立しているのです。自然と人生とを対置しているのです。こういう考え方から自然科学という概念が発生しているのです。これがユダヤ人の発明した思想です。

 日本人はこういう発明はしませんから、そういう悪いこともしないし、また、良いこともユダヤ人ほどできないのです。

 自然というものは、人生に対置してはならないものです。自然と人生とは本来一つのものであって、二つのものではないのです。人間は空気を吸ったり、水を飲んだり、食物を食べたり、そして、太陽光線に照らされなければ生きていけないのです。大自然の中においてこそ、人生はあり得るのであって、自然と人生とは本来一つのものなのです。ところが、人間は自然と人生とを二つに分けてしまったのです。これが近代文明の始まりです。ここから自然科学が生まれたのです。

 自然科学の思想というのは、根本から人間存在や自然の存在の基本原理に反しているのです。自然科学というアイデアは、近代文明において人間が造った悪いアイデアです。

 自然と人生を引き離してしまって、お互いに睨み合わせたのです。対置したのです。自然を征服するとか、自然を使いこなすとか、自然を改造するという生意気なことを考えた。その結果、人生がだめになったのです。自然を征服しようと考えたために、人間存在がだめになってしまったのです。これを近代文明の公害というのです。公害は科学技術の公害だけではありません。教育技術の公害もあるのです。宗教観念、政治概念、経済思想、道徳思想の公害もあるのです。

 現在の人間が考えること、することなすことすべて、一から十まで皆公害の原因になっているのです。これは人間の本質が魂であることを知らないから、起きるのです。肉体人間があると考えている。これが大間違いです。

 人間が肉体的に生きていても、それは雲の流れの味わいが分かり、花の姿の良さが分かり、山の景色、日の出や夕陽が理解できるのが人間です。大自然の持ち味が理解できるということは、神の心理的スケールが理解できるということです。神の心を人間は読み取ることができるのです。大自然に現われているすべての佇まいは、神の思想がそのまま現われているのです。

 雲の流れ、海の波の轟きには神の思想が偽らない状態で現われているのです。このことを聖書では「キリストの言葉」と言っているのです。雲の流れは聖書の言葉です。一輪の花の形、色、香りはキリストの言葉です。「言わず語らずその声聞こえざるに、その響きは全地にあまねく、その言葉は地の果てにまで到る」と聖書にあります。

 神の言葉の響きが人間の魂にピンと感じられるのです。神の言葉が皆様の心に響いていくのです。響くというのは実に微妙な言い方ですが、キリストの言葉は人間の心に響くのです。この響いてくるものを、正確に受け取ることができる人の心理的状態を、賢いというのです。賢い人というのは神の心の響きが感じられる人です。

 そういう魂が本当の人であって、これを聖書では神を畏みたてまつるという言い方をしているのです。神の御名は清いものである。神の清い御名の哀れみは、世々畏み恐るる者に及ぶとあります。畏むということは、自我を滅して自分本位の自我意識を捨てて、天地の心に帰るような気持ちをいうのです。畏むことが信じることです。神を畏むことが人間の本当の利口さです。

 これは命についての利口さです。その人は命を守ることができるのです。これが本当に利口な人です。学校で勉強したことを信じ込んでいる人は、命を守ることはできません。命を感じることはできません。ただ生活のことしか考えないのです。

 今の文明は生活のことしか分からない人間を造っているのです。人間は生活をするために現世に生まれてきたのではない。命の本質を捉えるために生まれてきたのです。命の本質を捉えますと死ななくなるのです。死を克服することができるのです。これが人生の唯一の目的です。

 雲の流れのあり方を見る。これが人生の唯一の目的です。朝日が昇る姿、夕陽が沈んでいく姿の中には、永遠無窮の大生命がそのまま語られているのです。一輪の花についても同様です。そこには宇宙の命の佇まいが現われているのです。

 命の佇まいを見極めることができますと、命の本当の味わいが分かります。そうすると、死から逃れることができるのです。死ななくなるのです。イエスはこれができたのです。そこで、死を破ったのです。イエスができたことは、皆様にもできるに決まっているのです。できるに決まっているから、して頂きたいのです。

 皆様が見ているものは、神の御霊の働きばかりを見ているのです。神の御霊の力を耳で聞いているのです。川のせせらぎでも、鳥の鳴き声でも、耳に聞こえるのはすべて神の御霊の音です。それを聞いていながら神の御霊が分からない。心が御霊を受け付けていないのです。心はいつも神の御霊に反抗しているからです。肉の思いで生きているからです。

 御霊は物理的な形で私たちに接触しています。同時に心理的、道理的な形で私たちに接しているのですが、これが分からないのです。人と人との付き合いは御霊の導きです。目で見て感じられるのは、御霊の感じを与えられているのです。御霊によりて花を見ることができるし、音を聞くことができるのです。触ったり、食べたり、匂いを嗅いだりすることは、皆御霊の働きです。そのように人間は生きていながら神の御霊と交わっているのです。ところが、それが分からない。ただ自分が生きていると思っているからです。

 物理的なものと心理的なものは一つです。これが霊です。これを聖書的に表現すれば神の御霊になるのです。目に見える御霊と目に見えない御霊と両方あるのです。皆様が目で見ているのは見える世界を見ているのです。ところが、心に感じているのは目に見えない御霊の働きです。すばらしい、楽しい、嬉しい、かぐわしい、喜ばしいというのがそれです。

 人間の魂は神に育てられているのですけれど、人間自身の心が神の御霊を受け入れていないために、皆様の心が御霊に同化していないのです。信じていないというのはそのことです。神を信じていないのです。二十年も三十年も聖書を勉強していながら、未だに神を信じていない。心が御霊に同化していないからです。

 御霊が自ら私たちの霊と共に、私たちが神の子であることを証してくださっているのですが、それが自分に分からないのです。現世にこうして生きていることが、そのまま神の子です。御霊によって生かされ、御霊によって感じているのです。ところが、自分が生きていると勝手に思っている。そこで、皆様は現実に神の子でありながら、神の子であるという実感を持たないで生きていることになるのです。これを愚かというのです。

 私たちが考えても考えなくても、私たちが生かされているという事がらが、神の栄光の輝きなのです。そこで、生かされているという事がらをじっと見つめると、神が人間を生かしていることが分かるのです。人間は神に生かされているのです。

 生かされているという状態を人間の霊と言います。御霊自ら私たちの霊と共にありますが、私たちの霊とは、私たちが生かされているそのことです。御霊自らが、私たちが生かされていることと共に、私たちが神の子であることを証してくださるのです。皆様が生かされている状態は霊なる状態です。そこで、自分が生かされているという客観的な状態を正しく理解すれば、その人は生き返った人です。客観的な状態を主観的な状態として受け止めることができたからです。

 客観的な状態が主観的な認識になるのです。そうすると、客観と主観が一致するのです。「我もなく、人もなく、ただ主のみいます」となるのです。我とか人がいる間はだめです。我もなく人もないのです。私たちの目が見えるということは客観的な状態です。自分が見ているのではありません。心臓が動いているということは客観的な状態です。これが生かされているという事がらです。

 自分が生かされているという事がらだけがあるのだというように考えて、自分の主観的な思いを捨てるのです。主観な思いというのは自分の肉の思いに決まっています。

 聖書の勉強はしたいけれども、自分には事情があって聖書の勉強はできないと考えている。これが主観的な認識です。本当に聖書の勉強をしたいのなら、自分の事情境遇を変えたらいいのです。「すべてを捨てて我に従え」とイエスは弟子に言いましたが、本当の命を勉強するために、もし何か事情境遇が邪魔になるのなら、その事情を捨ててしまえと言っているのです。

 私もそういうことをやってきました。職業でも、住居でも、聖書を勉強することに邪魔になると思ったので、どんどん変えたのです。最初に都市銀行に入社しましたが、聖書の勉強に支障があると考えたので、十三年目に退職して自営業に転向しました。私の目的は人間とは何であるのか、神とは何であるのかということを、とことん極めることでした。この世に生きることが私の目的ではなかったのです。ですから、どんな職業でもいいし、どこに住んでもいいのです。とにかく人間とは何か、何のために自分は生きているのか、神とは何か、命とは何かをとことん突き止めるために、何回でも転職、転居したらいいのです。

 聖書の勉強をするというのは、戦闘行為になるのです。闘いです。生きるか死ぬかの戦いになるのです。「我彼を殺さば、彼我を殺す」という闘いです。自分の肉の思いを自分が殺さなければ、肉の思いに殺されるのです。そういう決死的な勇気がないからいけないのです。もっと戦闘的実践によって、自分の生活の状態を見なければいけないのです。

 聖書の勉強はそれくらいの真剣さがなければ、本当の永遠の生命を自分のものにすることはできないのです。永遠の生命を得ることはそれくらいの値打ちがあるのです。

 人間がこの世に生まれてきて本当にしなければならないことは、神の言葉の勉強だけです。誠心誠意、神の言葉を勉強しようという気持ちがあれば、生活の方は勝手にできるのです。「神の国と神の義を求めるなら、人間生活になくてはならないものは、神が保障する」と神が言っているのです。人間が生きているのはパンだけではない。神の口から出る一つひとつの言葉で生きているのです。この原理が分かると、初めて真理を求めることができるようになるのです。

 皆様が信じなくても神の御霊が証をしてくれるのです。太陽が眩しいように、私たちが生きていることが眩しく見えるようになって頂きたいのです。これが本当の信仰です。生きているということは実に有難いことです。自分が生かされていることに、自分が手を合わせて拝むような気持ちになって頂きたい。そうすると、生きているということが、実に意味深長で楽しいことだということが分かるのです。

 皆様が今生きている命は、神の命です。宇宙の命です。天地の命です。それを皆様は今経験させられているのです。それを経験していながら、神の命が分からない。神が分からない。そんなばかなことがあるのかと言いたいのです。

 だから、そんな状態で死んでしまうと、大変な罰金を取られることになるのです。神の命をただで八十年も九十年も使っていたのですから、それは当たり前です。神の命をさんざん使って、有難うも言わずに死んでいく。これに対して大変な罰金を取られるのです。これが霊魂の裁きです。当たり前の結果です。果たすべき義務を果たさず、責任を全うせず、自分の欲を実行するために生きるだけ生きて、勝手に死んでいくのですから、罰金を取られるのは当たり前です。

 まず、命は自分のものではない、神のものだということを自覚して頂きたいのです。そうして、自分勝手な理屈によって生きていてはいけない。自分の欲得によって生きていてはいけないということをよく承知して頂きたい。神の命を生きているなら、神の思想を弁えて神の思想に同化すべきだというように考えて頂きたい。そうすると、皆様は本当の命が分かって、死なない人間になるのです。イエスと同じ運命が皆様に与えられることになるのです。

 釣鐘をつくと鐘の音が生まれてくるように、皆様もこの世に生まれてきたのです。やがて消えていくのです。それと同じように、この地球もやがて消えていくのです。天地創造の時に神が鐘をついたのです。その時地球は生まれたのですが、やがて地球は消えていくのです。

 「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」。これは人間にも通用しますが、地球にも通用するのです。この地球が存在するということ、万物が存在するということは、鐘の音のようなものです。やがて、地球は消えていくのです。地球が消えて新天新地が現われるのです。聖書六十六巻は、天地の始まりから終わりまでをはっきりと書いているのです。これを書いているのは、聖書以外にどこにもないのです。これを勉強しなければ、人間の運命も、地球の運命も絶対に分かりません。これを勉強することを本当の学問というのです。

 私たちは神の友だちです。だから、神は何でも教えてくださるのです。私たちはキリストの花嫁として、キリストの道連れとして選ばれたのであって、将来キリストと共に、神の相続人になるべき人間ですから、神は何でも教えてくれるのです。

 もう一度言いますが、命は皆様のものではありません。自分の命はどこにもないのです。神の命を預かっているだけです。神の命を預かっているなら、神の心に従ってその命を使わなければならないのです。預けた人の意向に従って使うのは当然のことです。これをしなければ、命の無駄遣いをしたということで、大変な罰金を取られることになるのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)

​死なない人間になりました(上巻)

​著者 梶原和義

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